「──────」
その言葉は予想していなかったこと、だけどこの人の事を少し考えればすぐに思い付いたこと。
彼女は何かを言っているが今の僕には聞こえない。聞こえているけどわからない、理解しようとしていない。
「
僕は彼女を名前で呼んだ。呼び方なんて表し方の一つでしかない、何でも変わらない。そうわかっていても緊張するものだった。
「さようなら」
嘘ですよと言ってくれ、僕はそれさえ言うことが出来なかった。
どしゃ降りの雨、言い表すならそれしかないだろう。
空を黒い雲が覆い、視界は黒い雨が埋め尽くす。久し振りに身に纏うコートがなんとも違和感を覚えさせる。
ある程度予想は出来ていたのだから外に出なければよかった。しかし予報では大丈夫と言っていたし、それに降るとしてもここまで降るとは思わなかった。
今日は母親は旅行に行ってくるから家を空けると言ったし父親は相変わらず仕事。更にラストスパートとか言って最近は会社の方に泊まりっぱなし、どうせ今日だって帰ってこないだろう。
これを放任というのかは僕にはわからない、これが僕の普通だし周りの家庭事情なんて知らないから。
何かしら夕飯になり得るものを買って帰ろう。そう思って僕はコンビニに行くとそこには何故か見知った顔がいた。
どうするべきか。彼女は下を向いている、濡れないようにか壁に寄りかかっている。多分まだ気づかれていない、一体どうするべきなのか。
立ち去る、声をかける。選択肢は2つであの人じゃなければ迷わず一つ目を選んでいた。あの人だとしても平常時ならこの選択肢はなかなかに迷って一つ目を選んでいたかもしれない。
だけど今回はそうならなかった。理由はよくわからないけど多分、放っておけなかったんだと思う。
「……氷川さん」
「加々美さん……」
声をかけるとゆっくりと顔を上げ僕の方を見てくる。雨に打たれていたのか髪も顔も、服も何もかもずぶ濡れだ。
少しずつ近づくとよく見えてくる辛そうな表情。雨にかき消される筈なのに何故か透き通って聞こえてきた掠れた声。
そんな姿がなんとも危なくて、壊れてしまいそうに見えているのにどこか艶かしくて、僕の視線を釘付けにした。
数メートル、少し歩けば届く距離。そのはずなのにどこまでも遠く感じた。
雨が降り注ぐこちら側と屋根で雨が降っていない向こう側、その隙間にはどうしようもない厚い壁があるかのような感じがした。
「傘、ないんですか?」
返事はない。雨の音が嫌なくらい気になるが、何かが錆び付いたかのような匂いは不思議と不快な気はしない。
今の氷川さんは普通じゃない。狂ってるとかそういうのではなく、危なっかしい。触れれば崩れてしまう、なんとなくだがそんな風にすら感じる。
よく見れば氷川さんの近くには傘が立て掛けられている。だというのにこれ程びしょ濡れなのだ、なにもない筈がないだろう。
どうかしたんですかとか、大丈夫ですかとは言えない。放っておけなかったけど、どうにかしようとはできなかった。
崩れてほしくなかった。僕が声をかけて地雷を踏んでしまうのが怖い。
高く積み上げたジェンガやトランプタワーを崩すのが勿体ないというようなものではない、崩れたのが僕のせいであってほしくないというだけのこと。
崩れてほしくないのは確かだけどそれ以上に自分の責任になることが何より怖くて、それで嫌われるのが嫌で僕にはどうすることもできなかった。
しかし僕はその場を離れることはなかった。
やっぱり気になって夜も眠れなさそうだからとかではない。嫌われても構わない、そう思えたわけでもない。それは物理的な事のせいで。
「少しだけ……一緒にいてください」
今にも泣きだしそうな声を出し、感じられないくらい弱々しく僕の服を引っ張る彼女は、僕をその場に縛り付けた。
「……寒くないんですか?」
「……そちらこそ、コートを渡して寒くないんですか?」
「僕は濡れてないので」
あれからどれだけ時間が経っただろう。数分か数十分か、もしかしたら既に一時間が過ぎているかもしれない。
スマホの充電はこんな時に限って切れているので確認できず、コンビニ内の時計はなんとも絶妙な位置にあるせいでそちらでも確認することができない。
手を横に伸ばせばぶつかるだろう。あと少しお互いに手を出せば当たってしまうだろう。多分今はこの人と今までで一番近づいている。
側にいる間に会話は殆どなかった。全身が濡れたままで風邪を引いたら大変だと思い着ていたコートを渡してから先程まで、会話と思わしきものは一つたりともなかった。
聞くに聞けない、当然興味に近いものはある。でもそれに踏み込むことは出来ないでいた。何よりそれは僕が聞いていいものかわからなかったから。
「……家、帰らなくていいんですか?」
「今日は……帰りたくないです」
雨は勢いを緩めず降り注いでいる。滝のように叩きつける雨の音にかきけされてもおかしくない氷川さんの消えてしまいそうな声は不思議とはっきり聞こえてくる。
体にへばりつくかのような服を見て無意識に視線を引っ張られ、髪から水滴が落ちるその姿から目を離せない。
「家族には伝えたんですか?」
「いえ、まだ……」
「……心配してますよ、多分」
僕がそう言うと氷川さんは、そうですねと呟いてふらふらと倒れてしまいそうな足取りで歩き出す。
水溜まりを避けることなく踏み抜きながら進む氷川さんを見て、僕は無意識に言葉を発していた。
「今日、僕の家誰もいませんよ」
ピタリと氷川さんの足が止まった。何て事を言ってしまったのだろうか、我ながら相当に気持ち悪い。
言ってしまってからの後悔、もし僕がもう少し歳を取っていたら刑務所にさよならされていたかもしれない言葉。
突然こんなことを言って嫌われてしまっただろうか、いや、嫌われても仕方がない。
しかしそんな考えとは裏腹に、氷川さんは振り返りながら驚きと、少しだけ喜色を混ぜたような声で聞き返してくる。
「……いいんですか?」
「……氷川さんがいいなら」
氷川さんがボソリと何かを呟いたが、何故かその言葉だけ雨の音にかき消されて聞こえなかった。
立て掛けていた傘を指すと、氷川さんが右側に入り込んでくる。彼女が先程まで指していた傘は閉じられて、少し待ったがそれを指す気配はなくて。
「……傘、指さないんですか?」
その答えは返ってこなかった。大きい傘ではないのだからとても狭いがそれに対しての文句は欠片も抱かない。
ちょっとだけ濡れていく左手に不快感を抱きながらも緊張やドキドキなど、色んな感覚に襲われていた。
「珈琲しかなかったんですけど大丈夫ですか?」
「大丈夫です、ありがとうございます」
氷川さんには適当に風呂に入ったあと姉の服を着てもらった。
申し訳ないが姉の服も氷川さんの服も僕が触るわけにはいかないので自分で選んでもらったし自分で干してもらった。
しかしそうなると今日の風呂はなしになってしまう。明日の昼くらいに入ればいいだろうか。
二人で向かい合うように座ると痛いくらいの静寂がやってくる。雨の音と時計の音しか聞こえなくてテレビをつけて誤魔化してしまいたい。
そんな風に思っていると氷川さんから声をかけられる。
「何も、聞いてくれないんですね……」
「……聞いてほしいんですか?」
予想が全くつかない、ということはない。多分……日菜関連。日菜がアイドルになって、ギター担当で、もうデビューしている。
氷川さんもバンドをしていて高い目標を持っているが、それをふっとばして追い抜かした。
ギターには異常ともいえる執着を時おり見せる氷川さんのことだ、今回はかなりこたえたのだろうか。
「……優しいんですね、本当に」
心が痛む、蝕んで塗り潰す。この前も言われたその言葉は今回ばかりは喜べるものではなかった。
でも仕方がないだろう。だって日菜にギターをやることを駄目と言えなかったのも、オーディションやってみればと後押ししたのも、全部、僕なんだから。
だから氷川さんがこんな風になってるのも……全部、僕のせいだ。
「優しくなんてないですよ……少しも」
吐き捨てるように言いながらキッチンに向かう。適当なインスタントで済ませようとしていたが氷川さんがいるとなるとそうもいかない。
幸い料理が出来ない何て事はないし冷蔵庫を漁れば何かしらあるだろう。
作ったのは肉じゃが。料理アプリをわざわざダウンロードしたのだから不味いなんて事はないだろう、途中で味見したが悪くなかったし。
そう思いながら出したのだが氷川さんは食べようとしなかった。
「何か食べられないもの入ってましたか?」
「そ、その……にんじんが……」
アレルギーとかそんなものだろうか、それは大変失礼な事をした。
にんじんだけ取り出せば大丈夫だろうか、成分が染みでて~、みたいな事はあるのかもしれないけれど。こういう時に自分の知識のなさが嫌になる。
とりあえず氷川さんの器からにんじんだけ僕の方に移して食べる。
「よく食べられますね」
「……もしかして嫌いなだけなんですか?」
「……はい」
ちょっとだけ顔を赤くしてそういう氷川さんを見て思わず、あんな空気であったにも関わらずくすりと笑ってしまった。彼女は好き嫌いしなさそうだなと勝手に思っていたから。
「な、何がおかしいんですか!」
「いやぁ、意外だなって」
食事が楽しいなんていつぶりだろうか。友人と食べてる時は食事じゃなくて他の話が面白いということが殆どだし、親と食べることはあっても話は何もない。
こんな風に、楽しいと感じたのは久し振りだ。
「そういえば寝る部屋ですけど……僕の部屋使ってください」
本当なら僕の部屋ではなく姉の部屋を使ってもらいたい。しかし姉の部屋は正真正銘の地獄、アイドルのポスターやら服やら何かよくわからないものまで溜め込まれている。
僕にはそういった類の物の価値は一切わからないが姉にとってはゴミではないのだろうから、一応ゴミ屋敷ではなく地獄と呼んでいる。
「そういえばお姉さんはどうしているんですか?」
「県外の大学に行ってるので家にはいないですね」
それもなかなかいいとこの大学に、僕とは大違いだ。
姉がもっとだらしなくて頭も悪かったら僕は姉と比べられなくてすんだのに、なんて思った回数は数えきれない。
だけどそれは自分のことじゃないのだから後悔なんて何にもできないし、嘆いたって何にも変わらないからとっくに諦めた。
「あの……明日って暇ですか?」
「暇ですけど……練習とかないんですか?」
「この状態で練習してもいい方向にいくとは思わないので」
そういえばそんなこと言った記憶あるななんて思いながら会話を続ける。
初めて会った時に比べれば距離が縮まった気がする、少しだけ心を許してくれた気がする。気のせいかもしれないが、気のせいでないと嬉しい。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電気を消してソファーにねっころがる。眠れないかもしれないという不安は不思議なくらい感じない。
そんな疲れていたのだろうか、なんて考えていると気づかぬ間に僕の意識は消えていた。
次に続きます