そのころの僕にとって死というものはひどく冷たく暗く怖いものだった。いや、その印象自体は今も変わっていないのだけど。ただ、死をできる限り自分から遠ざけたいという思いが殊更に強かったのだ。死が生きている以上は逃れえないものだという認識が薄かったというのもあるし、親戚のおじいちゃんとの別れが死ぬことへの恐怖を強めていたというのもある。いずれにせよ、死というものを災厄か何かだと思って恐れていたわけだ。
だから、僕は桜ちゃんの花が散らなかったことを手放しで喜んだ。この小さな姉貴分とずっと一緒にいられると思ったのだ。そして、今になって思えば馬鹿な話だけど、桜の花がいつまで経っても散らないということの不自然さなんて気にも留めなかった。
「ねえねえ、桜ちゃん。あれって何?」
この頃になると僕もすっかり弟ぶりが板について、桜ちゃんの後ろをついて回ってはあれこれ尋ねることを繰り返していた。桜ちゃんも桜ちゃんで僕が色々頼っていたことが嬉しかったらしい。いっそ鬱陶しいくらいに質問を投げかける僕に嫌な顔をすることもなく、むしろニコニコとしてあれはねこれはねと説明してくれた。
僕たちの活動範囲は徐々に公園そのものから離れていった。というのも、いつまで経っても散らない桜の花というのが地元でちょっと話題になって近所の人たちがそこそこ頻繁に公園を訪れるようになったからだ。人目に付く場所で桜ちゃんに話しかけることはできない。そんなわけで、僕たちは人目を憚るように少しずつ公園を離れていったのだ。
ただ、それで僕や桜ちゃんが気分を害したということはなかった。むしろ、桜ちゃんが有名人か何かになったような気分になって妙に誇らしいくらいだった。桜ちゃんも沢山の人に見られて面映ゆかったみたいだ。
「…姉さんたちも沢山の人に見てもらえればよかった」
ぽつりとそんなことを言っていた時もあった。桜の妖精にとっても賑やかなお花見の光景というものは嬉しいものらしい。桜ちゃんは寂れた公園しか知らないけど、「お父さん」から昔話を聞いて憧れていたらしい。だから、昔ほどではないにしても人が集まった光景を見ることができて、夢がかなったような気がする、そう言っていた。
意外なことに、日が経っても人だかりは減らなかった。僕が思っていたよりも近所には人が住んでいたのか、あるいは余程散らない桜というのが人々の心を掴んだのか。もしかしたらたった一つの花だけが残っているというのも心に情景がのこる要因になったのかもしれないけど。いずれにせよ、桜ちゃんの花の周りにはいつも誰かしらの人影が見えるようになっていた。僕たちの活動範囲もますます遠く広くなっていった。
野山を駆け回っていてふと気づいたのは、そういえば最近桜ちゃんが僕の手を引いていないな、ということだった。その少し前まで桜ちゃんが僕の前を進むときは大抵僕の手を引いていた。そして、あっちに行こうこっちにしようと僕を導いていたのだ。僕はその手の温かさが好きだった。守ってもらっているような甘えさせてくれるような温かさはなんだか安心するのだ。だから、桜ちゃんが手を引かなくなったことに気づいてちょっと物足りない感じがした。
ふと前を進む桜ちゃんの手に視線を向けたのだが、その両手とも着物の袖に隠れて良く見えなかった。そうなると俄然気になってしまうもので、僕は桜ちゃんが前を向いているタイミングでえいやとその袖の中の右手をつかんでみた。
「…あ!」
その叫び声は僕のものだったのか桜ちゃんのものだったのか。僕が掴んだ桜ちゃんの手は、その指先から手の甲の中ほどまでが黒く染まっていた。いやそればかりか、その黒い部分はまるで生き物でないかのように冷たかった。僕はおそるおそる桜ちゃんの顔色を伺った。どう考えても桜ちゃんはその手の有様を隠そうとしていたはず。それを無理に暴いてしまったことで桜ちゃんが怒るだろうと思ったのだ。
だけど、予想に反して彼女は怒っていなかった。ただ、悲し気な表情で俯いていただけだった。
「桜ちゃん?」
「…気付かれちゃったね」
桜ちゃんはか細い声でそう言った。いつものハキハキとした雰囲気とは似ても似つかない弱弱しさ。桜ちゃんの気付かれたくない秘密を見てしまったことに気づいた僕はごめんと謝ったが、もう謝ってもどうしようもないのは明白だった。そして、罪悪感とともに大きな不安の感情が心に沸き上がる。ちょっと前まで桜ちゃんの手は桜色っぽい肌色だったし暖かかった。なのに今は非生物的なまでの有様だ。両手がこんなことになって平気だなんてちっとも思えなかった。
「桜ちゃん、その手…」
「うん。今の私、ちょっと自然の循環から外れちゃったから」
そして、桜ちゃんはその手の状況について語った。
数日前、「ちょっと頑張ってみる」と言った桜ちゃんはどうしたら自分がもうちょっと散らずにいられるかを考えたらしい。とは言っても、桜ちゃん自身が言った通り桜は散るものであり、解決策は何も浮かばなかった。最終的に、桜ちゃんは神様に祈ることにした。自分がもう少し散らないでいられますようにと願ったのだ。それも、夜通しずっと。そして、その願いが神様に届いたからなのかどうなのか。夜が明けた頃には、桜ちゃんは自分が散ることなく咲き続けていられるようになっていたのだった。
桜ちゃんも初めのうちはただ単に自分の願いが叶ったことに喜んでいたらしい。だけど、すぐに異常に気付いた。末端から徐々に自分の体が黒ずんでいき、さらにはその部分の感覚が無くなっていたのだ。そして、直感的にそれが代償なのだと悟った。自然の流れに相反して咲き続ける代わりに、自分の存在そのものがどんどん元あるべき形から変質していくのだと。
「…ねえ、桜ちゃん。このまま変わり続けたらどうなるの?」
「ん、それはちょっと分からない。こんなことお父さんにも聞いたことないし」
普段だったら打てば響くように返答が返ってきた桜ちゃんも、流石にこんな状況に心当たりはなかったらしい。ただ、良くないことになるだろうということだけは僕にも容易に想像できた。
「僕のせいだ…」
僕の口からそんな言葉が漏れ出た。桜ちゃんがあるべき流れに反して咲き続けようと考えたのは、どう考えても僕があの日「行かないでほしい」と駄々をこねたためだ。桜ちゃん自身は自分が散りゆくことに納得していた。だけど、僕がそう望んだから桜ちゃんは今もまだ咲き続けているし、こうして黒く冷たく変わり果てているのだった。
「…違うよ、はるとくん。君と会えなくなるのが嫌だったからこうなっただけ。私の我儘だよ」
でも、そう言って小さく笑う桜ちゃんからは僕を責めるような気持ちは全く感じられなかった。そして、そのことが一層僕の罪悪感を募らせたのだ。
そして僕は決意した。桜ちゃんがこうなったのが僕のせいであるのなら、桜ちゃんを元に戻すのも僕の責任であるのだと。
「ねえ、桜ちゃん、教えて。どうしたら桜ちゃんは元に戻れるの?」
だから、僕は桜ちゃんに問うた。彼女が元に戻るために、僕が何をすればいいのかを。
桜ちゃんは最初、僕のその問いかけに対して、いいのよと言って困ったようなあいまいな笑みを浮かべるだけで何も答えてはくれなかった。でも、その言葉は桜ちゃんがどうやれば自分を元に戻せるのかを知っているということを物語っていた。当時の僕は本当はそれを理解するほど察しが良くなかったはずなんだけど、桜ちゃんのために必死になっていたからか、僕は彼女がそれを隠していることに気づくことができた。
「お願い、桜ちゃん」
やがて、僕の決意に根負けしたように、桜ちゃんはその「解決方法」を話した。
「…元の体に戻るって言うなら、それは無理。ただ、自然の流れに戻るだけなら多分簡単なんだ――」
桜ちゃんは寂しげな表情で続きを語った。そして僕は彼女のその表情から、その簡単な方法というのが僕にとって辛いものになるであろうことを察っていた。
「――私の花を摘み取ればいい。花が散れば私も消える。それで全部元通りなんだ」