年の瀬が迫り、師走と呼ばれる月になったその日、阪神レース場ではルーキー女王を決めるGIレースが行われることになっていた。
阪神ジュベナイルフィリーズというそれを目当てに、朝のうちから多くの客が詰めかけ場内はごった返していた。圧倒的一番人気に支持されていたニシノフラワーや、対抗馬としての声が高いシンコウラブリイ、サンエイサンキューといったウマ娘たちの名前が至る所で飛び交っている。
そんなお祭りムードの中で、おそらくほとんどの客は見向きもしていないであろうお昼休み前の第5レースに彼女の姿はあった。芝でもダートでもない、基本的にそれらで通用しないと言われたウマ娘たちが最後にすがる、障害レースを走るためだ。
「・・・最後は5番、一番人気のメジロパーマー」
このレースで圧倒的支持を受けていた彼女──メジロパーマーは、アナウンスと共にやや暗めの茶髪ロングヘアーを後ろで束ね、障害レース特有のプロテクターを両腕両膝につけた姿でパドックに現れた。
障害ではまだ1戦しかしていなかったが、転向初戦の勝ちっぷりは見事なもの。ジャンプが不安定ではあったが、道中の脚の違いで後続を寄せ付けなかった。これだけの支持も頷けるというものだ。
そして何より、パーマーには障害レースを走るようなレベルとは思えないくらいに平地での実績もあった。
パドックでのパーマーは、遠目からでも分かるくらいに元気がないように映った。しかし前走もそのまた前走も、というよりここ最近ずっとパーマーはこんな感じだったので、熱心に全レースを見ているような客の中には、気に留める者はいなかった。
「・・・ははっ」
小一時間が経ち、レースは終わった。ゴール後、息を切らし膝を手についたパーマーは思わず笑みを零した。嬉しいからではなかった。
「わたし、何やってるんだろう・・・」
このレース、パーマーは2着に敗れた。
(「わたし、何やってるんだろう、か」)
地下バ道を歩きながら、さっき不意に出た言葉をリフレインする。
今年は夏の北海道で重賞を勝ち、嫌になるくらい強い同期たちには遥かに及ばなくても、自分の中で力はついてきたような気はしていた。しかし半年が経ち年の暮れが迫ってきている今、自分で思い込んでいた強さは明確に否定されている。
夏に一瞬晴れた心は今、それ以上の闇で埋め尽くされていた。
そして何より、障害レースを走ることは自分の本意ではなかったのだ。決して障害レースをバカにしているのではない。しかし飛越が下手っぴで、平地の力だけでまわりの娘と勝負しているのは自分でも分かりきっていた。今日は障害の度に失速し前を捕まえきれなかったし、走る能力は障害レースを走るウマ娘の中で抜けていても、根本的に向いていないのは明らかだった。
平地の方が自分の力を出せる。しかし諦めざるを得なかった。いや、諦めさせられたのだ。
(レースって、走ることってこんなに苦しかったっけ?)
「レースって苦しいなあって顔してるね」
後ろから心の中を見透かされたような言葉が飛んできて思わず振り返る。もしかして声に出てしまっていただろうか。
そこには着崩したスーツ姿の男が、薄い顎髭をさすりながら顔だけをこちらに向けて立っていた。身長も恰幅も平均くらい、歳は20代半ばといったところだろうか。
「・・・わたしに何か用ですか?敗者に用なんてないでしょ?」
ぶっきらぼうに吐き捨てる。今は誰とも話したくなかった。
「いや、そんなに苦しそうに走る娘なんてスタミナ切れ以外で見たことなかったからね」
「そうですか、まあ年頃の女の子にはいろいろあるんですよ」
「うちのチームにも年頃の女の子いるけど、ずっと楽しそうな顔してるけどなあ」
「ウイニングライブがあるんでもういいですか?一応2着なんで」
なんだか苛立ってきたので会話を終わらせようとする。何よりこの男(うちのチーム、と言っているので一応トレーナーだろうか)、絶妙に胡散臭い。関係者パスを下げて地下バ道にいるので不審者ということはないだろうが、あまり関わりを持ちたくはない。
「・・・じゃあ最後にいいかな」
「・・・」
「なんでキミ、障害レース走ってるの?自分の意志じゃないよね?」
許可してないのに質問を投げかけてくる。そしてその質問は嫌になるほど核心を突いていた。
「・・・それが家の考えなので。『メジロ』の家のね」
それ以上、何か声が返ってくることは無かった。
ウイニングライブを終え、今日のメインイベントであったGIレースを見ることなく学園寮に戻った。ベッドに腰掛けてテレビをつけると、一番人気だったニシノフラワーが圧勝したことをアナウンサーが興奮気味に伝えていた。
なんとなくいたたまれなくなってテレビを消す。晴れてルーキー女王となった彼女は目が輝いていて、インタビュー内容は来年の桜花賞・オークスへの抱負を語る、希望に満ちたものであった。今のパーマーは、それを直視できない。
ため息をひとつついて、ベッドへ思いっきり四肢を投げ出す。
苦しそうな顔をしてる、と言われたことが未だに頭の中をぐるぐるしていた。そしてそれは純度100%の事実である。
だって今、わたしはレースが全然楽しくない。苦痛でしかない。
昔は走ることが楽しかったし、なかなか勝てなくてもレースを元気に走っていた。
しかし、同じ『メジロ』の名を持つ同い年の2人は強すぎた。必然的にわたしは家のみんなから落ちこぼれの目で見られた。テレビの中の彼女が持っていたものと同じような希望は、どんどん劣等感で埋め尽くされていった。
そして今年の秋、京都レース場で美しい芦毛のロングヘアーを持つ『メジロ』の馬に大差をつけられ敗北したわたしは、その日のうちに障害レースへの転向を「命令」された。
かすかに燃えていた炎は、完全に消え失せた。
「いつからわたし変わっちゃったんだろうなあ」
天井を見つめているうちに、また言葉が漏れ出た。パーマーと同じようにダウナー系であるルームメイトは不在にしていて、返事は誰からも聞こえてこない。
はずだったのだが。
「あたしは変わりましたーーーーーーーー!!!!!!!!」
外からとてつもない絶叫が聞こえてきた。
あまりに自分が漏らした言葉とシンクロしていたので、思わずベッドから飛び起き、声の聞こえる方向──グラウンドへ窓から身を乗り出して目を向ける。寮生のうち大多数はGIレースを見るため学園を出ているはずだ。よっぽど冷めている自分以外、いったい誰が寮に残っているのだろうか。
そこにはウマ娘がひとりと男がひとり。
「あたしはあたしはあたしはあたしは、勝てなかった自分とバイバイしました!!!長い長い修行をして、がんばってがんばってがんばって、ついについに勝てました!!!」
「よしよしわかったわかった、お前は頑張ったのは間違いないから、頼むからもう少しボリュームを下げてくれ」
小柄でまんまるな顔をした、ボブカットにカチューシャのウマ娘は、両腕を上下にバタバタ振り回して興奮して叫んでいる。それを制止している男は、どこからどう見てもさっきパーマーの心を見透かしてきたあの胡散臭い男だった。
・・・もしかしてさっき言っていたうちのチームの年頃の女の子とは、絶賛ジタバタ中の彼女のことだろうか。そりゃあ常日頃から楽しそうにしているだろう。
引きつった笑いを浮かべながら窓を閉めようとする。
が、その刹那。そのジタバタしている彼女と目が合ってしまう。
あーーーー!!!!!という叫び声をあげて走り寄ってくる彼女。反射的に窓を閉めて鍵をかけるパーマー。といっても生憎パーマーの部屋は3階のため、襲撃を受ける心配はなかった。
しかし彼女は構わず突っ込んでくる。遥か上にいるパーマーの方を向いたまま、寮の手前にある小川に猛スピードで飛び込んだ。
そして突っ込んだまま動かない。
「ああ、この娘アホの子だ・・・」
薄茶色の尻尾がプカーと浮かび上がってきた。
胡散臭い男と、なんとなく責任を感じて降りてきたパーマーの手によって彼女は保健室に搬送され、ベッドに寝かしつけられた。
目を回している間に、彼女のプロフィールをある程度聞いておいた。変人も多い学園の中でも、なかなかいないタイプの娘だったので単純に気になったのだ。
名前はエルカーサリバー。今年の夏にデビューしたルーキーウマ娘であり、今日パーマーと同じ阪神レース場で未勝利戦を走っていたようだ。
素質は確かだったものの、いかんせん元気がよすぎる性格が災いしたのかあと一歩勝利が遠く、頭を冷やさせるために秋の間ずっとレースには出していなかったらしい。まあ、本人にはレースに出さないことを「修行」と伝えていたらしいが。
そして今日、久々のレースで初勝利を掴み取り、いつもの5倍増しのテンションになっていた矢先の出来事だったそうだ。
「でもなんでわたしの事を見て駆け寄ってこようとしたのかな?ウマ娘がレースの日のこの時間にいることが珍しかったから?」
「いや、キミだからリバーは追いかけたんだと思うよ」
口にした疑問は、意外な答えで返された。
「今日まで面識はなかったけれど」
「お昼にレースに出てたじゃないか」
「それだけで?」
「それだけだろうな、それだけでリバーには充分な理由さ」
「でもなんで初めて見たわたしの顔をすぐ覚えて・・・」
「────はっっっっ!!!!!」
言い終わらないうちに、目を回していたリバーがベッドから飛び起きる。第一声のボリュームがいきなり大きい。
「おきましたーーーーー!!!!!」
目覚めたリバーは、ベッド横のイスに腰掛けていたパーマーに顔を向け、大きなまんまる目でじーっと見つめている。
(・・・なにこの状況)
見つめ合いに耐えられなくなったパーマーが引き笑いしながら少し目を逸らした瞬間、また大きな声が保健室内に響き渡る。
「おねえさんおねえさんおねえさん!!!おねえさんはなんでなんで、辛そうな顔で走っているのですか!?」
ああ、この娘にも見透かされていたのか。
不意を突かれ一瞬で真顔に戻ったパーマーだったが、すぐに乾いた笑いが漏れ出した。今日初めて会ったはずの娘に顔を覚えられていた理由も分かった。いつの間にかリバーのトレーナーは部屋からいなくなっていた。
「レースは楽しい楽しいものですよ!?そんなおかおをして走るなんて、不思議で不思議でたまりません!!!」
やめてくれ。
「おねえさんが出ていたレースも、みんなみ〜んな楽しそうにがんばっていました!!!」
やめろ。
「でもでも、おねえさんだけは」
「やめろ!!!」
叫んでしまった。リバーはまんまるな目を更に丸くしてきょとんとしている。
「・・・急に叫んでごめん。でももうやめて、わかってるんだよ、自分でも・・・」
「昔はみんなと同じで、レースは楽しかったのですか?」
「・・・そうだね、楽しかった・・・わたし、いつの間にかおかしくなっちゃったんだ」
また乾いた笑いが漏れた。今わたしどんな顔してるんだろうな。何かを憐れんでいるような顔なのか、泣きそうな顔なのか。それがあやふやなくらい、自分の感情も分からなくなっていた。
「な〜に人生終わったみたいな顔してるんだよ」
スチールの感触を頬で感じた。飲み物を買いに行っていたらしいリバーのトレーナーによって、自分の表情を確認させられた。
「・・・実際、わたしの人生にもう希望なんてないかもしれないですね」
缶コーヒーをあける音だけが響く。
「家に帰れば落ちこぼれ扱い。命令に従わなければ勘当。だから家の命令で走りたくもないレースに出て、ほどほどにやるだけ。走ることは楽しくない、ただ苦しいだけ・・・」
ふふっと鼻で笑う。本人も気づいていないが、悲観的になると笑ってやりすごす癖がパーマーにはあった。
「じゃあもう家から出ていけばいいじゃん」
そう言うと彼も缶をあける。その単純で無責任としか思えない発言が、パーマーにはかえって新鮮に感じられた。
家を出れば、そりゃあ自由気ままに縛られず、自分のやりたいように走ることができるだろう。とても魅力的だ。家の命令で障害レースに出る必要もない。落ちこぼれのわたしを止める人もいないだろう。
しかし、それを決断するには生半可ではない巨大なものが立ちはだかる。
「・・・家を出て『メジロ』ですらなくなったわたしには何が残るんでしょうね」
「その『メジロ』のプライドがキミを邪魔してるんじゃないの?プライドばっかり気にしてさ、走るどころか生きることすら辛くなってたらなんの意味もないよ。第一その名前に縛られすぎて、キミ自身のプライドがないじゃん、そこには」
「わたしのプライド?そんなものどこにもありませんよ」
「あるよ、生きているだけで誰にでも」
そう言ってコーヒーを再びあおる。その時間は、パーマーにはとても長く感じられた。
「自分が自分であることがプライドなんだよ。いくら名家に居たって、押し潰されそうな大きなものがあったって、最後に自分のプライドが立ちはだかるんだ」
ずっと押し黙っていたリバーも飲み干したにんじんジュースの缶を両手に持ち、ぶんぶんと鼻息荒く首を振る。
「キミがやりたいようにやれよ。自分の人生だろ、家柄なんかに縛られるちっぽけなプライドなんかクソ喰らえだ」
「あたしは細かいことは全然全然わからないですけど、自分が楽しくないといけないと思います!!!」
これまで誰も言ってくれなかったその言葉に、胸が熱くなる。
ああ、わたしもわたしでいていいんだ。
家柄なんかに縛られない、やりたいようにやる自分でいていいんだ。
溢れそうなものを堪えながら、丸い三脚イスから立ち上がる。胡散臭い男と、元気があり過ぎる少女によって、長い間見えなかった自分の道は開けた気がした。
「・・・ありがたいお話をありがとうございました。まあ家を出て行くかはともかくとして、もう少し自分のことは見つめ直してみます」
ドアに手をかける。自分の中では答えはほとんど決まっていた。
「あーあー、ちょっと待ってくれるかな?」
「・・・なんですか?」
「もしも、もしもだけどメジロの家を出るってなったらその時はキミは無所属のウマ娘になっちゃうんだよな?」
「そういえばそうなるんですかね、まあ無所属でもレースには出られますし、トレーニングの方法ももう──」
「ってなわけで、なあ?」
「ですですです!!!」
「・・・?」
顔を見合わせたふたりは、言葉を遮られきょとんとしているパーマーに向かって満面の笑みで向き直る。
『ということで、
「・・・は?」
いつの間にか、陽はもう暮れていた。
エルカーサリバーをアホの子にしすぎました。