気が付くと俺は雑踏の中で立ち止まっていた。後ろから誰かにぶつかられる。
「早く前進め!なにボーッとしてんだ!」
怒鳴られた。軽く謝罪して、言われた通りに前に進む。どうやら格好はいつもと大して変わらないようだ。しかし、外に出る時は必ず持ち歩くようにしている財布がポケットの中を探っても見つからない。背負っているリュックの中に入っているのだろうが、あまりの人口密度にリュックを地面に下ろす余裕などない。人の波に流されてそのまま前に進む。
どれほどの人の規模なのか確かめようと爪先立ちになると、どこまでも人しかいないのが分かった。目眩のするような光景だ。
気がおかしくなる前に見るのをやめてただ前に進むことにした。
ふと、自分とその他の人は何処に向かっているのかを知らないことに気付く。こんな事、最初に疑問に思っても良いぐらいのはずなのに、何故こんなにも思考が鈍っているのか分からない。どれだけ進んだか、相対的に測るものが無いために何も分からないが少なくとも30分はボーッと歩いていたはずだ。それにしてもこれだけの人混みなのに環境雑音が足音と衣擦れの音、そして呼吸音しかないというのも奇妙というかいっそ不気味だ。
取り敢えず、隣を歩くおばさんに聞いてみよう。普通に聞くと目立ちそうだから抑え目な音量でな。
「すみません、ちょっといいですか?」
「…………」
聞こえなかったのだろうか、もう一度尋ねよう。
肩をトントンと叩いてから声をかけ直す。
「すみません、お尋ねしたいことが……?」
肩を叩かれ顔を覗き込まれているのにも関わらずおばさんの目は虚で、剰え他になんの反応も見せない。
それだけならこの人がちょっとおかしい人というだけの話だったのだが、周りの人の顔を見ると皆同じような顔をしている。
背筋を冷たいものが走る。何かのドッキリか?はたまたこれは幽鬼の行進だとでもいうのだろうか?
と、後ろから肩を叩かれる。
「おい、兄ちゃん」
振り返ると、短く刈り込まれた髪が目に入る。そこにいたのは上下にグレーのスウェットを着込んだ30〜40代ぐらいに見える男だった。服の上からでも鍛えていることが分かる、そんな男がこちらに片眉をあげてニヤッと笑った。どこか見覚えがあるような気がする。しかしどこだったか、というところで思考を遮られる。
「さっきは怒鳴って悪かったな。俺もお前より先にこの状況に気付いて暫くでな。ちっとばかし気が立ってたんだ」
「あ、いえ……それより暫くっていうのはどういう?」
そう聞くと男はニヤケていた表情を崩して悲しんでいるような、何処か申し訳なさそうな、それでいてこちらを哀れんでいるような顔をした。
そして唐突に質問を投げ掛けてくる。
「此処は何処で、俺たちは何処へ向かっているか分かるか?」
なんで俺が今まさに疑問に思っていたことを?
困惑して無言でいると。
「そうか……いや、そうだな。まだ覚醒したばかりだから意識を取り戻してないのか」
覚醒したのに意識を取り戻していない?益々訳が分からない。
「いや、ハッキリ意識はありますよ。ただ、今まさに自分でも何処に向かっているのか疑問に思っていたのでビックリしただけです」
そう伝えた俺を見た男は軽く笑うとこんなことを言い放った。
「まあいいさ、端的に言うぞ。俺たちは死んだんだ」
何を言っているか頭に入ってこなかった。無言で男の顔を見ていると、男は周囲を見廻した。全体を意に含めるかのように。
「もう一度言うぞ。俺たちは死んだ。絶対的に、そして不可逆的にな」
つられて、周囲を歩く人間を見る。
「ジョークにしては随分キツいですね」
これだけの人間が一気に死ぬはずがない。いや、単位時間あたりの死者数はかなりいるだろうが、それにしても余りにも多すぎる。人種も年齢も問わず、さまざまな人間がこの場にはいる。
何かの催し物に向かう最中なのだろう。そして暑さで俺も彼も頭がやられたといったところか。
それにしては天が暗いが、熱帯夜なら説明がつく。
「暑さで頭がやられているんですよ」
「暑くもないのに?馬鹿げたことを言うな。それに周囲を見てみろ。建物が一つもない、植物も無いじゃないか。地球上でこれだけの規模の人間が集まって、かつ建物が無い、そんな場所は存在しないだろう?」
「……っ……地下、かもしれない」
そう、地下だ。地下ならこの状況にもある程度の説明がつく。
「強情だな」
この状況は受け入れ難い。俺と男の二人が狂っているだけの方がまだ理解できる。
自分達が死人だと宣うこの男も、そしてその言葉を少しだけ信じてしまっている俺もーー
「信じようが信じまいが、この先に行けば分かるさ。俺はただ、同じ状況になった哀れな青年に覚悟だけでもさせてやろうと思ってな」
「ーー待ってください」
「んお?」
今、この男は妙なことを言った。
「あなたは今、この先に行けば分かると仰いました」
「ああ、言ったぞ」
不安は払拭しなければならない。
「なんで貴方はこの先で起こることを知っているんですか?」
「…………」
尋ねた途端無言に、そして無表情になった男は異様な雰囲気を纏っている。
この人混みの中で流れに逆らって戻ってくるのは相当な労力を要するはずだ。そしてピンポイントで俺の後ろに来るなど、そんなことができるはずがない。
気づけば俺と男の周囲には、幾分かの空間が出来ていた。男から目を離さないままに歩いて男から離れ、対峙する。
「答えてください、どういう意図で言ったのかを」
願わくば味方でいてほしい。
願わくば俺を騙そうとしての言葉でないと信じたい。
俺の内心の願いを込めた質問に対して男は。
「…………心配性なんだな!」
にっこりと笑顔を浮かべ。
「ただ、俺は先の方から一旦戻ってきただけさ」
腕組みをしてウンウンと頷きながらそう言った。男はそのまま歩いてこようとしてくる。
「何があるんです?」
ピタリとまた立ち止まった。
「先には……一体何が?」
不気味な程に笑顔を保ったまま男は述べる。
「言っただろ、俺たちは死んだって」
いつまで経っても死んだという情報しかもたらさない男に少し苛立ちがこみ上げる。
「だから、先には何がーー」
「君は、神の存在を信じるか?」
泰然と立つ男は笑顔のまま、そんなことを聞いてきた。
神?そんなものいる筈がない。
「さあ、どうなんだい?」
この男はどうやら情報を小出しにするつもりらしい。それならとことん付き合ってやろう。
「信じないですよ。見たことないので」
「なるほど……見たことが無いか……」
顎に右手を当てて頷く。
「確かに君の言う通り、見た事ないものを信じるのは難しいかもしれない。しかし逆説的に言うなら、神を両の目で見たら信じると言う事だな?」
「何を……言っているんだ……?」
まるで自分が言っていることは真実であると確信しているかのような自信とともに紡がれる言葉。
目を瞬かせる。
『私を見ろ』
脳裏に直接響くような声が聞こえた。
瞬時に、文字通り瞬きのうちに目前に現れた男の瞳には黄金の十字架が刻まれている。先程までは確かに無かったはずなのに。
顔面を掴まれて抵抗するがまるで万力のようにびくともしない。大きく開いた眼で俺の目を覗き込んでくる。
そして視界が黒く染まったーーかに思えたが、黒の中をサラサラと煌く粒が視界を流れていく。太い幹から細い枝葉が分かれる木のような形をとって粒は流動しており、細い枝のはるか先の方には刻一刻と色を変える球体が接続していた。
宇宙空間を彷彿とさせる光景だが、明らかに違うということも分かる。
摂氏-270度の宇宙空間では俺の体などすぐ様凍ってしまうはずなのに、冷たさなど感じない。さらに、しっかりとした足場を踏みしめて俺は立っていた。
粒子の進む方向は一定であることが見て取れ、上流に目を向ける。
『これが今、お前のいる場所だ』
そこにいたのは先ほどまで話していた男だった。ただ、巨大化していた。服装も顔立ちもそのままに体積のみが何十倍にもなっていた。
玉座のようなものに腰掛け、腕を手摺りに置いている。
ゴクリと唾を嚥下する音がはっきりと聞こえた。
「お、俺がいる場所?」
声が震えているのが分かる。
なんだこいつは。なんなんだここは。
男が指差しをする。粒子の流れている場所だ。その場所が急に拡大される。そこでは人間サイズのあの男が俺の顔面を掴んでいた。
これは一体なんだ。
『案外と鈍いのだな」
俺は今ここにいるが、あそこで顔を掴まれているのも俺で…………?
『お前の望むものをここまで揃えてやっているというのに』
肩肘を手摺りに載せ、顎を手のひらに乗せた男はつまらなさそうにボヤく。
「俺の望むもの……」
『まあそろそろ良いだろう』
男がそう言うと視界に映るものが急速に前方に収束していき、気付けば元いた場所へ。
キョロキョロと周りを見回し、自分の手足を確かめていると。
「これで分かったろう」
などと宣う。
頭がおかしくなりそうで、辛うじて言葉を絞り出す。
「何が……?何も……何も分からない……」
「現実感の無さから来るものだ、そのうち慣れるさ。それにしてもさっきの演出は中々だっただろう?」
右から左へ聞いたものが流れていくような感覚に陥る。
まるで映画の中に入り込んでしまったかのようだ。
「お前が必要としていたものをさっきは与えてやったんだ。お前が安心感を覚える人物。少しドラマチックな展開と説明。そして現実への回帰」
「俺が必要とした……ぐっ!」
男が無感情に述べるそのセリフを反芻していると頭痛が走った。
「哀れな男だ……本当にお前は……」
何故か俺に憐みな感情を向ける男。俺の何を知っているんだ、という苛立ちが走る。
「俺は紛い物だが、この姿を借りる前提としてこの肉体のオリジナルを完全に模倣しなければならない制約がある。記憶も含めてという話だ」
「だからなんだ……お前みたいな男は知らないぞ!」
「いいや、思い出していないだけだ。自分が何者なのかを」
そう言われて、自らの名前を言えないことに気付く。
リュックを下ろして財布を探す。そこに身分証明書も入っているはずだ。
しかしいくら探れど財布は見つからず、途方に暮れるばかり。
「自己を認識できないものは自己を証明するものを外部から取り入れることはできない。それがここの決まりだ」
つまり、自分の事を思い出すには自分の記憶を探る以外の方法は無いという事だろうか。
「前に進め。足を踏み出せ。この先にあるものを確かめろ。この世界の成り立ちを理解しないとお前は名を忘れたままだ」
こうして名無しの男は未知の世界へと足を踏み入れた。
意味深なのを書きたかった