秋津島高等学校航空科。
今日は学年末試験の最終日である。
教室棟の廊下に、生徒が手にする筆記用具の奏でる音が、微かに、厳かに響き渡る。
時を同じくして学事棟の一室――小会議室では、あるイベントが執り行われていた。
その入口には、墨痕鮮やかな(実際はプリンターで印刷したものだが)こんな看板が据えられていた。
【20××年度 航空科転入試験会場】
秋津島高等学校航空科は、学年途中での転入を一切認めていない。年度替わりの4月1日転入が絶対である。転入希望者には筆記と面接による転入試験が実施されるが、筆記試験の問題は学年末試験と全く同じ。それを所定の点数以上獲得することが求められる。面接は筆記試験合格者に対してのみ課される。
毎年数名の転入試験受験者がいるが、合格した者は開校以来ゼロ。専門用語がずらりと並ぶ筆記試験で、もれなくふるいの目からこぼれ落ちていく。
厳しすぎるのでは? という指摘に対して、かつて校長や航空科長はこう答えた。
『専門性を養う学校に途中から入学を希望するのなら、我々は既存生徒の平均と同等あるいはそれ以上の知識・学力を有していると見做すし、また有していて当然である』
この姿勢は校長が変わっても一貫しており、同時に全ての教職員に浸透している。
そして今年。
試験会場にいるのはたったひとり。女子である。
もともと彼女はあるお嬢様学校に通っていた。航空関係の世界とは全く無縁である。
そんな彼女だが、専門用語がオンパレード状態の問題を真剣な眼差しで見つめ、時折微笑みを浮かべながら、いささかの迷いも見せずに解いていく。
それまでの受験者が苦悶の表情で頭を掻きむしったり、問題用紙を見つめて硬直したままだったり、答案用紙に名前だけ書いて不貞寝を決め込んだりしていたのとは大違いである。
紺のブレザーと同色の膝丈スカート。やや栗色がかったショートカットの髪に白いヘアバンド。端整な細面にリムレスのメガネをかけ、いかにも知的な雰囲気である。
試験官である女性教官――下地志麻が腕時計を見た。試験終了まであと5分。
「……よし」
女生徒が小さく呟いた。満足気に何度も頷いている。
「あの~、試験中は静粛にして下さいね?」
およそ試験官らしからぬ志麻の声かけに、女生徒は少し慌てた様子で顔を上げた。
「申し訳ありません。名前と受験番号の記入漏れがないか確認していました」
答案用紙の名前や受験番号が未記入というのは、極々たまにある。そういう答案は問答無用で0点扱いとなることもある。それは秋津島高校航空科も例外ではない。
「そうですか。……あ、解答欄、ずれてませんか?」
女生徒の答えを聞くと、志麻は悪戯っぽく笑った。
公正を期する意味で、本来試験官と受験生の会話は禁止されている。だが、終了時間は間近だしこの程度なら問題ないだろう。仮に誰かに知られ咎められたとしても、「最終確認を喚起しただけです」で押し通せば良いだけのことである。
「――大丈夫です、はい」
女生徒は律儀に確認したようだ。
やがて、試験終了を告げるチャイムがスピーカーから流れた。
「はい終了です。それでは、答案用紙を回収しますね」
女生徒が、ほっと安堵のため息を漏らした。座っている椅子の背もたれに寄りかかり、そのまま大きく伸びをする。
志麻は女生徒の答案用紙を取り上げた。回収袋に入れるまでの一瞬、さりげなく答案用紙を見る。美麗な楷書体で綴られた文字はいささかのぶれもなく、あたかもそれは女生徒の意志の強さや自信のほどを誇示するかのようだ。ついでに解答の内容もこっそりチェックする。
(……開校以来、初の転入試験合格者誕生かも)
この解答だったら、どの教官が採点しても文句のつけようがないだろう。
筆記試験合格者には面接があるので、そこで落とされる可能性も否定できないのだが、立ち振る舞いや試験中の態度を見る限りその心配は無用だ。
志麻は回収袋の封を閉じると、女生徒の隣の席に座った。
「お疲れさまでした。で、自信のほどはズバリどれくらいですか?」
「やるだけのことはやりました、としか言いようがありません」
「……それもそうですね」
互いに顔を見合わせ、クスリと笑う。
試験監督を終えた教官達が戻ってきたのだろう。部屋の外から足音や話し声がチラホラと聞こえてくる。
志麻も教官室へ戻ろうと腰を上げた。
「それでは、転入試験はこれで終了です。お疲れさまでした。結果は一週間後、ご自宅にお送りしますから、首を洗って――じゃなかった、首を長くして待っていて下さい」
「長い首は洗い甲斐がありそうですね」
女生徒はクスクスと笑い、帰り支度を始めた。
志麻はといえばその様子を見ながら、何か言いたげに唇を尖らせている。大方(揚げ足を取らなくてもいいのに)とでも思っているのだろう。
そうこうしているうちに、女生徒は身支度を整え、戸口へと歩き始める。
その手がドアノブにかかるのと、志麻が声を発したのとは殆ど同時だった。
「――あっ、そうだ! 成田さん、ちょっといいですか?」
ドアノブを回す女生徒――成田美里の手が止まった。
振り向いた美里の視線の先で、志麻が微かに笑った。
「少し時間ありますか? 見せたい場所があるんです」
志麻が言うところの『見せたい場所』は、教室棟の一角にある。
そこに招き入れられた瞬間、美里の眼の色が変わった。
「うわぁ……」
驚嘆の声を漏らす美里の眼前に、映画館のスクリーンを思わせる巨大なモニターが広がっている。そしてそこには、一直線に伸びる滑走路とそれに繋がる誘導路、空港のターミナルビルを思わせる建物と、ボーディングブリッジで出発の時を待つ旅客機とが、精密なCGで映し出されていた。
見惚れる美里の傍で、志麻が得意げな口調で説明する。
「このシミュレーターは、秋津島高校航空科がある人工島だけでなく、日本国内の管制塔機能を有する全空港・飛行場と、海外の主要空港のデータが入力されています。そして、それらの空港の最新情報をリアルタイムで反映することも可能です。――しませんけど」
「しないんですか?」
「止まっちゃうんですよ、実習が」
苦笑いする志麻を、美里は胡乱な眼差しで見た。
「どうしてデータのリアルタイム反映程度で実習が止まるんですか? それにより中断される程度の実習だとしたら、そんなの全く無意味な実習だと思うのですが。そもそも、どこに原因があるのですか? データそのものですか? それとも実習を受けている生徒ですか? 中断しそうなところを軌道修正出来ない教官ですか?」
舌鋒鋭いというか、いちいちごもっともな指摘が、矢継ぎ早に繰り出される。
軌道修正出来なかった(正確には“するのを忘れていた”である)教官のひとり、志麻は、ゆっくり、それこそ『ギギギ』ときしみ音が出そうなぎこちなさで、頭を左にめぐらした。めぐらしながら(同時に心の中で涙を流しながら)志麻は思った。
聡い子は嫌いじゃないけど嫌いです――と。
実際の空港のあらゆるデータをリアルタイムで反映可能ということで、シミュレーター実習時間に色々試していると、トラブル発生の場面に遭遇することが多々ある。
そのほとんどは『離着陸の遅れ』である。
稀に、『駐機スポットを出た機と駐機スポットに入ろうとした機が接触した』とか『管制からの待機指示を無視した機が滑走路に進入、着陸機が着陸のやり直しを余儀なくされた』といった事も発生する。いわゆる“重大インシデント”と呼称されるものだ。
超レアケースとして、『エンジン発火による緊急着陸』とか『思想・信条に基づく確信犯的ハイジャック』といった、いわゆる“緊急事態”もあるが、それはさておき。
そうしたトラブルがどう進展・収束していくか、生徒のみならず教官までもがその状況を気にするあまり、実習時間が全く進まなくなってしまうのである。
開校以来続くそんな残念な状況に対し、去年の4月ようやく転機が訪れた。
『トラブルが発生した際に、どのような管制を行えばよいかという、建設的なシミュレーションをせずに、教官・生徒が揃いも揃って、ただ野次馬の如く状況の推移に注視するばかりというのは、いかがなものかと思うんですよね~』
と、極めてもっともな意見がひとりの新入生から上がり、実習時間中のリアルタイムでのデータ反映は一切行わないこととなったのである。
「――まぁそれはそれとして、成田さん、このシミュレーターで遊んでいきませんか?」
正面に向けた首を左か右に90度めぐらすと、諸々リセットされるらしい。
ことさら陽気に志麻が提案した。手の中にはヘッドセットがひとつ握られている。
「遊ぶんですか?」
「成田さんは管制部希望ですよね? ですので、航空管制官ごっこです」
邪気のない志麻の笑顔と、差し出されたヘッドセットとを交互に見ながら、美里は志麻の真意を推測した。知らず知らず眼鏡の中の目が細くなっていく。その目つきのまま、美里は志麻を見た。
「……実は試験ですか?」
「いいえ」
美里の追及を、志麻は穏やかに微笑みながらかわした。
「たった1年とはいえ、あなたより経験がある子たちの中に入って、気後れすることなくやっていけるか。また、『それでもやっていく』という気概が成田さんにあるのか。私はただ、それを見極めたいだけなんです。それに――」
志麻が一旦口を閉じる。
それに何だというのだろう。美里はついつい身を乗り出し言葉を待った。
ややあって、再び志麻は口を開いた。
「――それに、本やインターネットの世界で集めた知識を、どこまで応用出来るか。成田さんは気になりませんか?」
そう言って美里を見据える、志麻の眼差しは真剣そのものだ。
否、妙に熱っぽい。しかも何故かキラキラと輝いていたりする。
美里としては『全然気になりません。気になっているのは、むしろあなたなのではないですか?』と言いたい。言いたいのはやまやまなのだが。
(どうせ全肯定されるのが落ち、よね)
そして何より、口調こそ穏やかだが、志麻の言葉にささやかな悪意――俗に挑発と称される――が秘められているように、美里には感じられた。
『基本的には冷静沈着だけど、実は負けず嫌いっていうか、結構熱い人だよね』
とは、美里の回りの人達が折に触れ口にする評だ。美里自身もそれを自認している。
だから。
「決意を示すには、言葉ではなく行動が必要みたいですね」
「そこは素直に、『私、気になります!』というところですよ?」
志麻がニッと笑う。
美里はヘッドセットを受け取り装着した。大型モニターを見据える。
眼の前の景色が羽田空港C滑走路に変わった。
前回投稿分の会話内で出てきた『転校生』が、今回登場の成田美里さんです。
この先どうやって羽田くんと絡ませようかしら……。