最初に涙子が気づいたのは、何かを漁る物音だった。
方向からして、おそらくキッチンから聞こえているのだろう。何か固いものがこすれ合う音と、それが床に落ちる音。その直後に、「やばっ」と誰かが声を上げた。
涙子はうっすらと目を開けた。瞼の隙間から、部屋の明かりが差し込んでくる。微かに見える視界から部屋の状況を把握しようとしたが、無理だった。体を起こしてキッチンを確認する勇気もない。
どうしよう、と涙子は逡巡した。間違いなく泥棒的な輩が今、自分の家の中にいる。
まず一番に考えたのが、寝たふりのままやり過ごすという手だ。状況から察するに盗られているのは食料で、涙子自身に危害を及ぼすものではないと仮定し、狸寝入りを決める。
ところが、狸寝入り作戦は早くも失敗の危機を迎えた。侵入者の気配が、徐々に涙子の方へ近づいてきたのだ。涙子は恐怖に負けて薄目を完全に閉じた。緊張で呼吸が乱れそうになるのを何とか抑え、正常なリズムで息を吐く。何者かの気配だけが、ゆっくりと迫ってきている。足音を立てないようにしているのが涙子の恐怖心をいっそう煽った。
いる。
誰かがあたしの目の前に立っている、と涙子は確信した。
穏やかな寝息を立てて眠る少女を演じながら、侵入者が出ていくのを今か今かと待ちつづける。
だが、気配は消えなかった。わずか数秒の時間も涙子には永遠に感じられた。
「……ごめんね」
聞こえてきたのは女性の声だった。弱々しさを含んだ柔らかい声は、明らかに涙子に向けられていた。涙子の頭を、小さな手が優しく撫でる。直後、溶接されたように閉じていた瞼が動くのを涙子は感じた。相手の細い指がゆったりと涙子の黒い髪を梳きながら頭から離れた。涙子は、もう一度うっすらと目を開けた。
(ふともも?)
スラリとした足が黒タイツに包まれて、スカートの中から現れていた。
涙子はさらにほんの少しだけ、視界を開けた。ぼやけていた視界がより鮮明になると、タイツは所々が痛々しく破れ、侵入者の血に染まった白い肌が露出しているのが分かった。
驚きで声が出そうになるのを、涙子はなんとか抑えた。そして、自分の家に勝手に入ってきたのが何者なのかを理解した。
侵入者は振り返ると、涙子が出しっぱなしにしていた食事用のミニテーブルに何かを置いた。涙子は目を凝らしたが、透視能力の無い彼女に包装紙に覆われたものを見破るのは不可能だった。
そうして、本当の泥棒のようなつま先立ちで、抜き足差し足忍び足と玄関へ向かう。
「何やってるんですか?」
「にょわッ!?」
背後からいきなり飛んできた声に、侵入者の肩は小さく跳ねた。同時に、背中を流れるように伸びている金色の髪も揺れた。
錆びついた機械よろしく鈍重な動きで振り返る彼女に、涙子はじっとりとした目を向けた。
好意的な感情が排除された涙子の瞳に、侵入者もとい友達である彼女も思わずたじろいだ。
「え、えへへ。ホントはもっと早く来るつもりだったんだけど、結局急用で来れなくなっちゃったって訳よ。でもでも、ドタキャンはよくないかなって思ったからわざわざ来てあげたって訳よ!」
軽口を叩く友達を見て、涙子の心の片隅にあったケガへの心配は吹き飛んだ。
「へーそうですか。こんな夜中にわざわざありがとうございます」
残ったのは、氷のように冷たい怒り。
涙子は棒読みでお礼を言って布団から起き上がると、壁の時計に視線を移した。丑三つ時を示す時針は、涙子の気分をげんなりとさせる。
どこから文句を言えばいいのやら、そんな気持ちを伝えるようにわざと大きなため息を吐いた。
そのため息をどう受け取ったのか、友達は慌てて目じりに唾を付けると、涙子のもとに近寄り、目じりに涙を浮かべているように見せた。
「グスン……私、今日ガ楽シミデ頑張ッタンダヨ……?」
「今日っていうかもう昨日です。とりあえずそこに座ってください」
涙子は一切表情を変えず、静かに言い放った。
泣き真似は通用しないと分かると、少女は引きつった笑顔で首を振った。
「いやいやいや、もう夜も遅いし帰るって訳よ。それじゃ「フレンダさん」
フレンダ、と呼ばれた侵入者の少女は有無を言わせぬ涙子の剣幕に負けたのか、反省の意を示すようにその場に正座した。そんな彼女を冷ややかに見下ろして、涙子の質問が、いや尋問が始まった。
「どうやってウチに入ったんですか」
「私にかかれば学生寮の鍵なんてチョロいって訳よ」
「どうしてFUKIDASHIの返信が無かったんですか」
「ケータイの充電が切れちゃったって訳よ」
「さっきキッチンで何してたんですか」
「えっ、何もしてないケド?」
「サバ缶泥棒がいるって
「返すから! 結局出来心だったって訳よ!」
そう言ってフレンダは、どこに入ってたんだと突っ込みたくなるような数のサバ缶をスカートの中から取り出した。
手に余ったいくつかのサバ缶は彼女の下を離れ、フローリングの床を転がっていく。それを追いかけるべく腰を上げたところで、フレンダはわずかに静止し、誰にも聞こえないくらいの小さな唸り声を上げた。
「痛むんですか!? 待ってください、救急箱持ってきます!」
些細な違和感に気づいた涙子は、一転して顔に心配の色を浮かべると、急いで救急箱がしまってあるタンスへと走った。
「このくらい平気だってば。かすり傷だし」
お人好しな部屋の主を横目で見ながらそう言っても、返事はない。
さっきまでの怒りは蒸発してしまったかのように、涙子は救急箱片手にフレンダの元へ駆け寄った。結局、フレンダは抗うでもなく、複雑そうな表情でされるがままに手当を受けた。
それから涙子は、救急箱を戻すついでにキッチンへ向かい、二人分のコップにお茶を注いだ。
「すみません、ヘタクソで」
お盆にお茶を乗せた涙子は、フレンダの脚に巻かれた包帯を見ながら照れるように笑った。
しかしフレンダは面白くなさそうな顔で床に寝っ転がると、わざとらしい調子で「あー、結局サバ料理を食べたらケガが治りそうな気がする」と言った。
「えぇ……? 簡単なのしか作れませんよ、材料も殆ど無いし」
「夜食としてはちょうどいいって訳よ」
涙子は呆れた顔でコップをミニテーブルの上に置き、サバ缶を手に取った。
その時、ふと涙子は一つの違和感に気が付いた。
(そういえばフレンダさん、さっきテーブルに何か置いてたような……)
しかし、あるのは大量のサバ缶と二杯のお茶だけで、それ以外のものは何もない。
気のせいか、と涙子は自己解決し、お盆を持ってキッチンへ向かった。
仰向けの状態でフレンダは壁時計に視線をやった。それから涙子の後ろ姿をちらりと見て、小さく呟いた。
「……結局、お人好しが過ぎるって訳よ」
フレンダの呟きは、涙子の鼻歌にかき消された。