もし一人のオリキャラが増えることで、ユウキが生きるルートが生まれるなら   作:葦束良日

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21 過去

 

 

 木綿季を比較的近い俺の家に送ってから、俺は再び商店街のほうへと足を向けた。詩乃と会う約束をしているためだ。

 待ち合わせ場所は、商店街を抜けた先にある住宅地。その中にポツンとある小さな児童公園だ。普段からあまり人が来るような場所ではない。特に、この寒い時期になれば尚更だった。

 しかし、だからこそ詩乃はこの場所を選んだのだろう。あまり人に知られたくない悩みであろうことは、彼女の様子を見ていれば簡単に想像できることだ。

 その内容についてはまだ知らないが、俺が何かしら力になってやれればとは思う。

 

 GGOでは散々お世話になったし、それでなくても彼女の人となりはゲームの中で既によく知っている。

 冷静だが熱しやすく、からかえばムキになり、負けん気が強くて諦めない。そして、他人の為に行動を起こすことが出来る、優しい少女だった。

 まだ俺がGGO初心者だった頃、いくらあのミニゲームで興味を持ったとはいえ、色々なことをレクチャーしてくれる義理はなかったはずだ。

 それでもシノンがそうしてくれたのは、彼女の優しさゆえだろう。四苦八苦する俺を見る、呆れたような顔も、仕方がないなと笑う顔も、一か月ほどですっかり上位プレイヤーになった俺に悔しそうにしていた顔も、俺はよく覚えている。

 その時に受けた優しさ、楽しい時間、そして恩を俺は忘れていない。だからこそ、俺は昨日、必死な表情だったシノンにSAOでの過去を明かしたのだ。

 たとえ俺が今後GGOに来れなくなったとしても、それがシノンの為になるのならそれでいいと思ったからだ。

 今日の約束も、俺にとってはその延長に過ぎない。

 

 公園の中でブランコに腰かけ、マフラーに顔の下半分を埋めて俯いている少女。その姿を視界に収めると、俺はコートのポケットから道中で買った缶コーヒーを一本取り出した。

 そして公園に入り、彼女の前に立つ。俺が来たことに気付いて顔を上げた詩乃に、俺は手に持った缶を差し出した。

 

「ほら」

「えっ。あ、ありがとう……」

 

 詩乃はそれを、おずおずと手を出してきて受け取る。

 受け取った缶コーヒーを手の中で転がしながら身を縮こませて窺うようにこちらを見てくる姿に、俺は思わず噴き出した。

 並み居る強豪を幾度も弾丸で貫いてきた、冷徹で強気な《シノン》の面影がまるで感じられなかったからだ。普段とは異なる、借りてきた猫のように大人しい様子が、なんだか可笑しかったのである。

 そして当然ながら、突然笑われた詩乃はその表情をむっとさせた。

 

「……なによ」

「いや、普段のシノンしか俺は知らないからな。しおらしいシノンっていうのも新鮮だなってな」

「なっ……!」

 

 詩乃の顔に寒さによるかじかみとは異なる赤が加わる。

 その様子を見ながら、俺はブランコの支柱に寄り掛かった。

 

「そうやってると、可愛げがあるじゃないか。な、シノン?」

「う、うるさい! このっ!」

 

 小さな手が俺の足を軽く小突く。

 当然、その程度の攻撃が効くわけない。俺はにやりと笑ってみせた。

 

「おいおい、シノンは狙撃手(スナイパー)だろう。いつから格闘家(ファイター)になったんだ?」

「む、むかつく……! 私がいったいどんな思いで……」

 

 握りこんだ拳を震わせる詩乃に、俺はくつくつと喉の奥で笑みを押し殺した。

 

「どうだ、少しは肩の力が抜けたか?」

「え? あ……」

 

 ついGGO(いつも)のように俺と話していることに気付いた詩乃が、ふと呆気にとられた顔になる。

 俺は自分用に買ってきたコーヒーを取り出してプルタブを開けた。

 

「俺の気持ちを慮ってくれるのは嬉しいけどな。年下がそんな気ぃ遣うな。もっとズケズケ頼ってくればいいんだよ」

「……なによ、年上ぶって」

 

 年上だからな、と俺が笑えば、詩乃はぶすっとした顔のまま同じように缶コーヒーのプルタブを開けて口を付けた。

 そして一口飲んだ後に小声で「……ありがと」と呟く。もちろん聞こえていたが俺は何も言わずに、缶を傾けた。

 

 そのまましばらく互いに無言になる。俺は何も尋ねないし、催促もしなかった。詩乃が何かを言うまでただじっと待っていた。

 詩乃が抱えているものはきっと、とても重たいものだ。それは俺の“SAO内での殺人”という過去に強く反応していたことからもわかる。

 詩乃の問題が何なのか、俺は知らない。しかし詩乃にとっては、そんな過去と比べるほどに大きな悩みなのだろう。

 俺にとっての、あの凄惨な討伐戦。そう考えると、詩乃が抱えるソレの巨大さには驚く他ない。詳細はわからずとも、仮にそれほどのものだとすれば、よく耐えているものだと思う。

 俺は正直、無理やりにでも意識の奥に追い込むことで長い間それを誤魔化してきた。無論、忘れたわけではなかった。けれど、出来るだけ考えないようにしていた節は確かにあった。

 つまりは逃げだ。俺は正直、あの過去から逃げていたと思う。少なくとも、木綿季と出会って彼女が俺の骨髄移植の相手だと知るまでは。

 あの時初めて、俺は自分がした事の意味やそれがもたらした結果に正面から向き合ったのだと思う。

 それが出来たのは、今まで気が付いていなかったことに俺が気付いたからだった。

 木綿季の存在は、まさにその切っ掛けだった。

 

 俺が詩乃にとってのそんな存在になれるとは思っていない。けれど、何らかの助けにはなりたいと思っている。

 だからこそ、詩乃の言葉を俺は待っていた。彼女のほうから自身の抱える問題に踏み込んでくれる時を待っていた。

 俺が訳知り顔で強引に踏み込んでいっていい問題ではない。そんな無遠慮な真似は出来なかった。

 俺と詩乃は違う。抱えている問題も、過去も、全てが違う人間だ。だからこそ、俺にとっての最適解が彼女にとってもそうだとは限らない。

 詩乃にとっての良い答えとは何なのか。俺はそれを考える必要があった。そしてそのためには、まずは彼女の話を聞くことだ。だから、俺はじっと詩乃の反応を待った。

 

 互いにコーヒーを少しずつ飲む時間が過ぎていく。

 そんな中で、不意に詩乃の口から小さな声が漏れた。

 

「……――ね、私の手、何色に見える?」

 

 詩乃はそんなことを言って、手を空に掲げた。

 唐突な言葉だった。俺は横目で詩乃の手を見て、感じたままを口にした。

 

「白色。綺麗な手だ」

「……ありがとう」

 

 小さく詩乃は笑った。

 けれど、すぐにその表情は翳り、掲げた手は萎れるように下ろされていく。

 

「でも、違うわ。私の手は真っ赤。ずっと赤く染まっているのよ。――五年前から」

「五年前?」

 

 俺がSAOに囚われるよりもずっと前。詩乃の現在の年齢が十六、七だとすれば、十一、二歳。いずれにせよ小学生だ。

 そんな、まだまだ子供の頃。詩乃は当時のことを整理するように目を瞑り、そして伏し目がちなまま項垂れて、ぽつりと言葉をこぼした。

 

「私ね――人を、殺したの」

 

 詩乃の口調は平坦だった。まるで心を何度も何度も削って均したかのように感情が感じられない、そんな声だった。

 

「ゲームの中じゃないわ。現実に、私は人を殺した。銃で、頭を撃ってね」

 

 五年前。詩乃が住む町の小さな郵便局で起こった強盗事件。それに、居合わせた詩乃とその母親も巻き込まれたのだという。

 郵便局員が一人、犯人が持っていた銃で殺され、次に狙われたのは詩乃の母親。

 咄嗟に詩乃は犯人に立ち向かい、手傷を負わせ、その拍子に犯人の手から離れた拳銃を詩乃は拾い上げた。

 後ろには守るべき人。前には襲ってくる脅威。幼い詩乃に冷静な判断など出来なかった。

 混乱と本能と激情がごちゃ混ぜになったまま、詩乃は気が付けば銃を構えていた。

 

 そして――。

 

「一発はお腹。二発目は鎖骨あたり。三発目は……顔の真ん中。私は肩を脱臼して、歯が折れて、手首も捻挫したし、背中も打った。……正当防衛だったかもしれない。……でも、そんなのなんの救いにもならなかった」

 

 詩乃は自嘲気に笑った。いや、それはとても笑顔と呼べるようなものではない。無理に作ったそれは、笑顔というにはあまりにも暗く、そして悲しい表情だった。

 

「何て言ったところで、私は人を殺したのよ。――それ以来、銃に関係するものは全部ダメになった。絵も映像も駄目。手をピストルの形にするのも駄目なのよ? ……全部、その時のことを思い出しちゃう。そして、すぐに吐いたり頭が痛くなって倒れちゃうんだ。……あの時のあの男の顔が浮かんできて――怖くて怖くて、たまらなくなる」

 

 ブランコに座ったまま、詩乃は自身の体を腕でギュッと抱いて背を丸める。もともと華奢だった姿が一層小さく見える。

 軽く息も乱れ始めた姿に、俺はたまらなくなってその背を手でさすった。

 詩乃は掠れた声で「ありがとう」と言う。俺はそれに何も返せなかった。ただ話を聞くことしか出来ない今の俺に、その感謝を受け取る資格はないとさえ思った。

 苦しむ詩乃に、今俺がしてやれることはこれぐらいしかない。俺はゆっくりとその背を撫でながら、「……無理はするなよ」と声をかけた。

 詩乃は過去を思い出したからかどこか憔悴したような顔で、頷く。しかし、頷きながらも詩乃は少しだけ背を伸ばして、再び話し始めた。

 

「でも……でもね。GGOは……あの世界では、銃を見ても発作は起きなかった。中には、好きになれた銃すらあった」

 

 それは、俺が詩乃の話を聞いていて疑問に思った事でもあった。

 銃に関連するものが駄目ならば、GGOなどその最たるものだ。なにせあの世界の主武装は銃火器だ。どこを見ても銃が溢れかえっている。

 なのに、俺から見てもシノンが愛銃であるヘカートⅡにかける思いは偽りないものだったし、撃つだけではなく撃たれることもあるというのに平然としていたように思う。

 いや、だからこそ詩乃にとってGGOとは特別だったのか。

 

「それは、あの世界の弾丸が決して人を殺さない偽物の弾(ファントム・バレット)だってわかってたからかもしれない。でも、偽物でも良かった。私にとって、あの世界では私でも銃に向き合える。それだけが大事だったから」

 

 そう詩乃は語った。

 現実世界では克服するしない以前の問題だった詩乃の悩み。しかし、GGOでは違う。あの世界では、銃がすぐに触れられるほどに身近で、なにより詩乃が見たり持っても発作は起きない。

 それはまさしく、当時の詩乃にとっては希望を見出すに十分な体験だったのだろう。

 ここでなら現状を変えられる。そう思うのは、ある意味では自然な流れだったのかもしれない。

 

「銃が強さの象徴であるあの世界で一番になれば……一番強くなれれば、きっと現実の私も強くなる。あの男は私が過去に倒したターゲットの一人という記号になって、忘れられる。そうすることで、《シノン》は私そのものになる。……その時私は、ようやくあの過去から解放されるって、そう思った」

 

 ブランコに座ったまま、詩乃は顔を伏せて体を丸めた。肩が僅かに震えているのが見える。それは決して寒さのせいではないだろう。

 背中に置いていた手を肩にかける。置かれた手に反応してか、詩乃の手が肩に伸ばされる。

 詩乃は俺の手を払いのけたりはしなかった。それどころか、まるで温もりを求めているかのように、俺の手の上から自身のそれを重ねてくる。

 小さな手だった。そして、驚くほどに冷たい手だった。ぎゅっと小さく震えながら握りこんでくる力は、まるで強がっている詩乃の心をそのまま表しているようであった。

 温かいコーヒーはもうなく、すっかり冷えた缶は脇に転がっている。彼女の手を温めるものは、俺の手しかない。俺はもう一方の手を詩乃の手の上から更に重ねて軽く握った。

 

「……ずっと、このまま過去に怯えて逃げるのなんて嫌。発作に苦しんで、消えない血の跡を見続けるなんて、絶対に嫌……嫌よ」

 

 詩乃の震えは寒さからのものではない。もしかしたら一生その過去からは逃れられないのではないか、という恐ろしい可能性に怯えて震えているのだ。

 

「ソウマ」

 

 俯いた状態から顔を上げ、詩乃は俺を見た。

 眼鏡越しでもわかる潤んだ瞳、不安に彩られた面差しと向き合う。

 

「私は、あなたが過去にした事にとやかく言う資格なんてない。そして、こんなことをお願いする権利がないことも、勿論わかってる。……でも、でも、教えてほしい」

 

 詩乃の手が伸び、俺のコートを掴んだ。ぎゅっと力が籠められ、厚手の生地に皺が刻まれていく。

 けれど、それを振り払うことはしなかった。何故なら詩乃の手が小刻みに震えていたからだ。

 

「あなたは、どうやってその過去を乗り越えたの? ううん、あなたは乗り越えてないって言った。でも、縛られてもいないとも言っていた。――あなたが、あんな失うばかりだった過去で手に入れたものって、何? 視点を変えて見るって、どういうこと、だったの……?」

 

 矢継ぎ早に投げかけられる疑問。切迫した表情で問われたそれらに、俺はすぐには答えなかった。

 コートを掴んでいた手を覆うように握り返しながら、強張っていた手をほどく。

 そして隣のブランコに腰を下ろした。

 きぃ、と古びた金属が擦れる音が鳴る。じっと俺を見ている視線を感じながら、俺は曇りがかった空を見上げて、脳裏に記憶の中の風景を呼び起こした。

 

「――アバターのHPがゼロになった時、現実世界で頭にかぶったナーヴギアが高出力マイクロウェーブを発生させて脳を焼く。つまり、現実でも死ぬ」

「え?」

 

 脈絡のない言葉に、詩乃が疑問の声を上げる。

 意味が分からないのは、当然だろう。けれど、俺は話を止めることなく、ただ淡々と話し続ける。

 

「SAOは、そういうゲームだった。プレイヤーが死ねば、現実の肉体も死ぬ。……でも、そうとわかっていながら《PK》を行うプレイヤーは、一定数存在していた」

 

 詩乃の目が見開かれる。信じられないと言わんばかりに。

 それが普通の感性だ。けれど、あの世界では違った。現実世界とは多くが違ったあの世界だからこそ、奴らの感性もまた異なる方向へ向かってしまったのかもしれないと、今では思う。

 

「――《笑う棺桶(ラフィン・コフィン)》。現実でも人が死ぬと理解していながら、殺しを繰り返す連中が所属していたギルドの名前だ」

 

 SAOでは犯罪コードに引っかかる行為をすると名前が通常時のグリーンからオレンジに変わる。だから犯罪者をオレンジ(犯罪)プレイヤーと呼んだ。

 しかし、殺人は単なる犯罪以上にあってはならない罪であった。ゆえに、レッド。レッド(殺人)プレイヤー。最大の禁忌であるはずの殺人を、自らの快楽の為に幾度となく実行した奴らへの蔑称だった。

 彼らの存在は恐怖そのものだった。一般人、攻略組、関係なく。奴らの存在そのものが大多数のプレイヤーの安寧を脅かした。

 多くの人間が犠牲になり、攻略にすら影響が及ぶ段に至って遂に、奴らを滅ぼすための討伐隊が組織されることになったのだ。

 しかし、かといって別に連中を皆殺しにしようとしたわけじゃない。捕縛して監獄エリアに送ろうという計画だった。

 

「けど、討伐計画が漏れていてな。ラフコフの連中は待ち構えてた。そうなりゃ、あとはもう泥沼の混戦だ。その中で、俺も連中の二人を剣で叩き切って命を奪った」

 

 手を開き、握る。その時の感触が今もこの手に残っている気がした。

 

「正当防衛? そうだろうな、俺だって死にたくなかった。殺さなきゃ、こっちが殺されていた。だから仕方がない。……言い訳なんていくらでもできる。実際、皆はそう言って俺の罪を責めなかった。罰しなかった。……けれど、何より俺自身は俺を許せなかった。SAOが終わっても、俺はやっぱりそのことを忘れられなかった」

 

 人間が感じる《罪悪感》とは、自分で自分に課す罰なのだ。その罪の重さは自分が一番よく知っているから、自らが生み出した罰である罪悪感による苦しみは耐えられないほどに辛い。

 だから人は自らが定めた罰の苦しさに耐えられず、誰かに裁いてもらうのだ。そうすれば、安心できるから。自分の罪はこの程度の罰で償えるものなのだ、と。

 けれど俺の場合、誰も裁いてくれなかった。罰を与えてくれなかった。だからこそ、普段通りに過ごしつつも、俺の中では誰かの命を奪ったという負い目が決して消えない罪の意識として残り続けた。

 

「――だから、俺は代償行為に走ったんだろうな。結果的に、それで俺は救われたわけだが」

 

 ぴく、と詩乃の肩が震えて視線に真剣みが増す。

 最後の一言に反応したのだろう。

 

「……一体、どうしたの?」

 

 窺うように尋ねられたそれに、静かに答える。

 

「――骨髄移植手術。そのドナーとして俺はある人物に骨髄液を提供したのさ」

 

 予想外の単語が飛び出してきたからだろう。詩乃の顔が驚きに染まる。

 まぁ、普通は日常生活で早々聞くような言葉ではない。俺もドナー登録していたのはあくまで軽い気持ちの気まぐれだった。一般的な感覚では、その程度だろう。

 けれど、それが俺にとっては大きく人生に影響を及ぼしているんだから、まったくわからないものだった。

 苦笑する俺とは反対に、いまだ驚き冷めやらぬ様子の詩乃は目を見開いている。その姿を見つつ、俺は更に言葉を続けた。

 

「本来、移植相手の素性は提供者に明かされることはない。逆もそうだ。けど俺の場合は、色々な偶然が重なった結果、その相手のことを知ることが出来た。――その時だよ、俺の心が本当に救われたのは」

 

 今でも鮮明に思い出せる。

 ユウキこそが俺の骨髄液を受け取った相手なのだと確信した、あの瞬間を。

 繋がった手から伝わってきた、仮想のアバター越しであろうと生きていると実感できた体温を。

 その温かさが、俺によって齎されたものなのだと理解した時の、感動を。

 もう一度その時の気持ちを思い出しながら、俺は言葉を紡いだ。

 

「俺の骨髄を受け取った相手の名前は――紺野木綿季。あいつはほんの数か月前まで、余命わずかと言われて不治の病に冒されていたんだ」

 

 

 俺が木綿季を家に送って詩乃と会うために公園へと向かう直前。家を出る俺に、木綿季は言った。

 

 ――もし、詩乃さんの悩みに必要だって総真が思ったら、ボクのことも話してくれていいからね。

 

 その言葉に、俺は驚いた。それは木綿季にとって決して軽く判断できる決断ではないからだ。

 それに、木綿季が自分の事情を話すことを是とするほど、詩乃のことを気に掛けていることも驚きだった。

 一体どうして、と思わず返した俺に、木綿季は寂しそうに笑った。

 

 ――苦しんで、我慢して、辛くても言えずに、それでも前を向こうとする気持ち、よくわかるから。

 

 詩乃が不安げに、俺に縋って話を聞かせてくれと願った姿が、木綿季には自分にだぶって見えたらしい。

 胸の内に苦しみを抱えて、でも何とかしたいと思う気持ちは痛いほどわかると木綿季は言った。

 

 ――ボクらの場合は、ある意味でもうどうしようもない状態だったから、諦め……というか受け入れられたけど……詩乃さんは違うから。

 

 続けて更に、木綿季は言う。

 

 ――詩乃さんには未来がある。きちんと抱える悩みを解決できれば、その先には長い人生が待っているんだから。

 

 それはとても重い言葉だった。今でこそ木綿季にも先が待っているが、それは、本当に天文学的な確率によって成立した奇跡だ。もし俺という存在がいなければ、木綿季はきっと苦しみを抱えて、運命を受け入れたまま、短い先を生き抜いただろう。

 それを木綿季も分かっている。だからこそ、同じように大きな悩みを抱えながらもやり直しがきく詩乃のことを気に掛けていたのだ。

 最初は直感的に共感を抱いて気にしていたのだろうが、先程の詩乃の様子から木綿季は自身との共通性を確信したのだ。だからこその、言葉だった。

 

 ――いってらっしゃい、総真。

 

 そう言って送り出してくれた木綿季。その時に浮かべていた笑顔を脳裏に描きながら、驚愕に目を見開いて固まっている詩乃を見た。

 木綿季が詩乃を気に掛けていることを、彼女は知る由もないだろう。昨日会ったばかりで僅かな時間しか一緒に過ごしていない少女が、そんなことを思っているなど考えるわけがないのは当然のことだ。

 

 けれど、そんな木綿季の純粋に詩乃を思う気持ちが届いてくれるといい。

 

 そう思いながら、俺は今もまだ苦しみ続けている少女の揺れる瞳を正面から見据えるのだった。

 

 

 

 




詩乃の過去、総真の過去、木綿季の過去。
今話のタイトルの意味としては、そんな感じです。

一話で終わる予定だったんですが、予想外に字数が増えそうだったので分けました……。

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