◇ 10 ◇
翌朝、彼は眼を覚ました。隣のベッドで未だに眠っている様子の彼女をひと目見ると立ち上がり、彼女へと歩みよる。それから、少女の寝顔を確認する。彼には邪な気持ち等一切なく、純粋に少女を心配しての事であった。ただでさえ常識を逸脱する事態に巻き込まれているというのであるから。彼の知る限りであれば、少女はこれ位の事でへこたれる性格ではない。
それはこれまでのゴブリン討伐で少女を見てきた彼なりの信頼であった。この少女はやる時はやるのである。それでも、今回は話が違う。まったく見知らぬ場所へと迷い込んでしまったのであるから。その心労は想像に難くない。
「――」
無言で少女を見下ろすゴブリンスレイヤー、その顔はいつも見る穏やかな彼女のものであった。頬を涙が走った後もなければ、髪が変に乱れてもいない。
「大丈夫か」
彼はそれだけ言うと、軽く身支度を始める。鎧を身に着けて、兜を被り――普段の彼であれば、ゴブリンの襲撃を警戒して眠る時も鎧を外すという事はしない。と、いうのもゴブリンとは非常に執念深い奴らであるからだ。奴らは自分達に危害を加えた人間の顔を、あるいはその特徴を忘れはしない。そして、彼は元の世界ではそう呼ばれる程までに奴らを殺してきたのであるから。それに対する罪悪感だとか、後悔は彼にはない。しかし、それによって自分が被る事になる危険に対して何の対策もしないという訳にはいかなかった。奴らはこちらが無防備であれば、的確に頭を狙ってくる。それも致命的な攻撃を。だからこそ、普段の彼であれば、兜を取ることさえないのだ。
そんな彼がそれを出来たのは、自分達の現状が理由とも言えるし、この少女にそうするように懇願されたので。
女神官にしてみれば、ご厚意で泊めてもらうというのに、その時ばかりは彼の在り方に反論したのであった。実際、この世界は自分達のいた世界と違う様であるし、この村にしたってこの世界のゴブリン達に自警団の人々が交代で警戒してくれているとの事であった。彼女としては、そこまでやって貰っているのに、自分達は唯休むだけであるという事を苦々しく思い、此処まで案内してくれた少女に申し出た、何か出来る事があればやると。しかし、少女は別段気にした風もないように返して来たのである。
――お客様なのですから、気になさらないでください。
その言葉に女神官は彼女に地母神の影を感じながら、感謝の思いで頭を下げた。勿論ゴブリンスレイヤーだって頭を下げた。しかし、感激の余りに、やや涙を流しながら礼を述べる彼女に比べて彼のそれは、無造作に頭を下げるだけであった。いや、それだって正しい姿勢であり、決まった角度で行われたものであったが、そこまでの事もありゴブリン達が噛みついたのは言うまでもない。
そして、それを少女が必死に治めるのも何度も見た光景であった。無論、女神官が彼を諫めたのも当然であった。頼むからもう少し愛想よくしてくれと、それを言われた彼は内心で首を傾げた。そして、それまでの付き合いで彼の思考をある程度読むことが出来るようになっていた彼女は再び内心でため息をつき、それまでの過程を後悔する事となった。
彼は口下手なだけであり、本来は優しい性格なのである。それは、自身の存在が証明しているとも言えた。だから、無理に彼に自身の在り方を修正させる必要はない、あったとしてもゆっくり――それだって、チームメイトである彼女と共にやっていたのであるから。
しかし、ここに来てそれが最悪の事態を招いてしまっているのである。不幸な行き違いがあったとは言え、その後の彼の言動によって、確実にこの村に住むゴブリン達からの印象は悪くなっている。ついでに言えば、自分の評価も下がっている。なんだこの野郎は? という視線を向けられるのであるから。別にそのこと自体は気にならない。実際、その通りであるから。しかし、それによって空気が悪くなるのは許容できなかった。ご厚意で泊めてもらうというのにと、なればこそ何とか彼とそしてゴブリン達の間を取り持とうと、必死に頭を回しており、それは眠っている時も変わりはない。が、それが顔に出る事は無かった為に、また彼もそこまで察する事が出来ずにその場を立ち去る。
「おはよ~、よく眠れた?」
仮受けた家を、いつもの鎧姿で出てきたゴブリンスレイヤーの耳に届くのは陽気な、それでいて呑気とも言える声。その方向に目を向ければ、声の主が木に背を預け、腕を組みながらこちらを伺っている。
「お前か」
「ヤルダバオトって、名前があるんだけどね~」
特に興味を示す素振りも見せない彼に、仮面をつけ、ローブを纏った女性は両手を左右に広げて嘆息しながら返す。その行為自体は、その姿は呆れながらも相手との距離を詰めたいともとれる好意的なものである。しかし、彼はそうは思わず、下手をすれば、けんか腰ともとられかねない言葉を口にする。
「見張りか」
「せ~い~か~い」
自らヤルダバオトと名乗った女性は彼の態度に特段、腹を立てる様子もなく答える。
(当然だな)
ゴブリンスレイヤーはそう考えた。実際、自分がやった事は簡単に許されることではないし、反対の立場であれば自身がそうしたであろうとも思っていたからだ。
(特に問題はなさそうだけどね~)
一方で、彼女も注意深く彼を観察してその答えを出していた。これは別に仕えている少女から頼まれたことではない。どちらかと言えば、ゴブリン達から懇願された事であった。
彼らにしてみれば、ゴブリンスレイヤーという人物は信用ならないのである。初対面がまず良くなかった。こちらは出来る限り平和的に解決しようとして、武装放棄を申告したのに、いきなり攻撃を仕掛けて来たのであり、死人ならぬ、死ゴブリンこそではしなかったが、だからと言って、やられた事を忘れる程彼らは単純ではない。更に、その後の展開が良くなかった。結果的に、その場を治める一因になりはしたが、ゴブリンスレイヤーは彼らにとって大事な主君である子供を泣かせたのである。
一連の話を客観的に聞いた者がいれば「そんなの、不用意にそこに近づいたその子が悪いじゃないの?」と思うかもしれない。それは、間違いではないしその子供が取った行動は軽率にも程がある。しかし、それを実際に口にするものがいれば、即座に彼らに袋叩きにあうであろう。
正論ばかりが正しいと思ってんなら、大間違いであると彼らは主張して、そしてその子供の雄姿を称え、更なる忠誠を誓うであろう。それは、親ばかのようにも見えるし、はたまたカルト教祖の信者にも見えてしまうかもしれない、それ程までに彼らにとって、その子は大切な存在なのである。
それだけの存在である彼女をゴブリンスレイヤーは泣かしたのであるから。例え、彼は助けるつもりであったとしてもゴブリン達には関係がなかった。それだけでも彼らの怒りは頂点に達しかけていたというのに、それを知ってか知らずか、彼は……
(いや~あれは)
ヤルダバオトはそんな彼と共にここに迷い込んでしまった神官である少女に同情した。目前の人物は、とにかく言葉が足らない。言いたいことは彼女の解説込みで何とか理解は出来た。
(でも、あれはないよね~)
よりによってゴブリン達に「お前たちはゴブリンではない」と言い放ったのであるから。しかも、その考えを改める素振りも見られない。いや、これに関しては難しいのであろうと彼女も理解はしていた。一見、ゴブリンという生物の名称だったり、あるいはその定義だったりするようであるが、彼にとっては重要な言葉であるらしいのであり、彼独特の法則にしたがうのであれば、どうもこの村に住むゴブリン達は「ゴブリン」ではないらしい。それは、少女の姿を見ても、恐らくではあるけどかなりの栄誉に違いはないのだろう。
しかし――
そんなもの、彼らには関係がない。自分達の存在を全否定されたようなものであるから。
(めんどくさいね~)
彼らは彼らで己がゴブリンである事に誇りを持っている様であり、時間さえあれば筋肉を強調するような姿勢を見せたりするのだ。両腕を構え、まるでお椀を描くように天へと向け、膨らむ上腕二頭筋、それを両腕分得意気な顔をして見せてくるのは正直鬱陶しいものであるし、個人的な事を言えばやめて欲しかった。何というか暑苦しいのである。それでも、そう言った事を彼らに願い出た事はない。別にゴブリン達を尊重していた訳ではない。
(ネムちゃんが気に入っているからね~)
そう、やはりあの子供の存在である。ネムは彼らが見せるそんな下らない事柄であっても目を輝かせて見てるのであるから。いや、むしろそれが原因で彼らの悪ノリというものは酷くなっているかもしれない。それに、何にでも純粋な瞳を向けてくれる彼女の教育にも良くないかもしれない。かつて、自分はその瞳に救われた訳であるけど、それとこれとは別だ。少なくともゴブリン達に関する事は早い内に姉であり、主君である少女と相談するべきかもしれない。
(ま、それも機会があればだけどね)
その行為にしたって、彼らにとっては大切なことの様であり、同時に肉体美というものはゴブリンの嗜みだとか、彼らに限らず戦士職であればと一瞬思ってしまい、直ぐに取り消す。少なくとも自分はそうではないから。
(よく分かんない)
彼女がそう思うのも無理はない。彼女は戦闘に関しては正に天性の才能に恵まれており、最低限の体造りだけで一流の戦士になれたのであるから。
そうではないもの達。別にゴブリンだけではないけれど、筋肉に拘りが強いもの達はどうしてそういうかというと、彼らにのみ通じるものがあるらしい。あるいは、「筋肉は裏切らない」と言った事もあるかもしれない。
鍛え上げた肉体というのは、己が達成した栄誉であり、苦しい戦いを生き抜いた者へと与えられる最大級の褒賞であり、何より決して無くなりはしない財産であるのだから。それだって、年をとればどうなるかは分からないものであるけど、それでも今を生きる武器になり得るのである。
(そう考えるとさ~)
彼らが拘る理由にもある程度の理解は出来た。納得はしないが、確かに強い体もとい力がある肉体を持っていれば、それだけで世の中出来る事は増えるのであり、選択肢が増えるという事はより良い生活を送る事に繋がるのであるから。
さて、面倒な事に先の一件でジュゲム達、カルネ村のゴブリン達は自分達のそういった所まで否定されたと思い込んでいるのであった。故に彼らがゴブリンスレイヤーに向ける殺気というものは凄まじく、戦闘とは無縁な、否、これからも無縁であり続けるであろう姉妹がそれに気付くことは無かったし、あの少女にしても気づいている様子は見られなかった。それだけゴブリン達のその手の技術が優れているという事か、あるいは少女の方に余裕がなかったかは分からない。しかし、一つ間違いなく言えるとすれば、彼には彼らの殺気が分かっていたはずであるのだ。自分でさえ気づけたのであるから。
「お兄さんさ~少し良い?」
「何だ?」
その事が気になり、彼女は聞くことにした。返ってくる声は無機質であり、声音にしたって平坦、人と必要以上に関わろうとしないと言いたげにも聞こえてしまう。そんな返答であったが、別に気にはならなかった。仕事柄、そういった人物と行動を共にすることも多かったし、何なら自分だってそうしたいという気分があったのであるから。
かつての彼女を知る者達にすれば、「絶対そんなじゃなかった。誰にでも斬りかかるクレイジーな奴だった」と、言うのであろうが、生憎とこの村に過去の彼女を知る者はいない。
「お兄さんは気付ているの~?」
「何の事だ?」
これまた返答は先ほどと変わらないものであったが、それを口にした途端、彼の姿勢、もっと言えば体の一部がこれから動き出すと言っているように、見え、否感じて、彼女は確信した。この男は知っていたのであると。
「え~それで、何で~」
武器を振るう事をしなかったのかと彼女は聞く。あれだけの殺気を向けられて、平気でいる者はそういないと思っての事であった。それに、あの場にいたゴブリン全員とこの男が本気で殺しあったとすれば、ゴブリン側が多大な犠牲を払って勝利するというのが彼女の見立てであった。それをこの男が理解していないとも思えないし、そうとなれば、やはり気になってしまう。殺傷騒ぎは主人である少女の意向で禁止されている。けれど、それだってゴブリン達だけの問題だ。これを破ったものは、食事を抜かれるのである。
(エンリちゃんのご飯は美味しいからね~)
仕事に差し支えるということもあるだろうが、それ以上に少女が作るご飯を食べれないというのはゴブリン達にとっては拷問に等しいもののようであり、それを受ける位ならばドラゴンの餌になる方がマシだと言い切ったのである。
(いやいや、ドラゴンだって願い下げだと思うよ~)
回想に毒を飛ばしながら彼女はゴブリンスレイヤーの言葉を待った。そして、彼は答えた。ある意味、期待通りとも言える答えを。
「あいつらはゴブリンではない」
「あ、そうなんだ~」
結局そこかと彼女は内心呆れかえる思いであった。これは、本格的にあの少女が可哀そうであると、更に言うのであれば、それこそがゴブリン達が彼に殺意を寄せる原因であるのだから。
「話はそれだけか?」
「そうだよ~」
本当ならもっと言いたい事などがあったが、すっかりその気力も萎えたヤルダバオトである。この人物は稀に見る頑固なタイプであるらしい。自分がどうこうしようとは思えない、というかめんどくさいとさえ思ってしまう。これは自分の役目ではないと。
自分がゴブリン達に頼まれていたのは、あくまで夜間の彼らの見張りである。絶対そう言った事はないと思うが、彼がネムを泣かせた事には少なからず思うところもあった為に引き受ける事にしたのである。そして、今のやり取りで確信した。この人物が姉妹を害する可能性は微塵もない事を。
(そういや)
そこで彼女は思い出す。彼と初めて邂逅した時の事を、留まるように言ったのに、飛び出したネムを追いかけて……
(いやあ、あんなネムちゃんは中々見ないよね)
普段は聞き分けが良い子であるというのに。あの時ばかりは違ったのである。
――ジュゲムさん達は大丈夫なの?
そう言って、自分達を見つめる少女の声はいつもの無邪気な物ではなく、真剣に問いただすものであり、下手なごまかしに取り繕った言い方さえ駄目そうであった。それは、姉であるエンリも感じたらしく、情けない事に自分達は少しの間、といってもほんの3秒ほどであったけど、それでもネムが自分達の態度に彼らが絶対に生還するとは限らないと判断したらしく、走り出したのである。普段は無邪気な少女であっても、時には固い意志を見せる。
(ほんと)
姉妹そろって、強いと彼女は思った。
「お兄さんは、この後どうすんの~?」
「何、いつもの日課だ」
こんな変人にもと、それこそ主君である少女が知れば咎めたであろうことを考えながら、ヤルダバオトはその場を立ち去るゴブリンスレイヤーを見送るのであった。
そして、彼の後ろ姿を見送ったあと。仮面越しに手を当てる。「ふあぁ~」
一晩寝ていないのであるから、これは当然であった。これ位は許されるべき特権だとさえ、思ってしまう。それから彼女も歩き出す。2時間だけでも睡眠をとろうと、さえ思って。
(ま、悪い人じゃなさそうだね~)
少なくとも以前の自分に比べれば、ずっと良識的であり、これ以上警戒する必要はないであろうと。そして、エンリが彼らを客人として扱うのであれば、自分もそうすべきだと彼らへの認識を改めながらヤルダバオトは自身に与えられた住居へと向かうのであった。
◇ 11 ◇
仮面の女性と別れた後、彼は村を回り、所々で地面に手を当て、その部分を凝視するという作業を行い始める。
(痕跡はなし、か)
「おや、これは……さんではないですか」
「ああ、お前か」
話しかけてきたのは、先日会った村人であった。彼は、ゴブリンスレイヤーがやっている事に疑問が湧いたようであった。
「これは、何をしているんですか?」
「ゴブリンが来ていないか、その確認だ」
「ほう」
興味を持ったという風に目を丸くする彼にゴブリンスレイヤーは彼にしては、珍しく……否、女神官がこの場にいればため息をついたであろう。この人物はゴブリンに関する事であれば、途端に饒舌になるのであるから。
ゴブリンスレイヤーはその声音だけであれば、正に生き生きと奴らに関する事に話をするのであった。
「成程、ジュゲムさん達とは違った。そんな種族もいるんですね……」
本来であれば、認識の齟齬が発生しても良いかもしれないが、それが起きないのは幸運とも言うべきかこの村の環境が言えたとも言える。更に言うのであれば、ある一件以来、この村には防衛意識が高まっているけど、それでも素人な事に変わりはなく、この世界にどういったモンスターがいるのかさえ分かっていなかったのであるから。
「しかし、寝込みを襲うという事は無いのですか?」
「奴らは馬鹿だが、間抜けじゃない」
ゴブリンスレイヤーの説明に聞き入る村人。彼が此処までゴブリンの話に聞き入ってしまうのは、やはりジュゲム達の存在が大きかった。彼らは知性的であり、そして強い。村でも少しは戦う力を手に入れようと彼らに指南してもらっている。
そう、そんな彼らの存在があるからこそ、彼はゴブリンという種族が単なる雑魚モンスターとは思ってはいない。よって、ゴブリンスレイヤーの言葉に真実味を感じるのであり、真剣にその言葉に耳を傾けるのであった。
「念入りに、こちらの事を調べた上で、襲撃をかける」
「そうなのですか、ならば私どももそれ位の警戒はした方が良いかもしれませんね」彼は、顎に手を当てながら彼に言葉にその都度、相槌を打ち、そして周囲にあるものに気付いて彼に問いかける。それは、正に授業中の教師と生徒のやり取りであった。「この村には外壁がありますが、それでも危ないのでしょうか?」
「ああ、万全とは言えない」
ゴブリンスレイヤーは話を続ける。ゴブリンには、この位の壁は意味をなさないと思った方が良いと。奴らは道具の使い方をすぐに覚えるし、それにこの木壁であれば、容易に破壊できる個体もいると。
ゴブリンスレイヤー、彼は本当にゴブリンの事となると人が変わる。というか、のめり込んでしまうとさえ言っても良いかもしれない。彼自身、現在の自身に起きている事を忘れかけていたのであるから。
そして、それはまるで伝染する病気のように、彼にも影響を及ぼしていた。
(そう、例えば)
ジュゲム達が敵であれば、確かにこれでは心元ないかもしれないと彼は考える。
正に状況が更に新たな可能性を招くというか、このやり取りがきっかけでカルネ村の防衛意識は更に高まり、唯でさえ強固であったセキュリティが要塞並みになるのであるが、それはまた別の話である。
「おい、そりゃあ、どういう意味だよ?」
新たにその場に響いた声は怒りが含まれていて、殺意さえあるようで村人の方は一瞬肩を震わせる。以前、大変な目にあって、多少は度胸がついたと思っていたが、それは勘違いであったらしい。そして、彼の姿を見て、声をかけた方も声のかけ方がまずかったと気付いたらしく、慌てた声が続いた。
「すいやせん、別に旦那に向けて言った訳ではないんですよ」
「そうですさ」「そうそう」
「うん、分かっているよ。グーリンダインさん達なのは分かっていたからさ」
「お前たちか」
その言葉にさえ彼らは機嫌を悪くする。こめかみどころか、頭髪らしきものが殆んどない頭部のあちこちが十字を、あるいはバッテンを思わせる膨らみ方をしており、歯ぎしりさえ聞こえてくる。
その場に来たのは3人のゴブリン達であった。青い胴当てに背負った矢筒に片手に持った弓が特徴的なグーリンダインに、他のゴブリン達に比べるとやや縦に長い顔立ちをしており、背中に長剣を背負っているマツ、そして老人のように白い髭を顎と口元に生やし、斧を肩に担いだノスリである。
彼らは彼らで村の見回りをしているのである。時刻はまだ早い、既に主君である少女も目を覚まして朝食を用意している。妹の方は、先日の事もあり……
(くそが)
思わず、グーリンダインは舌打ちをしてしまう。それを見た青年がまた怯えてしまうので、再び頭を下げる事は忘れない。自分達が仕えているのは、あくまであの姉妹であるが、だからと言って、村人達の事を軽んじてはいない。
(そう、この方々も守るべき御方どもだ)
自分達には名前が無かった。精々、ゴブリンに役職をつけたものである。自分であればゴブリンアーチャーとかそんな所だ。そんな自分達に少女は名前を付けてくれた。何でもこの世界の過去の物語に登場する英雄からつけたものであるらしい。
仕えることこそが、自分達の存在意義であり、そして赤髪のメイドに言われた事に倣うのであればそれこそが至上の褒美であるのだ。
ちなみに、その時の彼女、実は遊び半分で彼らにそんな事を吹き込んで遊んでいた訳であり、当然の如く制裁を受けていたのであるけど、それもまた今は関係ない話だ。
だというのに、少女は自分達に名前なんてそれこそ、生涯の宝となり得るものをくれたのである。それも英雄にちなんでいるというのであれば、その喜びも大きいものである。
そして、そんな名をこの村の人達も呼んでくれ、自分達1人1人を、個体として認めてくれているのであるから。だからこそ、必ず守らなくてはならない。
「おい、鎧野郎」
「何だ」
こいつの事は気に入らない。自分達にとって、種族というものは誇りであるし、それを尊重してくれている主君である少女にも感謝はしている。妹にしてもその純粋な眼差しを向けてくれるのであれば、笑顔でいてくれるのであれば、ドラゴンだって倒してみせようと思う程に忠誠は高い。そんな誇りを踏みにじり、妹君を泣かせたこの野郎は出来る事なら殺しはしないでも、痛い目にあわせて、上下関係というものをその体に味合わせてやりたい。
しかし、それは出来ない。主君がこいつも客人として扱う事を決めたからである。不満はあれば、主の意向には従わなくてはならない。それが、間違った事であれば言伝だって行うべきであるが、あったとしても自分達の私情であるのだから。
それでも、これだけは言っておきたかった。
「この村で生活する以上、好きにできるとは思わねえ事だな」
そう、彼らにも何かしら事情があるらしいことは分かったが、それとこれとは話が別である。甘やかすつもりは毛頭ないし、働いてもらうつもりであった。何をしてもらうかはまだ決めてはいないけれど。
「そうか」
だと言うのに、それでも何の事はないと言った様子で鎧は返してくる。その事に更に腹が立ってくる。
(おい、やっぱ気に入らねえ、どうすりゃいいんだよ?)
たまらず、彼は後ろにいた2人にそう切り出す。彼らも同じ気持ちだったようで、すぐ会話に応じてくれた。
(そうだよなあ、何とかしたいよなあ)
(ああ、お嬢にはきつく言われちゃいるが、俺たちの誇りに関わる問題だからな)
見れば、鎧は再び青年と何か話している様子であった。曰く、ゴブリンの対処であったり、ゴブリンの有効な使い方であったりとだ。
「奴らを殺すには、奴らの血を浴びるのが安全策の1つだ」
「そう……そうですか」
ゴブリンスレイヤーの言葉に村人は若干引いているようであり、そして彼は視線をゴブリン達に向ける。その目は自分達に気遣ってのものであった。
(あの、彼はこう言っているけど、君たちは大丈夫かい?)
その言葉だけでゴブリン達の不満やら、怒りやらは冷めてくる。亜人であり、手下でしかない自分達の事を気にかけてくれているのである。これがあるから、この村にも忠誠を誓えるというものだ。
(へい、大丈夫っすよ。俺達はゴブリンではないみたいなんで)
その言葉に顔に疑問符を浮かべた村人は続ける。(??? それで、冒険者というものはこれ位するのが常識なのかい?)
(いいや、それはない!)(そうだ!)(あいつがおかしいだけですぜ!)
今度は全員で答えておく。聞けば、鎧の人物はゴブリン討伐を専門にしているらしい。それだけ聞けば、大した事はないはずだというのに。実力はミスリル級位ありそうなのが、不思議なものである。
(いや、大丈夫だ)
この村には自分達よりもずっと強いヤルダバオトが控えているのである。あの神官は昨日のやり取り以降、未だあの場所で固まっているらしい。いっその事、モンスターに食われてしまえば良いと思っているのが本音であった。
(大体よお~あいつのせいじゃねえのか?)
自分達は村に残って村人であったり、姉妹の護衛についていた訳であり――あの後、野郎の対応を担当したジュゲムを中心としたグループから話があると集められ、そこで話し合いとは名ばかりの乱闘が起きたのも昨日の事であった。
自分達の落ち度は認める。守るべき少女を危険な場所へと行かせてしまったのであるから。それでも、納得がいかなった部分もある。その問題の人物を、ゴブリンスレイヤーだとか名乗る野郎を抑える事が出来なかった。対応組にもある程度の責任はあるだろうと、互いに殴り合って、水に流した。もう、この話を持ち出すことは仲間内ではご法度だ。済んでいるのだから。
そして、聞いた話によればそんな鎧野郎がカルネ村を、正確にはそこを支配していたと思い込んでいたジュゲム達に襲撃を仕掛けた理由が、その神官の言葉がきっかけであったらしい。
(もっと、上手く出来なかったのかよ? 仮にも元エリート様だろうが)
彼が過去にどこにいて、そして何をやったかは情報共有の一環という事で聞かせてもらっている。それによれば、姉妹の現状の原因、その一因があの男という事ではないか。ならばどうしてのうのうと仕える事を許されているのかと、メイドに聞いた事もあった。返ってきた言葉は、姉妹の養父にして、この村の支援者である人物が許されたのだから、もう罪はないとの事であった。ならばとその場は引き下がったが、今回の件は間違いなくあの男の失態が全ての始まりである。自分達に全く問題が無かったとは言わない。必要とあらば、腹だって切ってみせよう。しかしと、彼は決意する。
(姉さんが帰って来たら)
神官の件を訴えてみようと。
(そ、そうなのかい。いや、そうだよね)
(そうですさ)
意識を戻せば、マツが村人へとそう言葉を返している。少なくとも、こんな偏った考え方を持っているのは希少種である事は間違いないのであるから。
それかれ、一行はしばらく話を続けた。無論、ゴブリンスレイヤーの言葉にその都度、ゴブリン達は過剰な反応を続け、その度に肩を震わせる事になった村人には同情の余地しかあるまい。
◇ 12 ◇
「もう、ゴブリンスレイヤーさんったら」
それが、彼女が今朝彼に初めてかけた言葉であった。この人物は起きたのち、日課であるゴブリンの痕跡調査をしていたと聞いた時は、呆れると同時に安心感が胸にこみ上げるのを感じた。この人物はどこにいてもぶれないようであると。
彼が、そうして出て20分程して、彼女は眼を覚ました。初めは、これまでの事がすべて夢であり、目を開ければまたいつもの日常が始まるとさえ、錯覚、いや切望した。しかし、実際に自分達は見知らぬ世界に迷い込んでいるのであり、その状況は変わらない。
かといって、元の世界に帰る方法だって分からないし、見当もつかない。何をすれば、さえ分からずに、いた彼女の様子とその心情をそれまでの経験で察したエンリは彼女達を朝食へと誘った。というか、彼女は始めからそうするつもりであった。別の家に頼むという選択肢は元から消極的であった。
この村はかつて人の襲撃にあったのだ。命乞いなど意味をなさずに人としての尊厳など微塵もなく、彼女自身も死ぬところだった。それによって、この村は、人に対して不信感が少なからず出てしまう。それでもそれを表に出すことはしない。
それでも、不用意に外から人が来ることには神経質な部分もあったりするので、彼らの面倒はエンリ自身が見るつもりであった。それは、彼女なりの責任感から来るものであった。
現在、カルネ村はその人物からの支援で立て直した身であるのだ。そして、彼女はその人物の養子という事になっている。仮にも親子であるのだから。
そして、そんな彼女の葛藤こそ知らなくても、女神官には、彼女の好意が嬉しかった。実は、この世界の地母神ではないかと思うくらいには感謝している。だからこそ、何もしないというのは気が引けた。よって、何か出来る事はないかと願い出た所。
ある人物達を呼んでくるようお願いされたのである。
(でも、そんなに酷いのでしょうか?)
初めの内、その話を持ち出した彼女は自身の提案に消極的であった。彼女自身が呼び出しを担当するから、自分達には料理を頼むと直ぐに違う事を言いだしたりと、が、それは出来なかった。
(楽しみにしていらっしゃるみたいでしたし……)そこで、彼女は隣をあるくゴブリンスレイヤーへと視線を移す。彼の顔は、初めてあった時から変わらず。気を抜けば、すぐに何を考えているのか分からなくなりそうである。(この人に作らせる訳にはいきませんから)
別に、ゴブリンスレイヤーは料理が出来ない訳ではない。というか、現地で食材を調達する時も珍しくない為に彼女も彼も、その仲間達だって多少は料理が出来るし、その味だって悪くはない。最も、彼はいつも肴ばかり作っていたりするし、もっと言えば、「自分達で作るより、店で食った方が上手い」と、本当にその腕を人様に振るう機会というのはなかったりする。かといって、決して人が卒倒する程、酷い料理しか作れないと言った訳でもない。あくまで、現地での食事事情だ。
(いけません。考えがそれています)
今回の問題はそこではない。朝食に参加する者達というのは、多いらしく。昨日、こっちの世界で初めて会った神官や、彼に剣を向けた仮面の女性が所属する教団の神官達であったり、あのゴブリン達も参加するというのである。
そう、そこが問題なのである。要は、彼らが食べるものに彼が関わるという事が不味いのだ。それだけで、トラブルが起きるのは目に見えている。よって、自分達が料理を担当するという選択は出来なかった。それを抜きにしたって、ゴブリン達に神官達、それにこれから呼びに行く人たちに、あの可愛い子だって、彼が作ったものではなく、彼女が作った朝食の方が良いに決まっているのであるから。
では、呼びに行くのを彼に任せて、自分はエンリと共に朝食を用意する?
この選択も出来るはずがなかった。と、いうのも話を聞けば、彼は今朝もゴブリン達と揉め事を起こしたと言うではないか、それでも乱闘沙汰にならなかったというのであるから、そこは地母神に感謝すべきだ。
(うう……)
この状況を以前の世界であれば、喜ぶことも出来たであろう。向こうであれば、ゴブリンスレイヤーは変人という認識であるけれど、それでも高位の冒険者であり、下手なちょっかいはなかったし、トラブルだって最低限で済んだ。
しかし、この世界では違う。自分達はどこか見知らぬ地から来た者達であり、彼の事だって誰も知らない。そして、決定的なのが、この世界のゴブリンと自分達の世界のゴブリンは違うものであり、それだけが原因とは言えないけど、彼とこの村に住むゴブリン達の間に溝が出来てしまっているのだ。
(いえ、違いますね)
彼女はたれ目を彼へと向ける。少なくともこの人物は全く気にしていないのだろう。実際、元の世界でも彼は今回ゴブリン達に向けられているような視線だったり、感情を向けられてきた時があるのだ。彼にとっては、それこそ時折ふく風と同じく、大したものではないのかもしれない。
しかし、それが今回は完全に裏目に出ている。いや、今回に限らず彼の場合、引き起こすトラブルはいつもこうでもあったかもしれないけど。
ともかく、こっちの世界にいる間、自分は極力この人物と共に居た方が良い。それが、彼の為であると言えるし、彼の言動に振り回される可能性がある。こっちの世界の人々の為にもなる。その事をエンリに説明して、この仕事を受けたのであるが、曰く匂いが酷いとの事である。
何でも、その知り合いは薬屋をやっているらしく、そして今も新しい薬を開発している為に、その周囲には強烈な匂いが常時立ち込めているとか、いないとか。
だけど、問題はないように女神官は思っている。その手の事であれば、彼と付き合っていれば何度もあったのであるから。
『奴らは鼻が利く』
そして、彼は何のためらいもなく、殺したばかりのゴブリンの持ち上げて、掃除をする前に水を含ませて雑巾を絞るようにして、その血や臓物を鎧に浴びるのであり、そして自分も同じようにかけられたのであるから。初めは嫌悪感しかなかったし、湿った感触が全身に触れる度に心臓が震えた。それ程までに、体が本能的に拒絶反応を起こす程におぞましい体験であった。
だというのに――
(…………)
彼女の目から光が消える。それ程であったというのに、繰り返す内に嫌悪感が薄れていき、4回目となると何も感じなくなってしまったのだ。
これを、成長と言えば美しく聞こえるかもしれないが、彼女はそうは思わなかった。いや、思いたくなかったと言うべきか、上手く言葉には出来ないが、何か大切な物を無くしたよう感じるのだ。それこそ、純潔と同じかそれ以上の何かを……
そこまでの思いをして来たのだ。今更、ちょっとや、そっとで驚きはしないと彼女は結論を出しており、こうして来てるのである。
そして、その通りであった。確かにエンリの言う通り、その家の周囲は異様な匂いに包まれていた。肉が焦げた臭いではない。腐った死体が発する臭いでもない。奴らのものでもない。薬品特有の匂いが鼻を引きちぎりそうに感じる位には強烈であり、彼女の警告の意味合いが良く分かった。
「ここか」
「そうみたいですね」
それでも、彼女達には何の問題もなかった。これ位であれば、ゴブリンの死体の方がまだ臭いは酷い。そして、それを自覚した時、女神官は微妙な心境となり、普段は年頃の少女らしく、柔らかくもどこか幼さを残した顔から感情というものが一切合切抜け落ちた。
彼女はしばらく、そのまま……といっても、ほんの3秒ほどであるけど放心した。慣れてしまっているというその事実が、本格的に不味いと思っての事だったかもしれない。そんな彼女をゴブリンスレイヤーは特に問題はなさそうだという風に見下ろす。
そう、ゴブリンスレイヤーはゴブリンスレイヤーなりに女神官の事を気にかけているのである。それも、これも彼にとっては帰る理由である女性の言葉が理由であったりする。
――女の子なんだからさ。
(問題はなさそうだな)
仕事柄、彼女のそう言った顔は何度も見てきているし、彼女がこんな表情をする時は集中が出来ている時であり、そんな彼女の援護は頼もしいものである。
「なら」
「はい、呼ぶとしましょうか。確か、バレアレさんと言いましたね」
あの少女と何かと縁がある一家――と、言っても現在の構成は2人のようだ――のようで、以前は別の都市に住んでいたらしいが、つい最近こちらに越して来たのだという。
ゴブリンスレイヤーが戸を叩く。しかし、1分しても誰も出てくる気配はない。彼はもう一度戸を叩いた。それでも反応は無かった。
「まだ、眠っているのでしょうか?」
思わず彼女はそう言う。彼のノックは決して小さいものではないし、聞こえていないという事はないはずである。だと、言うのに誰も出てこないというのはおかしいし、エンリから聞いた限りでは非常識な人達ではないはずである。
「いや、そうではないようだ」
「ゴブリンスレイヤーさん?」
そこで、彼は家から伸びた煙突を指差す。そこからは未だに煙が伸びており、それは同時に室内で火を使っているという事であり、同時に彼女は恥ずかしくなった。その程度の事に気づけなかったという事実。冒険者をやっていれば、この程度のミスで命を落とすことだって珍しくはない。ならば、どうして出てこないのだろうかと疑問が湧きおこる。
「その、どうしましょうか?」
これでは、彼女から受けた恩を返すことが出来ない。かといって、戸を破るなんて非常識な事は出来ない。そんな彼女の隣でゴブリンスレイヤーもどうしたものかと思案しているようであり、そして提案した。
「扉をやぶるか」
「駄目ですよ!」
こうして、彼女達はしばし待ちぼうけを食らうのであった。
丁度その頃、家の台所で朝食を用意していたエンリは包丁を器用に操り、野菜を切りながらしまったと思っていた。毎朝毎朝、同じ事をしている彼女にとって、これは既に肉体が覚えた動きであり、その間に別の事に思考を割くのも日常茶飯事であった。
(どうしよう、あれを伝えるのを忘れていたよ)
匂いの事ばかりに意識がいってしまい、友人達の困ったところを、肝心な事を教えるのを忘れていたのである。彼らは研究中は本当に意識がそちらにいっているらしく、呼びかけてから戻ってくるのに少々時間がかかるのである。といっても、5分以内には出てくれるはずであるし、そこまで気にする必要はない。しかし、その事情を知らない人間であれば、話はまた変わってくる。
(大丈夫かな……)
2人とも穏やかな人柄でありそうだし、少なくとも友人が締められるなんて事になりはしないだろう。それでも、不安はつきものである。
(うん! 大丈夫だよね。だって、ンフィーだもん)
きっと、あの友人であれば、どんな事があっても問題はないだろうと謎の信頼で己を納得させて彼女は調理を進める。それから、しばらく彼女は1人で調理を進める。いつもであれば、赤毛のメイドに仮面の女性が手伝ってくれるのであるが、今日は1人であった。
別にそれ自体は問題ではない。多少時間はかかるが、その代わりに簡易的な作業を増やして時間と手間は調整出来る。それよりも、と彼女はこの場にいない人たちの事を思い浮かべる。
(ルプスレギナさん、大丈夫かな)
村の付近に現れた霧を調査するといって、いなくなってそのまま彼女が帰ってこないで今日が来てしまった。それが不安であり、同時に彼女に何かあれば、養父であるあの方に何と言えば良いのか。彼らの関係が単なる主従だけではない事は分かっているのに。
(私って、ほんとに何もできないね)
守られてばかりで、と彼女は自己嫌悪する。もし、自分がいなければあの方は心に傷を負う事もなかったのではないかと、その思考は悪い方向へと流れていき、その顔も曇っていく。そんな彼女を引き戻したのは、弱弱しい挨拶であった。
「おねえちゃん、おはよう」
「……あ、ネム。うん、おはよう」振り向けば、妹が片眼をこすりながらこちらを見ている。瞬時に彼女の顔はいつものものに戻る。そう言ったものを見せる訳にはいかないのであるから。「よく眠れた?」誤魔化すように彼女は妹へとそう声をかける。
(あんなに泣いたネムは久しぶりだったかな)
余程、彼の瞳は怖いものであったらしい。昨晩は自分にしがみついて離れようとしなかったのだ。今や、妹にとって甘える事が出来るのは自分しかいない。メイドはいなかった訳であるし、養父にしてもそうだし、まさかそんな事で呼び出すなんて出来るはずがないし、そこは妹も理解しているようで、決してその方の名前を口にする事はなかった。
確かにもしも妹がそれを口にしていれば、自分はそうしたかもしれないし。
後は、他にも顔は浮かぶ。いつか、自分達の養母になるのだと言い、その都度養父に叱らている純白のドレスを身に纏った彼女に、いつも村の生産等の相談にのってくれるスーツと呼ばれる服を着た彼、他にも沢山の人達の顔が浮かぶが、やはり頼るという選択肢は取れそうにない。自分達は援助を受けていて、そして現在も様々なことで助けてもらっている。これ以上何かを求めるのはやってはいけない事だと彼女は自身を戒める。
養父には以前、自分を支えて貰った事さえある。あれだって、本来はあってはならないことだ。
「うん……」
そう返すネムの声は元気が無くて、やはり昨日の出来事に彼女の不在が、幼い心に重しをかけているのかもしれない。
(今日は……)
この娘にも普段は働いてもらっているが、今日は休んでもらおうかと思った。こんなに精神的に疲労している状態では、いい仕事は出来そうにないし、精神衛生上にも良くない。
「ネム、今日は…………さん達に村を案内するから、お仕事はお休みしようか」
「え、良いの? おねえちゃん」
妹の疑問も最もであった。この村は決して裕福ではない。一日休めば、その分を取り返すのに相当働かないといけないのであり、そしてここは規模が小さい村である。少しのヒビ割れが全体へと広がることだってあり得るのであり、それは幼い妹でさえ理解出来ている事であった。
「うん、良いよ。その代わり、明日から少し量を増やすからね」その言葉に表情を暗くする妹に彼女は笑顔で続ける。「だから、今日はいっぱいお話しようね、久しぶりに本を読んであげようか」
彼女の言葉にネムは今度は表情を明るくする。それも無理はない、ここ最近、というかあの事件以来、姉と過ごす時間というのは減っていたから。昨晩は一緒に寝たが、それだって珍しい事になっていたから。姉はあれから、忙しい時間が増えてしまい、自分と過ごす時間は対象に減っていた。朝はこして朝食を作り、それから仕事をする。姉がしているのは、両親が残してくれた畑の管理に、それから自分には難しいことだらけだ。
エンリがしているのは、ネムが思い浮かべたように畑のことであったり、当然十代後半の少女が1人で出来るはずもなく、ゴブリン達であったり、メイドと同じように養父の所から来ているスケルトンにゴーレム達に手伝ってもらってだ。そうして、午前はそうして過ごし――といっても、そうする日が多いってだけで無論他の事にあてる日だってあるのだ。それから、家族の分の昼食を作り、振舞って、現在村に出来ている施設、農園であったり、つい最近出来たという養殖場の様子に、それぞれの生産状況を確認したりする。それから、彼女は村の人々の様子を見て回ったりする。それだって、本来は村長の役割かもしれないけれど、あの事件から、正確には彼女がその人物の養子となった時から、何かと彼女がやるようになっていったのだ。勿論、村長だって何もしないという訳ではなく、長年の経験を生かして彼女を助けてやったりする。
村長にしても限界を感じていたのだ。すなわち価値観の衰退と言うべきか、彼自身が経験してきたものはあくまで平和な村の運営である。それも、「森の賢王」と呼ばれる魔獣という存在に、不安定なものに頼り切っていた時代のカルネ村。
しかし、それによって、決してそれだけが原因でないけれど、襲撃にあった時、何も出来ずに家族でもある住民を何人も殺されたのであるから。
だからこそ、若者の感性に任せてみるべきであるという考えもあり、現在は自身が村長で彼女にその手伝いをしてもらっているという形になっているが、いずれその地位を彼女に譲るつもりであるし、それによってひと悶着起こる事になるが、それもまた別の話だ。
それから、夕刻になると彼女は夕飯を作って、それを振舞い。夜になれば、遅くまで勉強に励むようになった。全ては恩人である養父に少しでも恩を返すために、その間、ネムの相手をするのはメイドの仕事であった。その事自体にネムは不満を持っていない。
彼女は優しく、そして綺麗であり、それは声にしてもそうであった。透き通った水の流れというべきか、そんな声で聞かせられる読み聞かせを最後まで聞けた事はない。
赤毛のメイドにしたって、姉妹の、特にまだ幼い妹の方は、それこそ何が何でも守るべき存在であり、まだまだ育ち盛りである為に、愛情をもって接しているのである。その姿は普段の彼女を知るものであれば、卒倒して、そして実妹、それも下の方の者達が見れば、「自分達にもそう接して欲しい」と言ってしまいそうになる位に母性が溢れているのである。
そして、向けられる感情の暖かな熱だってネムは理解しているし、我儘を言わないようにしている。けれど、やはり子供心と言うべきか、妹心というべきか本心では姉ともっと一緒に過ごしたいのである。
だからこそ姉の提案は嬉しいものであり、ネムは元気な声で即答していた。
「うん! かお、あらってくる!」
そう言って走り去ってしまい、その足音。いつもより早く、それでいて床を叩く音が軽くて――それだけ早く、早く前に進もうとしている事がわかるそれを聞いて、彼女は微笑みながら、それでいて呆れたように名前を呼んだ。
「ネムったら……」
それから彼女はもう一人の事について考え始める。
(ヤルダバオトさん、それに…)
ジュゲム達が自分に内緒で彼女にそんな事を頼んでいた事に、やや困惑する。彼女達が自分達を害する可能性なんて全くないと、そう言う結論にあの夜なったはずであるというのに。少なくとも客人に対する態度としては最悪だ。寝込みを見張られて気持ちよく眠れる者なんていないだろう。
勿論それを知った時、ゴブリン達に軽く説教はした。確かに一度は敵として刃を交えたとしても、それ自体が不幸な行き違いであるのだから。そもそも、事実として成り立たない。
(それでも……)
彼らは珍しく、反論してきたのであるのだ。曰く、ああいう奴に限って実は獣であるとか、お嬢は美人であるからとか、その時は自分をおだてて適当にその場をやり過ごすつもりだったのかと更に強めの説教をしたのである。
(ヤルダバオトさんもおんなじような事を言っていたかな?)
――エンリちゃんさ~可愛いだから、その辺りは自覚しないと駄目だよ~
自身の容姿を褒められて、悪い気はしない。そう産んでくれた、今はなき母を褒めてもらえているように思えるし、いつか養母になるかもしれないあの人の美貌を思えば、少しでも近づけているようにも感じるからだ。
とにもかくにも、彼らに彼女の行為自体は、自分を心配しての事であるのは間違いないのだから。それに対して自分が出来る事と言えば、彼らが危険な人物ではないと自らが証明する事である。
「よし、今日も良い感じかな」
出来上がった料理をほんの少しつまみ、その味が母に教えてもらったものに限りなく近い事に満足感を抱きながら、彼女は盛り付けを始める。
「お姉ちゃん、顔を洗ってきたよ」
「うん、なら今日はヤルダバオトさんを起こしてきてくれるかな?」
「え、ヤルダバオトさんって、まだ寝ているの?」
意外そうな顔をする妹が可笑しく思えてしまう。しかし、妹がそう思ってしまうのも当然だろう。ヤルダバオトもまた、睡眠時間は少ないようであり、いつも自分より先に起きている事が殆んどであり、時折自分の方が早い事があっても、彼女がいない時間は精々10分程である。自分がそうであるのだから、妹が彼女より先に起きるなんて事は皆無に近い。
だからこそ、初めての体験とも言えるのであり、ネムはヤルダバオトの事も大好きだ。そんな人物を起こす事が出来るのはある種のコミュニケーションとも言える。
「うん、ちょっと寝坊しちゃったみたい」
「分かった! 行って来る!」
再び妹が走って、出ていく。外からは土を踏みつける音が響いて来て、そして――
強く、地面に何かがぶつかる音が聞こえて、それからまた足音が聞こえてくる。
「もう、ネムったら」
余りの嬉しさに、足が追いつかない程の速度を出してしまい、倒れたのだろう。それ位で泣く子ではないので、特に心配もしないけど。それでも、ため息が出てしまう。妹はまだ、幼いのであると再認識させらえるのであるから。
エンリは気を取り直して、朝食の盛り付けを再開する。外を見れば、ゴブリン達にヤルダバオトも所属している教団の人達がテーブルに椅子のセッティングをしてくれている。これもまた、彼女にとっては日常の一部であった。
(と、いけない。急がないと)
彼らは仲があまり良くない。ほっとけばまた変な事で争いだすかもしれない。そうなる前に自分が出て行かないといけない。
「ごめんなさい、少し手伝ってもらって良いでしょうか?」
「お嬢の命令とあらば!」
「巫女様が我らを頼ってくれるとは!」
いつもであれば、3人、もしくは2人でやる事が多いけど、今日はいない。1人で運ぶには流石に量が多すぎる為に彼女は助けを求め、そしてそれに応じて人、ゴブリン問わず彼女の元に殺到する。そして、料理を運んでもらいながら、彼女は空を見上げた。
未だに霧は深く、日の光さえ霞んでしまい、朝だというのに暗い。それを見て、彼女は胸に手を当てる。不安な時は無意識的にそうしてしまうようであった。
(ルプスレギナさん、………………ゴウン様)
彼女の無事を祈ると同時に、それしか出来ない自身への嫌悪。それに、心が追い込まれる度に養父へと助けを求めたくなり、それを必死に抑える。これ以上、あの方に迷惑をかける事は許されないと自分自身を戒める。
「お嬢? どうかされましたかい?」
「何でもないですよカイジャリさん」
「そうですか、なら良いんですが」
彼の心遣いに感謝して、そしてそこまでさせてしまった事を謝罪して彼女も朝食の席につくのであった。
ゴブリンスレイヤーと女神官の2人が、どうしようかと決めかねている前で扉が静かに開く。それを見た彼女は胸を撫でおろした。これで、エンリから頼まれた事を完璧にこなせると。
(ですけど、なんだかおかしいですね)
扉の開き方に違和感を覚えてしまう。とても緩慢であったのだ。それから、中から出てきたのは髪で目元が隠れた少年であった。その姿を見て、彼女は記憶の糸を手繰り寄せる。この家の家族構成に名前はエンリから聞いていたから。
「あの、ンフィーレア・バレアレさんですか?」
彼女は問いかけるが、彼からはかすれたうめき声のようなものしか聞こえず。それから、彼は半歩踏み出したと思うと、前のめりに倒れた。
「え?」
「ゴブリンか」
「いえ、違うと思います」
即座に武器を構えようとする彼を何とか抑えて、彼女はこれからどうしたものかとしばし途方に暮れるのであった。