「……なんで朝ってこんなに気持ち悪いんだろ」
朝というのはなんでか気持ち悪い、それはこの世に生まれてかなりの時間経っているというのに毎日のように感じているもの。
だからその気持ち悪さには慣れている筈なのだけど、今日の気持ちの悪さは特別強い。
顔を洗って少しでも取り払うかと立ち上がろうとするが、そうすることすら億劫なくらい気怠さを覚える。
「……もしかして」
右手の甲を額に当てる。そうならどうかと願ってしたことはあるけれど、もしかしてとやったのはいつぶりか。
当ててみて、ああたしかに熱いかも、なんてわかるはずがない。体温計ってどこにあったっけと探して、案外勘が当たるものですぐに見つかったのですぐさま計ってみる。
「あー……」
表示された数値は平均よりも高い。学校休むのめんどくさいな、なんでよりにもよって今日なのか、なんて考えながら冷蔵庫から飲み物を取り出す。
行けるか行けない、どちらかと言われたら行ける。だけど行くべきか行かないべきかと言われたら後者なのだろう。
あまり休みたくはないが、他人に移すなんて起こしてしまったらそっちの方が問題か。
気が進まないままに学校に連絡をし、何をしようかと思いながら布団に戻る。
いつもなら紗夜さんと学校に向けて歩いている時間、今日は会えそうにないなと寂しさを覚えていると、スマホがメッセージが送られてきたことを知らせてきた。
『もしかして、まだ起きてないんですか?』
あれほどだるかったのがまるで嘘かのように飛び起きる。まさかと思い制服に着替え玄関まで行き、扉を開けようとしたところで、今の自分は病人なんだということに気づく。
『熱を出しただけですから気にしないでください』
『熱って、大丈夫なんですか?』
『大丈夫ですよ、大したことないですから』
扉を開けたら彼女が、なんてことを考えて、流石にそんなことはないかと自分の部屋に戻って数分後、お大事にしてくださいと彼女からメッセージが送られてくる。
わかりましたと返信して何をしようかと考える。気怠さもほんの少しで、先程のせいで眠気は欠片も残らず消えてしまった。
暇なのだししなければいけないこともない、であるからゲームをしていればいいのは事実だがなんだか気が乗らない。
なら勉強でもしようかな、そう考えた自分自身に驚かされた。自発的に勉強しようかななんて、軽く思っていたけれどこれは相当な風邪かもしれない。
ああでも悪いことじゃない、思いついたのだからすぐやろう、なくなってしまう前にやろう。そう思って勉強道具を取ろうとして、急に今まで全く気になっていなかった部屋の様子が気になり始めて。
部屋の掃除を済ませてからやろうと考え、結局変わってないなとため息がこぼれた。
暗闇から吊り上げられるようにして目が開く。どうやらいつの間にか眠ってしまっていたようで、机の上には手をつけようという痕跡が見られる勉強道具が。
結局やんなかったな、なんて考えながら僕の意識を釣り上げた鳴りっぱなしのスマホを手に取る。
『ねぇねぇ悠君、この後つぐちゃんのお店行こ!』
元気そうな声が寝起きの頭によく響く。少しだけクラリとしたのは気のせいだろう。
「ごめん、今日は行けそうにないや」
『……珍しいね、友達と?』
「いや、熱出しちゃってさ」
『ふーん、悠くんが熱だなんて珍しいね』
日菜はうーんと、電話越しで悩んでいるかのような声を漏らす。
何か用事でもあったのか、だとしたら申し訳ない。暫くするとそうだ、と彼女が声を出す。
『悠くんの看病、行っていい?』
「……いや、駄目でしょ」
「なんで?」
『なんでって、移ったら悪いし』
当然だ、熱がある人のところに行くものじゃない。
『でも悠くんさ、前あたしが風邪引いた時来てくれたよね』
「あれは……」
それを言われると苦しい、なんて言おうか迷っているとそれじゃと言って電話を切られる。
マスクはどこにあったか、最後にマスクをつけたのなんていつかわからない。だけどこの前親がマスクを取り出していたのを思い出してマスクを見つける。
日菜が来るまで後どれくらいか、少なくとも暇になることは間違いないだろう。
「今日なんかあったかな……」
僕が熱を出したのがそんなに珍しく思えたのか、何かしらの用があったのか。思いつくことはないけれど、彼女はそうなのかもしれない。
取り敢えず着っぱなしだった制服から着替えて、何もする気が起きなくてソファーに寝転がること数十分。全く音がなく、そろそろ眠ってしまいそうになっていた頃にインターホンが鳴った。
「やっほー悠君」
「……ほんとに来たんだ」
「嫌だった?」
まさか、そう言いたいし事実嫌なはずがない。でももし移してしまったら、そう考えてしまうと素直に喜べない。
扉を開けた先にいた彼女は私服姿で、手には袋を一つ持っていた。
「まさか悠君が風邪ひくなんてね」
「僕もひくとは思わなかったよ」
「馬鹿は風邪ひかないから、なんて言ってたのにね」
もしかして馬鹿じゃなくなっちゃったのかもね、なんて言ってくる。もしそうだとするなら日菜と紗夜さんが勉強を教えてくれたからだろうか。
日菜は僕の事をじっと見ている。彼女にしては珍しく会話が続かず、どうしたものかと思案していると、ねぇと声をかけられて。
「膝枕、してあげよっか?」
「……急に何言ってるの?」
「今日何の日か、わからないわけじゃないでしょ?」
今日がなんの日か、ないはずだと思っていたのに何かあるのだろうか。何も約束はしていないはず、であればそういう日なのかと思ったけれど、膝枕の日なんて聞いたこともない。
全くないわけじゃない、でも日菜ととなるとわからない。思い浮かばないから黙っていると、大きなため息が目の前から聞こえてきた。
「覚えてないんだ」
「……ごめん」
「謝ることじゃないよ」
日菜は正座して手招きしてる。彼女から目をそらしてカレンダーの方を見るとしょうがないなぁと聞こえてきて、彼女は足を崩していた。
「去年みたいなこと、してほしいの?」
「去年って……」
「あたしはどうかな~って思ってたけど……悠君がしたいのなら、いいよ?」
彼女は唇に指を当てる。その動作の意味するところ、僕の思い違いでなければ恐らく。
熱のせいだろうか、なんだか熱くなってきた。動けない、喋れない、ただ受け入れることしかできない。心臓が鳴りだして暫く、彼女は急に笑ってこう言った。
「冗談だよ、悠君だってしたくないでしょ?」
「……」
口でならなんとなく言える、頭の中でなら何とでも思える。ただ体がそれに従ってくれるかはまた別、自信はない。去年のこの日のこと、思い出すと顔が赤くなり始めるし、胸がしめつけられそうになる。
顔を見せた思考、それが膨らみ始めそうになった時インターホンが鳴ってそれをしぼませた。
親が帰ってくるのはだいぶ遅いと言っていたし宅配だろうか、玄関に向かおうとして日菜に止められる。
「あたしが出るよ」
「いや、どうせ宅配だろうし僕が出ないと……」
「おねーちゃんを呼んだんだよ、それで入れ替わりになろうかなって思ってさ」
「……何か予定でもあるの?」
「別に。でも悠君はそっちの方がいいでしょ?」
折角の誕生日なんだし、そう言われて声を漏らした。やっと気づいた? なんて言われたけれどそっちの方はすっかり忘れていた。
日菜なりの気遣い、受け入れた方がいいのだろう。でも、でも、立ち上がって玄関に向かおうとする彼女を呼び止めた。
「……いいよ、帰らなくて」
「なんでって、聞かない方がいい?」
「……プレゼント、まだもらってないからさ」
数秒の間ができて、その後彼女の笑い声が聞こえてきた。彼女は袋を置いて玄関に向かい、紗夜さんと一緒に戻ってきた。
「……こんにちは」
「こんにちは、元気そうで安心しました」
何か飲み物を取ってこようと思って冷蔵庫に向かおうとして、私がやりますと紗夜さんが取りに行ってくれた。
誕生日、一年の内一度しかないがそこまでの特別さは感じない。今まではそうだったけれど……今日という日、それがたまたま、ではないけれど誕生日と同じだからそういうわけにもいかなくなった。
これを知っているのは僕だけか、紗夜さんを見るとこそこそと二人で話していて、話し終わったのか僕に向けて二人共袋を渡してきた。
「誕生日おめでと、悠君」
「おめでとうございます、悠さん」
「……ありがとうございます」
なんだろう、表し方が思いつかない。簡単に言えば嬉しいで済むのだろうけど、それじゃ足りない。爆発しそうとか、溶けてしまいそうとか溺れそうだとか、そんな複雑なものじゃないし、それでもまだ足りない。
「本当はケーキとかも買いたかったのですが……」
「おねーちゃん、つぐちゃんのお店で手作りしたかったんだもんね」
「日菜!」
「あはは、でも明日そうすればいいんじゃん、悠君って明日は暇?」
「暇だけど……明日かぁ」
明日じゃ熱が引いてるかわからない。それもあるが今気持ち悪さはないし恐らく大丈夫だろう。でも問題なのは明日ということで今日じゃないこと。
それでも今日はもうしょうがないようなもの、風邪をひいた自分が悪い。そう思っているとほらね、と日菜の声が聞こえてきた。
「悠君が忘れてるわけないって言ったじゃん」
何も言わない。何の事かはわかっている。紗夜さんは少し顔を赤くして、僕もつられるように赤くなって、消えてしまいそうな声で話しかけられた。
「今日がなんの日か……わかっているんですか?」
「……ええ、まぁ」
「誕生日なことはすっかり忘れてたくせにね」
付き合い始めて一年目、それを忘れるわけがない。でもなにもすることはない、できない。ほんとは考えて、くれていたのかもしれないけれど、僕が熱を出してしまったから。
情けない、本当に自分が嫌になる。
「そういえばプレゼント、見なくていいの?」
あぁ、折角のこんな日に悪い事なんて考えたくない。ちょっと沈んだ気持ちでも二人からもらったプレゼントを見れば吹き飛んでしまうことだろう。
二人から渡された袋の中を見る。日菜からはアクセサリー、今年僕が贈ったのがそれだから合わせてきたのか。ただ僕が贈ったものよりずっと高そうでなんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
そして紗夜さんからのプレゼントは……ギターのピックらしきものだった。
「これは……」
「その……何を渡したらいいか全くわからなくて……」
「おねーちゃん、ほんとは自分で作ったケーキをプレゼントにしようと思ってたんだもんね」
「……最近買い替えまして、それは前に使っていたものなのですけれど……貰ってほしい、と思いまして……」
もうしわけありませんと言って彼女は顔を伏せる。日菜の話を聞く限り謝るべきは紗夜さんじゃなくて僕だ、それにこれも嬉しくないはずもなくて。
「プレゼント、ありがとうございます」
「明日、おねーちゃんからの本当のプレゼントが待ってるからね」
「そんな期待されるほどのものじゃないわよ」
「紗夜さん」
付き合って一年。長いようであっという間。終わりは今のところ見えていない、これからも終わりは訪れそうにない。
なんでしょうと言われて大きく息を吸う、マスクがあるから少し苦しい。
思った回数はもう数えられない、だけど言った回数は数えてないけど数度しか。それでいい、お互いにそうだとわかっている、なんかじゃよくないだろう。
それはそう、思いというのは、言わなければ伝わらないのだから。
「大好きです」
ああ、また熱が強くなった。日菜はニヤニヤとしていて、紗夜さんはよくわかっていないのか細切れに声をもらしている。
「わ、私も……悠さんの事は……大好きです……」
顔が赤い、もしかしたら熱を移してしまったかもしれない。もしそうなってしまったら謝っても謝り切れないだろう。
いったいいつまで僕らはこんな風でいるのか、こんな日常はいつまで続けられるのか。少し怖さはあるけれど全く不安はない。
この日常が終わったらどうなる? ただ新しい日常があるだけだ。そこにいるのはきっと僕だけじゃなくて……
また明日、そう言い続けられる事が、きっと一番の幸せなんだろう。