【完結】艦隊これくしょん ~北上さんなんて、大っ嫌いなんだから! ~ 作:T・G・ヤセンスキー
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それを何と呼ぶべきなのか――
ただ、それを何と呼ぼうと――確かにあの頃の【軽巡・北上】には既に、意識が、感情が、心が存在していた。
無論、それが、【艦娘】として生まれ変わってからの意識や心とは似て非なる……いや、おそらくは全くの別物であるだろう事は、間違いない。
だがそれは、今の自分、【艦娘・北上】に、確かに地続きでつながっている。水底で結びついている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――それがいつ頃「生まれた」のかは、いまだにひどく曖昧だ。
最初は夢見心地にいるような、ぼんやりとした意識だったと思う。
鉄の塊として、道具として、船として、兵器として――ただ与えられた役割を、与えられたままに淡々とこなし受け入れる、鉱物のような心。
決戦用戦力として期待され、重雷装巡洋艦として改装された時も――ああ、そうなのか、と思っただけだった。
結局その役割を一度も果たさないまま、高速輸送艦としての任務に従事するようになった時も――ああ、そうなのか、と思っただけだった。
ほんの少しだけ、残念な気持ちにはなったかも知れない。
だが結局は全てを、あるがままをあるがままに受け入れた。……兵器として、船として、道具として、鉄の塊として――それが当然のことだ。
モノクロの世界の中、灰色の意識の中、ただ淡々と、歳月が流れていく。
しかしある時――世界に、色が付いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「北上さんは――【軽巡・北上】はね、乗組員たちが話していた、あなた達のやり遂げたキスカ撤退作戦のことを聞いて――とても、とても憧れたの」
多くの敵艦を沈めた訳でも、多くの敵兵を殺した訳でもなく。
それでもなお、奇跡と呼ばれたその作戦。
完全に包囲され、封鎖された絶望的な状況の中から、ただの一人も死なせずに、全ての仲間を連れ帰ったその奇跡。
……しかも、その作戦の旗艦をつとめたのは、かつて自分に衝突したこともあるあの艦なのだという。
なんだか少し愉快な気がして。
鉄の塊の鈍く重い心に、温かい光が灯ったような気がした。
白黒だった世界に、色が付いたような気がした。
――嗚呼。
――なんて凄い艦なんだろう。
――なんて凄いことをやってのけるのだろう。
――そんな風になりたかった。
――そんな風で在りたかった。
――いつかはなれるだろうか。
――いつかは辿り着けるだろうか。
――その高みに。その輝きに。
――自分の手は――――届くのだろうか。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「……もちろん、北上さんがどう思おうと、それで何かが変わった訳じゃないわ。鋼鉄で出来た単なる軍艦として、それまで通り、与えられた軍務につくことしかできないのは、何も変わらなかった」
「でも……だからこそ余計に、あなた達がキスカで示したあの奇跡は、北上さんの心を支える光として輝き続けたんだと思う」
「……たとえ第一線で活躍することはできなくても。輸送艦としての役割のまま艦歴を終えることになったとしても。……それが味方を救い、仲間を支えることになるのなら――その在り方は、きっとあの憧れの艦の姿につながっているはず……そう思えたのね」
「……だけどね。北上さんの――【軽巡・北上】のその想いは、最悪の形で踏みにじられることになるわ」
「……口にするのもおぞましいあの兵器」
「あの最悪の――味方殺しの兵器の搭載母艦として改装されることでね」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
──人間魚雷『回天』。
かつての「あの世界」「あの戦争」の末期に行われた最大級の愚行。
戦争の狂気が産み出した、悪夢の産物。
全ての艦娘が、その名を口に出して呼ぶことさえ忌避する、忌まわしき戦争の闇。
それについて口にする大井の声は、ひどく静かだった。
「……ねえ、阿武隈さん、五十鈴。あなた達に想像できる? その時の北上さんの気持ちが」
「――心を持たない、ただの鉄の塊のままだったなら――たとえどんな理不尽な命令だったとしても、従容として受け入れることが出来たでしょう。……実際、私たちは皆、『あちらの世界』で、そうやって過ごしてきた」
「――たとえ生まれ変わった後で、その記憶にさいなまれる事があったとしても――それは、どうしようもない過去の出来事として、なんとか前を向くことが出来たでしょう。……実際、私たちは皆、『こちらの世界』でそうやって過ごしている」
――確かに、『あの戦争』『あの敗戦』の記憶によって、何らかの心の傷を負っていない艦娘など、一人もいない。
だが、それは――あくまでも遠い過去の、鋼鉄の記憶だ。艦娘として生まれ変わってからの、心や感情に裏打ちされた記憶とは訳が違う。
例えば、阿武隈や五十鈴自身にも、もちろん過去の自分の記憶は存在する。だが、それは言わば、断片的なフラッシュバックが、色褪せたコマ落としのフィルムのような形で存在する程度。艦娘に生まれ変わってからの、生き生きとした記憶とは全くの別物だ。
「……もしも今、『アレ』を積むようにと命令されたら、私たちは断固として拒むでしょう。泣いて、暴れて、わめいて、拒絶して、逆らって……何がなんでも抗うでしょう。そんな装備を積むのは嫌だと主張して。積まれたとしても投げ捨てて」
「……その気にさえなれば、今の私たちには、自ら解体処分や自沈処分を選んででも、理不尽な命令から逃れることができる」
「……だけどもし、それさえも許されなかったらどう?」
「意志もある。感情もある。心もある。……なのに、異を唱えることも、自分の身体を思い通りに動かすことさえもできず、かつてと同じように兵器として、道具として、命じられた通りの行動しか取れないとしたら?」
「ねえ……あなた達は、それに耐えられる?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「そんなの……そんなの無理に決まってる。耐えられっこない……」
五十鈴が瞳に恐怖の色を浮かべて、呆然とつぶやく。
阿武隈も同感だった。
「……そうね。そうよね」
暗い目で大井がぽつりとこぼす。
「北上さんも……耐えられなかった」
膝の上で握る大井の拳に、ぎゅっと力が込められた。
「よりにもよってちょうどその頃……北上さんの改装が進む中、あなた――【軽巡・阿武隈】が、ネグロス島沖に沈んだ」
阿武隈は言葉を失う。
「……目標としていたあなたには、もう追いつけない。……それどころか、このままいけば、遠からず『アレ』を積まされて、憧れとしていたあなたからは一番遠い存在になってしまう。……そう思った北上さんは、無駄だと知りつつ、心の中で叫び続けた」
「嫌だ。嫌だ。それだけは嫌だ。やめて。やめて。お願いだから。……だけど、そう叫び続けた北上さんの心の声は、結局、誰にも届かなかった」
「……そして、その声が誰にも届くことはないと悟った時、北上さんが望んだのは――」
大井の声が震えた。
「自分が『アレ』を使わされることになる前に……一刻も早く、自分を沈めて欲しいということ、それだけだった」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……あとは知っての通りよ」
大井は深く溜め息をついた。
「ちょうどこの時期、7月の終わり頃……『アレ』を積まれたまま停泊中だった北上さんは、呉軍港を襲った大空襲に遭遇した」
「……北上さんはむしろ、ほっとしたそうよ。……これで自分は、ちゃんと沈むことができる。これで自分は、憧れたあの姿を汚すことなく沈むことができるんだ、って」
「……でも、そんな北上さんを嘲笑うかのように……敵の空爆は他の艦にばかり集中した」
「……大破し、動けなくなった北上さんをそのままにして、飛来した敵の爆撃機は次々と他の艦を沈めていった」
「榛名さん、伊勢さん、利根さん、天城さん……仲間達が次々と炎上し、着底していく姿を……北上さんはずっと見せつけられた。見せつけられ続けた」
――助けたくても身体が動くことはなく。
――叫びたくても声を出すことはできず。
――泣きたくても流せる涙は存在しない。
――こんなのは違う。こんなのは間違いだ。
――こんな事を望んだんじゃない。
――こんな事を願った訳じゃない。
――沈むべきは自分なのに。自分だけだったのに。
目を逸らすことも目を閉じることも許されず、北上は――全てを見届けることになった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……もちろん北上さんは、何も悪くない。北上さんの想いに関係なく、あの空襲は起こっていたでしょうし、結果は何も変わらなかったでしょう」
「でもあの時北上さんは……誰を巻き添えにしようと構わないから沈みたい、どうか自分を終わらせて下さいと、望んでしまった。願ってしまった。祈ってしまった。……それがあの子にとっての、変えようのない事実」
「最後まで憧れに手が届かなかった無念や後悔と、最後の最後で憧れから手を離してしまった罪悪感。……それが今でもあの子を苦しめてる」
「……生まれ変わって以来、北上さんはよく言ってたわ。なんで自分だけ、こんな記憶を持って生まれ変わらなきゃならなかったんだろうって。戦艦とか重巡とか、空母とか工作艦でもいい。何でも良いから、記憶なんか全部捨て去って、ぜんぜん違う別の存在に生まれ変われてれば良かったのに……って」
「……神様とやらがいるんなら、そいつはきっと、あたしの事が嫌いなんだねって……寂しそうに笑ってた」
「いつも飄々として、笑いながら日々を過ごしてるように見えるけど……あの子の傷は凄く深い。そしてその傷から……今も血を流し続けてる」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……でもね、阿武隈さん。そんな北上さんが……あなたが着任すると知った時、すごく嬉しそうにはしゃいでた」
――ねえねえ、大井っち、聞いた? あの【阿武隈】が、うちの鎮守府に着任してくるんだって!
――どんな艦娘になってるんだろね? どんなやつなんだろね?
――ああ、楽しみだなあ。
――あたし、教導やらせてもらえるかなあ。
――ううん、絶対あたしがやる。提督が駄目って言おうがどうしようが、留守の間に勝手に決めちゃうから。
――ねえ大井っち。提督には内緒だよ?
「……正直、私は反対だった」
大井の声は苦しげだった。
「……北上さんは【軽巡・阿武隈】に憧れを持ち過ぎてた。理想の艦娘のイメージが、北上さんの中で膨らみ過ぎてた。あなたは――ううん、あなただけじゃない。【軽巡・阿武隈】も、別に特別な艦じゃない。弱さも欠点も抱えた、ただの普通の軽巡洋艦だったはずなのに」
「……いつか、北上さんの中の【軽巡・阿武隈】のイメージと、艦娘としてのあなたの姿にズレが生まれた時――北上さんがひどく傷つくことは判ってた」
「でも、それでも……あんなにはしゃいで、あんなに嬉しそうにしてる北上さんを止めることは……私にはできなかった」
「……そして阿武隈さん。あなたは、北上さんの期待通りの素敵な艦だったわ」
「何があっても諦めない。どんな難題でもまっすぐ立ち向かっていく。そして何より、仲間を絶対に傷つけず、必ず生きて連れ帰る……そんな艦になれるんだ、って北上さんが信じてしまったくらいに」
「……もちろん、理想の艦娘なんてイメージとは、ほど遠かったみたいよ? 生意気だし、泣き虫だし、口は悪いし、ね」
大井は困ったような笑みを阿武隈に向ける。
「……でも、そんなあなたの事を話す北上さんは、楽しそうだった」
「……私が、あなたには関わり過ぎない方がいいって、いくら言っても聞いてくれなかった」
「今回……あなたは確かに旗艦としては大きなミスを犯してたのかも知れない。……でも、それは誰にでも起き得ることよ。北上さんの態度は、あまりにも厳し過ぎた」
「……次に、あなたは最初、確かに自分のミスに気付けず、勘違いしてた。……でもこれも、
「あなたの北上さんへの最後の暴言……是非は別として、心情的には理解できるわ。……さっきも言ったけど、北上さんも、あなたの暴言そのものに腹を立てて、それで教導を降りるなんて言いだした訳じゃない。あなたに暴言を吐かせるようなことをしてしまった……自分自身が許せなかったのよ」
「……厳しい言い方をすれば、勝手な理想をあなたに押し付けて、勝手に北上さんが傷ついただけ」
「……そのことはもう、多分北上さんも解ってる。だから……自分から、あなたの教導を降りるなんて言い出したんだと思う」
「……こんなことを言えた義理じゃないのは判ってる。だけど阿武隈さん……どうか、北上さんを許してあげて」
「そしていつか――北上さんが望んだような、素晴らしい艦娘になってあげて。そうすれば……北上さんの気持ちも少しは救われるんじゃないかって……そう思うから」
大井は目を伏せ――長い、長い話が終わった。
※というわけで、赤文字の主は阿武隈の未来と思わせて実は北上さまの過去だったというギミックでした。
掲示板投稿時はちょこちょこ騙されてくれた人がいて嬉しかった思い出