――その日の以蔵は虫の居所が悪かった。
何ということはない。最近は騎乗兵の育成が必要ないのだ。種火も十分、輝石も素材も潤沢。そしてここ最近は、ライダークラスが召喚される兆しもない。となれば必定、アサシンクラスはお役御免である。普段、「クラスは『人斬りじゃ』」とうそぶく以蔵も、マスターからお呼びがかからなければ暇になる。
そういうわけで、以蔵の虫の居所はすこぶる悪かった。
(暇じゃのう……)
以蔵は歩いていた。暇をつぶしているのである。最近は体を動かさないので、ろくに眠気が襲ってこない。というわけで、暇をしていたのだ。
日本にいるときならば、どこかのバカがぶつかってきたり、蔑んだ目で大名付きの侍が見てきた。そういう奴らを斬っていれば、そのうち酒に酔うように寝れたのだ。何より、楽しかった。蔑んだ目が涙をためるその瞬間、それこそが楽しいのだ。己の技を振るう瞬間、己の業を振るう瞬間。それこそ、以蔵の「楽しい」ひとときであった。
ふ、と風を感じた。
穏やかな風だ。気がつくと草原に足を踏み入れていた。月が美しい。
「ちょうど一人は退屈していたところだ」
飄と、男の声がした。見ると盃を上げている。
「どうだ、一献」
佐々木小次郎と呼ばれる男だった。
「なんじゃぁ、誰かと思うたら、お前か」
「うむ、稽古をしていたのだがな、どうやら日没に気づかなかったらしい」
「そいで、なして酒盛りになるがか」
「月も風も美しい」
それで十分ではないか、男はそう言って笑った。
正味、この男は以蔵にとって不愉快であった。なぜかはわからないが、できる限りこの男と同じ空間にはいたくないという気持ちがあった。一挙手一投足が以蔵の癪に障るのだ。故に、憎まれ口は自然に口をついた。
「棒きれ振りはこがいな遅うまで稽古をつけんといかんがか。精が出るのう」
「うむ、私にはこれしかない故なぁ」
「そいで負けとるんじゃ世話ないのう」
「いやぁ、はは、これは痛いところを突かれる」
苛々はすでに臨界点を突破しようとしていた。この男は以蔵の言葉を聞いているようで聞いていないのだ。それは無視していることと同義である。以蔵は無視されること、馬鹿にされること、要するに見下されることを最上の侮辱としていた。
「鍬も持たんと、農民風情が侍の真似事か」
チリ、と視線を感じた。一瞬だが、怒った、この男は以蔵の言葉に怒ったのだ。それに気を良くして、更に言葉を続ける。
「いくら佐々木小次郎ちゅうても、所詮は武蔵に競り負けた。結局は口先だけの田舎もんっちゅうことじゃな。鍬でん振っち、田んぼでん耕しとりゃ恥もさらさずに長生きできたっちゅうに」
言葉を紡ぐごとに、静かだが、確実に苛つきが溜まっていることがわかる。とどめ、ダメ押しとばかりに言葉を続ける。
「剣の腕もなまくらな、武者気取りじゃ」
「……小僧、そろそろその無粋な口を閉じるといい」
さっきまでの軽口がなくなる。
「なんじゃ、腹でん立ったか? そいつは悪いことをしたなぁ」
「うむ、お前のことはよくわかった。今立ち去れば血を見ずに済むぞ」
怒っている! この男が、さっきまで無視していたこの男が自分に注意を向けている! そのことが以蔵を高ぶらせる。もう人ひと押しだ。
「血を見る? お前のか? 真逆、わしのじゃ言うつもりじゃぁないき?」
フゥーと男が息をつく。確実に激昂しているが、それを鎮めようというのだ。
(こいで終わりよ)
佐々木が目を伏せ、まぶたの確実に降りた刹那であった。
血しぶきが舞った。草原に血が滴った。かに思えた。
「小僧、喧嘩を売る相手と時は選べよ」
佐々木の声には静かな怒りが秘められていた。以蔵の剣はいなされていた。斬ったと思ったのは以蔵だけであった。
「さぁ、死合おうぞ」
佐々木の剣はすでに抜刀されていた。
一撃、二撃、一撃、二撃。月光の草原でチャンバラが繰り広げられている。以蔵はあらゆる剣術を以て四方八方から斬りつける。対する佐々木はそのすべてを躱し、いなし、流し、受け止める。
以蔵は楽しかった。刀を、技を振るうことは楽しかった。侮辱されたものを相手取る時は特に楽しかった。そして、妙なことだが、以蔵にとって佐々木を相手取ることは、これまでで最上に楽しかった。
佐々木の口は一文字に引き結ばれている。この風雅な夜を、何より自身の生涯と誇りをかけた業を嗤われたのだ。佐々木は無名の農民であったが、空をかける燕を相手取ったその日々は確実に彼の業であり誇りであった。
「はっはー! どういたどういた! その程度か佐々木小次郎! 矢張り所詮は鍬振りっちゅうことかの!」
「舌を噛むぞ。黙っていろ」
佐々木が振りかぶり、袈裟に切る。その剣筋は美しかったが、単純故に以蔵の敵ではない。余裕を見せてするりと躱す。返す刀で横一閃。佐々木も上体を曲げて躱す。空かさず返し斬り。踊るような体捌きで佐々木は以蔵の半身を捉える。下段からの斬撃を後ろにはねて避ける。その勢いのまま前方にはねて突き。佐々木は剣をくぐらせて跳ね上げるが、問題なく対策。
決着の見えない戦いとなった。すでに何十と切り結んだかしれないが、両者に汗の一つもなく、血液の一滴もこぼれない。静寂の草原にいつまでも剣戟が鳴り響く。以蔵は常に笑い声を上げ、嵐のように剣を振るったが、対称に佐々木は口数も少なく、美しく剣閃を描いた。
「わしと切り合ってここまで生きとるとは驚きじゃ。農民にしては、すこぉしはやるようじゃの」
「お前の剣技は目を見張る物があるな」
「ふん、今更じゃがの」
「だが、剣士としては下の下のようだ」
またか、と以蔵は舌を打つ。佐々木は口数は少ないものの、以蔵の神経を確実に逆なでしていた。その程度で鈍るような腕ではないが、それでも不愉快なモノは不愉快だ。
「ハン、偉そうなことじゃ。貴様が佐々木小次郎じゃ言うても、奥の手は使わんのじゃなく、使えんと違うのき?」
「見せてやってもいいが、気が乗らんな」
「そうかい。『撃剣矯捷なること隼のごとし』と謳われたわしに、いつまでも勿体ぶりは通用せん!」
以蔵の渾身の一撃も佐々木は難なく躱す。
「隼、燕よりは斬りやすそうだ」
ここに来て初めて佐々木は笑みをこぼした。さらに以蔵の怒りは加速する。激しい楽しみと激しい怒りとで、以蔵の頭はすでに佐々木を斬ること以外には何もなかった。
佐々木にとって、以蔵はどんな存在でもなかった。佐々木にとってはどのようなものも居ても居なくても変わることはない。だが、この戦闘を通じて、佐々木にとって以蔵は嘲笑の対象へと替わっていた。一人でただ黙々と燕を相手取り、蝶よ花よと過ごしていた佐々木の目には、自身の技を誇りながらも他者の評価に異常に執着する以蔵が哀れで滑稽に写ったのだ。
(さながら猿回しよな)
その思考に至ると、どうにも笑いが止まらなかった。
「何じゃぁ、さっきまではしかめちょったのが、急に笑い出すなや」
「なに、あまりに滑稽でな。気にするな」
滑稽と嗤われた以蔵はいい気はしない。その口は釣り上がっていたが、すでに目は見開かれ、額の青筋はすでにはちきれんばかりであった。
「こいが気にせんでおられるか!」
叫び、渾身に刀を振り下げる。一撃必殺の剣を飄々と避け、距離を取る佐々木。
「興が乗ったぞ、坊主。受けてみるか」
「あぁ!? 貴様の言うちょることはいちいちいらつくんじゃ!」
逃さじとばかりに以蔵は追いすがる。佐々木は刀を振り上げ、それを待ち受ける。
「秘剣、――」
瞬間、以蔵の首が飛んだ。いや、首だけではない。心臓は二分され、胴は裂かれていた。月光を赤く染め上げた。
以蔵の首筋に刃がピタリと当たっている。風が吹くと、以蔵は全身から冷や汗が吹き出しているのが自覚できた。剣を持つ手が震えている。ガチガチと奥歯が音を立てる。「恐怖」が以蔵の体を支配していた。
「なんじゃぁ……」
「見たがっていたのでな。『出血大サービス』というやつだ」
佐々木はゆうゆうと剣を収める。最早勝負有り、今宵の試合は佐々木小次郎に軍配が上がった。
「次は酒を酌み交わす雅を持ち合わせろよ、始末犬」
言い残し、後には以蔵が残される。膝が笑うが、力を抜けば腰が抜ける。先程の剣は何だったのか、目でもう一度思い出そうとするが、全く見えない。
ただ、ぬるりとした不気味な剣筋のみが目に焼き付いていた。