もし一人のオリキャラが増えることで、ユウキが生きるルートが生まれるなら   作:葦束良日

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16 第三回BoB《バレット・オブ・バレッツ》予選

 

 

 無数の赤いラインが燐光を伴って俺の体を囲うように宙を奔る。

 まるで古代ギリシアのパルテノン神殿が崩壊したような、罅割れて乱立する円柱の陰から行われる射撃の弾丸の軌道は、夕闇に紛れるようにして先に輝線となって瞬いた線の上を一直線に進む。

 それはもはや人間の視力では追うことなど出来ない超高速。ライフリングの螺旋軌道を描きながら間断なく襲い来る弾丸に、しかし俺は一度として当たることなく相手との距離を詰めていた。

 予測線の根元は、俺が今立っている場所から等間隔に並ぶ円柱を十何本ほど追い越した先。古代遺跡外縁部に近いひときわ大きな円柱の陰に、俺の対戦相手が潜んでいる。

 再び伸びてくる赤い軌跡。これが表示されているということは、まさに今相手は俺に照準を定めているということになる。そして同時に、あちらの視界には着弾予測円が拡大と縮小を繰り返しながら映っているはずだ。

 

 予測線と予測円の表示時間は連動している。予測線が見えている間は、相手にも予測円が見えている。両者は射手が照準を合わせている間のみ表示されるシステムであるからだ。

 そして引き金を引いた瞬間、ぶれていた予測線と拡縮を繰り返す予測円は固定され、あとはその円が示した目的地に向かって線をなぞるように弾丸が飛ぶ。

 熟練の者なら、予測円が一度でも収縮した瞬間、あるいは表示されてすぐに引き金が引ける。この大会にエントリーした以上、相手は熟練者なのだろうが、これだけ長い間予測線が固定されないということは、どうも向こうは動揺しているらしい。

 

 と、言っている傍から予測線が動かなくなった。そう目で見た瞬間、反射的に俺の体は横にずれて、ずれが生じた空間を弾丸が素通りしていった。

 

「――っそ、たれッ!」

 

 離れた位置から、そんな悪態が薄らと聞こえてきた。

 まぁ、気持ちはわかる。まさか相手が銃弾を“見てから避ける”を地で行っていたら、それはそう言いたくもなるだろう。

 

 しかし、言い訳をさせてもらえるならば、そもそもGGOは被銃撃者に優しいシステムだ。なにせ、銃撃者が予測円の中のどこに銃弾が当たるかわからないのに対し、予測線は正確に弾が来るポイントを教えてくれる。その時点で、受ける側に有利である。

 だからこそ、俺のような戦闘スタイルが成り立っている。さすがに正確にここに来るとわかっていなければ、避けるなんて不可能だ。もし予測線が無かったら、あるいはそこに僅かでもランダム性があるのなら、俺なんて雑魚もいい所である。

 しかし、そこはプログラムでありシステム。そう設定されている以上、予測線に間違いはない。必ずそこに来るのだから、後はいかに反応できるかどうかにかかっている。

 だからある程度俺に有利なのは仕方がないのだ。とはいえ、銃撃者も腕を上げれば、予測円が最も早く、最も収縮したタイミングを逃さず撃つことも出来るようになる。あるいは、予測円に頼らずに狙撃することすら可能となるだろう。

 シノンなんかは、その域にまで届いていると俺は思っている。出来ている人間がいるのだから、今回に限って言えば、相手の鍛錬不足というほかあるまい。

 

 まぁ、それは同時に俺にも当てはまることなのだが。

 俺の直前に試合があったキリトの戦いを見たからわかる。確かに俺は予測線を見て、瞬時に反射行動をとって弾丸を避けることが出来る。

 しかし、予測線と自分の間に剣を挟んで叩き斬るなど、とてもじゃないが出来ない。避けるという一工程が俺の限界で、彼我の間に剣を挟むなどという動作を加える余裕など、俺にはなかった。

 つまりは俺も結局はまだまだ未熟者だということだ。というか、なんで今日はじめたばかりのキリトにもう抜かされているんですかね、俺は。溜め息が出るってものだ、まったく。

 

 しかし、だからといって勝てないというわけではない。才能や実力が勝敗に直結するというわけではない。環境、作戦、道具、考えられる対策はいくつもある。

 だからこそ、諦めるなどもっての外。俺は俺なりに、この大会での優勝を目指す。

 

 そう決意を固めると同時に、力強く石畳を蹴る。

 再び前方から照射される予測線。それらが素早く固定される。

 それを見た瞬間に回避行動に移り、体をずらし、沈め、あるいは大きく横に跳んで、全てをやり過ごす。

 その間に、俺の右手には銀のマグナム銃――相棒たる《デザートイーグル》が握られていた。

 円柱の外側から回り込むように相手に向かって接近していく。再び夥しい数の予測線に晒され、それらを数発掠らせてHPを削り取られる。

 しかしその甲斐あってこの距離ならば回避行動をとっても相手を確実に外さないと思える範囲に収めた俺は、素早くイーグルの銃口を相手に向けた。

 

「おたくに一つアドバイスだ。後で賭けるなら俺に賭けとくといいぞ」

 

 直後、轟音と共に撃鉄が下ろされ、薬莢が飛び出した。

 放たれた弾は過たずに相手の急所を貫いて、迷彩服と同色のプロテクターで固められた体はポリゴン片となって散り、空には《Congratulation》の文字が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

 試合を終えて待機エリアとなる元いた場所に転送された俺は、まずはということで知り合いを探すことにした。

 一人はシノン、一人はキリトだ。きょろきょろと周囲を見るが、どうやらシノンはいないようだ。現在ちょうど試合中らしい。

 となればキリトを探すかと周囲をもう一度見る。途中、灰色の髪で長身の男と目が合い、何やら剣呑な目を向けてきたが、生憎と心当たりがなかったので勘違いだろうと捜索を続行する。

 すると、待機エリアの端。狭いボックスシートに腰を下ろす黒髪を垂らした小柄なアバターが見えた。

 キリトだ。どうやらまだ第二試合は始まっていないらしく、この待機エリアに残っていたようだ。

 

 俺は早速とばかりに声をかけようと近づいて、徐々にその異変に気がついた。

 キリトは背中を丸めて小柄な外見を更に小柄にし、そのうえ下を向いて自分で自分の腕を掻き抱きながら、小刻みに震えていた。呼吸もやや早く、明らかに平常ではない。

 俺は慌てて駆け寄ると、その肩を掴んだ。

 

「キリト! おい、どうした?」

「……ぁ、ソウマ、か」

 

 上げられた顔からは、わずか数十分前までは確かにあった生気がごっそりとなくなっていた。

 アミュスフィアが体調不良、精神不良と判断して強制ログアウトさせてもおかしくない。それほどまでに今のキリトの顔色は悪かった。

 

「どうしたんだ、一体。さっきは別にそんなんじゃなかっただろう」

 

 俺が顔を覗き込んで言えば、キリトはその瞳を暗いものにして自身を掻き抱く手にぐっと力を込めた。

 

「あいつが……あいつが、いた……」

 

 わななきを含んだ声が震える唇から紡がれる。俺は首を傾げた。

 

「あいつ? 誰のことだ?」

「わからない……名前は、思い出せなかった。けど、絶対に俺はあいつと会っている。あいつの名前を知っているはずなんだ……!」

 

 キリトの言葉は難解だった。主語がなく、誰に対してのことを言っているのかが判然としないためだ。

 これほどまでに動揺する何かがキリトの身に起こったのだとすれば、とても捨て置けることではない。年の割に度胸と勇気はある男なのだ。そのキリトが、これほどまでに弱っている。

 一体何があったのか。俺はもう一度ゆっくりと口を開いた。

 

「キリト、落ち着け。いったい誰のことを言っているんだ」

「――《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》」

 

 絶句した。

 告げられたのはたった一つの単語であるというのに、それを耳にした途端、俺もまた一瞬にして平静を失う。

 

「な、ら、ラフコフ……?」

 

 思わず呟いた声には、自分でも驚くほどに動揺が混ざっていた。キリトは頷く。

 

「……聞いたことがある声だった。ラフコフの幹部格……そいつが今、GGOにいる」

 

 まさかもう一度その名前を聞くことになるとは、という思いと共に、否応なく当時の出来事が蘇ってくる。それがあまりにも辛い。

 きっと、キリトも同じような気分を味わったのだろう。いや、直接対峙したのだとすれば、それはきっと俺が今感じている感情の比ではないはずだ。

 

 俺はようやく、キリトがここまで動揺している理由を実感として知った。

 それほどまでに、あのギルドの名前は俺たちにとって大きすぎる。

 

 待機エリアの片隅、ボックスシートに俺も腰を下ろす。二人して横に並んで座ったまま、しばし黙った。

 

「……なんだって、今さらラフコフが……」

 

 俺がそうぽつりと呟いた瞬間。黒い人影が俺たちの前に立った。

 

「――やはり、そう、か」

 

 掠れた、途切れ気味の声。

 俺とキリトは弾かれたように顔を上げた。

 ぼろきれのような灰色のマント。顔全体を覆う髑髏を模したようなゴーグル、そのレンズ部分だけが赤く光を反射する。

 今、そのレンズには驚愕を露わにした俺とキリトの顔が映り込んでいた。

 

「――ッ!?」

 

 息を呑む。この喋り方、そうだ。俺も記憶にある。

 

「キリ、ト……ソウマ……。お前たち、顔見知り、か。ここまで、くれば、確定、だ」

 

 男の声に喜悦が混じる。何らかの機械を介した声だ。肉声はわからないが、しかしこの特徴的な喋り方は忘れられない。

 そして、このゴーグル。レンズ。目の部分だけが赤い、とくれば、俺の記憶に該当する男は一人しかいなかった。

 

「赤眼の……《赤眼のザザ》か――!」

 

 俺が発したその名前に、目の前の骸骨はくぐもった笑みを漏らした。

 

「お前たちは、必ず、殺す。必ず、だ。イッツ、ショウ・タイム……!」

「ま、待て!」

 

 踵を返そうとした相手を引き留めようと腰を浮かせるが、その前に奴の姿はまるで転移結晶を使ったかのように掻き消えた。恐らくは試合会場に転送されたのだ。

 取り逃がした。いや、あそこで捕まえたところで、何が出来た。ここはSAOじゃないし、例えそうであっても街中でプレイヤーを拘束する手段など限られている。

 俺は拳を強く握りこんだ。

 

「ラフコフ、だと……今更……っ」

 

 俺たち元SAOプレイヤーにとって忘れられない存在。それが《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》だ。とりわけその首領たる《PoH》とそれに付き従う幹部はあまりにも危険すぎた。

 積極的に殺しを楽しんできた連中だ。奴らもSAOが解放されて、牢獄から現実へと戻ってきていることは理解できていた。しかしそれでも、こうして実際に会うと、やはりその滲み出るような悪寒を意識せざるを得ない。

 現実世界でも同じことをやるんじゃないか、とそんな漠然とした不安だ。俺が穿って見すぎなのかもしれない。しかし、奴らの殺人への執着とその異常性は忘れようにも忘れられないものだった。

 だからこそ、野放しにするのは危険だという思いがあった。それもあって悔いを見せる俺に、しかしキリトは顔を上げた。

 

「……いや、お手柄だ。ソウマ」

「え?」

 

 見れば、キリトの顔はまだ若干青い。しかし、先程までにはなかった希望がその目には宿っていた。

 

「俺は元々、ある依頼でこの世界に来たんだ。依頼内容は、《死銃(デス・ガン)》について調べる事」

「《死銃》? そういえば、そんな噂もあったな。実際に人を殺せるとか……――まさか」

 

 思いついた恐ろしい想像に、察したキリトは首肯した。

 

「そうだ。これまでに死銃が撃った二人、その両方が現実でも死んでいる。死因は心不全。死銃がゲーム内で彼らに弾丸を放ったという話との関連を調べるために、俺はこの世界に来たんだ」

 

 ありえない。それが俺が瞬時に出した回答だった。これは何も、感情論でそんなことあってたまるかと思っての結論ではない。

 俺たちが使っているハードはアミュスフィアだ。ナーヴギアじゃない。その時点でSAOのようなデスゲーム要素を発生させることなど不可能だ。やるやらない以前に、そもそも出来ないのだからどうしようもない。

 キリトも同じ結論だったらしいが、しかしラフコフまで出てきた。となれば、まさかという思いがキリトにも芽生えたところだったようだ。

 

「けど、お前が言っただろう。《赤眼のザザ》って」

「ああ」

「俺に依頼した人は一定の立場にある人でな。極秘情報であるSAOのプレイヤーデータにアクセスできる。だから、プレイヤー名さえわかれば、現実での本名や住所を割り出すことが出来るはずだ」

「ということは……」

 

 俺が先を促すと、キリトはようやく笑みらしきものを見せた。

 

「ああ、これで奴には大きな制限が出来た。俺が依頼者に伝えれば、間違いなく常時監視がつく。尤も、奴が《死銃》であると仮定したらの話だけどな。けど、俺が聞かせてもらった死銃の声と奴の声はひどく似通っていた。十中八九、間違いないはずだ」

 

 キリトは次いで「本当に殺したのか、だとしたらその方法は何なのか。それはわからないが、監視を付けられるとなれば安全性はぐっと上がる」と言った。

 《死銃(デス・ガン)》。GGO内に数ある噂の一つにすぎないと思っていたそれが、こうも現実味を帯びて関わってくるとは思わなかった。

 しかし、キリトの言葉を信じるならその解決に向けて、今まさに一歩前進といったところのようだ。

 

「………………」

 

 だが、どうしたことか。キリトの表情にある陰りは一向に直っていなかった。

 微かに浮かべた笑みもまた無理に浮かべた印象を拭うことは出来ず、むしろ仮面のように貼り付いていて違和感しかもたらさない。

 

「あとは、なんとか奴が本当に殺人をしたんだという証拠を見つけないと……」

「なぁ、キリト」

「なんだ?」

「お前、大丈夫か?」

 

 俺がそう尋ねると、キリトの顔が驚きに染まり、そしてすぐに泣き笑いのような表情になった。

 

「……やっぱ、わかるか?」

「わからいでか。お前とどれだけの間、肩並べて前線で剣振ってたと思う」

 

 それは今はもう近くて遠い記憶。SAOという世界で懸命に剣を片手に生きた、二年の時間が培った絆だった。

 あの世界について感じること、考えることは人によって異なる。例えばキリトにとってはSAOとは未だに心のどこかで囚われている場所なのだ。俺にも少なからずあるが、それでも俺はある程度割り切っている。

 けれど、キリトはあの世界に置き忘れてきた物があると暗い顔で語った。

 

「俺は、なんて人でなしだったんだろうって思ったんだ。奴と会って、当時のことを思い出して……。その時初めて、俺はあの世界で三人の人間を殺していることを思い出したんだ」

 

 現実に戻ってからは、意図的に忘れようとしていたとキリトは言う。

 それは奪った命に対する裏切りではないのか。あるいは、逃避ではないのか。まるで過去の罪がいよいよ罰を与えようと迫ってくるかのようだったと弱々しく笑う。

 何よりも、殺人という過去を無かったことにしようとしていた自分自身にこそキリトは驚愕した。それは無意識のうちに、深く深く、決して思い出さないようにといつの間にか蓋をしていたパンドラの箱。

 それが開かれ、中から溢れ出た当時の罪と現実は、容易くキリトの心をSAO時代の討伐戦。ラフコフのメンバーを襲撃したあの作戦の頃に戻してしまったのだ。

 

 俺はその告白を黙って聞いていた。ただじっと耳を傾ける。

 そして全てを話し終えて俯くキリトに、俺はまずこう告げた。

 

「お前、帰ったら真っ先に明日奈とユイに会え」

「え?」

「その後、手を握って、何でもいいから会話をしろ」

「お、おい。何を言って……」

「それで、きっとわかるはずだ。その時、お前の手にある温かさと心が感じる幸福は、どんな過去にも塗り潰されない大きなものだってな」

 

 キリトの目が見開かれた。構わず、俺は続けた。

 

「お前が優先するべきは過去の罪じゃないだろ? 例え向き合うにしても、まずは一番失いたくないものをはっきりさせてからにすべきだ。俺は、お前にとってのそれがあの二人だと思う」

 

 それさえしっかり意識しておけば、過去に呑みこまれることはないはずだ。何故なら、それは最優先に考えると決めた誰かのことを後ろに追いやってしまうからである。

 そこさえ見失わなければ、きっとキリトなら地に足をつけて踏ん張って、避けてきた罪にも向き合っていけるはずだ。そしてあの二人ならば、そんなキリトを支えてその心に折り合いがつくまで隣で歩んでくれるはずだった。

 少なくとも俺はそう思えるし、キリトとアスナとユイの絆はそれが可能だと信じていた。

 

「……こういう時、お前は大人なんだなぁって思うよ」

 

 キリトはさっきよりは少しマシになった顔つきで、そうこぼした。

 俺はそんな愚痴にも似た呟きに、首を横に振る。

 

「そんなわけあるか。俺だって一緒だ。ただその度に、隣の奴に元気をもらうのさ」

 

 そう、俺だって一人じゃ大したことなんて出来ない。

 迷ったり悩んだりは日常茶飯事だ。けれどその度に「大丈夫!」と笑い、励ましてくれる存在がいるから、なにくそと思って立ち上がれるだけなのだ。

 その存在が誰かなんて、言うまでもない。キリトも苦笑するのみだった。

 

「お互い、敵わないよなぁ」

「ああ。けど、恵まれてる」

 

 二人して小さく笑って「確かに」と頷いて。キリトは転送の光に包まれて次の試合に向かっていった。

 それを見送ってからすぐ、まるでタイミングを見計らったかのようにシノンが俺に寄ってきた。

 

「なんだか話し込んでいたけど、アイツ、大丈夫なの?」

 

 その言葉と気遣わしげな表情から察する。どうやら本当に会話が途切れるのを待ってくれていたらしい。

 恐らくは思いのほか俺とキリトの表情が真剣であったからだろう。シノンなりに今は邪魔をしない方がいいと気を使ってくれたようだ。

 俺はそれに対して一言ありがとうとお礼を言い、そのあと第二試合が放映されているモニターを見た。

 

「ああ。もう大丈夫だろう、きっと」

 

 俺が見つめた画面の先では、キリトが光剣を右手に持ち、左手に拳銃《ファイブセブン》を持って牽制に使い、自分に当たる弾丸だけを選別して光剣で弾きながら前進していく姿が映っている。

 その姿に怯えや迷いはない。ただ真っ直ぐに相手を見据えて着実に歩を進めていく姿からは、先程までの動揺や戸惑いは感じることが出来なかった。

 いや、実際には心の内にいまだ存在しているのだろうが、表に出さずにいると言うべきか。

 それを可能にしたのは俺……というよりはアスナとユイの存在だろう。相変わらず仲睦まじいようで、何よりだった。

 そう思って口元に小さく笑みが浮かぶ。と、肩を並べて画面を見ていたシノンが、何か言いたげにこちらを見ていることに気がついた。

 

「どうした?」

 

 声をかけると、シノンはやや遠慮がちに、しかし表情は真剣そのもので俺の目をじっと見つめてきた。

 

「……ねぇ、ソウマ。アイツもあなたも、昔に何かあったの?」

 

 その目と声には、どこか必死で縋るような色があった。まるで何かに追われているかのように切迫した表情。

 俺はその事に内心で首を傾げながらも、とりあえずは答える。

 

「……そうだな。色々あった。とても言い表せられないようなことが、たくさん……」

 

 詳細を話すことはしない。全て語るにはあまりにも長い話になってしまうし、内容がSAO時代のことになる。そこまでネット上の他人に話すのは憚られた。何より、シノンにしても聞いていて気持ちのいい話ではないだろうと思ったからだった。

 しかし、シノンは一層身を乗り出してきた。思わず上体をのけぞらせるように一歩下がる。

 

「教えて、ソウマ。アイツもあなたも、もし過去に何かあったのだとしたら、それをどう乗り越えたのか」

 

 お願い。最後にそう付け足された一連の言葉を紡いだ少女に、普段のような冷静で思慮深い様子など微塵もない。

 まるで親とはぐれた子供のように頼りなさ気で弱々しい姿のシノンに、俺は落ち着けという意味を込めて小さな肩を軽く片手で叩いてから口を開いた。

 

「乗り越えてなんかないさ。いや、そんなことは出来ないのかもしれない」

 

 俺もキリトも。きっとあの世界で人を殺してしまったこと――いや、自らの意思で殺したことは、一生ついて回るのだろう。誰が許したとしても、社会が罰を与えなくても、きっと俺たちが俺たち自身を許さない。

 だから、忘れることも出来ない。忘れるとは、無かったことにするということだ。それは一番やってはいけないことだ。

 キリトもそれを無意識に理解しているから、あれほどまでに自分を責めたのだろう。しかし、キリトは思い出した。辛く、苦しいだろうが、きっと今後心の中にしまい込んだとしても、忘れるということはあるまい。

 これからずっと、その過去は俺たちの中に在り続ける。それは乗り越えたというにはあまりにも、身近に在りすぎる。そう考えると、乗り越えてはいないし、今後も出来ないのではないかと俺は思うのだった。

 

 そんな俺の言葉を受けて、シノンはどこか愕然とした様子で「そんな」と声を掠れさせた。過去を乗り越える、ということはどうも彼女にとってはとても重要な事だったらしい。

 それはつまり、シノンにもまた、彼女の根幹にかかわる重大な何事かが過去にあったということなのだろう。

 そして今の自分への質問は、それに関する大事な質問だったのだ。しかし、その答えはあまりにも受け入れ難いものだった。そのためか、シノンは表情を厳しくして俺に向き直った。

 そんなことはない、と今にも強く言い募ってきそうなその顔の前に手を差し出して、一瞬動きが止まったシノンに、重ねてこう言葉を続ける。

 

「でも、向き合って、悩んで、受け入れて、折り合いをつけることはできる」

 

 それに、シノンは何とも難しそうな顔で眉を寄せた。

 

「……どういうこと?」

「別に煙に巻いたわけじゃない。ただ、大なり小なり、皆そうだと俺は思うだけさ」

 

 かつて自分だけが助かったと悩み、ランの死という悲しみに耐えていた木綿季のように。あの時の木綿季もまた、乗り越えようと足掻いていたように思う。

 しかし、実際に木綿季はそうではなく、その現実を受け止めて、そのうえで自分なりの答えを見つけ出して受け入れた上で生きている。

 それは乗り越えたわけではない。けれど、無かったことにしたわけでもない。しかしそれでも、いま木綿季は笑って日々を過ごしている。

 

 もちろんシノンの悩みは木綿季とは違う。俺とも違うし、キリトとも違うだろう。しかし、その抱える悩みの大小にかかわらず、人はどこかでそうして折り合いをつけて生きていると俺は思う。

 問題は、折り合いをつけるためには一度しっかりとその過去を受け入れなければならないということだ。つまり、改めてその時のことを思い出して向き合うということだ。

 

 それは、過去に味わった痛みや苦しみをもう一度味わうということに他ならない。

 だからこそ、人は過去に再度触れることなく、未来に希望を求めて“乗り越えよう”とするのだろう。

 

 ただ、それこそ俺は逃げではないかと思うのだが、これはさすがに考えの押しつけだろう。

 俺は苦笑してモニターを一瞥してから、シノンの肩に置いた手を離した。

 

「そろそろ次の試合だ。シノンも頑張れよ」

「ちょ、ちょっと! 話はまだ終わって――」

 

 納得いかなげに詰め寄って来ようとしたシノンだったが、その前に俺は次の試合に向けて転送されてしまう。

 これは後でまた絡まれるかな。そんなことを考えながら、俺は試合に向けた準備を整える空間で、宙に浮かぶホロウィンドウに表示されている準備時間が減り続けるのを眺めるのだった。

 

 

 

 




次のお話では木綿季をやっと書けそうで嬉しい。

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