温かく大きな存在。今の私は知らないけれど、
逞しい膝の上に乗り、大きな手で髪を撫でられる。そう、父親。もう少しこの感覚に甘えていたい。
そう思っていたけれど、目覚め始めた意識はそうさせてくれなかった。名残惜しくも瞼を開けば、静かに瞳を閉じている小父様が見える。なぜ小父様がこうしてくれているのか。それもすぐに分かった。
意識を失う直前に、私は敵の総大将である皇帝ベクタに捕らえられたのだ。だが、周りを見渡してもその姿は見えない。ここにいるのは私と小父様だけ。つまり小父様が私を助けてくださったのだ。
──この方がいれば心配することなんて何もない
そう思った矢先に、私は現実を認識した。小父様の左腕は肩から切り落とされており、顔や胸にも真新しい無数の傷が見える。そして何よりも、小父様の呼吸が止まっている。
「小父、様……? うそ……ですよね……」
嫌だ。受け入れたくない。信じたくない。嘘であってほしい!
唇も指先も震え、そっと手を伸ばしてみると認識させられてしまう。小父様の体が冷たくなってしまっていることを。その場に膝から崩れ落ち、嗚咽する。私が敬愛し、目標とした小父様が、私のせいで命を落としてしまったのだ。私が焦って単独行動をしてしまったから。
「……間に合わなかったようね」
突如現れた新しい気配。そちらに目を向けると、そこには見たことのない人物が立っていた。敵意がないことから、彼女が少なくとも敵ではないことが分かる。
「あなたがアリスよね? 私はシノン。キリトやアスナやジークの友人よ。アスナに頼まれてこっちに先行してきたのだけど」
「ジークの……。来ていただいて申し訳ないのですが、私は戻ります。戻って、ダークテリトリー軍と和議を結ばねば」
「ちょっと待ちなさい。概要しか聞いてないけど、あなたは南の端を目指しているのでしょ? 戻ってどうするの?」
彼女の疑問も当然だ。たしかに私達は南を目指している。その理由は、《果ての祭壇》に辿り着くため。でも、それだけが理由じゃない。南下しながら敵の数を減らし、そしてダークテリトリーと和議を結ぶためだ。最大の難敵であったベクタは、小父様が身を犠牲にして討ち取ってくれた。ならばもう移動策は必要ない。
「……それが、そうもいかないのよ。敵はまた来るわ」
「どういうことですか?」
「皇帝ベクタはリアルの人間。リアルの人間は、仮の姿を使ってこの世界に来るのよ。つまり、ここで命を落としても、別の器を用意すればまたここに来られる。皇帝ベクタじゃない、別の姿でね」
「なん、ですか……それは……! では小父様はなんの為に! 無駄死にだったと言うのですか!」
そんな理不尽なことが許されていいのだろうか。そんな不条理なことが。そんなの不公平ではないですか。命の重さが全く違うじゃないですか。
「……ジークやキリト、あなた方もそういうことですよね?」
「……そうね。でも、私達はこちらの命が軽いなんて思わない。だからキリトはああなるまで戦った。ジークだってそうじゃなかったかしら?」
「それは……」
思い返す。セントラル=カセドラルであった戦闘を。キリトの覚悟とその戦いぶりを。ジークの激情を。
シノンの言うとおりね。少なくとも彼らは命を軽んじなかった。ユージオの死に涙し、エルドリエの勇姿からその覚悟を受け取った。そんな彼らに代わって動いてくれる彼女たちが、敵と同じであるわけじゃない。
「騎士長さんの死が無駄になるか。それはアリス、あなたの行動次第よ。敵の目的はあなたを捕らえて外に出ること。私達の目的は、あなたが敵の手に落ちずに外に出ること。だから──」
「分かっています。もう迷いません。……その前に三点だけ。うち二つは質問に答えてもらえれば構いません」
「私に答えられることなら」
彼女のその言葉に感謝し、まずは小父様の体を、小父様の飛竜である星咬の背に乗せる。東の大門へ、ファナティオ殿の下へと向かわせる。
「恋敵?」
「まさか。私の恋敵はまだ見ぬ誰かです」
「ふーん?」
今なら分かる。分かるようになった。彼女もまたキリトに恋している人物なのだと。だから、彼女は私の恋敵ではない。私の恋敵は、私がまだ出会っていない、ジークが最も大切にするという人。
それは、ジークと再会したら聞いてみよう。外に出たら会えるのだろうから。
「一つ目の質問をしますね。私はまたここに、この世界に帰ってこられますか?」
「確証はないけれど、きっと戻ってこられるわ。キリトとジークがそのために動き回るだろうし、私達も微力ながら協力する。それに、ジークって達成するまで止まらないでしょ?」
「ふふっ、それもそうですね。……良かった。愛するこの世界にまた戻れるんですね」
「ええ。それで、もう一つは?」
あまり悠長にできない。敵がいつ、この世界にもう一度来るのか分からないのだから。それで彼女はすぐに最後の質問を聞いてきたんだ。少しでも私が《果ての祭壇》に辿り着くのを早めるために。
「……今ジークはどうなっているのですか?」
「どうって?」
「
「っ!!」
「不思議と分かるのです。彼のことが、何となくですけど」
「やれやれ、ジークもとんでもない子を引っ掛けたわね。アスナ並みかしら」
酷い言われようである。私はそんなとんでもない人間ではないと思うのだけど。それに、何となくだけどアスナと同類扱いされるのは不本意だ。
不満に思ったことが顔に出てたみたいで、シノンは呆れてため息をついた。そして話してくれた。ジークが暴走してしまっていることに。それを聞いて、私はアスナから聞いた話を思い出す。かつて一度だけ暴走したということを。キリトも知らないほどの暴走を。
そしてそれを止められた人物が、この世界にいないということも。
北へと視線を向ける。もちろんジークの姿など見えない。人界軍もダークテリトリー軍も、赤い兵士たちも。何も見えない。だけど、そっちにジークがいるのは確かだから。
「ジークならきっと大丈夫です」
「それも乙女の勘かしら?」
「はい。悔しいですけど、私以外の誰かがジークを止めてくれるかと」
本当に悔しいことだけど、今のジークを止められるのは私じゃない。近くにいたらきっと私でも止められる。止めてみせる。負けたわけじゃない。今回はたまたま離れ過ぎているからできないだけであって、そうじゃなかったら私がその役を担っていたはず。
心の中で愚痴りつつ、雨縁の背に乗る。シノンの感謝を述べ、私は二頭の飛竜と共に《果ての祭壇》に向けて進んでいく。
「ジーク、きっと追いついて。待ってるから」
☆☆☆
あはは、まさかジークがこんなことになるなんて思ってなかったな〜。アスナから聞いたことはあったけど、実際見てるかどうかで結構違うよね。ボクは初めて見るし、ぶっちゃけ怖かったりする。
でも、それ以上に呆れるというか、仕方ないな〜って感じ。世話が焼けるっていうのかな。いっつもしてもらう側だったから、初めての感覚で新鮮だね。
「お前……」
「脳では忘れてても、心では覚えてるってやつかな? それだったら嬉しいなぁ」
「ぐっ……るさい、喋るな……!」
「やだ。ボクはこういう人だって、ジークが一番知ってるはずだよ?」
「うるさい!」
右手を頭に添えてふらついてる。頭がすっごく痛かったりするのかな。痛みを隠したがるジークが、全然隠せてないもん。でもボクはやめてあげない。きっとここで失敗したら、取り返しのつかないことになるだろうから。
今のボクは重量とかない。体だってフワフワ浮かんでるし、アバターのユウキの姿をしているけど、輪郭は薄く光ってるしね。でも、ボクは地面に
「こらこら、逃げようとしないでよ」
顔を逸らそうとするジークの頬に手を伸ばす。触れることはできない。ボクの温もりをジークに感じさせることも、ジークの温もりをボクが感じることもできない。
でも、ボクの手がジークの頬に添えられると、ジークは体をビクッとさせて動きを止める。視線もボクから逸らすことをやめた。
「ねぇ、君は今何がしたいの? 本当は何をしないといけないの?」
「俺は……あいつを、敵を……!」
「それはもう終わったでしょ。ジークだって分かってるはず。それなのに止まろうとしないのはなんで?」
「それは……」
ジークが言い淀む。答えに迷ってるんじゃない。答えが分からないわけがない。ジークだって分かってる。とっくに理解してる。だけど、それが言えないんだ。なら、ボクが言ってあげなきゃね。甘やかしちゃうことになるけど、
「ジークはさ、
「っ!!」
「SAO時代のことはボクも知らない。ボクが知ってるのは、君と出会ってから過ごした短い時間だけ。でもさ、それだけでもいっぱい分かったんだ。君は頑張り過ぎちゃう人だって。抱えきれないのに自分でなんとかしようとして、弱音を誰にも吐かなくて。常にいっぱいいっぱいだから、自分を赦せないから、だから余計に取りこぼしちゃう。違う?」
「ちが、う……だって……俺は……、……?」
「記憶が……。なら、思い出させてあげる。できるか分かんないけど、こういうのってロマンチックなことすれば何とかなるって決まってるしさ!」
怪訝そうにするジークにさらに近づく。身長差があるし、今のボクじゃ背伸びもできないから、代わりに体をフワッと浮かび上がらせる。ジークの顔の至近距離までボクの顔を近づける。戸惑う姿にクスッと笑っちゃう。そのままそっとボクの唇をジークの唇に重ねる。
本当は何も感じないはずなのに、不思議と温かみを感じる。胸がポカポカするね。
「っ、えへへ、どう?」
「どうって……根拠もないくせによくやるよ、
「でも治ったでしょ? そんな気がしてたんだよね〜。改めて久しぶり!」
「久しぶりだな、それとありがとうユウキ」
「どういたしまして!」
うんうん、やっぱりジークはこうじゃなくっちゃね。ボクらがよく知る、自分勝手で生き生きしてるジークじゃなくっちゃ。
ジークが戻ったところで、近くで待ってくれていたエギルさんが近づいてくる。その手にはひと振りの刀が握られている。ジークの刀で、ボクと一緒にクエストをクリアして手に入れた刀。ボクらの大切な思い出が詰ってる。
「そろそろ受け取れよジーク」
「エギルさん……でも、俺はまだ……」
「ねぇジーク、それって
「ちがっ! それは違う……これは俺が……」
ボクとジークが二人で攻略したクエスト。難易度はグランドクエスト並で、でも二人じゃないと参加できないやつだった。ジークに頼まれて、ボクも挑戦してみたかったから了承した。最後のフロアじゃボスが一人だけだったんだけど、そのボスが使ってた武器がクリア報酬。
刀身が
「ねぇジーク。ボクさ、言ったよね? 『幸せをいっぱい貰ったって』あの言葉に嘘なんてない。でもね、一つだけ心残りがあるんだ」
「それは?」
「
「……っ、ユウキ……」
困った感じにふにゃって笑うと、ジークが泣きそうな顔になる。涙なんて流さないくせに、そういう表情はするんだから。本当に甘いよね。でも、その甘さを自覚しながらも前に進んでいく姿が好き。カッコよくて、力強いよ。
「悔しいけどさ、その役割をボクが担うことはできないんだ。それを担う人はもう決まってる。だからさ、ジーク。君が今したいことは何?」
「……俺は、アリスを守りたい。あいつに傷ついてほしくない」
「うん! それなら今どうすべきかも決まってるよね!」
ボクの言葉に合わせてエギルさんが刀を渡す。今度こそ受け取ったジークは、それを腰に据えた。それと時を同じくして、ボクの方も限界がきた。この姿を保つ限界が。
「ユウキ……」
「大丈夫だよジーク。ボクはずっと、君たちの心の中で生きてるから。……ジーク、幸せになってね? なってくれなかったら、ボクはジークを怒るよ」
「ははっ、それは嫌だな。ありがとうユウキ、俺はもう大丈夫だから。やり抜いてみせるから」
「うん、見守ってるよ」
ジークがクラインさん、エギルさんと言葉を交して、フレニーカさんに謝る。安堵したことで涙がこぼれ出したフレニーカさんを、ジークが慌てながら慰めて、クラインさんとエギルさんがそれを揶揄する。
「すみません、ジークさん」
「いや、フレニーカが謝ることじゃないから」
「ですが」
「あのさ、フレニーカ。改めて約束させてくれないか? 今度こそ全部やりきって、また会いに来るって」
「はい。私も必ず生き抜いて、待ってます」
フレニーカさんと約束を交したジークが、最後にまたボクのところに来る。でもお互い何も言わなくて、無言のまま拳を作って突き出し合う。合わせた音もなく、ぶつかった感触もないのだけど、それで通じあえたことが分かる。ジークの覚悟が伝わってきた。
「行ってらっしゃいジーク」
「行ってきます、ユウキ」
その場でしゃがみこんだジークが、足に力を溜め込んだ後にそれを爆発させて跳躍する。数秒でジークの姿が小さく見えるほどの跳躍。よく見たら空中でもジャンプしてるな。いいな、この世界も面白そうだ。
吹っ切れたジークが、大切な人の下に向かっていった。ボクと一緒に入手した大切な刀──