無機質に時間を刻む時計の音だけが、佐天涙子の部屋を支配している。
上半身をベッドにもたれ、組んだ両腕の隙間に顎を埋め、目の前に置いたケータイをじっと見つめていた。画面に映し出されているのはコミュニケーションアプリ『FUKIDASHI』のトーク履歴。
『なにかリクエストあります?』
『何時ごろこれますか?』
『もしもーし』
数時間前に涙子が送った三件のメッセージはどれも既読が付いていなかった。放置されたケータイがスリープ状態になろうとすると、涙子が機械的な動きで画面に触れて、それを阻止する。
もう三十分以上、プログラムされたロボットのように繰り返した行為だ。
机の上に置かれた料理は既に冷めきっていて、さっきまで美味しそうに立ち昇っていた匂いもすっかり消えてしまっている。料理はどれも涙子の自信作だったが、これでは台無しだ。
ケータイをスクロールし、少し前のトークに視線を移した。
『一週間後 気が向いたら食べに行くから用意しときなさいって訳よ 二ヒヒ』
料理は出来た。あとは、友達が来るのを待つだけ。来ることを信じて、涙子は待ち続けていた。
時計の音も、床の冷たさも、空腹感も、過ぎていく時間も、彼女の心を動かすことはなかった。
虚ろな瞳は、目の前で淡い光を放つ物体だけを捉え続けた。
ピーンポーン。
「!!」
不意に鳴ったチャイムの音に涙子は勢いよく反応した。同時に、彼女の心は大きく高鳴った。
気が付くと彼女の体は玄関に向かって動いていた。その過程で、ガンッ、と鈍い音を立てて机の角に小指をぶつけてしまう。痺れるような痛みに悶えながらも歩みは止めない。玄関にたどり着くとすぐに鍵を開けドアノブに手を掛けた。
「もー遅いですよ!! 料理もう冷めちゃって……」
弾んだ声と満面の笑みで、涙子はドア先の相手を咎めた。
しかし、そこにいたのは想定していた相手ではなく、困惑した表情の初春飾利だった。
身辺警護、という言葉が涙子の脳裏に浮かんだ。一週間前、謎の襲撃者に襲われた涙子の安全を考慮し、
今日もそのために、初春が来てくれたんだろう。
「えっと……今日の警備報告をと……」
突然の出迎えに戸惑いながらも、初春は自らの仕事を遂行するべく報告を伝えた。
「と言っても特に異常なしってだけですが……」と付け加えた初春の言葉を聞きながら、涙子の中にあった『何か』が消えた。
「……そっか。初春もケガしてんのにありがとね」
固まっていた口元を小さく歪め、お礼の言葉を口にした。
「折角だから寄ってきなよ」
「え、でも……」
「夕飯作りすぎちゃってさー」
違う。と、言葉にはせず、胸の内で呟いた。
本当は初春の優しさに甘えさせてほしいんだ。
このイヤな気持ちを、少しだけでも和らげたい。
ねぇ、初春。あたし――
「よかったら食べてってよ」
――ちゃんと笑えてるかな。
*
「佐天さん、何かあったらすぐに連絡してください」
「ん、分かった。ありがとね」
最後まで心配そうにしていた親友を出来る限りの笑顔で見送り、涙子はドアを閉めた。独りだけの空間に再び静寂が訪れる。
鍵を閉めようと手を伸ばした涙子の手が止まる。その表情からは、既に明るさが消えていた。
負の感情が胸の内で燻り、締め付ける。初春のおかげで消えかけていた感情が蘇り、あっという間に広がっていく。
もしかしたら。
その先を考える前に、涙子はケータイを見た。FUKIDASHIのアイコンを押し、未読のままだったメッセージをもう一度確認する。
(……やっぱり、だよね)
涙子は鍵を閉めると引き寄せられるようにリビングへと向かい、ケータイを持ったままベッドに飛び込んだ。
枕に顔を埋めたあと、何も変わっていないFUKIDASHIのアプリを落とし、電源を切った。
それでもこみ上げてくる衝動を発散するように、布団の上で足をバタバタと動かしてみたが、気持ちは晴れないままだった。
涙子が息苦しさに耐えきれず枕から顔を上げ、そのまま横に向き直ると、真っ暗なテレビ画面に反射して映る涙子自身と目が合った。
生気のない眼と呆けたような半開きの口、忠実に映っているはずの自分の姿が、別人のように感じられた。
もしかしたら、何かあったのかな。
不安な気持ちが言葉になって、ぽつりと口からこぼれた。
それが引き金となって、考えないようにしていた可能性が止め処なく涙子の頭の中であふれ出す。
(急用、もしかして事故? いや、この前みたいな事件に遭って、それで……)
脳裏に浮かんだのは、涙子と『友達』が襲われたデパートでの光景だった。
訳も分からないまま肩を貫かれ、二の腕を抉られ、苦痛に顔を歪める友達と、その様子を見ていることしか出来なかった無能力者の自分。
涙子は、自らが囮になることを提案した。敵の狙いが佐天涙子の方だというのは、誘拐未遂の件で彼女自身も自覚していたからだ。
――そんなこと言われなくたって分かってるわよ!!
記憶の中の友達が、感情をあらわにして叫んだ。物分かりの悪い相手に激昂するように、状況が緊迫していることをまくしたてる。
無能力者が身を守れるのか、逃げ切れるのか、命だけは助けてもらえるとでも思っているのか。
逃げ切れるなんて思っていない。殺されるかもしれないことだって、分かってる。でも、このままじゃ二人ともやられてしまう。
涙子は自分が足手まといになっている現状に耐えられなかった。これ以上、自分のために傷ついてほしくなかった。
だから震える声で、「かけっこは自信ありますから」と強がりを言った。
そこで回想は止まった。
脳細胞からフライング気味に送られてきた少し先の記憶が、涙子に新たな可能性を提示したからだ。
それは、別れ際の会話だった。友達が最後に残した言葉を、頭の中で何度も反芻した。
――私らもともと住む世界が違うんだし、二度と会うこともない人間のことなんてスパッと忘れちゃって
距離を置かれた、という答えが、欠けていたパズルのピースがハマるように涙子の中で合致した。
あのメッセージは安否を伝えるための、彼女なりの優しさだったのだと、そう理解しようとした。
きっと心配しているであろう涙子が傷つかないようにあえてメッセージを残して去っていったのだと、考えたかった。
そう思うのが一番だと、涙子は自分に言い聞かせた。
涙子は伏し目がちに下唇を噛んだ。同時にどうしようもない寂しさに襲われ、体の下にある掛け布団を乱暴に捲り上げ、頭からそれを被った。
仄かな暗闇の中で、気持ちのぶつける先も分からないまま、うずくまった。
そうしているうちに、彼女の意識は次第に薄れていき、そして暗転した。
涙子が眠りについた数十分後、彼女の寮のドアがゆっくりと開いた。