「やあ、これは珍しい」
投げられた言葉に目を向けると、彼がそこに居た。…いや、いた気がした。寝ぼけているからだろう。
「……どうかしたかな、ミス・ダ・ヴィンチ」
「いや、何でも無いよ、ホームズくん」
出来るだけ素っ気なく答える。窓の外は雪だ。吹雪いていないのは珍しい。
「なに、少し寝付けなかっただけさ」
「ふむ……いかな天才とは言え、感傷に浸ることもあるようだ。コーヒーはどうかな」
「……いただこう。本当に嫌なやつだな、君は」
ハハ、と軽く笑うホームズ。嫌味が全く感じられないところが嫌味ったらしい。計算尽くの行動だろう。コーヒーに口をつける。安物のインスタント。ミルクも砂糖もないブラック。眠れないってのになんでブラックコーヒーを渡すのか。
「いやなに、指揮官代理様の苦悩をわけあおうと思ってね」
「稀代の名探偵様にしては殊勝な心がけじゃないか」
「賞賛として受け取っておこう」
フンと鼻を鳴らし、露骨に嫌悪の表情を浮かべる。世界一の美貌が台無しだぞ、などと吐きやがるこいつを、今ほど恨めしく思ったことはない。ホームズはといえば、何事もないかのように空いている椅子を引き出して、いつの間にか私に向かって座っていた。この状況にも郷愁に似た思いを感じる自分も憎い。
「さあ、話してみたまえ。今だけは君の専属精神科医だ」
ため息をつく。こいつ、私の悩みが解ってて楽しんでやがるな。じっとしていても、どこにも行かないだろう。全く、天才が解っててふざけている時は本当に手に負えない。観念してとっとと厄介払いをするのが一番だろう。ポツポツと語り始める。一人の凡人が天才に相談するように。…彼のように。
「………彼をね、思い出していたんだ」
この時期だった。忘れられようもない、終局特異点・冠位時間神殿での出来事。私は……いや、私達は、敬うべき王を、偉大な英雄を、そしてかけがえのない友人を失った。どんなに悔やんでも、どんなに言葉を尽くしても、どんなに感謝を捧げても、もう彼は帰ってこない。
「………最近、そうだな、武蔵ちゃんが現れた頃からかな。彼の顔が、思い出せないんだ」
ぼんやりと霧が掛かったような、深い陰が落ちたような。彼はもう、この世界の、………どの世界にも居ないんだと、そう言い聞かせられているような。
実感はある。理解もしている。受け入れている。この目で見たから。この耳で聞いたから。……だけれども、彼が、彼の声で、彼の手で、彼で、ひょっこりと、こともなげに現れるのじゃないかと、ここにいるとそんな幻想がついて離れない。
「その紙の束は」
「うん、どうにか引きとめようとね。頑張ってみたけど」
そう、カルデアの職員から――マシュやフジマルも含めて――人相を聞き出して、あるいは、彼の映る写真――はっきりと映るものはなかったけれど――を引っ張りだして、紙上に表してみようとした、その残骸たち。どれもこれもそんな気もするし、そうでなかったような気もする。全く不思議なもので、四年間ずっと顔を突き合わせていた――あの二年足らずの期間は特に――ように思えて、彼の顔を確りと思い出せるほどには見ていなかったようだ。なぜ消える前に一枚でも肖像画を残さなかったのかと、過去の愚かさを悔やむ。
「万能の天才の名前は返上しなきゃならないかな」
力なく笑う私の声を、ホームズは黙って耳を傾けている。ホームズの口から漏れる紫煙の匂いが、甘く私を酔わせる。まるでアルコールだな。身震いを一つする。
「………実を言うとね、私は怖がっているのかも知れないんだよ」
彼の顔がわからないことが。彼の声が聞こえなくなることが。彼の存在をなくなることが。いや、もっと単純な……彼との縁がなくなることが……。
コーヒーはすっかり冷めて、でもまだ半分以上残っている。窓の外を見ると、まだ雪が静かに振っている。
「……淹れ直そう」
ホームズが立ち上がる。ちょっと遅いくせに、気付くとすぐに動いてくれる。
「ああ」
思わず声が漏れる。自分でも聞いたことのない声色。弱々しい女の声。皆が拝んだことのない名探偵様の貴重な表情が見れたぞ。記憶しておこう。
「うん。そのまま。……しばらくそこにいてくれないか」
「君が望むのなら……どうせなら砂糖はどうかな」
どこからかグラニュー糖の袋を取り出す。探偵の他にもマジシャンを営んでもいるようだ。だが、もう少しこの寒さに見を包んでいたい。首を少し振って拒否する。そうしても手に取れるところに置いてくれるのも、なにかを思い出させるような。
黒い液体を口に含む。不快な酸味と苦味が、蕩けそうな脳を刺激する。まだ起きていられる。窓の外を見ると、雪はまだ降り続いていた。夜が明ける気配はまだない。この霊峰は万年冬だ。天文台、なんて言っておきながら星が見えたことなんて殆ど無い。
「せめて星のひとつでも見えたらなあ」
退屈しのぎにもなるだろうに。ちらちらと降る雪は、そんなことお構いなしに真っ暗な空からやってくる。そう言えば、昼間にはマシュとフジマルが連れ立っていたな、職員たちにも外の空気を吸わせてやらないと、後どれくらいいられるだろうか。とりとめもない考えが、浮かんでは消えていく。
「ふむ……」
ホームズが不意に声を漏らす。
「時に、ミス・ダ・ヴィンチ。その感情がどのようなものかは、正確にはわからない」
「やぶ医者め」
「だが、『あの女性』に対して私が抱いたものと、そうは変わらないだろう。それは我々にとって精神活動を妨げるものだ。それを克服するための一助として、どうだい、試してみるかな。君の時代にはなかったものだ」
そう言ってパイプを差し出してくる。彼の使っているものとは違うものだ。中には白い粉が入っている。悪い冗談だ。一九世紀のものなら質が知れている。
「いただこうかな」
興味はあったので手を伸ばすと、ホームズはその手を引っ込めた。その顔は些か憐憫を浮かべていた。
「意地悪をするな。勧めたのは君だろう」
抗議をすると、ホームズは呆れてものも言えない、とでも言うように大きくため息をついた。
「これは確かに、凡人にとっては毒だが、我々天才にとっては薬だ。だが、その心を健全に保つ構えのあるときだけだよ、ミス。今の君がそこまで弱っているとは思わなかった。謝罪しよう。もう眠ったほうが良い」
なんて自分勝手なやつだ。というか他人に麻薬を勧めるな。少々不機嫌になりながら、残ったコーヒーを一気に煽る。これで目も覚めるだろうと思ったが、存外疲れていたようだ。身体を動かすことも億劫になってきた。仕方ない。
「そうだね。忠告に従って、今日はもう寝床に行こう」
「ああ、お休み、ミス。君に安らかな夜が訪れることを願うよ」
大きくあくびをして、部屋の電気を消した。窓の外は、雪の音も消えていた。