「どうしたもんかねぇ・・・」
胡散臭い男と元気がよすぎる少女との出会いから一夜明けた月曜日、授業を終えたパーマーは自室の机に向かって唸っていた。
そこには白い紙が一枚。もう一時間はそのままだ。
昨日レースに出たので、今日は身体を休めるように『メジロ』の家からの指令が出ていた。
基本的にメジロの馬は、学園内のチームに所属することはなく、家お抱えのトレーナーによってその日のメニューであったり今後のレース選択をまとめて管理されることになる。
そして結果を残せないウマ娘は、自分がやりたいようにレースを選んだり、自己流の練習を行うことを到底許されない。
ただ、今日のパーマーは仮に休養の指示があろうとなかろうとトレーニングをするつもりはなかった。改めて考えたいことがあったからだ。
パーマーは、本当にメジロ家から飛び出してしまってもいいのかどうか、日が変わって再び苦悩していた。
昨日出会ったふたりは、わたしの意思で生きていく選択をすべきだと言っていた。チームに入れとも言ってくれた(ちょっとあのテンションはわたしにはしんどそうだけど)。
しかし、いくら自分が目の上のたんこぶのような扱いを受けているといっても、慣れ親しんだ家であることには変わりない。もう全然会っていないが、母親やふたりの同級生と会うこともできなくなると考えると、どうしても二の足を踏む。
自分が自分であるためのプライドを守るためには家を出て行く必要があるが、失うものも大きい。必ずどちらかを捨てないといけない。
「わたしって意外と優柔不断なんだな・・・」
自分でも知らなかった一面にまた気づいてしまったのかもしれない。
約束の時間になってしまった。全く決められなかった自分に苦笑しながら、部屋を出る。
「で、結局まだ決めかねていると」
「はい、その通りでございます・・・」
「まあ、家を捨てるってのは簡単にできる決断ではないだろうな」
「昨日はえらく簡単に言ってくれましたが、まあそうですね」
目の前をちんちくりんな少女が駆け抜けていくのを見ながら、今日はジャージを着ている彼女のトレーナーとそんな話をしていた。というか、今叫びながら爆走しているルーキーの彼女もわたしと同じで昨日レースに出たはずなのに、なんでいきなりこんな全力で飛ばしているのだろうか・・・
「・・・リバーは性格的に走らせてないと余計調子が悪くなるからな、むしろ昨日まで3ヶ月レースに出さずに抑え込めたのが奇跡だったよ」
「・・・それをなんとかするのがあなたの仕事なんじゃないんですか?」
「ああ、間違いないな」
リバーは向正面のあたりにいた。明らかにペースが落ちているが、いったいグラウンドを何周しているのだろうか。
「まあ、どっちにしろ年内にもうひとつレースを使わせようと思ってたからな、幸い休み明けで疲れもないから多少の無理は利くよ」
「結構スパルタなんですね」
「彼女もそれを望んでる」
「と、いいますと」
「今日の練習前、耳がいつもよりひょこひょこ動いてた」
えらくテキトーに見えるが、ふたりの間には確かな信頼関係があるようだ。
今のわたしには手の届かないものを見て、少し羨ましくなった。
いろいろと胡散臭いことに変わりはないが、しっかり担当ウマ娘のことは考えているし分かっている、いいトレーナーなのかもしれないな。みんなにも慕われているようだし。みんな──
そう思ったパーマーだが、ふと違和感をひとつ覚えた。
「・・・ねぇ、リバーは分かるんだけどこのチームって他のウマ娘は・・・?」
「・・・その話はやめようか」
チームポラリスは、ひとりとひとり、合わせてふたりのチームであったらしい。いわゆる弱小軍団である。
「おねーーーさん!!!いつからいつからいたのですか!?!?」
超がつくほどヘロヘロになっていたはずのリバーが、わたしを見つけた途端に昨日と同じボリュームで叫びながら駆け寄ってくる。
2つしか歳は違わないはずなのだが、どこからそのエネルギーは来ているのだろうか。
「いや、そこのお兄さんに放課後グラウンドに来てくれ、って言われたからね」
「トレーナーさんが!!!」
「まま、昨日はチームに誘ったら滅茶苦茶微妙そうな顔してたからな、練習見てもらったら考えも変わるかなと思ってね」
「元気な後輩ちゃんが楽しそうに走ってるのだけ見ても変わらないと思うんだけど・・・」
「おねーさんおねーさん!!!うちのチームに入ってくれますよね!!!!!」
有無を言わさないという態度で鼻息も荒くリバーが詰め寄ってくる。その意気に少したじろいだ。
「ま、まあ、まだ家を出るか決めたわけではないし、出たとしてもこのチームに入るかは正直まだ微妙なとこかな・・・」
そう言い終わらないうちに、リバーはみるみる小さくなっていった。まんまるな目には涙をためている。
「はいはいはいはい!ほらキミも人助け、いやウマ助けだと思ってそこをなんとか!」
「いやいや、さすがに泣いてる子をあやすためだけに入るってのも・・・」
「あーもうこの際今入らなくてもいいから!最悪子守唄でも歌って寝かしつけてくれてもいいから!」
「わたしは保母さんか!」
「いいえ、大丈夫です!!!」
出来の悪い漫才みたいな掛け合いをしているうちに、いつの間にかリバーはケロっとしていた。慌て気味にも見えたトレーナーの顔も一瞬にして晴れた。
「さっすがリバーだ、強い子だな〜よしよし」
「えへへへへ〜〜〜」
──わたしは一体何を見せられているのだろうか。
ふたりのイチャイチャ(というより、幼い娘をあやしている父親のような関係だろうか)を白い目で眺めながら、そんな感想が浮かぶ。
そして同時にひとつ疑問点が生まれた。リバーの性格のことだ。
まだ会って1日とはいえ、彼女の感情表現がいくらなんでも激しすぎるのは既に分かっていた。
そんなリバーなら今みたいなちょっとのことでも、赤ちゃんのように大泣きしてもおかしくないはずだ。考えすぎなのかもしれないが、どこか引っかかる。
「本当に、強い娘なんだよな」
小さな声で彼が呟いたのを、パーマーは聞き逃さなかった。
とりあえず今日のうちはまだ決められないという旨を伝えた上で、グラウンドを後にする。
リバーはわたしが見えなくなるまでずっとぶんぶん手を振っていた。ような気がする。
部屋に戻ると、持ち出さず机に置いたままのスマホにメッセージが入っていた。送り主は十中八九わかっている。内容を確認すると、軽く溜息をついた。
「やっぱりわかってくれないんだなあ・・・」
文面にはこうあった。次走は12月22日、阪神レース場の障害レースに出るように、と。
パーマーの心はまた闇に覆われていった。
・・・・・・・・・・・・
それから2週間が経った。パーマーは心を曇らせながらも、一週間後に迫った障害レースに出るために、メジロ家から命令された練習メニューを機械的にこなしていた。
当然、絶縁状は白紙のままだ。結局あと一歩踏み込めない自分に嫌気が差してきていた。
自分を手に入れるためには犠牲にしなければならないものがある、と分かっているはずなのに。
そんな時、ふたたびリバーのトレーナーから声がかかった。リバーがまたレースに出るから応援に来てくれないか。彼女も大喜びするだろうし。そんな内容であった。
少し悩んだが、行くことに決めた。気分はかなり沈んでおりとても他者のレースを見れるような感情ではなかったが、だからこそなのかもしれない。あのふたりのテンションは、軽い面倒臭さは、そして暖かさはまた曇ってきたわたしの心を晴らしてくれるかもしれない。
「なんだ、嫌そうな顔してたのに結局来てくれたんだな」
「せっかくお招きいただいたのに断るのもなんだかね、どうせ暇だったし」
「おねーさんが来てくれたので、今日は絶対に勝ちます!!!」
リバーは鼻息も荒く健気に笑っていた。
今日は未勝利レースに比べると、相手も強くなったけど頑張ってくれるかもしれないな。
わたしは無意識のうちに一縷の希望を抱いていたのかもしれない。
リバーは6着に敗れた。
もちろん勝者がいれば敗者はその何倍もの数いるのだ。負けることは誰にでもある。それは仕方ない。
今日は前に比べてメンバーが揃っていた、展開が向かなかった、人気の割に健闘していた、いろいろ慰める言葉は思いついたが、帰ってきた彼女を見てそんな言葉を口にすることはできなかった。
帰ってきたリバーを見て、わたしは恐怖感を覚えてしまった。
リバーは笑っていた。どう見ても心からのものではない、作った笑顔で。
「トレーナーさん、おねーさん、応援ありがとうございました!」
悔しいなら、無理に笑わないでくれ。
「今日はからだが風にうまく乗ってくれませんでした、でも次は大丈夫です!」
悲しいなら、いつもと同じくらい大きな声で泣いてくれ。
「次は、負けません!」
その顔をやめてくれ。お願いだ。
怖くなって、わたしはふたりを見送ってすぐにレース場から逃げ出してしまった。
電車に飛び乗り、学園に逃げ帰ったパーマーは、布団をかぶりなぜ自分が震えているのかを考えていた。
いや、考えるまでもなく答えは見えていた。
彼女は、リバーはわたしの「正反対」なのだ。そう思っていた。
走ることはとても楽しいという「あの娘」と、苦痛にしか感じられなくなってしまった「わたし」。
信頼を結んで生きている「あの娘」と、誰にも腹の中を知らせられない「わたし」。
わたしにないものだけを集めたような彼女を心の中で羨んでいた。
でも、さっきのリバーは今のわたしのようだった。取り繕った笑顔が、元気がないのに強がっている姿が、簡単に見抜けてしまう苦しさが自分の鏡写しに見えた。それにぞっとした。
あんなに元気な子でもちょっとのことで何かが壊れてしまう。それは決して珍しいことではない。
心を壊し、体力はありあまっているのに急に走れなくなってしまうような子は何人も見てきた。
しかし、それを見るのはとても残酷で、何回見ても慣れるものではない。
そして、わたしは認めたくなかった現実を受け入れざるを得なかった。
「今のリバーは、昔のわたしなんだ・・・」
昔のわたしは、一緒に育てられてきた異母姉妹のふたりよりも間違いなく走ることを楽しんでいた。
先頭に立って風を受けながらなにもない大平原を駆け抜けるのが大好きだった。
それこそ、元気いっぱいで練習をしていた彼女のように。
しかしわたしは、闇を抱え込んでしまった。それを解き放とうともしなくなっていた。彼女ももしかしたらそうなるのかもしれない。
それだけは、なんとしてでも避けたかった。悲惨な思いをするのはわたしだけで充分だ。
・・・・・・・・・・・・
「──ぱい、せーんぱい起きてください」
「・・・あえ」
「先輩何寝ぼけてんすか、もう食堂あいてますよ」
「・・・寝てたのか」
気づけば、もう夜になっていたようだ。目をこすると、そこには1つ歳下の後輩が立っている。
ずっといろいろな感情が頭の中を駆け巡り続けている間に、わたしの頭はオーバーヒートののち機能停止していた。
「あー、わたしあんまり食欲ないから、ネイチャ先行っといてくれる?少しその辺ぶらついてから行くから」
「りょーかいです、席だけ取っときます」
ツインテールに緑リボンのダウナー系ルームメイト──ナイスネイチャは、いつものように気怠げな声色で部屋を出ていった。
少し伸びをして、わたしもとりあえず部屋を出ることにした。そこまで食欲はないので、まっすぐ食堂へ向かう気は起こらない。
まだ少し頭は熱い。少し夜風を浴びたくなり、靴に履き替えて中庭をぶらつくことにした。
もうグラウンドで自主練をしているウマ娘もいない。静寂の中で聞こえるのは、風が木を揺らす音だけだ。
足は自然に中庭の切り株の穴に向かっていた。
何か叫びたいことがあるわけでもない。いや、あるのかもしれないがぶちまけたい感情は頭の中でこんがらがって分からなくなっていた。
それでも、数多の敗北や悔しい思いを受け止めてきたであろうそれを見たくなったのだ。
先客がいる。
それも、見知った人影だ。小さくてまんまるな顔をした、カチューシャの少女だった。
とっさに木陰へ身を隠すが、今日敗れた彼女は穴に向かって叫んではいない。しゃがんで穴を見つめている。
わたしは、金縛りにあったように動けなくなっていた。
どれほど時間が経っただろうか。ふたりの間の静寂は永遠にも感じられた。
その刹那。
「・・・おうえんしてくれるひとがいたのにっ、つらいかおをしてしまいましたっ!!!」
どきりとする。
「ぜったいにあんなかおはしないってきめたのにっ、まもれませんでしたっ!!!」
涙声でそれだけ叫ぶと、リバーは穴に顔をうずめ、大きな声で泣き始めた。
「うぅぅぅうぅ・・・うわぁぁぁああああ〜っ!!!」
それまで彼女が溜め込んだものが一気に溢れ出している。
「あいつ、人前では絶対に泣かないんだよな」
不意に後ろから声がした。いつの間にか、彼も立っていたようだ。
「まあ、まだいろいろ幼いから抱え込んでるのバレバレなんだけどね。でも、泣きそうになっても涙だけはこぼさない」
そう言いながらタバコをつける。校内は禁煙だが、もうこの時間だ。咎める人もいない。
「・・・わたしはあそこまで勝負に気持ちを入れられないですね」
「いや、負けたから泣いてるわけじゃないさ」
「期待に応えられなかったから、ですか」
「半分正解だ」
煙を吐き出す。
「期待してくれている人を不安がらせたくないんだろうな、まあ、現にキミにも俺にも感づかれてるし、まだまだできてないけど」
「・・・なんで、そんなこと」
「自分の走りで応援してくれる人を幸せにしたい、そういう娘なんだ、だから自分が辛そうにしているのを見せるなんてもってのほかってことだ」
束の間の静寂。
「本当に強い娘だよ、あいつは」
この前言っていたのと同じセリフだ。
「あの娘も、今は健気でも、越えられないものを見て、潰れちゃうかもしれない・・・」
声を絞り出す。わたしみたいに、という言葉は心の中に飲み込んだ。
「ああいう感情を抱え込むのは当然よくないよな。当然これからは99%勝てないような相手だって出てくるだろうね。だから、今のあいつに本当に必要なのは、弱味を見せない精神力じゃない、本当に辛い時に腹を割って話せる仲間だ」
2本目のタバコに火をつける。
「そしてそれは、キミにも必要だろ?」
「・・・間違いないですね」
腹のうちを晒すことができる仲間。わたしには、いやわたしにも、それはない。
それでも、やっぱり──
「でもわたしには、あの娘と違ってもう期待してくれてる人なんていない」
「あいつが期待してる、もちろん俺も」
「なんでわたしなんかに!!」
語気が荒くなる。
「・・・やっぱりわからないよ、なんでこんなわたしに期待なんかしてるの・・・もっと素質ある娘はいくらだって──」
「北海道のレース、俺とあいつで見てたんだよ」
はっと振り返る。
「たまたまリバーの出た未勝利戦の次の日だったんだよ。函館のレースだ、ものすごい先行争いで前にいったウマ娘は軒並み脱落、その中で根性だけで踏ん張ったキミにリバーは感動してた」
「・・・踏ん張った、っていっても5着だけどね」
「充分さ、ずっと競りかけられてたしもっと大敗してもおかしくない」
その言葉は、絞り出したただの慰めではないことはわかった。
「あの時のキミは、なにか目指すものがあっただろ?限界が来ても最後まで目が死んでなかった」
ああ、そうだ、わたしにも一瞬燃え上がりかけた炎があった。半年くらい前のことなのに、もう忘れていた。
秋にメジロの同期、そしてメジロの最高傑作と戦うことになった、だから絶対に全てを見返してやる。その気持ちを夏の北海道遠征では持ち続けていた。
がむしゃらだった。
1%でしか勝てない相手を倒そうとしていた。
それがわたしの最後のプライドだった。
そして、それは粉砕された。
「そんなキミにリバーは惹かれたんだと思うよ、ただの素質じゃない。少なくとも俺はそうだ、キミはこんなとこで踏みとどまっていていいはずがない」
「・・・わたしもまた、あんな気持ちになれるかな」
「なれるよ、キミの心はまだ折れてない」
「もうなにもかもどうでもよくなっていたとしても?」
「自分に苛立っているのが、その証拠だ」
「・・・」
「前にも言ったはずだ、キミ自身のプライドはまだ死んじゃいない」
ぐちゃぐちゃだった感情が、まとまった形になっていく。
まだわたしは、終われない。
こんなわたしを見てくれている人がいる。
期待してくれている人がいる。
こんなところで止まっていられない。
いつの間にか、リバーの姿はなくなっていた。
「ありゃ、泣き疲れて帰っちゃったかな?」
「・・・ちょっとそこの穴に叫んでくるから耳塞いで後ろ向いていてくれませんか?」
ふふっ、と彼が鼻で笑う。
「キミが顔を歪めて叫ぶところ、見てみたいけどなあ」
「いーから!恥ずかしい!」
強引に人払いをして、穴に顔を向ける。
これまで生きてきて一番の大声をあげて、大粒の涙をその穴に注ぎ込んだ。
・・・・・・・・・・・・
今のわたしはどんな顔をしているだろうか。
晴れやかな顔?
憑き物が落ちたような顔?
いや、そんなことは今はわからなくてもいい。
「・・・もう決まったかな」
「ええ、おかげさまで」
夜闇の中で、改めて彼の方へ向き直る。
「あの娘を守りたいし、あの娘から学びたい」
決意は、本当に固まった。
「あの娘みたいに、あの娘といっしょに強くなりたい」
目の前にいるリバーのトレーナー、そしてわたしのトレーナーに手を伸ばす。
何本目かのタバコを足で踏み消し、彼も手を差し出した。
「あらためて弱小チームへようこそ、お嬢さん」
わたしの次走は、『未定』になった。
月2回くらい更新できたらいいですね〜って感じです(無責任)