湊さんはクールな人だと思っていた   作:忍者小僧

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第2楽章

「え? も、もう一回、言ってくれない?」

 

僕の耳がおかしくなってしまったんだろうか?

今、湊さんがとんでもないことを言ったような。

いやいやいや、絶対に聞き間違いだよな。

うん。

 

「もう一回? いいわよ。よく聞いて」

 

もはや定位置となった、朝礼前の校舎裏。

僕の動揺なんてあっさりと無視して、湊さんが淀みのない声で言う。

 

「明日は暇かしら? もし暇だったら、あなたのおうちにお邪魔したいわ」

「…………」

 

言い直してもらっても同じだった。

聞き間違いではないらしい。 

駐輪場の猫をきっかけに湊さんと話すようになって、はや数週間。

湊さんにはドキドキさせられっぱなしだ。

僕の携帯をのぞき込むときの距離の近さとか、鼻腔をくすぐるサラサラの長い髪とか、ふわりとした良い匂いとか。

あんまり女子と接したことがない僕にとって刺激の強すぎる毎日。

だが、今日の発言は断トツだ。

レベルが違う。

僕の家に行きたい?

なぜ?

ほわい?

 

「あ、あの。いったいどんな用事で?」

 

恐るおそる問いかけると湊さんはあっけらかんと答える。

 

「?? そんなの決まっているじゃない。直接、猫ちゃんを見るためよ」

 

あー。

そういうことか。

ま、そりゃそうだよな。

なんかこう、家に行きたいっていうワードの罪深い響きに惑わされすぎた。

は、恥ずかしい。

 

「小牧くんの猫ちゃん本当に可愛いわ。写真だけだと我慢できない。直接見て、触ってみたいの」

 

高揚感がビンビン伝わってくるような湊さんの表情。

なんというか、目がキラキラとしている。

一見無表情なんだけど、よくよく見ると結構変化があるんだよな。

僕はため息をつく。

 

「でもさ、家に来るっていうのはちょっとまずいと思うよ?」

「どうして?」

 

きょとん、と問いかけてくる。

その仕草が可愛いんだけど、僕としては頭が痛い。

 

「いや、だって一応僕ら、高校生だし、男女だし」

「よくわからないわ。高校生で男女だと、家に猫ちゃんを見に行ってはいけないの?」

 

心底わからないという表情をする湊さん。

だめだ。

理解してくれない。

きっとこの子は、純粋すぎるのだろう。

 

猫を見たい→猫は小牧くんの家にいる→家に行けば会える

 

こういう極めてシンプルな構図が頭の中で成り立っていて、そこが男子の家だとかそういう目的以外の問題が存在していないんだ。

ど、どうしよう。

僕としては、もちろん、湊さんが家に遊びに来てくれるのはうれしい。

チビとクーを直接見せたいという気持ちもある。

でも。

ほ、本当にいいんだろうか?

頭を抱え込んでいる僕の気も知らずに、湊さんが涙目になった。

 

「ダメなの? どうしてだめなのか、理由を教えてほしいわ……」

 

その声は、いかにもしょんぼりとしたトーン。

そうか。

僕が考えているような悩みが、湊さんの中には無いのだから、彼女からしたら理由もなく拒絶されたように感じられるんだ。

それってすごく悲しいかもしれない。

腹を、くくるか。

変なことにならないように僕が自制すればいいわけだし。

よしっ。

 

「ごめん、湊さん。意地悪するつもりじゃなかったんだ。ちょっと都合を考えていただけ。明日は土曜日だし、大丈夫。うちに来ていいよ」

「ほ、本当!?」

 

ぱぁっと湊さんの表情が明るくなる。

が、すぐにいつものクールな雰囲気に戻って。

 

「こ、こほん」

 

取り繕うように咳払いをした。

 

「それなら、明日あなたの家にお邪魔させてもらうわ。おうちの方には粗相のないようにするから、安心して頂戴」

 

いつものクールな声に戻ってそう言った。

顔が少しだけ赤い。

湊さんって、感情が表に出すぎると恥ずかしくなっちゃうみたいだ。

 

 

* * *

 

 

そして翌日。

ピンポーン。

約束の時間ピッタリにドアベルが鳴る。

 

「はい」

 

僕がインターフォンを取ると、いつものクールな声が聞こえてきた。

 

「湊です。猫を見せてもらいに来たわ」

 

ドアを開けると、そこには私服の湊さんがいた。

 

「おおぅ……」

 

僕は思わず感嘆の声をあげてしまう。

白のいかにも上品なブラウスに、黒色のふわりとしたドレープが美しいスカート。

ブラウスにはワンポイントなのか、小さな花の飾りが添えられている。

モノトーンのコーデが、湊さんのクール美少女な雰囲気にすごく似合っていて、まるでどこかのお嬢様のようだ。

 

「どうしたの? ドアを開けたまま固まって」

「あ、いや、その」

 

僕は鼻の頭をかいた。

 

「し、私服だなって思って」

「なっ」

 

はっと気が付いたように自分の体を見る湊さん。

 

「きゅ、休日なんだから私服は当り前よ。いつもの服装をしてきただけだから」

 

心なしか頬を赤くして、そう言い捨てた。

 

「そ、そもそも、あなただって私服じゃない」

 

ちょっと拗ねたように口をとがらせる。

僕はというと、安物のジーンズに、使い古しのトラックジャケットだ。

どう考えても湊さんとは釣り合っていない。

同じ私服とはいえ、大違いなんだよなぁ。

 

「ま、中に入って」

 

そう促すと、「お邪魔します」と丁寧にお辞儀をして、湊さんが玄関に上がった。

ノーブルなデザインの黒い靴を脱いで、廊下を歩きながら僕に問いかける。

 

「ご両親はいらっしゃるの? お邪魔するのだから、ご挨拶をしないと」

 

当然の礼儀作法だといわんばりだ。

僕としては、恥ずかしいしそういうのは省略してほしいぐらいなんだけど、湊さんは気質が真面目だからな。

リビングにいる親父に挨拶をする。

 

「こんにちは。湊と申します。本日は、お邪魔いたします」

 

ぺこりと頭を下げる。

そんな湊さんに、親父が絶句して口をパクパクとさせた。

僕に、こっちに来いと目くばせする。

 

「な、なんだよ、親父」

「いやいやいや、お、お前。友達がくるって、女の子じゃないか。しかもえらい別嬪さんの。一体どういうことだ?」

「どういうことも何にもないってば。言っただろ、猫を見たいんだってさ」

「な、なるほど」

 

勝手に納得すると、謎のサムズアップ。

 

「頑張れよ、浩紀!」

 

何を頑張れというのか。

 

「もう用事はすんだの?」

 

湊さんの元に戻ると、きょとんと問いかけてくる。

 

「あぁ、うん。ちょっとした家族の会話だったから」

「そう。仲がいいのね」

 

なぜか少し複雑な表情をして、湊さんが微笑んだ。

 

 

* * *

 

 

さて、お目当ての猫なのだが……。

いなかった。

 

「あれ、おかしいなぁ」

 

部屋の中を見回す。

さっきまで座布団の上で丸くなっていたのにな。

 

「いないわ……」

 

残念そうに湊さんがつぶやく。

しまったな。

僕の部屋は障子戸だから、たまに猫が自分で開けて出てっちゃうんだよな。

でも、部屋にいないとすると、他に行く場所といえば決まっている。

あの部屋に入るのは、あまり気が進まないんだけど……。

僕は、ちらっと湊さんを見た。

しょんぼりとした表情。

猫がいなくて、落ち込んでいるのがはっきりと分かった。

 

「しょうがないな」

 

僕はつぶやいた。

 

「湊さん、こっち。あいつらのお気に入りの場所があるんだ」

 

 

* * *

 

 

「ここは?」

 

一階の廊下の突き当りにある小さな部屋。

そこは、僕にとっていろんな思い出が詰まった特別な部屋だ。

ドアが開いている。

親父が開けておいたのだろう。

猫がお気に入りの部屋だから、わざとそうしているのだ。

まったく、甘いんだから。

 

「ま、今は使っていない部屋さ」

 

僕はそう言って足を踏み入れる。

普段使用していない部屋独特のひやりとした空気が感じられた。

僕に続いて入ってきた湊さんが、部屋の中央に置かれたものを見てつぶやいた。

 

「ピアノ……」

 

僕はうなずいた。

 

「うん。ピアノの練習部屋だったんだ。もう使っていないけど」

 

ピアノに歩み寄る。

 

「ほら、やっぱり。ここにいた」

 

チビとクーを発見。

チビはピアノの脚元に、クーは大屋根の上に寝そべっていた。

こいつら、このピアノが大好きなんだよな。

 

「とうとう会えたわ」

 

感動に打ち震えた湊さんがごくりと唾をのむ。

 

「さ、触れるかしら?」

 

頬を紅潮させて手をわきわきとさせている。

湊さん……美少女じゃなかったら変質者みたいだよ。

苦笑いした僕は、眠っている二匹の猫に呼び掛けた。

 

「チビ、クー。起きて。こっちに来たら餌をあげるよ」

 

そう言って、ポケットに入れておいたチーズかまぼこを取り出す。

がばっ。

げんきんな二匹の猫が起き上がった。

尻尾をぴんと立ててこちらに走り寄ってくる。

 

「よしよし、ここまで来たらあげるぞ」

 

言葉が通じているかはわからないけど、二匹ともチーズかまぼこまっしぐらだ。

小さくちぎって床に置くと、一目散に食べ始める。

 

「湊さんも、はい」

 

僕はチーズかまぼこの残りを手渡した。

 

「初対面だから警戒されるかもしれないけど、それがあったら大丈夫だと思う」

「小牧くん、あなた天才ね」

 

真剣な表情で褒められた。

いやいや、全然天才的なアイデアじゃないからね。

 

「こ、こんにちは」

 

猫なで声を出すのが苦手な湊さんが、いつも通りのクールな声で猫にあいさつ。

ん?

という感じに二匹の猫が振り向いた。

 

「ほ、ほら。ご飯をあげるわ。いらっしゃい」

 

だが。

二匹の猫は無視。

目の前の床に置かれたチーかまを食べ続ける。

しまった。

たくさん置きすぎたか。

 

「こ、小牧くん。無視されたわ」

 

湊さんは涙目だ。

 

「……奥の手を使うか」

 

僕は、ポケットに入れておいたもう一つの餌を取り出した。

鳥のささみのフリーズドライ。

あんまり美味しすぎるのを与えるとそれしか食べなくなっちゃうから普段は封印してるんだけど。

 

「これをあげてみて?」

 

湊さんに手渡す。

 

「わ、わかったわ」

 

恐るおそるといった感じで、湊さんがささみのフリーズドライを差し出した。

すると。

猫まっしぐらだ。

だだだっと擬音が入りそうな勢いでチビとクーが湊さんに飛び掛かる。

 

「ひゃっ」

 

珍しく可愛い声を上げた湊さんが、驚いて尻もちをついた。

そんな湊さんの手のひらから。

一瞬にしてささみのフリーズドライが奪われた。

少し離れた場所まで咥えて持っていき、一心不乱に食べ始める二匹の猫。

湊さんはというと。

 

「う、うぅぅぅぅ」

 

マジ泣き寸前だった。

猫が絡むとポンコツかよっ!

 

「ま、まぁまぁ。落ち込まず」

 

僕の慰めも今の彼女には無意味らしい。

 

「そうね。私は猫ちゃんを触れない運命にあるのね……」

 

どんよりした表情で訳の分からないことをぶつぶつ呟いている。

が。

そんな湊さんに、チビが近寄ってきた。

 

「湊さん、指」

「え? あ、あわわわわ」

 

湊さんが変な声を上げる。

チビが湊さんの指を舐めはじめたのだ。

見ると、もうさっき奪ったささみのフリーズドライは完食済み。

食い意地の張ったチビは、湊さんの指に匂いが残っているから餌の催促に来たらしい。

 

「こ、ここ小牧くん」

 

湊さんが僕のほうを振りむく。

 

「き、奇跡が起こったわ!」

 

うわっ。

これまでで一番きらっきらの表情だ。

 

 

* * *

 

 

それからしばらく、僕たちはチビとクーを触って遊んだ。

今は、すっかり懐いたチビが湊さんの膝の上で寝ている。

一方クーは僕の膝の上。

 

「ふふふ。動けなくなってしまったわ」

 

ちっとも困っていない様子で湊さんがつぶやく。

細い綺麗な指で、優しそうにチビの頭を撫でている。

 

「一つ訊いていい?」

 

湊さんが、僕を見つめた。

 

「ピアノ。どうして辞めてしまったの?」

 

このタイミングでそれを訊くかー。

この部屋に入った時点で予感はしていたけど。

湿っぽい話だから、あまり話したくはないんだよね。

多分聞いても面白い話じゃないだろうし。

 

「まぁ、その。ちょっとした理由だよ」

 

とりあえず適当に濁してみる。

けれど、湊さんは納得しなかったらしい。

僕をじぃっと見つめて、もう一度問いかけてくる。

 

「すごく気になるの。せっかくこんなに素敵なピアノが家にあるのに。辞めてしまうなんておかしいわ」

 

湊さんからしたら、それはきっと音楽への冒涜なんだろうな。

それぐらい、この子は音楽と真剣に向き合って生きているんだ。

僕は、ため息をついた。

こんなにまっすぐな瞳で問いかけられたら、答えないわけにはいかない。

 

「面白い話じゃないけど、いい?」

 

湊さんがうなづいた。

 

 

* * *

 

 

僕の母親に、深刻な病気が見つかったのは2年前の秋だった。

 

「え?」

 

かなり進行しているということだったけど、自覚症状のほとんどなかった母親は、きょとんとしていた。

 

「あの。冗談ですよね」

 

医者に問いかける。

だが、お医者さんは首を振った。

ちょっとした軽い風邪の診断から、思わぬ重病が見つかったわけだが、母親はいつもと変わらないように見えた。

 

「こんなに元気なんだし。病気なんてやっつけちゃうんだから」

 

にっこりガッツポーズ。

基本的にお茶目な人だったのだ。

母親の職業は、ピアノの教師。

音大を出て、ジャズピアニストを目指していたけれど、結局は教師の枠に収まった。

バークリーに行きたかった、が冗談交じりの口癖だった。

早くて硬質なタッチが持ち味。

一つ一つの音が、氷をアイスピックで砕くように聞こえる。

そんな母親にあこがれて、僕も小さい頃からピアノを始めた。

先生はもちろん母親だ。

2年前だから、僕はまだ中学生。

癌という病気の恐ろしさを、あまりはっきりとわかっていなかった。

母親は死ぬはずがない。

なんとなくそう思っていた。

だが。

ひと月も経つと、母親は目に見えて痩せ始めた。

体力もかなり奪われていたのだろう。

ピアノの教師の職も休むことになった。

 

「病院はぜったいに嫌。あんな暗いところで暮らしたくない」

 

自由が好き、が、信条の母親は自宅療養を選び。

そんな状態になっても、僕へのピアノの指導だけは絶対にやめなかった。

僕は、怖かった。

自分の予想と違う方向へ転がっていく運命と。

母親の痩せ細っていく指先が。

 

やがて、冬がやってくる頃に母親は死んだ。

病気の宣言から3か月しか持たなかった。

死の直前まで、僕へのピアノの指導を続けたがっていた。

今でも、よく覚えている。

忘れたいのに忘れられない。

雪が深々と降る日だった。

その雪が真夜中に雨に変わり、ざぁざぁと窓の外で音を立てていた。

母親が、僕に言った。

 

「ピアノを続けてね。お願いよ。私の代わりにバークリーに行ってくれなくっちゃ」

 

いつも通りの冗談めかしたトーン。

でも、その声には鬼気迫るものがあった。

本気だったのだ。

母親は、もう立てなくなっていた。

 

 

* * *

 

 

「と、まぁそんな感じ」

 

そこまで語り終えて、わざと冗談っぽく肩をすくめた。

こういうところって、母親譲りなのかも知れない。

 

「母さんが死んだ後、弾こうと思ったんだけどね。どうしても駄目だったんだ。指が動かなかった。で、それっきり。日が経つごとに、母さんとの約束が守れなかったのが後ろめたくて。ピアノからは遠ざかったままってわけ」

 

はぁ……。

こんな話、多分聞きたくもないよね。

湊さんはきっと、あきれちゃってるだろうな。

そう思って、恐るおそる彼女を見ると。

驚くほど真剣な表情で僕を見つめていた。

澄んだ瞳が、僕を射抜くようだった。

 

「似ているわ」

 

ぽつりとつぶやく。

 

「あなたの受けた悲しみは、計り知れないと思う。私は、両親は生きているから。でも……」

 

何かを決心するように言った。

 

「小牧くん。ごめんなさい。つらいことを話させてしまったわ」

 

湊さんは、本当に心から、申し訳ないと思っているようだった。

 

「あなただけに、思い出したくない過去の話をさせてしまった。それはあまりにもアンフェアね。だから私にも、話をさせて。私のことをあなたにもっと知ってほしい」

 

そう言った後、湊さんは。

僕に、自分がなぜ音楽をやっているかを話してくれた。

父親のこと。

彼が味わった栄光と挫折。

幼い湊さんが感じた理不尽な悲しみ。

僕はようやく、彼女が音楽について話す時に感じられる緊張感の理由を理解した。

そして。

僕も、僕と湊さんは似ていると思った。

同じように猫が好きで、音楽が好きで。

そして、僕は母親を、彼女は父親を。

互いに大切なものをひとつ損なってしまっている。

同時に、僕は自分の弱さを悔いた。

僕は音楽から逃げてしまったが、湊さんは、あんなにも華奢な体で真っ向から向かい合っている。

 

「もう一つだけ、教えてほしいわ」

 

湊さんが僕に問いかけてきた。

 

「あなた自身の気持ちを聞いていない。あなたは、音楽が好き?」

 

その言葉は僕の心を射抜いた。

シンプルだけど根源的な答え。

僕は、しばらく、うまく答えを言うことができなくて口をパクパクとさせた。

僕自身の気持ち、か。

僕の、音楽への思い。

頭の中に、幼い時の光景がよぎる。

母親の弾くピアノが大好きだったこと。

そして、自分が弾いて、心から楽しくてたまらなかったこと。

僕は、きゅっと唇をかんだ。

 

「好きだよ」

 

簡潔な答え。

でも、それ以上の装飾は見つからない。

 

「そう」

 

そっけなく返答した湊さんの表情が、柔らかく微笑んでいた。

 

「良かったわ。違う答えだとどうしようかと思った」

 

そう言って、まっすぐな瞳で、僕を見つめる。

 

「それなら、音楽を、続けてほしい」

 

湊さんの、小さくて美しい唇が、訥々と言葉を紡ぐ。

その声は、クールだったけど。

まるで魔法の呪文のような強さが、込められていた。

 

「私自身、悩みながら、音楽を続けてきたから。続けることで、癒されてきたから」

 

そこで、息を切り。

想いを吐き出すように、言った。

 

「あなたもピアノに、触れてほしい、もう一度。……お願いよ」

 

湊さんは、ぎゅっと眼を閉じた。

願いを込めるように。

 

僕は……立ち上がった。

ピアノの鍵盤蓋を開ける。

ずっと放置していたから、埃が舞った。

少し咳き込みながら、震える指で、鍵盤に触れる。

でたらめな音が鳴った。

調律もしていないピアノだ。

だが、僕は、恐る恐る、次の音を紡いでいく。

次第に、壊れかけのか弱い音が、よちよち歩きの旋律になる。

 

「~~~~♪♪」

 

気が付くと、湊さんが歌っていた。

僕のすぐそばに立って。

両手を胸の前で握りしめ、まるで祈るように、ハミングしていた。

それは、温かく美しい旋律だった。

僕は、湊さんのハミングに合わせ、鍵盤を叩く。

音が空間に溢れ出す。

とぎれとぎれだった断章が、繋がり、調和し、宇宙のように広がっていく。

僕の触れる鍵盤の音と、湊さんの歌声が。

世界を作りだす。

 

 

* * *

 

 

最後の小節が終わり。

僕がピアノを弾く指を止めると、湊さんが微笑んだ。

慈しむような微笑だった。

二匹の猫は、ピアノの脚元で心地よさそうに丸くなって眠っていた。

 

 

* * *

 

 

それから、夜がやってくるまで二人でとりとめのない会話をして。

外が暗くなると、さすがにマズいので別れることにした。

帰り際に、湊さんが言った。

 

「今度はギターを持ってきてもいいかしら?」

「ギターを?」

「ええ。あなたのピアノに合わせて音楽を作り上げたいの。これからも、あの部屋であなたと音を紡ぎたい」

 

その言葉はすごく嬉しい。

が、一つ懸念もあった。

 

「僕の方こそ、そうしたいけど……ロックってあまり聴いてこなかったから。大丈夫かな」

「大丈夫よ」

 

ふんすっ!と意気込みが聞こえてきそうな勢いで湊さんが断言する。

 

「ロックバンドにも、ピアノが大きくフューチャーされたものはたくさんあるわ。ブルース・ホーンズビーだってそうだし、ベン・フォールズ・ファイブだってそう。バンドじゃないけど、ビリー・ジョエルやエルトン・ジョンだってピアノを弾くわ」

 

音楽のことになると急に饒舌的になる湊さんがちょっと可笑しかった。

 

「ところで、お願いがあるのだけれど。いいかしら?」

「え、なに?」

「呼び方。湊さんっていうのやめにしない?」

 

突然の提案。

 

「え、でも、それじゃ何て呼ぶの?」

「そうね。普通に友希那って呼んでほしいわ。友達……リサはそう呼んでいるもの」

「えぇぇ!?」

「何がおかしいの?」

 

きょとんとして、湊さんが首をかしげる。

あぁぁぁぁ。

そうだった。

この人、時々、こういう男女の距離感がわかってない発言をするんだよなぁ。

というか、友達の例が今井さん1人しか出てこなかったけど。

湊さん、まさか友達あまりいないのか?

僕は、戸惑いつつ、口の中でもごもごと、友希那とつぶやいてみる。

やべっ。

めっちゃ、こっぱずかしいかも。

 

「あ、あのさ。それじゃ湊さんは僕のこと、どう呼ぶのさ」

「あら。もちろん、下の名前で呼び捨てで呼ぶわ。友達だもの」

「え。マジで?」

 

迷いのない表情で湊さんがこくこくとうなづく。

あー。

こりゃ、絶対に曲げないときの表情だ。

止めろって言っても無駄か。

僕は腹をくくって、問いかける。

 

「わかったよ。そ、それじゃ、呼んでみてよ」

「いいわよ。呼ぶわ」

 

すぅっと深呼吸する、湊さん。

 

「えと。……ひ、ひ、ひ、浩紀……くん

 

その声は、意外にもかなり震えていた。

っていうか、最後のほう、なんかほとんど聞こえなかったけど、結局「くん」って付けてたぞ。

 

「おいっ」

 

思わず突っ込んでしまう僕。

よくよく見ると、湊さんの顔は真っ赤になっていた。

 

「あ、あれ? お、おかしいわね。ど、どうしちゃったのかしら。頬が熱いわ」

 

そうつぶやいて、頬を指でなぞる。

 

「ま、まぁ、その。やっぱり呼び捨てというのはやめておきましょう。まだ知り合って間がないわけだし。せめて〝くん〟ぐらいつけた方がいいわね。こ、これからは、その。ひ、浩紀くんって呼ぶわ」

 

そう言いながら、またまた頬を赤くしている。

 

「だ、だからその、あなたも。私のことは、呼び捨てじゃなくてもいいわ。けど下の名前では呼んで頂戴」

「あの、無理しなくてもいいんじゃない?」

「ダメよ。もう決めたのだもの」

 

ビシッと一蹴。

 

「それにあなたは、これから一緒に音楽を奏でるパートナーよ。呼び方は大切だわ」

 

きっと無意識なんだろうけど、そんなこと言われて嬉しくない男はいないだろう。

僕は観念することにした。

 

「了解。それじゃこれから、湊さんじゃなくて、その……ゆ、友希那さんって呼ぶよ」

 

こ、こそばゆいな。

しかし、湊さん……改め友希那さんは、名前で呼ばれて実に満足げ。

ちょっぴり誇らしげにも見える。

そんな様子が妙に微笑ましくて。

やっぱり可愛い。

 

「まったく、敵わないなぁ」

 

僕は、友希那さんに聞こえないように呟いた。

 

 

(続く)

 

 

 

 




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