桜ちゃん、教えて   作:塩崎廻音

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第四話

 桜ちゃんを「元に戻す」方法、それを聞いた僕は深く思い悩んだ。姉と慕う彼女の本体ともいえる花を摘み取る。それはつまり、彼女を殺すということに他ならない。そんなこと、到底できるわけがなかった。だけど、日に日に桜ちゃんの両手の黒ずみは広がっていった。それに、桜ちゃんは隠していたけど、黒くなっていたのは両足先もだった。

「気にしなくていいよ、はるとくん。私が悪いんだから」

 桜ちゃんは黒くなった手を眺めながらそういった。最初は気付かなかったけど黒くなった部分は桜ちゃんの意思で動かせなくなっていたらしい。以前は活発に色々なところを駆け回ってあれはこれはと教えてくれた彼女は、公園の池の真ん中、小島の木の陰に座り込んだままで立ち上がることすらほとんどなくなっていた。

「でも、桜ちゃん、どんどん黒いところが広がって…」

「…そうね。どんどん動かない部分が広がってる。もう歩くのも一苦労なの」

「やっぱり、僕がお願いしたから…」

「違うわ。これは私がズルしちゃったせいだから」

 罰が当たっちゃった。そう言って、桜ちゃんは困ったように笑った。その辛そうな笑顔を直視することができずに、僕は彼女から視線を逸らした。

 もしかして何かの奇跡が起きて桜ちゃんの変容が治らないかなんて期待したりもした。あるいはそれが悪い夢で、次の日会ったら全部元通りになっていないかって。でも、現実は残酷だった。黒い部分は日を追うごとにどんどん大きくなっていったし、むしろそのペースはどんどん早くなっているように見えた。

 それでも桜ちゃんは、僕の前では以前と同じく明るく振る舞っていた。だけど、ある日の帰り際にふと小島のほとりに座る桜ちゃんを振り返った。そこには、いつものお姉さんぶった頼り甲斐のある姿が嘘のように、自分の手をかき抱くように蹲る小さな少女の姿があった。自分が別のものに変わっていくなんて怖くて当たり前なのに。そんなことにすら、僕は気付いていなかった。

 その日の夜、僕は決心した。たとえそれで桜ちゃんと別れることになってもいい。桜ちゃんを元の在り方に戻すために、桜ちゃんの花を僕の手で摘み取ろうと。

 

***

 

 世の中の大抵のものは決意するまでが大変なものだが、この時は決意してからも簡単にはいかなかった。散らない桜が有名になった時から公園には常にそれなりの人気がある。このため、いざ桜ちゃんの花を摘み取ろうとしてもその木に近づくこと自体が容易ではなかったのだ。実際、最初に何も考えずその木に登ろうとしたら、通行人に見咎められてほとんど昇らないうちに捕まってしまった。お母さんにはまた怒られた。さらに、それからは悪戯防止のため定期的に公園の管理人が巡回するようになったみたいで、ますます木に近づくのは難しくなってしまった。

 正攻法ではどうしようもない。だから僕は、公園に誰も、管理人もいなくなる夜中にこっそり木に登ってあの花を摘み取ることにした。もちろん、夜に家の外に出るのは禁止されている。だから、それはお母さんにもお父さんにも秘密だった。

 その日僕は、手早く宿題を終わらせて夕食後早々に自分の部屋に引っ込んだ。宿題をやらないとお母さんが部屋まで入ってきて宿題をやりなさいと怒るのだが、宿題を終わらせてさえしまえばそれほどうるさいことは言われない。その上で、夜お母さんとお父さんが寝てからこっそり家を出れば見つからないだろうと思ったのだ。

 その目論見は半分だけ成功した。お母さんは珍しく宿題をちゃんと終わらせた僕に安心して、比較的早い時間に寝てしまった。だけど、お父さんは何をしているのか遅い時間になってもなかなか寝入る様子がなかったのだ。いつまで経っても暗くならないお父さんの部屋を見て、僕は作戦その二を決行することにした。こういう事態も一応は想定していて、こっそり自分の部屋に靴を持ち込んでおいたのだ。僕は部屋の窓から庭へ降り、お父さんに気づかれないよう忍び足で家の外に出た。

 

 家の裏道を下りつつ、僕は公園までの道のりで障害になりそうなものが無いだろうかと考えを巡らせた。この辺には夜遅くまで起きている人はいないので、ご近所さんに見つかって連れ戻されるということはないはず。ざっと周りを見渡しても、特に電気が点いている家は見当たらない。あるいは、飼い犬に吠えられて見つかるということもあり得るだろうか。だが、犬を飼っている家は反対方向にしかなかったはずなので、これも大丈夫。

 そんな風に色々な可能性を検討していくと、一つ困ったことに気づいた。公園の入り口近くには交番がある。警察の人が何時までいるものなのかは良く知らないが、もし誰かいるのなら見つかって連れ戻されてしまうに違いない。何としても、交番から見えない位置から公園に入る必要があった。

 取りうる手段は二つ。一つは交番を避けるように大きく回り込んで別の入り口から入ること。但し、この方法だと余計にかなりの時間がかかるから見つかる危険が増えるし、もう一つの入り口も位置的に交番から見えないことはない。あまり賢い選択だとは思えなかった。そしてもう一つの手段。

 僕は、公園の隣にある丘を経由して公園に入ることにした。

 草木がうっそうと茂ったその丘は、しかし以外にも明るくそれほど怖さを感じなかった。ちょうど月が明るい夜であったために明かりに事欠かなかったというのは一因ではある。だが、それ以上に、桜ちゃんに手を引かれてその丘のあちこちを駆け回ったことが僕の恐怖心を取り除いていたのだ。見覚えのある丘の景色を見るたびに、まるで桜ちゃんが隣で笑っているような気がした。

――ほらあれ、ヤマグワの花。ちょっと変わった見た目よね。

――あ、そこ、足元に気を付けて!

――ん?あはは、蛇なんて滅多に出ないよ。

 次々と桜ちゃんとの思い出が脳裏に浮かんでは消えていく。いつの間にか目尻に涙があふれ、視界が滲んでいることに気付いた。でも、僕は足を止めることはしなかった。だってもう、決めたから。桜ちゃんと別れるのは辛いけど、あの黒がもっと広がって桜ちゃんがどうにかなってしまうのはもっと怖い。だから、少しでも早く桜ちゃんを開放するために、一歩一歩僕は進んでいった。

 

 丘に入ってから公園に着くまでは十分とちょっと。その間に僕は桜ちゃんとの思い出を色々と思い出していた。池の小島で並んで語り合ったこと、丘の中を手を引いてもらいながら駆け回ったこと。そして、そういえば最初に会った日もこんな風に月が明るい夜だったかもしれない。恐る恐る公園に足を踏み入れた僕は、池の上で踊る桜ちゃんに出会った。それを思い出して、ふと池の中に視線を向ける。すると、池の水際近く、散らない桜が咲く木のすぐそばに、うすぼんやりと光る少女の姿を見つけた。もう立つのもやっとだろうに、そんなことはおくびにも出さずに。僕を見つけた桜ちゃんは、ふっと穏やかに微笑んだ。

「こんばんは。あなた、だあれ?」

 あの時と同じセリフ、しかし、あの時とは違う穏やかな笑顔。再び滲む視界の先に桜ちゃんをとらえ、僕もあの時と同じように言葉を返した。

「はると。君は?」

「私?私は桜よ」

 桜ちゃんが視線を上げる。それに合わせて上を見上げると、その先にはもちろん桜ちゃんの花があった。今からこの花を摘んで、桜ちゃんを元の自然の流れに還す。そのために僕はこの公園に来たのだ。

「ごめんね、こんな辛いこと」

 桜ちゃんが申し訳なさそうな、辛そうな表情でそう言った。桜ちゃんに花を摘むつもりであると伝えてはいない。でも、桜ちゃんにはお見通しだったみたいだ。そしてだからこそ、こうして初めてのあの日を再現したんだと思う。

「ううん、良いんだよ。それで桜ちゃんが元に戻れるなら」

「ごめんね、ごめんね。本当は自分でやるべきなのに」

「良いんだって。自分じゃ花に触れないんでしょ?」

 謝り続ける桜ちゃんはほとんど泣きそうだ。でも、僕は桜ちゃんに謝られたいわけじゃないし、泣いてもらいたくはなかった。

「でも、でも、だって…」

「桜ちゃん」

 だから、強引に桜ちゃんの言葉を遮って。桜ちゃんに近づきその両肩を掴んで、え、とこちらに向けたその瞳をのぞき込んだ。

「ありがとう、桜ちゃん。いっぱい色んなこと教えてくれて、連れて行ってくれて。楽しかった」

 僕のその言葉を聞いた桜ちゃんの両目から涙があふれ出た。でも、その表情は悲しみのものではなく、穏やかな微笑みに変わっていった。そして、彼女はゆっくりとした動作で両手を持ち上げ、僕の頬に添えた。

「うん。私も楽しかった。ありがとう」

 その言葉が合図になった。僕と桜ちゃんはゆっくり離れて、そして僕は散らない桜の木を登った。少し、また少しと木のこぶや枝に足をかけて登ると、桜ちゃんの花がどんどん近づいてきた。そしてそれは、僕と桜ちゃんの別れの時が近づいたということでもあった。そして、桜ちゃんの木は幹は太くてもあまり大きくない。数分も経たないわずかな時間でその時が来た。

 目の前には散らない桜の花。よく見ると、その花の縁はわずかに黒ずんでいるように見えた。それはおそらく、桜ちゃんの体と同じ変化。それを元の在り方に戻すために、僕はこの花を摘むんだ。

 視線を下に向け、もう一度だけ桜ちゃんを見た。穏やかに微笑む桜ちゃんは、僕の視線に気づくと小さくその口を動かした。ありがとう、さよなら。滲んだ視界の先に見える桜ちゃんの姿を振り切って、僕はただ一つ残った桜の花に手を伸ばした。枝の先のほうに咲いたその花は少し遠く、ぐっと手を伸ばしてもわずかに届かない。ただ、乗っている木の枝もそれほど太くないので、これ以上踏み込むのは危ないように思えた。

 もう一度、ぐっと手を伸ばす。あと少し。もう少し。さらに体重を前に寄せると、ようやくその花に指が触れた。これで終わり。込み上げる気持ちを堪えて、僕はその花を摘み取った。その瞬間、ふわりとした浮遊感を感じた。急速に迫りくる地面。その上に、淡く輝いて消え去ってく桜ちゃんの姿が見えた。ああ、上手くいったんだ。僕はゆっくりと目を閉じた。

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