めぐみんの合図で僕は扉を開けて次の部屋──つまりは最奥の部屋へと足を踏み入れた。そして僕はそこで先行者の姿をとうとう捉えた。しかし、そこにいたのはスネイプでもなかった。ヴォルデモートでもなかった。
「クィレル先生!あなただったんですか!」
その場に立っていたのはクィレルだった。めぐみんが言った通りだった。『石』を盗みに来ていたのはスネイプではなくクィレルだったんだ。
「私だ。ああそうとも、そう、私だ」
クィレルは笑みを浮かべて言った。その顔はいつもと違い、痙攣などしていなかった。
「ポッター、君にここで会えるかもと思っていたよ」
「僕はここで会うのはスネイプだと思っていました」
僕がそう言うと、クィレル先生は鋭い笑い声を上げた。その声は不思議と冷たく感じた。
「セブルスか。確かに、セブルスはまさにそんなタイプに見える。彼が私の周りをコウモリのように注意深く飛び回ってくれたのはとても役に立ったよ。なんせ彼のそばにいれば誰だって、か、かわいそうな、ど、どもりの、ク、クィレル先生を疑いやしないだろう?」
クィレルは僕に向かって嘲笑するような表情でそう言った。それを見て僕は確信した。クィレルがここにいるのは何かの間違いでも何でもなく、紛れもなくクィレル本人の事情によるものだ。そのことに思い至り、僕は呟いた。
「じゃあ、スネイプが僕を殺そうとしたのはこれと全く関係なかったのか」
そんな呟きをクィレルは拾った。
「フッ、君たちはアレをそう取ったのか。逆だよ逆。殺そうとしたのは私だ。彼はむしろ反対呪文で君を守っていたよ。アレさえなければ、グレンジャーが来る前に君を叩き落とせたんだがね」
「スネイプが、僕を?」
「その通り」
信じられなかった。あのスネイプが、会うたびに憎しみの目を向けてくるスネイプが僕を救っていた?
「彼がなぜ次の試合の審判を買って出たと思う?君を守るためだよ。まあ、全くの無意味だったがね。どのみち私はダンブルドアの前では何もできない」
クィレルはそう言って芝居がかったような動きで肩をすくめて首を横に振った。そして不意にこちらを見て指をパチリと鳴らした。
「──つまり、ここならできるというわけだ」
その言葉と共に縄がどこからともなく現れ、僕の体に固く巻きついた。クィレルは今度は苦々しげな表情を作った。
「ポッター、君は色々なところに首を突っ込み過ぎた。生かしてはおけない。ハロウィンのときもあんなふうに学校中をウロチョロするなど。『石』を守るものが何かを見に私が戻ってきたときも、君は私を見てしまったかもしれない」
クィレルの言葉を聞いて僕は悟った。
「……あの時トロールを入れたのはあなただったのですか」
「そうとも。私はトロールについて特別な才能があってね。残念なことに皆がトロールを探し回っていたあの時、私を疑っていたセブルスだけがまっすぐに四階に来て私の前に立ちはだかった。あの日はとんだ厄日だった。なんせトロールが君を殺し損ねたばかりか、三頭犬はセブルスの足を噛み切り損ねたんだからな」
確かにあの時、クィレルは息を切らしていたし倒れているトロールを見て驚いていた。あれは急いで駆けつけたからでも、トロールがそこにいたからでもなかったんだ。
「ふむ。そういう意味では君以上に紅魔も殺しておかなくてはな」
そんなことを考えていると、クィレルがそう言った。
「めぐみんを?」
「ああ。彼女は本当に頭がいい。この学校で他人に何も聞くことなく私を疑おうとしたのはおそらく彼女とセブルスのみだ。彼女は最近、レイブンクローの方の紅魔と共にしきりに私の周りを嗅ぎ回っていたよ。確信に近い疑心だったはずだ」
そこでクィレルは言葉を切って軽い笑みと共にこちらを向いてきた。
「だからこそ君たちが彼女を信じなくて助かったよ。数人がかりで、しかも君の知名度なら更なる人数も動員できたかもしれない。そこまでされれば流石の私にもどうしようもないからな」
クィレルの嘲るような顔に、僕は後悔の感情を抱いた。どうしてあの時めぐみんの言葉を信じなかったんだろう。せめてまともに聞くだけでもすれば、この未来は変わったかもしれなかったのに。
「しかし彼女の性格ならまず間違いなく君に付いてきたはずだが……途中で脱落したか?いや、それはないだろう。となると」
僕が黙り込んでいるなか、クィレルの言葉は続く。そこまで言ったところで、クィレルはふと扉の方を向いた。
「紅魔はトロールの部屋にいるわけだな」
クィレルはそう言ったあとに僕の目を見て頷いた。
「やはりそうか。君が扉の前に置いてきたはずのトロールを突破できたのが不思議だったが、なるほどそうだったか。確かに彼女は優秀だ。少しの間戦うくらいはできるかもしれない。まあ万に一つも勝ち目はないだろうがな。私が彼女に直接手を下す必要性は消えたようだ」
そう言ってクィレルは安心したようにため息をついた。そして部屋の奥の方へと歩いて行った。そこには大きな鏡が置いてあった。僕はその鏡によく見覚えがあった。『みぞの鏡』だ。
「さてポッター、大人しく待っていてくれるかな。私はこのなかなか面白い鏡を調べなくてはならないのでね。この鏡が『石』を見つける鍵なのだよ」
クィレルは鏡の枠をコツコツと叩きながら言った。
「ダンブルドアならこういうものを考えつくだろうと思った。だが彼は今ロンドンだ。帰ってくる頃には、私はとっくに遠くに行ってしまっている」
クィレルは鏡の周りを一周したあとに鏡の前に立ち食い入るように鏡面を眺めた。
「ふむ。『石』が見える。ご主人様にそれを差し出しているのが見える……しかし肝心の石はどこだ?」
「二、三日前、あなたが泣いているのを聞きました。あなたが本当に今回の事件の黒幕でスネイプが関係ないなら、どうして泣いていたんです?」
僕はなんとかしてクィレルの集中力を切らせようと話しかけた。するとクィレルの顔に恐怖がよぎった。
「……時には、ご主人様の命令に従うのが難しいこともある。彼の方は偉大な魔法使いだし、私は弱い……」
「それじゃ、あの教室であなたは『あの人』と一緒にいたんですか?」
クィレルの口から出た思わぬ情報に、僕は息を飲んだ。
「私の行くところ、どこにでもあの方がいらっしゃる」
クィレルは静かに言った。
「私が世界旅行の時に彼の方に出会ってからずっと。その途中できっかけがあり、私はあの方の手となり足となった。もちろん私はあの方を何度も失望させてしまった。故にあの方は私にとても厳しくしなければなかった」
突然クィレルは震え出した。
「過ちが簡単に許されることはない。特にグリンゴッツでの失敗の時はとてもご立腹だった。私を罰した……そして私をもっと間近で見張らなければと決心なされた」
クィレルの声が次第に小さくなっていた。僕はダイアゴン横丁に行った時のことを思い出していた。そう言えばあの日に僕はクィレルと会ってるし、漏れ鍋で握手までしていた。めぐみんの方が正しいと判断できる材料はいくらでもあったのに、僕はどうして意固地にスネイプに固執していたのだろう。
「一体どうなっているんだ……『石』は鏡の中に埋まっているのか?鏡を割ってみるか?クソッ、この鏡はどう言う仕掛けなんだ……ご主人様、助けてください!」
クィレルがそう言うと、別の声が答えた。しかもその声はクィレル自身から出てくるようだった。その声を聞くと、すでに疼いている僕の頭の傷がさらに強く疼いた。
「その子を使うんだ……その子を使え……」
「分かりました。ポッター、ここへ来い」
クィレルは突然こちらを向き、そう言った。クィレルが手をパンと打つとハリーを縛っていた縄が落ちた。僕はクィレルに鏡の前まで連れていかれた。
「鏡を見て何が見えるかを言え」
嘘をつかなくては。ハリーは鏡の前でそう思った。鏡には青白く怯えた自分の姿が映っていた。次の瞬間、鏡の中のハリーが笑いかけた。鏡の中のハリーは血のような赤い石をポケットから取り出し、ウィンクをして再びポケットにその石を入れた。するとその瞬間、ハリーはポケットに重量を感じた。なぜか──信じられないことに──僕は『石』を手に入れてしまった。
「どうだ?何が見える?」
クィレルがそう聞いてきた。僕は必死に頭を回した。とにかく『石』をクィレルに渡さないでダンブルドアが来るまでの時間を稼ぐ。
「僕、あー、そう、僕がダンブルドアと握手をしてるのが見える。僕のおかげでグリフィンドールが寮杯を獲得したんだ」
「そこをどけ」
クィレルが僕を押しのけた。クィレルは鏡を見ている。思い切って逃げ出そうか。しかし、ほんの五歩も行かないうちにクィレルからクィレルのものでない声がした。
「こいつは嘘をついている……嘘をついているぞ……」
「ポッター、ここに戻れ!本当のことを言うんだ!」
クィレルが叫んだ。そしてあの頭に痛みを走らせる声が響いた。
「俺様が話す……直に話す……このために力を溜めてきたのだ……」
「分かりました。御心のままに」
すると、クィレルはターバンを解き始めた。僕は石のように硬くなったままでそれを見ていた。そしてターバンが落ちた。ターバンを外したクィレルの頭は奇妙なまでに小さかった。クィレルはその場でゆっくりと体を後ろ向きにした。
僕は悲鳴を上げるところだった。しかし悲鳴が出ることはなかった。それは僕が踏みとどまったからではなく、単に声が出せなかっただけだった。クィレルの頭の後ろにはもう一つの顔があった。その顔はこれまで見たこともないほどに恐ろしかった。蝋のように白い顔にギラギラと血走った眼、そして鼻腔は蛇のような裂け目になっていた。
「ハリー・ポッター」
声がささやいた。後ずさろうとしたが、足が動いてくれなかった。
「このありさまを見ろ」
そんな僕をじっと見つめて顔が言った。
「ただの影と霞に過ぎず、誰かの体を借りて初めて形になることができる……しかし常に誰かが、喜んで俺様をその心に入り込ませてくれる……この数週間はユニコーンの血が俺様を強くしてくれた……忠実なクィレルが森の中でそれを手伝っているのを見ただろう……そして命の水さえあれば、俺様は自身の体を創造できるのだ……」
目を瞑り思い出すようにしみじみとそんな話をしていた顔はそう言うと目を開け、僕に言った。
「さて、ポケットにある『石』を頂こうか」
僕は目を見開いた。ヴォルデモートは『石』の在り処を知っていたんだ。
突然足の感覚が戻り、僕はよろめきながら後ずさりした。そんな僕に顔は諭すように言ってきた。
「バカな真似はよせ。命を粗末にするな。俺様の側に付くんだ。さもないとお前もお前の両親と同じ目にあうぞ。二人の命乞いをしながら死に行く姿は見ものだった……」
「嘘だ!」
ヴォルデモートの言葉に、僕は叫んだ。そしてクィレルはヴォルデモートがハリーを見たままでいられるように後ろ向きで近づいてきた。邪悪な顔がニヤリと笑う。
「胸を打たれるねえ……俺様はいつも勇気を称える。そうだ小僧、お前の両親は勇敢だった。まず死んだのは父親だった。勇敢に戦ったがね……だが母親の方まで死ぬ必要はなかった。母親はお前を守ろうとして死んだのだ……さあ、母の死を無駄にしたくなくば『石』をよこせ」
こちらに近づいてくるヴォルデモート。そんなヴォルデモートに僕は叫び、扉の方に向かって駆け出した。
「やるもんか!」
「捕まえろ!」
ヴォルデモートが叫んだ。次の瞬間、僕はクィレルの手が僕の手首を掴むのを感じた。そのとたん、針で刺すような痛みが額の傷跡を貫いた。僕は悲鳴を上げたが、同じような悲鳴も後ろからしてきた。振り返ると、クィレルは僕から少し離れて自分の指を見ていた。その指は見るみるうちにブクブクと膨れていった。ふと僕も自分の手を見てみた。やはり僕の手も火ぶくれができていた。
「捕まえろ!捕まえろ!」
「やらせない!お前に『賢者の石』なんてものを使わせないぞ!」
ただひたすらに連呼するヴォルデモートとそれに泣きそうになりながら従うクィレル、そしてクィレルに自分の手を押し当て自分とクィレルの両方にダメージを与える僕。そんな状態に焦れたヴォルデモートが叫んだ。
「それなら殺せ愚か者め、始末しろ!」
クィレルは距離をとって死の呪文を唱え始めた。僕はとっさにクィレルの顔に手を伸ばした。
「アアァァァ!!!」
クィレルは顔面に感じた痛みに耐えきれずに呪文を中断した。これだ!これで乗り切るんだ!僕がそう思った時、声が響いた。
「落ち着け、クィレル。ポッターから距離を取れ。そう焦る必要はない」
クィレルはその声にハッとした様子で僕からダッシュで大きく距離をとった。そんなクィレルを追おうとすると、振り返ったクィレルが指をパチリと鳴らした。その瞬間、僕の足から全ての動きが消えた。僕は勢いよく床に倒れ伏せた。
「よくやったクィレル。俺様からのヒントがあったとはいえその冷静な判断、褒めてやろう」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
「あとは殺すだけだな。しっかりと殺せよ」
「はい。もちろんです」
クィレルはヴォルデモートにそう言って、こちらに杖を向けた。
……ああ、僕もこれまでか。これでも結構、頑張ったんだけどな。結局ダンブルドアは間に合わなかったんだ。死んだら母さんや父さんに会えるんだろうか。
「アバダ」
「エクスプロージョン!」
そんなことを考えていると、死の呪いに割り込んでそんな声が響いてきた。その声に僕は目を開けた。すると僕の視界に、今にも死の呪いを撃とうとしていたクィレルに手のひら大の黒い球体が向かっているのが見えた。その球体はクィレルにぶつかり、小さな爆発を起こした。完全に意識をこちらに割いていたクィレルは不意打ちを受けて吹き飛んだ。
「ガハッ、ゲホッ……今のはなんだ!」
起き上がったクィレルはそんな声を上げて球体が飛んできた方向を向いた。それと一緒に僕もそちらを向いた。するとそこには、小さな体躯の頼もしい友達が堂々と立っていた。
「めぐみん!」
「ふっ、どうやら間に合ったようですね。少し遅れてしまいましたが、もう安心してください」
そこでめぐみんは焼け焦げて少し短くなったローブをバサリと翻して言った。
「ここからは私たちのターンです」
そう宣言するめぐみんの姿は、今まで見たことのある何よりも力強く見えた。