「ここは……」
知らない天井に慣れないベット、更に少しだけ散らかっている部屋。
ここはどこだろう、そう思ったのは目が覚めて数分の間だけ。時間が経つにつれてゆっくりと昨日の記憶が戻ってくる。
彼はズルい、ズルいくらいに優しい。いくらこの時期でも雨が降っていれば寒いはずだ、それなのにコートを貸してくれた。
何も聞かずにずっと一緒にいてくれた。私が家に帰りたくないと言ったら逃げ道を提示してくれた。
傘に入れてもらった時だって私を気遣ってか、彼は少しだけ濡れていた。私が傘を指していないことに対して強くは言わなかった。
その優しさは嬉しくて心地よくて、慣れていなくて辛かった。
「加々美さん……まだ寝てるんですね」
リビングに向かうと彼はソファーに寝転がって眠っていて、今まで見たことがなかったその姿に何かを刺激される。
彼が起きないようにゆっくりと近づいて彼の顔を覗き込んだ。
「こ、こんなこと悪いですよね……」
ドキドキと心臓が高鳴るのを感じる。普段なら絶対にしないであろう自分の行動に変な感覚を覚えるがその感覚は不思議と悪い気はしない。
もう少しだけ、そう思っていると彼の目が開かれる。びっくりしてその場を飛ぶように後ずさるが彼は、おはようございますとだけ言ってキッチンに向かった。
「き、気づかれてないでしょうか……」
激しく心臓が鳴る。それはさっきまでの鳴り方とは違う。ふと先程までの行動を思い出すと恥ずかしくて顔が赤くなった気がする。
「それで、今日はどこに行くんですか?」
珈琲をこちらに渡しながらそんなことを聞いてくる、まるでなんとも思ってないかのように。
ズルい、私はこんなにも緊張しているというのに。
「……少しだけ、遠くに行きたいです」
「遠くとなると……明日は平日ですし早めに出ないといけないですね」
「……嫌じゃないんですか?」
その問いに対して加々美さんはまさか、と軽く笑って返してくる。
明日は休みでもなんでもない。いたって普通の平日、私も加々美さんも当然学校がある。
彼だって学生だ、部屋を貸して貰った時に見えた教科書から察するに多分同学年。
彼だってしたいこと、するべきことだってあるだろう。だというのに彼は嫌な顔一つせずに考えてくれている。
「……本当に、ズルいですね」
「何か言いましたか?」
「いいえ、なにも」
溢した言葉は昨日と全く同じで、昨日と同じく聞かれずに済んだみたいで安心した。
「氷川さんはこういうところによく来るんですか?」
「小さい頃に何度か、加々美さんは?」
「僕は始めてですね」
バスに揺られて一時間と少し、私達が来たのはワンちゃんとのふれあいができる公園。最近は来ていないが小さい時に来たことがあるので懐かしい気持ちになる。
思えばあの時はまだ日菜と仲がよかった。ここで走り回る日菜に迷子にならないように注意をして、私自身もワンちゃんとの触れあいをとても楽しんでいた。
「今日は雨降らなさそうですけれどなんで傘持ってるんですか?」
「降りそうな気がしたので」
私の手には傘が握られている。天気予報によれば今日は一日中晴れとのことだがなんだか雨が降りそうな気がしたので持ってきた。
空は快晴、雲なんてものは一つもない。ならば何故そう思ったのか、私にはわからない。
「それでは早く行きましょう」
時間は有限、ワンちゃんとの触れ合いの時間が短くなってしまう。せっかく練習を休んでまで来たのだ、やりたいことはたくさんある。
そう、やりたいことはたくさんある。でもその全ては彼と一緒にやりたい。手を繋ぐことができたらいいのに。そんなことすら思っていたのに私は、この手を伸ばすことはできなかった。
「氷川さんホントに犬の扱い上手ですね」
「そうですか?」
ただただワンちゃんと触れ合って楽しんだ。
「加々美さんは相変わらず嫌われてますね」
「なんでなんですかね?」
加々美さんがワンちゃんに吠えられてる姿をみて笑っていた。
「美味しいですね」
「そうですね、思ってたよりも美味しいです」
二人で休憩と言ってご飯を食べた。
「これとか可愛くないですか?」
「か、可愛くなんか……」
お土産屋さんで色々買った。
「日菜は本当に……」
「あはは、大変そうですね」
「加々美さんは振り回されてないですか?」
「まぁ……ええ」
日菜の事で話し合った。
「今のバンドはどうなんですか?」
「やはり意識が足りてません、頂点を目指すというのに……」
Roseliaについて話した。
「氷川さんは真面目ですからね」
「そうですか?」
「いや、そうですよ」
私について話した。
「加々美さんは優しいですよね」
「……そんなわけないですよ」
彼について話した。
夢のような、考えられないような幸せな時間も終わり。バスを降りると加々美さんは疲れたのか、酷くぐったりとしている。
この人は本当に男の子なのだろうか。そう思ってしまうほど体力がない、そして気を許すことが出来る。それでも本当に男の子なんだなと、この気持ちが嫌でもわからせてくる。
「今日は楽しかったです」
「そんな疲れた声で言われても説得力ないですよ」
「楽しいから疲れたんですよ」
そう言う彼は嘘をついていないんだなということはわかる。私も楽しかった、今までないくらいに楽しかった。
だからこそ私はあることを決めた。今までもうっすらと決めていた事、だけど言い出せなかった事。
でも言わなければいけない。昨日助けられて、今日一緒にいてそう決めた。
「加々美さん」
「なんですか?」
日は落ちて通る人は少なくなっている。口が開かない、言ったら駄目だと体が止めてくる。
私だって言いたくない、でも言わなくてはならない。覚悟を、決めなければならない。
冷たい風が、背中を押した。
──もう私と、会わないでください。
周りの木々がざざっと揺れる。辛い、苦しい、なんでこんなことを言わなければならないんだ。ほんとはこんなこと言いたいはずもない。
だけどこれ以上彼といたら私は彼の
私にはギターしかない、Roseliaに全てを賭ける覚悟はもうできている。それなら私は今最も大切なものを捨ててそれを証明しよう。誰にでもない、私自身に。
「そう……ですか」
弱々しい声はいつもと違っていて、悲しんでいることが伝わってくる。それだけではない。驚きも含み、それでいてやっぱりといった風なものも感じ取れた。
悲しんでいるのは友達だと思っていた人にこんなことを言われたからだろうか、それとも仲のいい人の姉にこんなことを言われたからだろうか。
もしかしたら……いや、それはない。彼には日菜がいるのだから。どうにせよ罪悪感が溢れてくる。
「理由も……聞かないんですね」
彼からは何の反応もない。察しているのだろうか、聞きたくないだけなのだろうか。それとも私に言わせないためなのか。
その優しさは甘い密、深い毒。花の匂いに誘われた蝶のように私を魅了する。
「最後に、名前で呼んでください……」
それは未練なのだろうか、この気持ちに区切りをつけるためだろうか。
もしかして日菜は名前で呼ばれているのに自分は名字呼びなのが最後の最後に気になってしまったのだろうか。
空白の時間が肌を突き刺してきて痛い。そして彼は深呼吸をして、告げる。
「紗夜……」
その言葉には不思議な魔力があった、思わず目を瞑ってゆっくりと噛みしめる。
ああ、この暖かいものはなんだろう。わからない、どうして呼び方一つでこんなにも心が安らぐのだろう。どうしてこんなにも、後悔を増幅させるのだろう。
「さようなら」
この場を早く離れたい、長く居たらこの気持ちが折れてしまいそうだから。それなのに足は動いてくれない、この場所から動きたくないと体が訴えているみたいに。
そんな私と対照的に彼は何も言わずに去っていった。何故そんなにもあっさりと去れるのか、浮かんだ怒りと悲しみは長くは続かず私を包む後悔に切り替わる。
嘘ですよと言え、追いかけて手を掴んで言えと心が囁いてくる。足が私を戻そうとしてくる、闇が手を引っ張ってくる。それを切り裂きながら私は足を進めた。
その日、私の生活から『加々美悠』という人物は消えた。
その日、私の記憶から『加々美悠』という人物は消えてはくれなかった。
傘を持ってきてよかった、やっぱり雨が降っている。
周りの視線が痛いくらいに突き刺さる、なにもおかしなとこなどありはしないのに。
さようならを言ったのは私から、だからこんなことはありえない。傘を指しているのに頬が濡れる、どうしてだろう。傘に穴は空いているわけではない。
傘から音がしない、雨を弾く音が聞こえてこない。おかしい、こんなにもどしゃぶりなのに。
後悔がないなんてわけがない、間違えてるのかどうかもわからない。空に浮かぶ星は滲みきって黒に濁っている。
これは雨のはずだ、雨でなければならない。これは雨なんだ。自分に言い聞かせるかのように、そう呟いた。
雨が降っているのは私だけ、周りは一滴たりとも濡れてはいない。
雨が降っていないのは私だけ、周りはどしゃ降りの後のように濡れている。
雨を止めるために、空を見上げた。
ああ、もうなにも考えたくない。空っぽでありたい。
Roseliaと頂点を取ればポッカリと空いた何かは満たされるだろうか、こびりついた記憶は消えてくれるだろうか。
頂点を取った時、その時私は忘れられるのだろうか。彼のことを、この気持ちを。好きだというこの気持ちを。
明日になったら何もかも忘れていればいいのに。たまたま見えた流れ星に、私はそう願った。
妖怪感想乞食と申す