もし一人のオリキャラが増えることで、ユウキが生きるルートが生まれるなら 作:葦束良日
木綿季にとって、街を歩くことは大いなる楽しみであった。
知らない景色、知らない人、知らないお店、知らない曲がり角。
小さな頃に無邪気に出歩いていた記憶は既に遠く、彼女の記憶の大半は病院の中と仮想世界での冒険によって占められている。
姉と、そして《スリーピング・ナイツ》という気を許せる同じ境遇の仲間たちと一緒に過ごした日々。数々の世界を渡り、様々な冒険をしてきた。
それもまた木綿季にとっては決して色褪せない大切な思い出だったが、現実世界で自らの足で街を歩く時間も、負けず劣らず心躍る時間だった。
欲を言えば隣に総真がいてほしかったのだが、残念ながら彼はまだ大学に残っていて帰ってきていなかった。そのため、木綿季は一人でそろそろ夕方を迎えようかという街を一人で歩いていた。
周りにはちらほらと帰宅途中の学生の姿が見える。その姿を見ているだけで木綿季は自分もいずれ通うことになる学校や、そこでの生活を思って期待に胸が膨らんだ。
長い入院生活によって小学校ですら卒業できないままになっている木綿季は、目下中学校に通うために勉強中だ。義務教育である以上は入学できることは確定しているのだが、入ったはいいが授業が分からないというようではいけないと思ったからだ。
そのため、木綿季は現在自宅学習の真っ最中だった。
今のこの時間はその息抜きのようなものだ。今の自宅である倉橋家からはやや遠いこの街だが、総真の家からはさして距離がない。だから木綿季は気軽にこの街を散策していた。
夕方終わりまでいると、倉橋家に着くのは少し遅くなってしまうのだが、いざとなれば木綿季は総真の家に泊まるつもりだったので特に問題視していない。
それを知れば総真はまた「女の子なんだから」と苦言を呈してくるだろうが、既に彼の母親は木綿季の味方であった。総真は部屋がないと言っていたが、空き部屋があることなどとっくに把握しているし、そこに総真の母は布団まで常備させていた。
それに、総真がそういう言い方をするということは、少なくとも総真は自分のことを女の子――異性として見てくれているということだ。妹や家族ではなく。そのことが木綿季は気恥ずかしくも嬉しかった。
きっとこのあと総真の家に行って「ただいま」と言えば、総真は驚くだろう。それで家に送ろうと言ってくるだろうが、その辺りはおばさんに協力してもらえばいい。
そして肩をすくめながらも笑顔で、総真は自分を迎えてくれるだろう。「おかえり」とそう口にして。
そのことを想像するだけで、木綿季は楽しくなる。そんな弾む気持ちを表すように足取りも軽くこの街のアーケード街を行く木綿季の目に、ふと不穏な光景が映った。
「あれ?」
それは、自身の前を歩く一人の女子学生だった。短い黒髪の少女で、横を向いた時の顔から眼鏡をかけているのがわかる。
その少女が、ゲームセンターの前を通り過ぎた時、その横から何者かに呼ばれ、渋々と、それでいてどこか怯んだ様子で路地に入っていったのだ。
「……これ、まずくないかな」
不審に思った木綿季は、ゆっくりとゲームセンターのほうへと歩を進め、路地に入る手前で立ち止まった。
姿を見せることはせず、角の先から聞こえてくる声に耳を澄ます。何やら会話をしているようだが、内容までは聞き取れない。
もどかしい思いでいると、不意に「ばぁん」と銃を撃つかのような発砲音の声真似が聞こえてきた。
そして、何かが地面に落ちた音。恐らくはあの女子生徒が持っていた鞄、だろうか。
これは危ない。そう思った木綿季は細心の注意を払って角から僅かに顔を覗かせた。
そして見たのは、数人の女子に囲まれるようにして膝をついて体を丸めている少女の姿。
それを見た直後、咄嗟に木綿季の口は動いていた。
「おまわりさんっ! この路地です!」
木綿季がそう声を上げた途端、角の向こうがざわめいた。そして、ばたばたと反対側に向けて去っていく足音。
それを聞いてから、木綿季は路地に入った。そこには、未だに顔を青くして蹲る少女が残されていた。
「だ、大丈夫ですか!? お姉さん!」
「あ、なた……?」
「無理して喋らないでください、落ち着いて……」
木綿季の顔を確認した少女が話そうとするのを木綿季は止める。明らかにそれどころではない顔色だったからだ。
彼女自身も自覚があったのか頷いて、しばらく沈黙する。彼女のやや乱れた息遣いだけが続くことしばし、どうにか平静を取り戻した少女が立ち上がると、寄り添うように座っていた木綿季もまた立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
「ええ……。ごめんなさい、ありがとう。あなたでしょう、さっきの声……」
少女がそう確認をすると、木綿季はにかっと歯を見せて笑った。
「えへへ、ナイスアイデアだったでしょ?」
そんな明るい笑顔を見せる木綿季につられるように、少女の顔にも笑みが差す。まだ少し顔色は悪かったが、先程までの様子からはだいぶ回復しているようだった。
「助けられた私が言うことじゃないけど、一人でこんなことをしたら駄目よ。あなたまで危ない目に遭ったら大変だから」
「う……。うん、そうだったかも。気を付けます」
しゅんとした木綿季に、少女は慌てたように言葉を足した。
「え、ええと、でも本当に助かったわ。ありがとう。私は、朝田詩乃っていうの。あなたは?」
「ボクは紺野木綿季だよ! えっと、詩乃お姉さん?」
木綿季がそう呼ぶと、詩乃はその表情を苦笑に変えた。
「詩乃、でいいわ。恩人に畏まられるのもね」
「恩人ってほどでもないけど……それなら、ボクのことも木綿季って呼んでね。詩乃さん!」
どこまでも元気で闊達な木綿季に、陰り気味だった詩乃の顔にも明るさが戻ってくる。ふふ、と小さく微笑み、いつまでもここに居ても仕方がないと、詩乃は落とした鞄を拾いあげ、木綿季を連れて路地から出た。
「えっと、木綿季……でいいの?」
こくん、と木綿季は頷く。
「それじゃあ、改めて。ありがとう、木綿季。あなたのおかげで私は助かったわ」
「へへ、どういたしまして! でも、詩乃さん。ああいう風なのが続いているなら、誰かに相談した方が……」
木綿季が詩乃を気遣ってそう提案するが、詩乃は首を横に振るだけだった。
「学校に言っても、あまり、ね。大丈夫、これ以上エスカレートするようなら、警察に届けるわ」
その微笑みは、木綿季に心配をかけまいとする詩乃の優しさだったのだろう。それを木綿季は敏感に察していた。
そして同時に、その笑みに含まれた諦観をも木綿季は見てとっていた。それを察することなど、木綿季にしてみれば実に容易い事だった。
何故ならそれは、かつて自分がよく浮かべていた笑みと同類のものだったからだ。
詩乃が抱えているものが何なのか、木綿季にはそこまでのことはわからない。けれど、その既視感を覚える笑顔を見たことで、木綿季は詩乃のことがどうにも気にかかって仕方がなかった。
だから、木綿季は次に自分が取るべき行動をすぐに決断した。自分の感情に素直に生きる事。それは木綿季がまだ短い人生の中で学んだ彼女なりの信念でもあった。
「ねぇ、詩乃さん」
「なに?」
「ボクともっとお話しませんか?」
「……え?」
その時、詩乃は思った。なんで私、年下の女の子にナンパされているのだろう、と。
詩乃がそんなことを思っているとは露知らず、木綿季はにこにこと笑っていた。
「えっと、それはその……どうして?」
「だって、せっかくこうして知り合ったのにすぐに別れたら勿体ないでしょ? ボクはもっと詩乃さんと仲良くなりたいなぁって思って」
「でも、もう四時を回ったわよ?」
「少しぐらいなら問題なし!」
無垢かつ無邪気な笑みを受けて、詩乃は心の底から迷った。本当なら、このまま別れるのが正解なのだろう。木綿季はどう見ても中学生だ。まだ夕方になる頃合いという程度ではあるが、そろそろ帰った方がいいだろう。
けれど、詩乃にとって同性とこうして話す機会など今では無きに等しいため、貴重な機会でもある。それに、詩乃自身も木綿季と話をしてみたい気持ちがないわけではない。
それに、彼女の笑顔を見ていると、何だか何とかしてあげたくもなるのだ。
だから詩乃は悩みに悩んだ結果、すっと細い指を近くのファミレスに向かって伸ばした。
「じゃあ……あそこで三十分ぐらいなら」
それ以上はさすがに遅くなってしまうし、この辺りが妥協点だろう。一般常識と自身の希望と木綿季の申し出を天秤にかけた結果、詩乃が判断を下したギリギリのラインがそれだった。
その提案に木綿季は頷くと、携帯を取り出して何やら操作を始めた。そして、よしと頷いて携帯をしまうと、木綿季は詩乃の手を取った。
「いこ、詩乃さん!」
屈託なく笑って自分の手を引く木綿季に、詩乃は最初呆気にとられたが、次第に表情が和らいでくる。
もし自分に妹がいたら、こんな感じだったのだろうか。不意にそう思った詩乃は、途端に木綿季のことを身近に感じ、同時に彼女と話すこれからの三十分が楽しみになっていた。
その時、詩乃が浮かべていた笑みは本当に自然で柔らかなものであった。そのことに詩乃は気づいていなかったが、木綿季は詩乃のその顔を見て嬉しそうに表情を綻ばせ、ファミレスへと入っていったのだった。
*
一方、その頃。大学で残り講義時間数分というこの日最後の講義を受けていた総真は、ポケットに入っていた携帯が震えたことに気がついた。
こっそり机の下で携帯を確認すると、届いたのはメールだった。差出人は木綿季である。
それを開き、内容に目を通す。短かったので、すぐに読み終わった。
再び携帯をポケットにしまい、総真はふぅ、と吐息を一つ。
そして、心の中で思う。
(……木綿季。『可愛いお姉さんとお友達になった! 今からいつもの商店街横のファミレス行ってくるね!』ってなんだ? どういうことだ?)
一体いま木綿季は何をしているのか? 厄介な事態に巻き込まれてはいないか?
文面からは全く分からない状況に、現在の木綿季が気になって仕方がない総真は、ちょうど講義が終わったこともあってすぐに大学を出た。
一応メールで『一体どうした? 何か危ないことになっているわけじゃないか?』と聞いたところ、返ってきたのは『大丈夫だよ!』という返事のみ。
しかし、長く病院暮らしで仮想世界暮らしだった木綿季だ。やや世間知らずな側面がまだあることを総真は危惧していた。だから大丈夫だと聞かされてはいたが、一応は現地に向かうことにした。
そこはメールにもあった自宅近くの商店街。いつも木綿季が自身の家に来ると、散歩として向かうコースだった。
やや早足で歩を進める総真は道中、俺って過保護だよなぁと思いながら、件のファミレスへと向かうのであった。
*
ファミレスに入った木綿季と詩乃の二人は、それぞれドリンクバーを頼んで互いに飲み物を用意し終えると、ふぅとテーブル席で一息ついた。
「ごめんね、詩乃さん。ボク、ちょっと強引だったよね? 詩乃さんにも予定があるのに……」
いざファミレスに入ってから申し訳なさそうにする木綿季に、詩乃は小さく笑みを見せた。
「いいわ。元々、後は帰って夕食を作るかゲームをするかってだけだったから」
口にしてから、とても花の女子高生が口にするような予定ではないなと詩乃は内心で自嘲する。
我ながら、なかなかに灰色の青春めいているものだと思う。いや、実際には荒野で銃をぶっ放しているのだから、灰色どころか鉄と硝煙に彩られた真っ黒な青春かもしれない。
まぁ、ことさら恋愛だなんだと騒ぐ性質でもないから構わないのだが。そう思ってコーヒーカップを傾ける。
「ほぇー、夕食ってことは一人暮らししてるの?」
「ええ。慣れれば結構楽しいものよ」
あくまで慣れれば、だが。それまではやはり詩乃も一人暮らしの自由さよりも煩わしさのほうが先立った。それに、一人というものは何かあった時に怖い。特に自分のような女の一人暮らしの場合は。
先ほど絡まれた女子――遠藤。彼女のことをまだ友人だと思っていた頃、事あるごとに「友達でしょ?」などと言われて無理を聞かされ続けたことを思い出す。
金銭を含め、最終的には合鍵まで握られた。挙句には、詩乃の自室に顔も知らない男を呼んで騒ぐほどに彼女の行為はエスカレートした。
彼女にとって自分は友人ではなく、ただの便利な下僕程度の認識でしかなかったのだ。そう悟った時の詩乃の悲しみと怒りと絶望は、きっと余人にはわからない事だろう。
さすがにその時は警察にも連絡をする事態になり、その後はああして事あるごとに絡まれる羽目になっている。
これは極端な例だが、女の一人暮らしには危険が伴う。それは事実なので、詩乃としてはなるべく実家暮らしが一番だと考えていた。
であるから、目の前で憧憬の目を向けてくる少女には苦笑する他なかった。
「すごいなぁ。一人暮らし出来るぐらいボクも早く大人になれたらいいのに……」
「あら、なにか悩み?」
木綿季の言葉はこの年頃であれば男女問わず漠然と思う願望であったが、そこにどこか切実な響きを感じた詩乃はそう尋ねた。
木綿季はすぐに詩乃に答えることはせず、うーん、としばし唸る。
何と言っていいものか言葉を探しているのだろう。それを察した詩乃は言いたいことが纏まるまでひとまず黙っておこうと考えてカップを口に運び、
「はい、先生! 年上の男の人がボクのことを子供だと言って積極的になってくれないんですが、どうしたらいいでしょうか?」
「ぶっ」
年下の少女から飛び出たアダルティな質問に、思わず口の中のコーヒーを噴き出す危機に見舞われた。
なんとか乙女にあるまじき光景を作り出すことは阻止できたものの、僅かに気管への侵入を許したらしく、軽くむせる。
大丈夫? と心配そうに見てくる木綿季を手で制して、詩乃はどうにか呼吸を整えて、もう一度目の前の少女に向き直った。
「え、えっと……それは、あなたとお付き合いしている相手の事なの?」
とりあえず詩乃はそう質問をした。
内心では、幼げなこの少女が恋愛面では明らかに自分の先を行っているらしい事実に衝撃を受けてはいたが、それはおくびにも出さない。
「うーん……付き合ってはいないんだけど。でも、たぶんボクと相手の気持ちは一緒だと思う」
木綿季は苦笑いと共に「やっぱり七つの歳の差は大きいよねぇ」などと呟き、詩乃を仰天させる。
「七つ……相手の人は大学生?」
「そう。でも事あるごとにまだ子供なんだからって言って、煙に巻こうとするんだよ」
それはそうだろうと詩乃は思う。むしろそこで嬉々として手を出すような男なら、木綿季には悪いが付き合い方を考えた方がいいとさえ思った。
幸いそんな男ではないようだったが、しかしどうもこの少女は見た目にそぐわず、なんだか経験豊富なようだった。
恋愛に一喜一憂するその姿は、微笑ましくもあり、そして羨ましくもあった。それは詩乃が持ちたくても持てない心の余裕がなければ、到底得ることが出来ない感情だったからだった。
いつか、自分もそんなゆとりを持つことが出来る日が来るのだろうか。悩む木綿季の姿を見ながら、詩乃はふとそんなことを思った。
「そりゃボクのことを考えてのことだってことはわかるんだけどさ。ボクだって、もっとこう、スキンシップというか、今以上に近くなりたい気持ちっていうかさ……」
ごにょごにょと呟きが聞こえてくる。
たった一人の異性との関係について必死に悩むその姿は、とてもいじらしい。詩乃はそんな今を精一杯生きている姿に羨望を抱きながら、柔らかな笑みを浮かべて木綿季を見た。
「あまり、焦ってもいいことはないと思うわよ。相手の人は誠実な人なんでしょう?」
「うん」
木綿季はすぐに首肯する。詩乃は「そう」と相槌を打った。
「なら、まずは木綿季のこうしたいっていう気持ちを伝えるべきじゃないかしら。そうすればきっと、その人は木綿季の気持ちを考えた行動をとってくれると思うわ」
誠実な人なんでしょう? と詩乃が問えば、木綿季はこくこくと首を縦に振った。
「うん。うん、そうだよね。ありがとう詩乃さん!」
「どういたしまして」
ぱっと表情を明るくした姿に自然と表情を綻ばせながら、詩乃はやや熱を失ってきたコーヒーに口を付けた。
ここ最近なかった穏やかな心地だった。先程までささくれ立っていた気持ちが、なんだか今は凪いでいる。まるで全ての悩みを何処かに置いて来てしまったようだった。
もちろんそんなものは詩乃の勘違いで、彼女の心の底に沈殿した懊悩は今も暗い炎を揺らめかせて燻っている。
けれど、この一時だけとはいえそれを忘れてリラックスできたことは、詩乃の心を確かに軽くしていた。
それだけ、この木綿季という少女が持つ明るさや前向きな活力とでも言うべき力が強かったのだろう。詩乃の暗い心にも光を差し込ませるほどに。
一時とはいえ、そんな気持ちにさせてくれたことに詩乃は心から感謝していた。そして、出来ればこのままもう少し話していたい。居心地のいい時間を過ごしたいと思っていた。
だからだろう。木綿季の口から出た言葉に、詩乃は咄嗟に反応できなかった。
「それで、詩乃さんのほうは?」
「――え?」
「詩乃さんも、何か悩みがあるんでしょ?」
当然そうだろう、というような口調で問われたそれに、詩乃は絶句した。
一瞬、頭が真っ白になった。だって、自身が抱える悩みなんて、それは《あのこと》以外にありえないのだから。
一瞬でも、そのことについて考えてしまったからだろうか。心の底に沈んでいた何かが鎌首をもたげた感覚に詩乃の背筋が震えた。
口の中の水分が明らかに減った感覚を覚えて唾液を無理やり呑みこんだ詩乃は、真っ直ぐに見てくる木綿季から僅かに目を逸らした。
「それは……どうして、そう思ったの?」
直後、我ながら馬鹿な質問をしたと詩乃は思った。彼女は自分が遠藤たちに絡まれている姿を目撃している。そんな木綿季にしてみれば、彼女たちに関して詩乃が悩んでいるだろうと予想するのは当たり前のことだ。
しかし、詩乃にとって遠藤たちのことなど然程大きな悩みではなかった。悩みには違いないが、それよりもよほど大きな根本的で詩乃の本質に根差す問題を詩乃は抱えているのだから。
だから、遠藤たちのことに関して心配してくれるのは嬉しいが、大丈夫だと返そうと思った。きちんとこれから学校と警察に話をする、と言おうと思った。たとえ嘘だろうと、そう言っておけば木綿季は安心してくれるだろうと思ったからだ。
それでこの話はおしまい。あとは笑顔で手を振って別れて、元の生活に戻るだけ。
自分が本来抱える問題に触れかねない、そんな事態は、絶対に避けなければならない。そう詩乃が思って、「心配しなくても大丈夫よ」と言おうとしたところで。
「だって詩乃さん、寂しそうにしてたから」
聞こえてきたそんな言葉に、詩乃は言おうと思っていたことを口に出すことが出来なくなってしまった。
それは、木綿季の言葉が決して的外れなものではなく、むしろ心のどこかで詩乃もまた感じていた感情の空隙を表すのに的確な表現であったからだった。
――誰か、助けて。
それが弱さと知り、唾棄すべき感情であると定め、それを乗り越えた先にある強さにこそ自身の安寧は存在すると信じた。
そう固く信じていてもなお、ふとした拍子に顔を覗かせる自分以外の誰かに手を伸ばそうとする弱さは、きっと言い換えれば木綿季の言う通りだったのだ。
――けど、駄目だ。
詩乃は強くそう思う。
それを認めてしまったら、きっと自分は立ち上がれない。弱音を吐くようなことをしたら、何物にも負けないような絶対的な強さは未来永劫手に入れることはできないだろう。
もし、そうなってしまったら。
――自分は一生、あの時の恐怖と絶望に苛まれながら生きていかなければならなくなってしまう。
「――っ……!」
「詩乃さん?」
駄目だった。
一瞬でもそんな未来を想像しただけで、詩乃の感情は暗く塗りつぶされ、体は縮み上がり、胃が収縮し始める。
詩乃はどうにかそれに耐えて立ち上がると、急いで財布を取り出してお札をテーブルに置いた。
突然の詩乃の行動に木綿季は目を丸くするが、それに構っている余裕は今の詩乃にはなかった。
自分の行動がどれだけ相手に失礼か理解していても、とてもではないが気遣っているような余裕はない。
「ごめ……なさい――!」
どうにかそれだけを口にすると、横に置いてあった鞄を引っ掴んで席を離れた。
レジで驚いた顔をしている店員の前を駆け足で過ぎ去り、詩乃は外に飛び出した。
そのまま急いで自宅であるアパートへと走る。吐き気は未だ収まらないが、それでも何とかまだ耐えられるレベルだった。自室に戻って一度吐けば元に戻るだろう。
けれど、それでも、詩乃の目からは涙がこぼれていた。
それは、体の不調が原因ではない。未だに過去を思うと逃げ出さざるを得ない自分の弱さと情けなさにこそ、詩乃は泣いていた。
なんて無様で、弱いんだろう。自分は未だにあの時の事に囚われている。今までも、今も、そしてこれからもだ。
それもこれも、自分が弱いからだった。過去に振り回されないほどに自分が強ければ、きっとこんな風に逃げ出すこともなくなる筈だった。
強く、強く。もっと、強くならなくては。
氷のスナイパーと称されるほどの狙撃手であるシノンのように。第二回BoBにおいて二十二位という位置につけたシノンのように。現実では銃の撃ちマネを見るだけで倒れてしまう《詩乃》ではなく、身の丈ほどの銃を体の一部のように扱う《シノン》のように。
詩乃がシノンになればきっと、弱さはなくなる。そして今度は二十二位ではなく、優勝すれば。
あの世界で一番強くなればきっと、自分は強くなれるはずだ。
そうすればきっと、《あの過去》とも決別できる。
だから。
「い、かなきゃ……」
あの世界に。
ひどく掠れた声で呟いて、詩乃は弱々しく地面を蹴った。
詩乃と邂逅するのは総真よりも先に木綿季でした。
この二人が会うって、原作のことを考えると何となく感慨深いです。