なりきり妖夢一直線!   作:月日星夜(木端妖精)

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大変長らくお待たせいたしました。
中々書き進めないので、途中で切ってお送りします。
次回の更新日は未定です。

……なんか、書き方がわからなくなってきた。


第二十二話 VSメイド

「あかんよ」

 

 暗闇の中、つまんだ袖の先で、顔も向けずにこのかが言った。

 首を振る。

 もう、暗いのはいや。一人になるのは嫌なの。

 寂しくて、潰れてしまいそうになる胸を押さえると、私の手を払うように腕が振られる。

 ……いやだ。離したくない。……離さないで!

 何もかもを受け入れて欲しくて、ただ、決して離さないように袖を掴む。

 だけど、手を握りしめた時、そこに布の感触は無かった。

 焦りに押されて顔を上げる。目の前には――見知らぬ男が立っていた。

 

「――お、に」

 

 ひくりと、唇が震えた。割れた頭から流れる血が、足下を赤く染め始める。

 口を開けば、こぽこぽと赤い泡が立つ。動悸が早まって、立っていられなくなり、膝をつく。揺れた視界の先で、色の無い目が私を見ていた。

 

 ああ、だめだ。

 このままじゃ、私……一人になってしまう。

 

 それは……私が、悪い子だから……?

 伸ばそうとした手は、いつまで経っても動く事はなかった。

 

 

 ざあ、と吹く風が頬を撫でる。桜吹雪が、ぼやけた視界いっぱいに広がっていた。顔や体にお構いなしに降りかかってくる花びらに目を細める。

 

「……ここは」

 

 唇にかかった髪を指先で退かし、ずっと続く階段の先を見上げる。渦を巻いてふわりふわり浮かぶたくさんの桜。首に当たった一枚が、するりと服の中へ入り込んで来た。

 そこかしこに人とは違う気配を持った者達がぼうっと浮かんでいる。花弁は、妖しい光を纏うそれらを擦り抜けて、私の方へと飛んできていた。

 ああ、ここは……。

 

「……冥界」

 

 自分に確認するように、ぽつりと呟く。心の中に、ここがどこかとかよりも先に、この先に行けば、寂しいのが無くなるんだという気持ちがわき出ていた。

 だって、この先には……私を包んでくれる人がいるから。

 右目にぶつかる花びらを首を振って落とす。服の中に残る桜が擦れて、くすぐったい。一段上の段へと足を上げようとして、ふっと、空を見上げた。

 

「はっ!」

 

 気合の声。空気を裂くナイフが、前方にいた半透明の何かを貫いた。一拍遅れて、ひゅうっ、と冷たい風のように、人影が私の上を飛んで行く。

 あれは……十六夜咲夜!

 スカートをはためかせて、花びらの雨の中を突っ切って行く十六夜咲夜。すました顔でナイフをばら撒くその姿に、自分がここに立つ理由を思い出す。

 

「……そうだ、私は春を奪うために戦っていた!」

 

 いつものように刀を抜き放ち、同時に弾幕を放つ。七つの光は幾つもの花弁に紛れて、相手に届いたかすらもわからない。最後まで見ず、飛び跳ねるように階段を駆け上がりだした。所々に突き立つナイフを避け、仕留められて落ちてくる者共を払う。少しもせず、広い空間に出た。石の床に溜まった花びらを踏みつけながら、妖精達に囲まれている咲夜を見上げ、白楼剣のリボンを解く。まずは私も空を飛ばなければ、話にならない……そう思って風の魔力を解き放とうとしたものの、手の内のリボンが溶けて消えても、緑色の魔力が私を渦巻く事は無かった。……なぜ?

 眉を寄せながら、再度リボンを解く。やはり風は出ない。空っぽなんだ、と直感した。これでは空を飛べない! 仕方なく、今度は岩の槍を出すためにリボンを解く。三度目の正直か、今度は無事に魔力が解き放たれた。瞬く間に妖精を蹴散らして飛んで行こうとする咲夜を穿とうと地面から飛び出して迫った槍が、しかし、空を切って飛んでいく。消えた!? ……いや、横へ移動している。いつの間に……。位置だけでなく、まるきり体勢も変わって私へと目を向ける咲夜を見上げながら、足を動かす。

 まあ、槍が避けられようがどうでもいい。前に回り込む事はできた。空は飛べなくとも……弾幕を放つ事はできる。それで撃ち落として、すぐに斬ってしまえばいい。根こそぎ春を奪ったら……この先に、行こう。

 私を見下ろす咲夜に声を掛けようとして、投擲されたナイフに、咄嗟に剣を振って弾き飛ばす。と、間もおかずもう一本が飛んできた。慌てて振り切った刀を強引に戻し、盾にして何とかナイフを防ぐ。瞬間、目の前に咲夜が飛び込んで来ていた。両目の前を刀がよぎった、ほんの一瞬の間に。

 膝蹴りに腹を打たれ、思わずお腹を庇おうとしてしまった所を、横蹴りにされて床を転がる。お腹だけでも背まで突き抜けるくらい痛いのに、強かに蹴られた肩は、骨を砕かれたかもしれないほどの激痛を発していた。転がる体は途中から地面を擦るだけになり、やがて石畳の端、わずかな段差にぶつかって止まる。擦った腕が焼けるように痛い。あちこちをぶつけたせいか、体中がずきずきと疼いていた。

 片腕をお腹に回して、蹲るように身を起こそうとすると、熱いものが勢い良く喉奥からせり上がって来た。口の中に溢れるのを飲み込む暇も無く唇の端から漏れて、つうっと垂れるそれは、どうやら血のようだった。肩よりお腹の方が大変なのかもしれない……。口内に広がる鉄臭さに、吐き出す訳にもいかないので、吐き気を堪えて口の中のものを飲み込む。粘つく液体がどろどろと喉を滑り落ちていく。途端、胸を突き刺す痛み。真ん中より下……鳩尾の横、いや、それより上? 折れた骨が刺さっているのか、息を吐くだけで重苦しいものが内側から胸を突き上げるのを、柄を強く握って耐える。食い込んだ爪が痛い。刀を支えにし、勝手に震える体に鞭打ってなんとか立ち上がった。顎から滴り落ちた血の一滴が、花びらの一枚にぶつかって後ろへ飛んで行った。

 

「あら、いいガッツね」

 

 凛とした声。だけど、敵意の欠片も無い声。ただ思った事を口にしただけと言うような声音に眉を寄せながら、刃先を床に擦り、持ち上げて、構える。ピンク色の奔流の中に、銀色が輝いていた。私よりもやや濃い銀髪。鈍く光るナイフが、何本か。地に足をつけ、背筋を伸ばし、胸を張って立つ姿は、いつか見た咲夜の姿絵と同じ。

 ――いい風ね。

 一瞬記憶の海に沈もうとした私を、どこか暢気な声が引き戻す。出所は目の前の十六夜咲夜以外にない。僅かに口の端を歪めて微笑む姿は、不敵すぎてどこから斬りかかればいいのかわからない。一種輝いて見える程の白いカチューシャが揺れているのが、馬鹿にされているみたいで、心がざわめいた。

 

「さて、半殺しでいいのかしら?」

 

 ……馬鹿にしているのか。そんな事、私に聞かれても困る。

 眉を寄せると、咲夜は組んだ腕の先でナイフをちらつかせながら小さく首を傾げた。素で言ってるのか、こいつ。

 

「……私に聞くな。半死人の……半人半霊の力、とくと見せてあげるわ!」

「死人に口無しってこと?」

「問答無用!」

 

 からかうような口調で問い返してくる咲夜の言葉を切り捨て、叫ぶと同時に刀を振る。放たれた九つの弾丸は、しかし何も無い場所を通って行った。そう理解する前には、背後の気配には気付いていて、でも、どうしようもなかった。

 

「残念、はずれ」

「――!!」

 

 体全体を引っ張るように体を捻り、構えもままならないまま刀を振るう。視界の端に映った咲夜に刃が届く直前に、その姿は掻き消えていた。

 背後に気配。

 即座に前へ飛び込む。浅く背を斬りつけられるのを感じながら、両腕を胸の前に引き寄せつつ倒れ、下敷きになった腕を突き出す力で横に転がった。ヒュ、と風切り音。頭の横にナイフが突き立つのが、回る視界の中に見えた。

 もう一度地面を突き飛ばし、身を捻りながら跳ね上がる。咲夜の方へ向けようとした刀は、意思に反して後ろに振られていた。刀身を伝わる小さな衝撃。

 無理な体勢で振ったために痛む肩を庇おうと振り向き直すと、後ろの方に咲夜が立っていた。近くの地面にナイフが落ちている。今、私、あれを弾いたのか。自分の芸当に驚きつつも、構える事は忘れない。……時間を止められる咲夜を相手に、構えなんて無意味な気もするが……しかし、他にどうしようもない。

 咲夜が太ももに当てた手をゆっくりと引き上げると、いつの間にか細指の間に三本のナイフが挟まれている。じっと見ていてもわからない速さ。……時間を止められたら、どんなに速くても追いつけない。どうすれば……。

 

「こんなのはどうかしら」

 

 半円を描く手が顔の横まで来た時に、咲夜が言った。意味を理解する前に、ぶれる姿に、咄嗟に剣を振る。風も起こさず目の前まで迫った咲夜が、私の刀を振る以上の速度で後ろへと回り込んでくるのが見えた。振り切った時には、背中を蹴られていた。

 喉の奥でくぐもる声を漏らしながら石畳を転がる。地面に背中がついた時に、体全体で跳ねて飛び退りつつ体勢を立て直し、両足で地面を擦りながら咲夜へと顔を向ける。立ち上った土埃が花びらを乱して、風に巻かれて行った。

 肩をすくめた咲夜が、トンと地を蹴って後ろへ高く飛び上がる。釣られて顔を上げれば、緩やかに振られた咲夜の手を追うように、幾つものナイフが出現していた。何もない空中に固定されるようにジグザグに。切っ先が全て私に向けられているのを見て、後ろへ跳ぶ。自分の動きも、周りの景色もゆっくりと動いて見えるのが、時間を操られているかのようだった。

 一斉に襲い掛かってくるナイフの中へ横薙ぎに楼観剣を振り抜く。三、四本を弾き、残りの殆どは既に軌道上から逃れている。一本だけが、他と違って遠くへ――私の方へ飛んで来ていた。刀を戻すにしても時間が無い。顔面直撃コースだ。

 

「くっ!」

 

 目いっぱい首を横に傾けて、意外と大きなナイフを避ける。横切った個所が一瞬熱くなった気がして、しかしそれを気にする暇も無く、遠く、上空で、体勢を変えながら二度三度と腕を振る咲夜の姿が見えた。

 もつれそうになる足をどうにか交互に後ろへやって、擦るように後退する。戻した傍から振るう刀に引っかかるナイフの数は少ない。二の腕や太ももを掠るナイフより、ぶつかり合う足の方が痛かった。

 動きを止めれば串刺しになるだろう状況の中、少しづつ頭の中が冷えていくのを感じる。

 見えている。降り注ぐ銀のきらめきも、咲夜の冷たい表情も。

 強く地面を擦って急停止する。体のあちこちに細かな傷はあるものの、一本も刺さる事無く全てをさばき切ると、咲夜は地面へ下り立って――消えた。

 

「――っ!」

 

 認識できていたかはわからない。でも、予感はあった。だから、もう、刀は胸へ抱き寄せていた。

 そのまま、足首をひねりそうなくらいの勢いで反転する。冷たい物が背中を切り裂いて、すぐ、硬い物が背中に擦り付けられる。腕、だ。

 その腕を払う勢いで刀を振る。腕を突き出した体勢の咲夜は、一瞬目を見開いて、前へ跳んだ。

 私の方へ、私の後ろへ。振り切る刀に任せて地面に飛び込み、肩から入って転がり、向き直る形で、腕を使わず立ち上がる。じんわりと、背の傷が痛んだ。

 石畳に腕をついて立ち上がろうとする咲夜が、不自然な姿を残したまま消える。瞬きをしようと目を閉じかけている時だった。

 目をつぶると同時、刀を握りながら背後に肘打ち。いつぶりか、柔らかい人間を強かに打つ感触が肘先から伝わって来た。

 私を刺そうとしたナイフの軌道がずれたのか、肩の上を滑るようにして伸びてきた腕を、柄を握る両手で上へと弾く。小さく足を出し、反転。距離が近いせいで刀が振れない。上にやっていた両手を前へ押し出す。ちょうど、鳩尾の辺りに握り拳がぶつかって、咲夜の口からくぐもった声が漏れた。とんとんとよろめいて後退する咲夜に追い討ちと斬りつけると、倒れるように飛び退かれて避けられる。切り裂いた上服の合間を、桜色の光が追って駆け抜けた。

 ちっ、斬れなかったか。

 地に足をつけず倒れ込む最中に掻き消えた咲夜が、置き土産に残したナイフを刀で反らし、半歩、後ろへ足をやって、腰を落とし、足を開く。咲夜の姿は、遠く、階段の上の、桜吹雪の中にあった。空中から幾つもナイフを飛ばしてくる咲夜に、私を置いて飛び去ろうという気配は見えない。

 

 飛来する物を弾きつつ後退しながら、手応えあり、と心の中で呟く。

 どんなに速く動けても、時間を止められてしまうのなら無意味。……だけど、相手は人間だ。咄嗟の事や、死角からの攻撃なら、きっと反応できない。

 時間を止められる前に斬ってしまおう。

 私を見下ろす咲夜を見返して、そう考えた。依然降り注ぐナイフが、耳障りな金属音を撒き散らす。

 必要なのは、不意打ちと爆発力。魔法が無い今、それをするのは難しく、また、そんな魔法は持っていないけど……そんな技は、もう見た。

 やり方はわからないが……ぶっつけ本番でやるしかないだろう。いつまでもここでこうしていたら……これが終わってしまうかもしれない。

 私は、この先に行きたい。この先に行って、抱きしめて貰うんだ。でも、それには、こいつが邪魔。

 だから斬る。

 だから、排除する。

 ………………。

 

「そうじゃ、ないよね」

 

 後ろに回した手が、白楼剣のリボンを掴む。シュルリと引き抜くと、風に攫われて手の中から抜けて行った。膨れ上がる魔力を、咲夜に向けて放つ。

 ちょうど、咲夜の浮かぶ真下の階段から岩が突き出て飛んで行って、当然の如く躱される。ナイフの雨が止んだ。

 

 今、私は春を奪う為に戦っている。私の気持ちは関係ない。私のやるべき事が……やらなきゃいけない事がこれだから、こうしている。

 だったら何かを考える必要は無い。こいつを止める。何が何でも春を奪い幽々子様の下へ持って行く。それだけだ!

 

「はっ!」

 

 気合の声と共に腕を突き出す。と、空気の塊にでも撃たれたみたいに、ぽん、と咲夜が弾かれた。途中にあったナイフは、全部が明後日の方向に曲がるか、くるくる回転して地に落ちる。同じように頭から落ちようとしている咲夜の表情は、未だ何をされたか理解していないようだった。

 なら、理解する前にぶった斬る。

 キュ、と靴裏を石畳に擦り付けて、踵だけを上げる。前に体重を移動させ、足の裏になけなしの妖力を集中。爆発させて、突進した。

 風が吹き荒ぶ。突風が前からぶつかってくるかのような感覚に、しかし目は閉じない。落ちる咲夜をしっかりと見据え、柄を握る手に力を込めてタイミングを計る。

 あっという間に距離が詰まる。ちょうど、身を低くした私の前へと咲夜の頭が落ちる時に、足を地面に勢い良く叩きつけ、それを踏み込みとする。大きな薙ぎ払い。首を刈り取るための一閃。何の抵抗も無く刃は細い首を通過し、桜色の光が胴と頭を分かつ。一瞬視線が交差した先の咲夜の目は、どこまでも青く澄んでいた。

 

「――っ、ふっ!」

 

 振り抜く。振り切る。刀身に収まった光がぱあっと散って、咲夜の体を覆う。それはまるで血飛沫のようで……綺麗だった。

 ザアッと地面に落ちる傍から舞い上がる咲夜の欠片。白と何色かの二色。赤と黒の二色。桜の花びら。咲夜の腕が、服が、四角い紙に変わっていく。

 振り切った体勢のまま地面を擦って、カードの舞う中に突っ込んで行く。

 理解できなかった。

 それが何か。それは何か。斜めに傾いて、私の目の前で回転し、ハートと数字を見せつけるそれ。

 

 ……間違えた?

 

 ザッ、と紙きれ達が落ちると、ようやっと意識を取り戻す。

 ……とらんぷ……?

 実物は見た事が無い。絵では見た。四角いそれは、トランプとかいう物で……。

 音も無く、視界の端、左上にナイフが一本浮かぶ。反射的に顔を向けると、今度は正反対に一本。ちょっと下に一本。その隣に一本。最初の物の斜め上に一本……。

 それぞれの出現の感覚は一秒の半分も無く、私が目まぐるしく眼球を動かしている間に、地面以外の空間がナイフに埋め尽くされいく。恐ろしいドームの完成に、冷たい汗が背を流れた。

 ナイフの隙間越しに離れた場所に咲夜が現れたのが見えた。首は繋がっている。死んでない。斬れてない。やっぱり、間違えていた!

 無意識に声を上げる。気合の声。口の周りの空気が震えてるのはわかるのに、どうしてか自分の声は聞こえなかった。刀を持ち上げ、足を開く。足に力を入れて力強く踏み込む。

 腕も足も、体全部がゆっくり動いていた。なぜ。もどかしい。もっと速く動け!

 速く、速くしないと……!

 咲夜が腕を振ると、ナイフが一斉に襲って来た。

 

 

「……っあ、あ」

 

 背を曲げていた体が跳ねる。お腹に刺さったナイフを乱暴に引き抜いたためだ。痛くないように、優しくゆっくりと抜こうとして、ナイフを掴んだ瞬間に走った嫌な感覚に、思わず斜めに引いてしまった。

 おかげで広がった傷口から絶え間なく血が溢れて重く服を濡らす。

 半開きのままの口には、頬の深い傷口から血が流れ込んでくる。味はよくわからない。ただ、熱さに舌が痺れる。手から零れ落ちたナイフが澄んだ音を響かせた。

 石段を登る。一歩一歩、体を引きずりながら、確実に登って行く。

 どれくらいそうしていたか。いつの間にか、広い庭に出ていた。

 無意識の内に幽々子様の名前を呼ぶ。それに縋るように、ふらりと足が前に出る。遠く見える建物の縁側に、幽々子様が腰かけていた。上に向けられていた顔が私へ向くと、体の陰から青く光る蝶々が一匹、ひらりと出てきた。花びらの舞う中に上がって行って、やがて姿が見えなくなるのを見届けてから、動き出す。

 

 幽々子さま……。

 心の中でだけ、呟く。それから、背を伸ばして幽々子様の前まで行き、ゆっくりと膝をついた。頭まで突き抜ける痛みを、靴下を指先で握って堪える。

 幽々子様は、暗い瞳で私を見た。何も言わず、ほんの少し首を傾げて、私へ手を差し出した。

 体中に喜びが溢れる。すぐさま飛びつくように手を出そうとして、傷が痛むのに、冷静になる。そっと、手を乗せた。

 優しく手を引かれて傍まで寄る。そのまま、胸の中に抱き寄せられた。

 言葉は無い。でも、背に回された腕が暖かくて、こうしているだけで、痛みがすうっと引いていく。

 心地良さに、目をつぶる。視界が真っ暗になると、もう、暖かさに包まれているだけになって、意識が遠くなって……夢の中にいるみたいだった。

 触り心地の良い布の感触を頼りに手を伸ばし、幽々子様に抱き付く。

 今度も、咎められなかった。

 いつか、こうしたように。

 いつか、こうして貰ったように。

 やっぱり私、こうして欲しくてここまで来たんだ。

 だって……暖かい。

 背中を撫でられると、どうしようもなく安心して、眠くなってしまう。

 そんな私に、声がかけられた。

 幽々子様の声。

 水の中で聞くような声。

 ……もう一度。

 

 ――もう一度ここへ来たいなら……もっと強くなりなさい。

 

 もっと強く、もっと斬って……。

 そうしたら、また――。

 

 頬を滑る指に、小さく頷く。

 はい。私、もっと強くなります。

 もっとたくさん、斬ります。

 そしたら、もっと、抱きしめて……。

 

 声には出さないで、胸の中だけで、そう返す。

 聞こえたのか、聞こえていないのか、ふっと笑う気配がして、それから、肩を押された。

 ああ、そうだ。私、行かなくちゃ。

 ずっとここでこうしていたいけど……そういう訳にもいかないから。

 

 暗い視界に光が混じって、体全体に苦痛が広がる。

 喉よりももっと奥、胸の中が赤い水で溢れて、息が苦しくなる。

 息をしようとしたら、胸やお腹からどろどろと血が流れ出した。

 斬られた皮同士が擦れて、服が擦れて、涙みたいに右目から何かが垂れて落ちる。

 ――ああ、寒い。

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