第九十六話『千年の妄執』
ゲラート・グリンデルバルドはゴドリックの谷を歩いていた。
この地は偉大な魔法使いであるゴドリック・グリフィンドールの生誕の地であり、アルバス・ダンブルドアが少年時代を過ごした地であり、ハリー・ポッターの故郷でもある。
「……ああ、ここだな」
墓地の前で彼は立ち止まった。
ここにはハリー・ポッターの両親が眠っている。そして、他にも多くの魔法使いの遺体が埋められている。
「さあ、目覚めるがいい」
命の石を転がすと、次々に墓石が揺れ始めた。
次々に亡者が起き上がってくる。朽ちた骨が再生されていき、そこに肉がつき始める。
けれど、中途半端だ。ところどころが欠けている。これが命の石の限界なのだろう。
ロンドンの集団墓地の死体は比較的新しいものが混ざっていた。加えて、ロンドンでは火葬がポピュラーだが、あの教会では土葬が行われていた。そのおかげで完成度の高い亡者を生み出す事が出来た。
完全な白骨死体から肉体を完全に復元する事は難しいようだ。
「……死の秘宝を揃えた者は《死を制する者》となる。やはり、一つでは意味がなかった」
グリンデルバルドは不完全な亡者達にニワトコの杖を向けた。
最強の杖によって、命の石の魔力が補強され、亡者達の肉体はたちまちの内に生前の姿を取り戻した。
誰も彼もが虚ろな表情を浮かべている。
「さてさて……」
グリンデルバルドはジェームズ・ポッターとリリー・ポッターの肩に手を回した。
「死に別れた親子の感動の再会だ」
グリンデルバルドは歩き始める。亡者の軍勢と共に……。
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ジニー・ウィーズリーは摩天楼の上で震えていた。
赤い世界で語られた真実は彼女の心をズタズタに引き裂いていた。
「……ハリーがヴォルデモート。彼が分霊を狩っていたのは、完全復活の為……」
魔法省やグリンデルバルドは正しかった。
彼は殺さなければいけない。さもなければ、世界は闇に閉ざされる。
何故なら……、
「本物のハリーはとっくに……」
生き残った男の子。魔法界の英雄。ハリー・ポッターは預けられていたダーズリー家に過度な虐待を受けて、心を壊されてしまった。
そして、彼の内に潜んでいたヴォルデモートの分霊は彼の肉体を乗っ取った。
「……殺さなきゃ」
あの男はみんなを騙している。
優しい振りをして、内心では嘲笑っている。
―――― ジネブラ・ウィーズリー。勇敢なるグリフィンドール寮の子よ。
ゴドリックが囁きかけてくる。
―――― 汚名を被る事になるかもしれない。君は罪人のように扱われるかもしれない。それでも、君は立ち向かえるかい?
「立ち向かうわ……」
―――― 素晴らしい。君こそ、英雄に成るに相応しい存在だ。
ゴドリックは言った。
―――― 君に力を授けよう。
「……これは」
突然、目の前に剣が現れた。柄に複数のルビーが散りばめられた美しい剣だ。
ジニーは恐る恐るその剣を手に取った。
ずしりとした重みを感じる。
―――― その剣は殺したモノの力を吸収する能力がある。まずは、魂を破壊する力を得る為に、彼が飼育している蛇を殺すんだ。
「バジリスクを!?」
―――― そうだ。その剣を使えば可能だ。既に、多くの力が備わっているからね。使い方を教えてあげるよ。
その言葉と共に、ジニーの体はゴドリックに支配された。
「魔法生物の中には、翼もなく自由に飛べるものがいる」
ジニーの体は摩天楼から放り出された。けれど、落ちない。
箒もなく、空中に浮かんでいる。
「魔法生物の中には、千里先の獲物を見つける事が出来るものもいる」
ジニーは彼方を飛んでいる飛行機の窓の内側を見た。アジア系の親子が楽しそうに話している。
「魔法生物の中には、千里先の僅かな音を聞き分けるものもいる」
すると、ジニーの耳にあらゆる音が流れ込んできた。
人の声、歩く音、息遣い、物が擦れる音、落ちる音、他にもたくさん。
頭がおかしくなりそうだ。
「……ふむ、これは慣れるまで封印だね」
音が止んだ。
「他にも、炎を吐き出したり、嵐を喚んだり、力を増幅させたり、いろいろ出来るんだ。だけど、魂を破壊するとなると選択肢が限られていてね。今まで、斬った事が無いんだ」
ゴドリックは剣の力をジニーに示した。
そして、最初の摩天楼に戻って来ると、彼は言った。
「……この剣には屋敷しもべ妖精の力も備わっている。音を消す呪文を掛けてから使えば、かなり有用だよ」
そう言うと、ゴドリックはジニーの杖で呪文を唱えた。そして、剣を振るった。
すると、ジニーの体はホグワーツの敷地内に移動した。
―――― さあ、後は君に託すよ。まずはバジリスクを殺すんだ。
「バジリスクを殺す……」
ジニーはデミガイズという魔法生物の能力を起動した。すると、彼女の体は透明になった。
「……この剣はどれだけの魔法生物を斬ってきたの?」
―――― 数え切れない程だよ。魔法生物も、人も、たくさん斬ったよ。
◆
ハリーは一人になりたくて、地下牢の控えの間にいた。ここならば誰も来ないと思ったからだ。
脳裏にダフネの泣き顔がこびりついて離れない。
「……泣かせてしまった」
妹を救う為に世界を変える程の偉業を為した少女。
彼女の道は幸福であるべきだ。祝福され、讃えられる人生こそ、彼女には相応しい。
それなのに、悲しませてしまった。
彼女の涙を脳裏に浮かべる度に、身を引き裂かれるような苦痛に襲われる。
「すまない……、ダフネ」
彼女が許しても、この罪は贖わなければならない。
その為に、やらなければならない事がある。
「……ゲラート・グリンデルバルド。我が最後の敵よ……」
ハリーは瞳を紅く輝かせ始めた。
―――― 帰ってくる気は……、無いのよね?
―――― 君の命はボクの命だ。その終わりまで、共に戦おう。
―――― Sure, I'd love to.
―――― あれ? もう少し驚くかと思ったんだけど。
―――― 実に滑稽だ。
―――― 引き裂かれた魂を自らの内に留めておけば、いずれは元に戻るが、別の器に流し込めば、それが分霊箱となる。もしかすると……。
―――― 人間を殺す事になるぞ!
脳裏に次々と浮かび上がってくる声。それらはハリーに最後の覚悟を決めさせる。
「……貴様に死の恐怖を刻み込んでやるぜ」
その時だった。いきなり、近くの壁がガタンと音を立てて崩れた。
思わずビクッとしてしまったハリー、無性に恥ずかしくなった。
「……な、なんだよ。こんな所に秘密の通路があったのか……」
中を覗いてみる。幸いな事に、誰もいなかった。誰かに聞かれていたら恥ずかしかったから、ハリーはホッとした。
『……こんな所で、一人で《貴様に死の恐怖を刻み込んでやるぜ》と呟くのはどうかと思うぞ、少年』
「ほあっ!?」
誰かに声を掛けられた。
聞かれていた。今の、自分に酔ったセリフを聞かれていた。
ハリーは顔を真っ赤にしながら声の主を探した。
『こっちだ』
声の方に視線を向けると、そこには老人の肖像画があった。
「な、なんだ……、肖像画かよ」
人じゃなくて良かった。
「いや、良くないな! 頼む! 聞かなかった事にしてくれ!」
絵は他の絵に移動する事が出来る。そして、噂話が大好きだ。このままでは暗い部屋で一人で《貴様に死の恐怖を刻み込んでやるぜ》と呟いていた事が学校中に知られてしまう。
頷いてくれなければ、最悪、悪霊の火で燃やしてしまおうと企むハリーに肖像画の老人は呆れたような表情を浮かべた。
『必死過ぎるぞ……。別に、吹聴などせん。少し落ち着け』
「……あ、ああ。絶対だぞ!?」
『分かった! 分かったから、落ち着かんか! まったく、これだから思春期の若造は……』
「し、思春期と言うな!」
肖像画の老人は肩を竦めた。
「クソッ! とにかく、絶対に誰にも言うなよ!」
そう吐き捨てて秘密の通路から出ようとするハリーを肖像画の老人は呼び止めた。
「なんだよ?」
『折角来たのだ、少し話をせんか?』
「話?」
ハリーが振り向くと、老人は言った。
『ハリー・ポッター。貴様には教えておかねばならない事があるからな。これは良い機会だ』
「……あんた、肖像画だよな?」
ハリーは奇妙に思った。
肖像画は喋る。けれど、そこに魂が宿っているわけではない。場に残っている肖像画のモデルとなった人物の
グリフィンドール寮の《太った婦人》やその友人の《バイオレット》のように再現度の高い者もいるが、基本的にはモデルの人物の生前の言葉を再生する程度だ。
この肖像画の老人はまるで人格を持っているかのようだ。少し話しただけでも、《太った婦人》以上の対話能力を持っている事が分かる。
『さよう、わしは肖像画だ。だが、貴様に助言する事は出来る。聞いておけ、必要な事だ』
「あんたは一体……」
『名を知りたければタイトルを読め』
言われた通りにハリーはタイトルを見た。
「……サラザール・スリザリン。サラザール!? あなたが!?」
『如何にも! わしこそがホグワーツの創設者の一人、サラザール・スリザリンだ。さて、わしの助言を聞く気になったか?』
サラザール・スリザリン。ホグワーツに秘密の部屋を築き、エグレを棲まわせた男。
スリザリンの継承者とは、彼の継承者という事だ。
「は、はい」
ハリーは居住まいを正した。彼の偉大さはエグレを通じてよく知っている。
「ただ……、その……」
『どうした?』
歯切れの悪いハリーにサラザールは首を傾げた。
「……オレ様は真の継承者と言えるのか?」
ハリーはトムと精神の世界でチェスを指しながら、いろいろな事を話してきた。
その中で、彼がサラザールの血を継いでいる事も聞いた。
彼は正真正銘、サラザール・スリザリンの継承者だったのだ。
けれど、ハリーは違う。サラザールの血など、恐らくは一滴も流れていない。
「オレ様が蛇語を話せるのは……、恐らくは……」
『ああ、そこはどうでもいい』
「どうでもいい!?」
『そもそも、継承者だとか、秘密の部屋だとか、そういう呼称が出来たのは最近の事だ』
「最近!?」
『バジリスクは貴様を認めているのだろう? なら、それで構わん』
「いや、たしかにエグレは……。だが!」
『あの部屋は元々イザベラの為の隠れ家だ。あの子亡き今、誰がどう使おうと構わん』
「けど、エグレは継承者という言葉を使っていたぞ! それに、契約とも!」
『逆なのだ』
「え?」
『わしがイザベラの為に用意した隠れ家の事を知った者が妙な妄想を膨らませて噂を流し、それが独り歩きした結果、秘密の部屋だとか、継承者だとかいう呼称が生まれた。そして、バジリスク……いや、エグレと名付けたのだな? エグレはその噂を耳にして、真に受けたのだろう』
「真に受けてって……、マジかよ」
『まあ、あの子も寂しかったのだろう。イザベラに託したつもりだったが、あの子はエグレを解放しなかった。肖像画のわしではエグレに声を掛ける事も出来なくてな。孤独の中で、配管を這いながら人の言葉を覚え、蛇語を操る継承者という存在を知り、その者が現れる日を待ち望んでいたのだろう。だからこそ、あの子は継承者に忠実であろうとするのだ。己はそういう存在なのだと、信じているのだろう』
「エグレ……」
ハリーは唇を噛み締めた。
秘密の部屋や継承者の真実に対する衝撃は、エグレが継承者に対して忠実である理由に対する悲しみに押し潰された。
泣きそうになっているハリーにサラザールは微笑んだ。
『貴様がエグレの主となった事を嬉しく思うぞ。あの子を閉じ込めた事はわしの最大の過ちだった……』
「ああ、その通りだ……」
ハリーは鼻をすすりながらサラザールを睨みつけた。
すると、サラザールは笑みを深めた。
『……さて、ここからが本題だ』
彼は言った。
『これは、王を望む女と英雄になりたかった男、そして、その二人を巡り合わせた魔女の物語だ。ついでに、それに巻き込まれた男の話も付け加えよう』
「……それ、お伽噺か何かか?」
『残念ながら、実際に起きた事だ。そして、これから起こる事でもある。どうやら、貴様は厄介な連中に目をつけられているようだからな』
「厄介な連中……?」
『聞けば分かる』
そう言うと、サラザールは勝手に語りだした。
王を望む女、ロウェナ・レイブンクロー。
英雄になりたかった男、ゴドリック・グリフィンドール。
二人を巡り合わせた魔女、ヘルガ・ハッフルパフ。
そして、巻き込まれた男、サラザール・スリザリン。
この四人の物語を――――。