桜ちゃん、教えて   作:塩崎廻音

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第一話

 月明かりが照らす夜の公園、池の上で踊る桜色の少女に出会った。

 

***

 

 その日帰るのが遅くなったのは友達と遊んでいたら時間のことがすっぽりと頭から抜けていたからだった。お母さんからは暗くなる前に帰るよう言いつけられていた。だから、夕日がまさに沈まんとしていることに気づいた僕は慌てに慌てた。早く帰らないと怒られる。そう思った僕は普段使わない近道を通って少しでも早く家に着くようにした。経験上、帰るのが遅くなるほどにお母さんの怒りはひどくなる。ただでさえ最近の僕は宿題をあまりやらなくてお母さんを怒らせてばかりだったので、少しでもその怒りを抑えることは重要なのだ。まあ、公園を通るころには完全に夕日は沈んでいたのできっちり手遅れだったのだけど。そもそもの話、当時の僕はなんで暗くなる前に帰らなくては怒られるのかという仕組みをよく理解していなかったのだ。

 さておき。すっかり暗くなった公園に入ったところで僕はいったん足を止めた。理由は単純で、この公園はどことなく雰囲気が怖いのだ。暗くなると特に。近道と分かりつつ普段僕がこの公園を通らない理由もそれである。大昔に参道の一部として作られたらしいこの公園は結構「それらしい」雰囲気がある。つまり、お化けが出そうなのだ。明るいうちはともかく暗くなるとなおさらそんな気配がある。潰れた団子屋やおでん屋が並んでいるのも無関係ではないだろう。とにかく、近道と思って公園に入った僕であったが、すっかりその恐ろしい雰囲気に立ち竦んでしまった。

 そこで、僕は頭の中でこの公園を通る怖さとお母さんが怒った場合の怖さを天秤にかけた。宿題があることを隠していたせいで今朝怒られたばかりの僕は、お母さんが怒った時の怖さを身に染みて分かってた。一方、この公園は雰囲気こそ怖いものの一応まだお化けに出会ったことはない。怒ったお母さんか、まだ見ぬお化けか。数十秒の葛藤の結果、僕はお母さんのほうが怖いという結論に達した。その日はちょうど月が明るく、公園の暗さが多少マシであったことも僕の背を押したのだと思う。いずれにせよ、僕はえいやと気合を入れて公園の中に足を踏み入れたのだった。

 

 そこで、彼女に出会った。

 

 僕は最初、その光景が夢に違いないと思った。だって、どう考えてもその少女は池の上で踊っているし、よく見ると彼女自身がうすぼんやりと光っている。そんな人間がいるはずがないことはすぐに分かった。ただ、頬をつねってみると確かに痛いし、頭の中で何度も「起きろ~起きろ~」と念じてみても目が覚める気配がない。やがて僕は、どうやらその光景が夢ではないということを悟った。

 自分でも意外なことに、次に心に湧いたのは恐怖ではなく彼女への興味だった。状況から考えれば彼女がお化けであるこという結論が一番自然であるのだが、そんなことはちっとも思い浮かばなかった。まるで誘蛾灯に誘われる虫のように、僕はふらふらと彼女の方へと近づいて行った。

 池の縁まで近づくと、彼女がとても楽しそうに踊っていることが分かった。その軽やかなステップとニコニコ笑顔は、まるで我が世の春とでも言わんばかりである。まあ、実際にその頃は春であったわけだが。ともかく、僕はそんな彼女の様子に魅了され、すっかり彼女の踊りに魅入られてしまった。

 その後、数分か、あるいは十数分くらいは経ったのだろうか。正確な時間は分からないが、ひとしきり踊って満足したらしい彼女が踊りをやめて岸の方――僕の方へと歩いてきた。僕は逃げも隠れもせず彼女を見つめ続けた。正確に言うと、彼女に見とれたままの僕にはそんなことを考える頭がなかったわけだが。

 岸辺に立ち尽くす僕を見た彼女は大変驚いたようで、くりっとした愛らしい瞳を見開いてびくりと固まってしまった。そのまましばし時が流れるが、やがて警戒心を解いたらしい彼女はゆっくりと僕の元へと近づいてきた。

「こんばんは。あなた、だあれ?」

「はると。君は?」

「私?私は桜よ」

 彼女の言葉に、思わず頭の上を見上げる。時期としてはもう遅めでほとんどの花は散っていたが、この公園の池の周りには沢山の桜の木が植えてある。当然、池の縁に立っていた僕の頭上にも桜の木の枝があった。月明かりが枝と葉だけになった桜の木を照らす。ふと、その枝の一本、その先のほうに一つだけ咲いたままの桜の花が残っていることに気付いた。これだ。僕は直感的に悟り、少女に視線を向けた。

「そう、それ。それが私よ」

 彼女はどうやら桜の花の妖精であるらしかった。

 

***

 

 彼女には名前がなかった。当たり前と言えば当たり前の話である。桜の木ならともかく桜の花一つ一つに名前を付ける人はいないし、彼女たちにもそういう習慣はないらしい。ただ、それでは僕が呼びかけるときに困る。ということで、僕は彼女を「桜ちゃん」と呼ぶことにした。今から考えればあんまりな名前だが、僕は名案だと思っていたし、桜ちゃんも特に気にしなかった。

「それにしても珍しいね。私たちを見ることができる子ってあんまりいないんだけど」

 桜ちゃんの木の近くに設置されたベンチに二人座って話していると、桜ちゃんはそんなことを言ってきた。

「私たち?」

「そうよ。ちょっと前までは姉さんたちも一緒に踊っていたんだけど」

 どうやら、こうして体をもって踊っていたのは桜ちゃんだけ特別だったわけではないようだ。むしろ、彼女の口ぶりだと特別なのは僕の方だったようだ。尤も、桜ちゃんが見えたのはその日が初めてで、それまでは他の人たちと一緒だったわけだが。

「…お姉さんたちは?」

「そりゃあ、みんなもう散っちゃったよ?」

 僕の問いに、桜ちゃんは何でもないことのようにそう返した。それどころか、もっと早く来れば会えたのにね、なんて暢気なことまで言ってくる。その頃の僕は親戚のおじいちゃんとの別れを経験していて、死別の悲しみは良く分かっていた。だから、彼女のその暢気さが不思議でならなかった。

「悲しくないの?」

「…何が?」

 きょとんとした感じで。僕の質問の意図が全く理解できないといった風に桜ちゃんはそう返した。そこで、ようやく僕は桜ちゃんが桜の妖精であって人間とは違うんだな、ということを実感した。桜ちゃんにとって、姉妹との死別なんてものは悲しいことでも何でもないのだ。それは、彼女の姉妹が星のように多いからなのか、桜の花が散るというのが当たり前のことだからなのかは分からないけど。僕はそれ以上深く突っ込んで聞くのが怖くなり、逃げるように話題を変えた。

「…そういえば、桜ちゃんはどうして池の上で踊ってたの?」

「あ、それ?そうね。姉さんたちがいたころは色々な遊びができたんだけど、私一人になっちゃったから踊るくらいしかすることがないの」

「そうじゃなくって、なんで池の上で?この辺の、道の上じゃダメなの?」

「あら、夜桜は水面に映るものでしょ?」

 そう答えて、彼女はくすくすと笑った。いやまあ、確かに池の水面に映る夜桜は例えようもなく綺麗なものだけど。桜ちゃんがそれを本気で言ったのか冗談で言ったのかは良く分からなかった。

 笑う桜ちゃんをしばらく眺め、ふと大変なことを思い出した。なんで僕はこの公園を通り抜けようと考えたのかという、その理由。帰るのが遅くなるとお母さんがすごく怒るからだ。サッと顔から血の気が引く。この公園にたどり着いた時点で辺りはもう暗くなっていたのに、結構長い時間桜ちゃんと話し込んでしまっていた。空を見ると真ん丸なお月様とキラキラ輝く星がはっきりと見えた。文句のつけようがないほどに夜になっていた。

「あ、や、やば!ごめん桜ちゃん、また明日!」

 そう別れの挨拶とも言えない言葉を残して、僕は急いで公園の遊歩道を走り抜ける。後ろで桜ちゃんが何か言っていた気もしたが、その時の僕はそんなことを気にしている余裕はなかった。なにせ、頭の中は激怒したお母さんの顔でいっぱいだったのだ。だから、自分がいつの間にか桜ちゃんと次の日も会うつもりになっていることに、その時は全く気付いていなかった。

 

***

 

 もちろんお母さんには怒られた。泣くほど。互いに。

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