おじいちゃんは、どんな姿をしていたんだっけ。
着物に袴に二本の剣。白髪に、髭に、額に深く刻まれた
厳しくて、でも、その教えの中には優しさがあった……。
行方がわからなくなってから随分経つ。だけど、思い出そうとすれば、まぶたの裏にその姿は浮かぶ。
白い光がぱっと閃き、むんと口を閉めたあの顔が、ぎらぎらと活力がみなぎっているのに静かな瞳が、鮮明に思い出せる。
幽々子様は……ああ、何を言わなくともすぐに浮かぶ。胸の中に噴水ができたみたいに、強く押し上げられた記憶がざあざあと降り注いで、胸の中を満たしていく。
癖のあるピンク色の髪。触ってみたいと思ったのは、いつのことだろう。陽気に笑う中で、ふと目を逸らすあの人を見て、いつも首を傾げていたっけ。
それから……とっても大食いで、とても小食で、子供みたいに無邪気で、流れる時を思わせる威厳があって……。
ああ、違った。今のは、違う。
陽気なら、無邪気な方が自然だ。だから、幽々子様は無邪気な人だ。
遠くに見える、妖しげな笑みを浮かべた幽々子様が消え、代わりに、にこにこ笑って浮いている幽々子様が見えた。
そう、あんな感じ。
それから、私が外にいる理由。
今は何年……第何季だったか。どんな異変を見てきたか。
……もやがかかった頭では、うまく思い出せない。
でも少なくとも、私が
……そう、魂魄妖夢として。
◆
「――っ!! ぷはっ!」
ばしゃりと顔に冷たい水を浴びせられて、驚いて飛び起きた。
勢いよく息を吐いて水気を飛ばし、横に置いておいた刀を取り、背を預けていた木を支えにして立ち上がった。
シャンと抜き放った刀を前に向け、警戒しながら辺りを見回す。
だが見回せど、木々の姿しかなく、黄色い葉の影にも、小さな動物すらいなかった。
……今のはなんだ。
口元に残っている水滴を舐め取り、飲み込む。一日ぶりの水に、ごくりと喉がなった。
しばらくして、誰も近くにいないとわかり、体から力を抜く。
ここ数日は無闇に走り回らず、歩くだけにしていたというのに、脱力が体全体に広がっていって、座り込んでしまった。
木に背を預け、息を吐く。白いもやが昇っていくのを目で追ってから、刀を収め、隣に置いた。
日はまだ高く上っておらず、朝もやのかかった森が私の周りに広がっている。今日もあまり眠れなかった。布団が恋しい。
山に入ってから五日。食べるものもなく、飲むものもない。
最初こそ耐え忍んでいられたけど、体力が低下してくると、それが耐えがたい苦痛と疲労になって重くのしかかってきた。
十一月中旬の今は、酷く冷える。夜になるとそれが顕著だ。火を起こす術が無い私にとって、危険なもの。
ああ、半霊さえいてくれれば、ぱっと炎を灯せるというのに。
……そう、私が空を飛べないのも、力を使えないのも、全部半霊がいないせい。半霊を盗んだ人間のせい。
憤怒の情を力に変えて、ふん、と息を吐く。それから、胸ポケットに入れておいた剥き出しの干し肉を取り出して齧る。
食べるのも、これが最後の一枚だ。水は昨日無くなった。こんなことなら、あの大きなバッグも持ってくるんだった。
三分の一だけ齧って、後は、昼と夜に残しておく。
足に力を込めて立ち上がり、そこらに置いておいたものを回収して手早く身に着けた。
刀に、大きなリボンのついたカチューシャ。黒いリボンをぱっぱと手で払い、汚れていないかを確認してから頭につける。
これは、大切なものだ。だって、プレゼント……プレゼントだからだ。幽々子様からの。誕生日プレゼント。……いや、祖父からの、プレゼントだ。誕生日の。
顔を左右に振る。短い、不揃いの髪がぱらぱらと揺れた。
長く伸びていた髪は、四日前に
冷える顔を腕でごしごしとぬぐい、少し動いて体を温めてから、背を預けていた太い木をぐるりと回って、足元に積もっている枯葉を蹴散らす。
地面に上向き矢印が刻まれているのを確認してから、再び歩き出した。
向こうに、川がある。四日前に見つけたものだ。残念ながらその水に手を出すことはできないけれど、川に沿って歩くことで、山の向こう――傾斜が多いから、多分山なんだろう――に出られると考えたのだ。
それに、盗人も見つかる、かもしれない。
川から離れて眠っているのは、水を飲みにくる動物を警戒してだ。情けない話だが、体力の消耗が著しい今の私では、狸にすら負けてしまいそうだ。……むろん、負ける気は無いけど、念のため。
それに、川に沿って歩いていれば……。
木々の間を抜け、川の前に出た。
淡い光を反射してきらきらと輝く水面を覗くために歩き、自分の顔を見る。
浅い底まで透き通った川に映る私の顔は、薄汚れていた。服の代えもないし、お風呂には入ってないし、当然だろう。
息を吐いて、水際を歩き始める。
せめて、ここで体を洗えればいいのに。
◆
枯葉を踏む音が断続的に耳に届く。木を避け、入り組んだ森の中の、少し開いた場所で足を止めた。
刀の柄を握り直し、開いたままの口から出る息をぐっと飲み込んで耳を澄ます。
……こっち!
ザザッと私のではない足音が遠ざかっていく方に、気力を振り絞って走り出す。腰を低くして、矢の如く。
飛ぶように過ぎる景色の先に、やっと背中を捉えた。太ももに深く
シッ! と歯の隙間から気合の声を漏らし、一足飛びの
悲鳴を上げて倒れこむ獲物に引っ張られ、つんのめって転ぶ。刀を手放して転がり、立ち上がって口元を拭う。
やっと仕留められた。
はー、はー、と息と一緒に疲労を吐き出しながら、歩み寄って、刀を引き抜く。ごろんと転がった獲物が這って逃げようとするのを、体重を乗せて刀を突き刺し、止めを刺す。
……いや、刺したつもりだったが、まだ生きているようだ。しぶとい。
まあいい、もう抵抗はできないだろう。
片足をかけて引き抜いた刀を振って血を飛ばし、背中から腰に移動させている鞘に収める。
太ももに刺さっている白楼剣を両手で引き抜く。勢い余って尻餅をつくと、溢れ出した血が流れてくるのにスカートが濡れた。
立ち上がり、傷口を押さえる獲物の上にのしかかって、首元に刃をかざす。
半霊を盗んだのはお前か? と聞くと、こいつはぶんぶんと首を振った。……嘘吐き。
手を動かすと、刃越しに硬い骨の感触があった。大体柔らかい軟骨の部分を斬ったつもりだったけど、中々上手くいかないものだ。
さて、食べ物と飲み物を探さないと。
返り血に服が染まるのを気にせずに、獲物からおりて、腰につけている小さなバッグを斬り
前の奴は背に背負うくらいの大きなバッグを持っていたのに、今度の奴は小さい。
布を切り裂いてひっくり返してみると、黄色の筒や深緑の筒、白い固形物やチョコレートが出てきた。
こっちの黄色い細い筒は……なんだろうか。振ってみるとからんからんと音がした。飲み物ではなさそうだ。深緑色のこっちは、水筒と一目でわかる。はやる気持ちを抑えて蓋を開け、中を覗き見れば、まだ結構残っている。
一口含んでみると、濃いお茶の味がした。苦い。だけど、甘い。
とりあえずは横に置いておいて、残りを見る。チョコレートはスカートのポケットに突っ込む。今日のご飯にしよう。それで、この白いのはなんだろう。食べ物ではなさそうだ……小さいし。
後は、手帳に、筆箱に、よくわからない機械に、カメラとライター。
しめた、とライターを手にとって数度火をつけようとして、中身が切れているのに気付き、放り捨てる。火がつかないんじゃ意味が無い。
右手に白楼剣を握って、獲物へと向き直る。もう死んだか。じゃあ、半霊を返してもらわないと。
逆手に持ち替え、柄に手の平を当てて、倒れ込む力を利用して胸に深く突き刺す。あとは、肉と
私の半霊は、きっと中にある。前の奴は持ってなかった。でもこいつは、私の半霊を持っていそうだ。
だって、そうじゃなきゃあんなに慌てて逃げるわけが無い。
確信を胸に、ナイフを動かしていく。脂で切れ味が悪くなっているけど、気にしない。服が薄汚れるのも、後でお茶で流せばいいだけだ。
びくんびくんと痙攣する獲物に苦戦すること数十分。切り開いた中には、臓物以外に何も無かった。
◆
喉奥にするりと流れる血液は甘く、啜った泥水もまた甘い。
いつの間にか切れていた太ももの傷が治らないから、流れる血を指ですくって舐めてみたけど、意外と甘い。吸血鬼が血を好む理由がわかった気がした。
水が無いから、時々まばらに降る雨に舌を伸ばした。空気ばかりが喉を通って、変な音を立てる。水筒を捨てていなければ溜めることもできたのだろうけど、その時となっては、過ぎたことだった。
雨が止むと、悩んだ。地面に溜まった水は眉根を寄せ葛藤する私を映し出していた。
だけど、湿り気だけを残して水を飲み干してしまった土を見て、後悔した。血液だけでは喉を潤せない。喉の渇きは、視界を蝕む。足を重くする。頭の中にかすみをかからせる。
食料も水も手に入らず、三日。飲まず食わずで歩き続け、日が暮れれば泥に沈むように眠りにつき、だけど、物音がするたびに目を覚ます。
浅い眠りと覚醒の繰り返し。体はもう限界だった。
力の入らない首を傾けたまま、腰の曲がった老婆のように、刀を杖にして歩く。ほとんど開かない目の先は地面に。ここ数日、ぱらりとも雨が降っていない。獲物も見つからない。獲物を求めて川から離れたのは失敗だった。虫が体の中に入ろうと構わない。水が飲みたい。お腹いっぱい飲みたい。
指にしたたる薄黄色の雫を舐め取り、すぐに刀の柄に手を戻す。これだけの行為も一苦労だ。……こうして、どこか遠くでものを考えていられるのも不思議なくらい。
……それにしても、暑い。いや、体が熱い。のは、気のせい、か。
……たぶん気のせいだろう。冬なのに、暑いわけが無い。下着も脱ぎ捨てたから、寒くてもいいはず。
鞘の先がずるりと地面を滑り、つられて倒れ込む。どんと顎と胸に来た衝撃は、私の息を詰まらせるだけで、頭の中のもやを晴らしてはくれなかった。
ごろんと転がって、大きく息を吸う。こんなことをしても疲れは消えない。逆に体温が抜け出ていくだけだ。
かすんでいく視界に、誰かの影を見る。
ふんわりと揺れるピンクの髪は、幽々子様だろうか。
あはっ、桜みたいできれいだ。……触っても、いいのですか?
ふっと笑みを零し、目をつぶる。
すみません、腕が上がりません。ちょっと疲れてるみたいです。
…………そうでしょうか、私、まだ頑張れますけど……。
……はい。わかりました、休みます……。
◆
「――っ! がはっ!?」
突然顔にぶちまけられた何かが口の間からするりと滑り込んできて、思わず咳き込んだ。
喉をどんどんと空気の玉が通り抜けていくのが苦しくて、手をついて横向きに体を起こし、反対の手で口を押さえて、それでも
ぴちゃぴちゃと地面に落ちて跳ね、染み込んでいくのは、手の隙間から漏れたものか、顔から流れ落ちる何かか。
喉の奥に血の味が広がって、吐き出しかけた息の塊をぐっと飲み込む。口を閉じ、胸の中で数度暴れさせてやると、ようやく咳が収まった。
体を起こし、薄目を開いて手の平を見る。血は無い。ただ、水があった。舐め取る気にはなれないが……。
カッと熱くなった顔を拭うと、そこにも水があった。何があったのか考えることもできず、ただ空を見上げる。雨が降り始めていた。
……ああなんだ、これか。
舌を伸ばすと、先っぽにぴちゃんと雫が落ちて、喉の方へと流れてくる。
甘い。……甘い。砂糖とかとは違う甘さ。なんだろう。
んく、と喉を鳴らし、横に落ちていた鞘を掴み、支えにして立ち上がる。
ふくらはぎや膝の上辺りに熱い何かが流れていて、痛む。だけど、気にしていられない。水を飲まないと。
ただ上を向くだけで息が荒くなる。白い息がぽんぽん飛び出てくるのを見て、あれも水なんだっけ、とぼんやり思った。おに――――誰かが教えてくれたことだ。
手を伸ばそうとして、ぐらりと揺れる体に断念する。だめだ、手を離せば倒れる。今ここで倒れれば、もう起き上がれない、ような、気がする。
下唇を噛んで、気力を絞る。まだ、いける。大丈夫だ。帰るまで、私は倒れる訳にはいかない。
喉を鳴らして、水を飲む。足りない。ぜんぜん足りない。
ざあざあと降る雨が、纏めて私の口に流れ込んでくればいいのに。そう思っても、雨は地面に吸い込まれていくだけだった。
いつの間にか雨が止んでいた。
喉が渇く。もっと水をちょうだいと、痛みまで発する。でも、もう水は降ってこない。水は……。
ああ、と声が出る。いや、ただ息が出ただけかもしれない。
いずれにせよ、水はあった。私の足元に、小さな湖として広がっていた。
膝をつくと、刀が倒れる。手放していたらしい。今はいい。濁った水に口をつけて啜る。おいしい。……ああでも、泥は苦いなあ。
飲み干すと、体中に力が広がっていく感覚がした。口を拭い、刀を取り、杖代わりにして立ち上がる。
目線は前に。力を込めて、少しずつ進んでいく。耳に届くのは、鳥の鳴き声と、草の揺れる音と、あの人の甘い声……。
「ゆゆこさま……」
待っていてください。必ず、帰ります。
けひ、と声を漏らし、一歩一歩、確実に進んでいく。下り坂。外は、近い。
◆
――――こっちよ。
ふわりと広がる青い衣の裾が、低い視界の先に映る。その声に導かれるまま、刀をついて歩んで行く。
幽々子様。…………幽々子様、幽々子さま、ゆゆこさま……。
腕を伸ばそうとして、目の前に出された手の平に動きを止める。筋肉の切れそうな首を無理に動かして上を見ると、儚げに目を細めた幽々子様が、歩くだけよ、と囁いた。
こくこくと何度も頷こうとして、だけど、頭を下げただけで終わってしまう。私はまだまだ動けるのに、体が動いてくれない。『いつも』ならこんなことにはならないのに。
だがそのことに嘆いている暇はない。幽々子様が動き出した。常に浮かび、ゆったりとした動きで、先へ先へと流れていく。
だから私は、刀を持ち上げ、前に突き出し、体を運ぶ。足が震えていても、けして倒れない。目がかすんでいても、絶対に見失わない。どれだけうるさく心臓が胸を打っても、あの人の声を聞き逃さない。
びりびりと痺れる足を引きずり、また一歩進む。前に傾く地面に、今にも転げ落ちてしまいそうだった。いや、気を抜けばそうなるだろう。
――さあ妖夢、もう少しよ。
甘美な声が私の心を溶かす。流れ出た感情が体中に広がって、わずかに活力を取り戻せた。
揃った足の先が左に動いていくのを追って、進む方向を変える。もたもたしていれば幽々子様は先へ行ってしまう。それだけはなんとしてでも避けなければならない。
がり、と地面をかいて左に体を向け、倒れこみそうになるのと同時に、前へと刀の先を突き出す。腕に体重が掛かる感覚はしても、痛みも何も無かった。
こっちよ、と幽々子様が言う。その通りに私は進む。幽々子様は言った。幻想郷で待ってると。だから私は、止まるわけにはいかないのだと。
時々、遠くに人の声が聞こえた。たくさんの足音が聞こえた。食べたいと思う私に、だけど、幽々子様は先に進むだけだった。
夜の闇の中でぼんやりと輝く幽々子様を道しるべに、そして導かれるまま、昼も夜も関係なく歩き続ける。
微笑む顔が見たくて歩いた。傍にいたくて、先へ進んだ。私の居場所は、あそこ。早く帰らないと。
私を信じてくれるあの人の所へ、私が信じるあの人の隣に。
いつの間にか、幽々子様の姿は朝もやの中に溶けて消えてしまっていた。
焦りは無い。絶望もしない。だって、待っていてくれるから。
木々の合間を抜けると、地面の先が灰色の道に変わっているのが見えた。
コンクリートだ。コンクリートの通路。その先には、背の高い建物の、背中。
山と町を隔てるフェンスの元まで歩いて行くと、私の目の前の一部がゆっくりと前に倒れ、カシャンと小さく音を立てた。
そこを踏み越えて、町の中へ入っていく。
建物の傍まで行くと、今度は壁に身を預け、擦り付けながら歩いた。そうした方が楽だった。
肩の布が後ろに引っ張られる感覚に集中して、体中の感覚が無いことに気がつく。どころか、もう熱さも息苦しさも、疲れさえも感じなかった。
胸の中で、小さくあの人の名を呼ぶ。これは……おくりもの、なのだろうか。
そう考えると、胸の中にカッと広がる熱いものがあって、私は恐る恐る壁から身を離した。
少しよろけたものの、刀をついていなくても立っていられる。
黒い地面の感触を確かめてから、刀を背に吊るし、紐の具合を直して、ゆっくりと歩き出す。
久しぶりに見た気がする『前』には、薄汚れた茶色の扉があった。家の入口だろうかと考えていると、ガチャリと鍵の開く音がして、咄嗟に刀をずらし、腰まで下ろした。
柄に手を添え、息を殺して何が来てもいいように構えていたが、いくら待っても誰も出てこない。少し考えて、『開けてくれた』のだと思い至った。
胸ポケットから白楼剣を取り出し、逆手に持ちかえつつ、ノブを捻って扉を開ける。
薄暗い部屋の中を、目が慣れるのを待たずに見まわして、人影がないのに息を吐く。流しがあるのを見るに、台所なのだろうか。なるほど、夜明け前のこの時間帯に台所に立つ人間は少ないだろう。だがまだ油断はできない。
白楼剣を握りなおし、ゆっくりと一歩を踏み出す。
近くにあったゴミ袋がガサリと音を立てて揺れるのにびくりと身を震わせて、はっとした。ゴミ袋から覗くのは、しなびたチキンだった。
特徴的なパッケージの箱の中にあるそれを持ちあげて、匂いを
……腐ってはいなさそうだ。念のため一口
中途半端にお腹にものを入れたせいで空腹が酷くなっていたけど、次にいつ食料が手に入るかわからないし、我慢しなければ。
ごくりと口内に残っていた唾液を飲み下して、体に活を入れてから、変わらず薄暗い台所の中を探索する。向かって右に流し、中央にテーブル。その上に吊るされているのは、平べったい電気だ。
とりあえず水を飲もうと、どうにか流しの上によじ登る。すりつけたお腹が痛い。
腹をさすりつつ蛇口をひねり、流れ落ちる水で手を洗う。刺すように冷たい。だけど、汚れが落ちていくのは心地よかった。
次に水を飲む。手に溜めて口に運んだそれは、とても甘かった。雨なんかよりよっぽど美味しい。ついでに体や服も洗ってしまいたかったけど、この流しは水しか出ないようだ。
どう蛇口をひねってもお湯が出ない。どうなっているのだろう。……壊れてるのかな。
まあいい、お湯が出ないのなら放っておこう。
水で腹を満たした私は、次に冷蔵庫を漁った。……賞味期限の切れたコマ肉、新鮮な野菜、溶けて固まった食べかけのアイス。
この家の人間は、どうやらとても駄目な人間らしい。……チキンだって、食べたような跡はなかったし。なぜ捨てたのだろう。
考えても仕方ない事は頭の隅に追いやって、腰を低くして部屋の奥に進む。私が入って来たのとは反対にある扉は、開く気配もなくただそこにある。
そっと近寄り、腕を伸ばしてノブを掴む。……ひねれない。
何度か左右に回してみたものの、がちゃりがちゃりと音を立てるばかりで、開きはしなかった。鍵がかかっているのだろう。
少しの間考えたが、ここを無理矢理開けて家主を尋問する労力と、引き返して先に進む労力を考えて、後者を選択した。
……それに、私の勘が告げている、ここに私の半身はない。
踵を返し、素早く部屋を後にする。再びコンクリートとフェンスに挟まれた私は、壁沿いに歩いていって、倒れたフェンスの上へと戻ってきた。
もう少し進めば、突き当たりを左に曲がれる。その先は多分、人の多くいる町だ。
逆手に持っていた白楼剣を胸ポケットに戻し、代わりにチキンを取り出す。まだ朝も早いとはいえ、そういう時間に外に出る人間がいるのは知っている。ここからはスピード勝負だ。ひたすら先に進んで、隠れられる場所を探す。そこを拠点に半霊を探す。そして、幻想郷へ……あの人の元へと帰る。
だから、力が必要だ。だから、今これを食べる。
……大丈夫、なんとかなる。すぐ次の食料が見つかる。
そう自分を自信づけてからチキンに齧りつく。ほとんど噛むこともなく飲み込みそうになって、慌ててゆっくりと噛むようにした。味わうのは、大切だ。二十回以上噛んでから飲み込みなさいって教えられてもいるし。
夢中でチキンと格闘する中で、ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
――――幻想郷には、どこをどういけば帰れるんだろう。
◆
朝もやに姿を隠しながら、腰を低くして走る私の行く手を阻むのは、でっかい車や細い車、それにどこかから聞こえてくる犬の声ぐらいなものだった。
家の建ち並ぶ中を素早く駆けていると、時々ランニングをしている人を見かける。そんな時は、電信柱やそばにある家の門の内に身を隠してやり過ごす。
二~三人程を見かけたが、その誰にも半霊の気配は感じなかった。そもそも、こんな暢気な場所に私の半霊を盗むような奴がいるとは思えない。それこそ、山の中とか、もっと暗い所とか……。
走り続けて何分経ったか、住宅街を抜けた私は、車から身を隠しながら長い道路を抜け、踏切を渡り、その先へ進んでいった。
血の味のする息を吸って吐いてしながら歩いて行くと、広い公園を見つけた。
茂みの裏に入り込んで、背後のフェンスの先の道路になにも通らないのを何度も確認しつつ、公園の中を見回す。
いくつかの遊具と、中心に噴水。その奥に公衆トイレらしき建物と、さらに奥に、背の高い建造物。
あれはなんだろう。お金持ちの家なのか。それにしては、お店のようなマークがたくさん張り付いている。
この公園に近づくにつれ、あたりにあんな建物が増え、歩く人を多く見かけるようになってきたけど……何か、あるのだろうか。
後で覗いてみる事にして、素早く噴水まで走り寄る。
水面に映る自分の顔を手で崩すと、
冷たいかと思ったけど、そうでもない。だが
これなら体を洗えそうだと考え、服を脱ごうとして、やめる。……明るくなりすぎている。無防備な状態で人間と向かい合うのはまずい。
近くに拠点を作らないと。……あのトイレは……駄目だ。汚いし、人も来る。じゃあ、その奥のあの建物は?
公園を囲む茂みに身を隠しつつ、その建物のそばに近づいていくと、向かう先のフェンスが切り取られて向こうへ倒れた。ちょうど、私一人ぐらいが通れるくらいの小さな穴だ。
幽々子様……。
ぎゅっと胸元を掴み、すぐに背にある刀に手を添えて、穴をくぐる。
建物には、扉が一つぽつんとついているだけだった。そばに、潰れたダンボールが積み重なっている台がある。
じっと扉を見ていると、遠く、内側にこもるような足音が聞こえてきた。たぶん、人が来る。
近くの木の裏に背を預けて、そこから窺っていると、扉を開いて出てきたのは、エプロンをつけた男だった。
……スーパーとか、そういうのの店員みたいな格好。いや、マークが入っているのを見るに、店員なのだろう。ということは、この建物はとても大きなお店らしい。
眠そうな表情の男が台を引いて出てきて、ダンボールを移し替えているのを見ていると、急にお手洗いに行きたくなってきた。
今はそんな場合じゃないのに、一度わかってしまうと、どうしても行きたくなってしまう。
それに、冷たい風が足に触れ、地面を伝って股に触れると、お腹あたりの服をぎゅうと抑えていても我慢できなくなりそうだった。
歯を食いしばって耐えていると、ん? と男が声を上げた。多分、音を立ててしまったんだろう。こんな時に。
なんとか白楼剣を取り出してきつく握りしめながら、木から体がはみ出ないように縮こまる。近付いてくる気配はない。でも、まだこちらを気にしている。……鋭い人間だ。
何かないかと探して、そこら辺に落ちている石に目を付けた。拾い上げてすぐに、茂みへと投げ込む。
「……猫か何かか?」
長い沈黙の後、男はそれだけ言って作業を再開した。胸の中だけでほっと息を吐く。
だけど、その男は作業が終わると、またこちらを気にし始めた。
すぐに身を隠したから見られてはいないはず……なのに、あの男はなんでこっちを見てくるのだろう。
仕方なく、同じ手で音を立てると、「お、まだいたのか」と声。
それから、ちっちっと舌を鳴らしながら近付いてきた。
「ほれー、おいで。いいもんやるぞー」
極力音をたてないように木の周りを進み、男の反対に位置するように努める。
そうしたおかげか、それともこの人間が茂みの奥に気を取られていたおかげが、私が気付かれることはなかった。
左右に目を動かして逃げ場を探す。もう少しすればこの男も戻っていくだろうけど、私はもう限界だ。
今はお腹をぎゅっとしてるから耐えていられるけど……早く、移動しないと。
「あっ! なんだこりゃ、フェンスが……」
カシャン、とフェンスを踏む音がして、私は一も二もなく建物めがけて駆け出した。
幸いばれることなく侵入に成功する。白い電気に照らされた廊下には、右手に階段と小さな扉が、左には二つの扉がある。
その片方に赤い人型を見つけた私は、身を隠すのも兼ねて、すぐさま駆けこんだ。
◆
その場所――電気のつかない女子トイレ――から出た私は、ぴっぴと手を振って水気を飛ばしつつ廊下の先を見た。
銀色の、窓の付いた両開きの大きな扉。きっとあれは、お店の中に出るのだろう。あっちに行くのはまずい……気がする。
では、階段を
……それも、危険だと思った。上の様子はわからない。ならば、階段の下の、その小さな扉を調べてみてから、どうするか考えることにしよう。
ゆっくりとした足取りで扉に近付き、ノブに手をかけて回す。抵抗はなかった。警戒しつつ開くと、中は暗く、埃臭かった。
誰もいないのを見て、素早く身を滑り込ませる。手を離すと、扉が重々しい音を響かせるのにびっくりした。
舞う埃に咳き込みながら、暗闇に目を慣らせ、狭い中を調べていく。
積まれた段ボール、よくわからない壊れた機械、プラスチックの箱、薄汚れた布団……。
何のための部屋なんだろうかと首をひねりつつ、布団に目をやる。
…………。
布団に積もった埃を払い、上に乗って、壁と布団の隙間に身を滑り込ませる。
ぎゅうぎゅうと体を押し込んでいくと、布団は私を包むように盛り上がり、安定した。
ここなら、そう見つかることもないだろう。
身を丸めていると襲ってくる眠気にまぶたが閉じそうになるのを必死に堪えつつ、今後の事を……考える。
そう、今後のこと。
………………こんご、の、こと。ゆゆこさま、みつけて、それで、それで……。
すうっと意識が落ちるのを、私は止める事ができなかった。
◆
夢を見た。酷く曖昧な夢だ。
幼き日の私が、男の人と女の人に手を引いてもらって、夕陽の照らす中を歩いている。
なぜかそれはとても懐かしくて、とても、痛かった。
◆
大型店に侵入してから何十もの日が過ぎた。
日の感覚がない私には何ヶ月経ったのかはわからないけど、今朝体を洗うために公園に出た時に生温い風が吹くのを感じたし、そろそろ冬も終わるのだろう。
相変わらず埃臭い布団から抜け出して、あくびを噛み殺しつつ扉の前まで移動する。
外の気配を窺って、何もないのを確信してから廊下に出て、すぐに外に出る。
扉のすぐそば、短く生え揃った草の上には、底の深い皿と浅い皿がそれぞれ置いてあった。
深い皿には缶詰めの中身をぶちまけたようなのがこれでもかと盛られていて、浅い方には、ミルクが張っている。
その場にしゃがんで手早く食事を始める。
これらは、あの男が用意したものだ。この店の店員の、あの男。
といっても、私の存在がばれているわけじゃない。猫か何かだと思っているようだ。
最初の方はちょびっとしか置かれていなかったご飯も、いつの間にかなぜか大盛りになっていて、ほとんどお腹を満たせるほどの量になっている。
はぐはぐと味気のない魚の身を食べていると、小さな足音が耳に届いた。
注意して聞いていないと聞こえないくらいの小さな足音。忍び足。
私はすぐさまその場から離れて、木の影に身を隠した。
扉が開くと、あの男が顔を覗かせて、食べかけのお皿を見ると、悔しそうに
口の端に付いているものをぺろりと舐め上げながら、男の動きを探る。しばらく辺りを見回していた男は、ようやく諦めたかのように息を吐いて、扉を閉めていった。
草をいじりながら、三十秒ほど待つ。
すると、奇襲のつもりなのか、勢いよく扉を開いて男が飛び出してきた。
そこに何もいないのを見て、肩をがっくりと落とし、とぼとぼと帰っていく。
毎日毎日、よく飽きないものだ。
あんまりにも悲しそうなので、扉が閉まる直前、声を細めてにゃあと鳴いてやると、さっと扉を開け放って辺りを見回し、それから、満足そうに帰って行った。
念のために数分ほど身を潜めて、危険が去ったのを知り、扉の前に戻って食事を再開する。
なかなか情けない姿だとは自分でも思うが、帰るためにはしょうがないことだ。
食べ終えると、立ちあがって、ぐっと伸びをする。最近あまり体を動かしていないせいか、全身であくびをしているみたいな気持になった。
紐の具合を直し、さっさと自分の場所に戻る。次のご飯の時間は夕方頃だ。それまで布団の中で、どうやって幻想郷に帰るかを考えていよう。
◆
ぐう、とお腹が鳴った。
大変だ。これじゃあ考えごとができない。
いつまで経っても幻想郷に帰る方法が見えてこないのにそんな言い訳をして、布団から出る。どのくらいの間眠っていたのだろう。外に出ればわかるか。
……ここにいて考えているよりも、がむしゃらに走り回った方がいいのかもしれない。
冷たい廊下を歩きながら、そんなことを考える。でもその前に半身を取り戻さなければいけないし……どうすればいいのだろう。
あまりこの辺りから離れすぎると半霊を盗んだ人間から遠ざかってしまうかもしれない。でも、動かなければ何も……。
うんうん唸りながら建物の外に出て、いつもご飯が置いてある場所を見る。
……無い。
どうしよう。
少し考えて、なんとなく、様子を見に行ってみようと考えた。
忘れられてたりしたらかなわない。新しく身を潜める場所を探すのも大変そうだし。
引き返して、建物内に戻り、そのまま店内へと出る。もう外も暗い時間だ。お店が閉まってるのはわかっていた。
これまでも何度かここに入り込んだことがあるし、そこら辺は把握してる。
ご飯の催促のために入り込んでいるというのは、本当に情けない話だけど。
暗い店内を、大きな棚に身を隠しながら歩く。天井から吊り下がるビデオカメラや、巡回するケイビインという警察の人にさえ注意していれば、誰にも悟られずに移動するのは難しいことじゃなかった。
ペットフードなどが並ぶ棚の先に電気の光が伸びてきて、息を殺す。その光が動かないのを見て、その電気の持ち主が動いていないのを知った。
警察の人が持っている筒型の電気。あれは結構厄介だ。遠くまで照らせるし、なにより小回りがきく。ちょっとでも影が映ると、怪しんで見に来るのだ。
何日か前にも見つかりかけた。気を引き締めないと。
スカートの裾を握りしめ、眉を寄せて警戒していると、僅かに揺れる光の向こうから、あの男の人の声が聞こえてきた。
光がぐるんと動いて、棚の向こうに消える。きっと、あの男が向こうにいるんだろう。
しかし、警察の人と一緒か。これじゃあ猫の鳴き真似をしてご飯の催促をすることができない。
こんな手に引っ掛かるのは、あの男くらいなものだというのはわかっているのだ。
中腰で棚の端まで移動して、ゆっくりと棚に背を付け、顔だけ出して二人の様子を見る。
老年の男と、あの店員が何かを話しているようだった。
「……ですね。」
「ほお、そうかそうか。君も頑張るね」
「これでも店長ですからね」
ははは、と笑いあう二人に、私はまたあくびを噛み殺した。眠い。
目を
注意して聞いていても意味のわからない会話に、手を
そういえば、と前置きをした店員が、猫の話をし始めた。多分、私のこと。
しかし、そういえばも何もさっきまで猫の手がどうのと話していたのに、何を言ってるんだろう。
対して、警察の人は特に聞き返すでもなく、ふんふんと相槌を打つ。こいつもおかしい。
「しかしいいのかい? このフロアまで入り込んでくるんだろう?」
「ああ、大丈夫ですよ。今まで商品を荒らされたりなんかしてないし、毛一本落とさない」
綺麗好きなんでしょうね、と笑う店員に、ほう? と疑問の声を上げる警察。だけど、声を上げるだけで、何かを言うことはなかった。
それに気付いていない様子で、店員は笑いながら、
「いつかね、捕まえてみようと思うんですよ。どんな毛の色をしてるのか見てみたいですし、ほら、結構愛着がわいてるので」
「そうか……。一回も姿を見てないのかい?」
「ええ、まあ」
変な話だね、と神妙そうな声で言う警察に、何がですか、と能天気に返す店員。
「いくらなんでも、おかしいじゃないか。毛も落ちてないなんて。いくらできた猫でも、毛の生え換わりはどうしようもないだろう」
「はあ」
「それにね、わたしは何度か防犯カメラをチェックしているがね、猫なんてどこにも映ってないんだよ」
……どういうことですか。
先程とは違って、声に少しの不安を混ぜたような調子で店員が言うのに、私は背にある刀の柄を握った。
余計なことを……。
緊張に、背に汗がにじむのがわかる。せっかく上手く隠れていたのに、あの警察の言葉でその場所を追い出されるかもしれない。
まだ考えも纏められてないのに、ここを出てどこへ行けばいいというのか。
声に集中する私を知らずに、なおも会話は続く。
「もしかしたら幽霊かもね」
「そんな、まさか」
「ん? あ、いやいや、本気で言っているわけじゃないよ。しかし、泥棒だったりしたら困るね、という話だ」
「それは……はは、怖い話ですね」
ははは、と笑いあう二人に、脱力する。一応、私の存在がばれるようなことにはならなさそうだ。
でもそれでも、これからは慎重に動かないと駄目だろう。
気を入れなおし、警察の人が去るのを待つ。ご飯の催促をしてからじゃないとここから離れられない。
刀の柄にかけていた手を膝に乗せ、向こうの通路に他の人間が来ないか警戒しながら耳を澄ます。
考えごとをしていたせいで、今どんな話をしているのかが見えてこない。
「……で見たっていう話だ」
「はあ、ちょっと信じ難い話ですね」
「かくいうわたしも、こないだ一緒に行った時に……見たんだよ」
「え、アイダさんも見たんですか!」
「ああ。あれはまさしく鬼だったよ」
鬼!
今、あの警察の男……アイダとかなんとかいう男は何を見たと言った!?
鬼なんて、そんなまさか。みんな纏めて地底に潜り込んだんじゃないのか。そんなのが、どうして地上に。
早鐘を打つ胸を押さえて、警察の次の言葉を待つ。
その鬼に会えば、きっと幻想郷の場所がわかるはず。
どこで見た。どこにいた。どうすれば会える。
「麻帆良学園。そこで見たんだ、夜だったかな……帰り際に、トラックの窓からね。木々の間に隠れてはいたが、鬼火を浮かべていた。うすぼんやりと光っていたよ」
マホラ……ガクエン? 聞いたことのない名前。ガクエンというのは……学校、か。
見間違いなんじゃ? と聞く店員に、警察は、
「いや、あれはまさしく鬼だった。見た時、寒気がしたんだ。いや、あれは間違いない。……なんなら、君も行って確かめてみるといい。デンスケの奴に頼んで……そう、いつも商品を持ってくるあいつだよ。向こうの加盟店にも運んでるんだよ。後で頼んでおくから、な」
「は、はあ……」
それに、麻帆良は良い所だ、と警察が言う。食べ物はうまいし、景色も良い。何より酒がうまい。
「そうですね……今度の休みにでも行ってみようと思います。……それじゃあ、俺はここで。猫の餌の用意もしないといけませんし……」
あんまり遅いと催促しにくるんですよ、という店員の言葉を最後に、警察は電気の向きを反対にして、去っていった。
棚を整理でもしているのか、がさがさという音を耳にしつつ、どうするかを考える。麻帆良に行くには……トラックとかいうのに乗せてもらうとして、それはどこにあるのか。
……あの店員に聞くのが早いな。
白楼剣を取り出しながら立ち上がる。店員はまだ整理をしているようだ。やるなら今か。
棚に手をかけ、音をたてないように一歩目を踏み出し……後ろに気配を感じて振り返った。
淡く光る姿。小さく笑みを浮かべる幽々子様が、そこに立っていた。
慌てて片膝をつき、頭を下げる。声を出せない代わりに、深く深く頭を下げた。
幽々子様は何も言わず、私の前を通り、棚の向こうへと消えていった。次いで、たくさんの物が落ちる音。缶詰めや小袋などが床に落ちる音に混じって、店員の驚き慌てる声が聞こえてくる。
さっと立ち上がり、隣の棚まで行くと、散らばった商品を拾い集める店員の背があった。幽々子様の姿はどこにもない。
手を貸して頂いたことに心の中で礼を言いつつ、無防備な店員の尻をつま先で蹴り、倒れ込む店員の背に覆いかぶさるようにして首元に白楼剣をかざす。
「な、なん……」
喋るな。
押し殺した声でそう命令すると、店員はぐっと押し黙った。
「デンスケというのはどこにいる」
早口で言うと、意味を理解していないのか、戸惑っているような気配が伝わってくるので、白楼剣を喉につけ、少し力を込めてやると、裏の駐車場だと言った。
動かないようにと念を入れて、一つ息を吐く。
思えば、こんな近くで声を聞いたのはこれが初めてだ。そして……これが最後になるのだろう。
そう思うと、なぜか少し胸が痛くなって、私は男の耳に口を寄せていた。
「……、いままで、ありがとう……」
ぼそぼそと、自分でもどうかと思うくらいに小さな声。聞こえていたとしても、意味なんて理解できないだろうに。私は何をやってるんだろう。
事実、男は呆けたように「え……?」と声を出したきり、動かなくなった。
……いや、声を出しながらこちらを向こうとしたが、刃を押しつけて動けなくした。
見られたくなかった。いや、見られてはいけない。……もう遅いかもしれないけど。そうなれば、急がなければ。
男から離れ、白楼剣を握ったまま、腰を低くして走りだす。
裏の駐車場……そういえば、あの警察がデンスケというのに頼みに行くと言っていた。うまくいけば、この後すぐに麻帆良に向かえるかもしれない。
さすがに徒歩で行くのは厳しいし、絶対に成功させないと。
見ていてください、幽々子様。絶対に成し遂げて見せます……!
短く早い呼吸を繰り返しながら、店の裏の通路を走り抜け、途中の障害物を斬り伏せて、トラックのある『裏の駐車場』がこの先だと確信できた私は、先を急いだ。
外に出ると、ぶるぶると
普段この時間にここに来る人間はいないのか、隙を見てトラックの中に入り込むのは、難しいことじゃなかった。
素早く、奥のダンボールと壁の隙間に無理矢理体を押し込めて、身を隠す。
なんとか入れたけど、少しダンボールを押してしまった。ばれないといいけど……ばれてしまったら、あの男を排除して、このトラックを奪うしかない。道は……なんとかなるだろう。
数分の間息を潜めていると、積み込むのが終わったのか、緑色のシートが
狭いダンボールの間から抜け出して、窓から外を覗く。車は走り出し、道路へと出ていた。
ふと、運転席の天井の中心辺りから吊り下げられた横長の鏡に自分の姿が映っているのが見えて、仕方なくしゃがんで身を隠す。ここにいるのがばれると面倒だ。
目的地に着くまで何分か……何時間かかるのだろうか……。
壁に背を預け、足を投げ出し、腕を組む。
なんだかひどく疲れた。少しの間、身を休めることにしよう。
◆
時々外を窺い、外の様子を確認しつつ数時間。山を抜け、様々な道を通り進んでいると、景色が変わってきた。折良く麻帆良市の看板を視認した私は、窓から入ってくる明かりを頼りにシートの方へ移動し、持ち上げようとした。
……紐で固定されている。
苦労して紐を外し、シートを持ち上げると、黒いコンクリートが流れていくのが目に入った。流れの激しい川みたいだと、なんとなく思った。
躊躇することなく飛び出して、ごろごろと転がる。衝撃が体中を通り抜けていくのに目をつぶると、刀を吊るしている背中側が一番痛いことに気がついた。
なんとか体勢を立て直すことに成功して、すぐに近くの森に駆け込んだ。
……また山か、それともただの森か。『麻帆良学園』に入ったにしては自然が多い。隠れる場所には困らないけど。
さて、と体に力を入れる。鬼を見たのは森だと言っていた。……帰り際の。
ここが学校の裏の森だとかなのかは知らないけど、もしかしたら、ここら辺なのかもしれない。
そう考えた私は、とりあえずずーっと伸びている道路を追って走ることにした。
走り続けること数分。鬼にはまだ会えない。どこかに
鬼がうろつくこの街。……怪しいと思う。私の半霊を盗んだ者と会える確率は高いだろう。
時に迂回し、人目につきにくい場所を進んでいく。夜だからか、それとも森の中だからだろうか、人に会うことはなかった。鬼とも、だけど。
先へ進む。なんとなく、このまま先に進んでいけば、鬼に会える気がした。私はその勘に従って進んでいた。これ以上幽々子様に情けない姿を見せないためにも、気を引き締めていかないと。
そうして走り続けた私の前に鬼が現れたのは、息が切れ始めてから十数分たち、そろそろ木々も途切れようかという時だった。
◆
木々の合間の、少し開けた場所にそいつはいた。
赤黒い肌。太い骨と筋肉で盛り上がった体。腰に付けた布から伸びる足は、丸太のようだった。
私の倍はあるだろう大きさに、知らず、息を呑む。
……この大きさ相手じゃ、さすがに不意をついても押し倒せないだろう。それに、あの分厚い肌。今の私の力で、切り裂くことができるのだろうか。
ずんずんと重々しい足取りでどこかを目指して進む鬼の後をつける。どこに向かっているのか知らないが、早い所聞き出してしまおう。
……しかし、鬼ってこんなのなんだ。イメージが違う。角がなければ鬼って判断できなかった。
森の終わりを前にして、いい加減意を決して飛びだした。鬼の前に回り込むと、むん? と唸った鬼が、黒目のない目を私に向けた。睨んでいるようにも見える。
話は……通じるだろうか。
「……お前に聞きたいことが」
言いかけて、振るわれた腕を後ろに跳んでかわした。
やっぱり駄目か。そんな感じはしていた。あんまり頭が良いようには見えないし。
腰まで下ろした刀の柄を掴み、シャンと抜き放って正眼に構える。肩で息をしているせいか、なかなか定まらないけど、深呼吸なんてしている暇はない。鬼が突進してきていた。
横に振るわれた腕をしゃがんで避け、バネのように跳ね返って肩からぶつかっていく。
少しでもよろけさせられればとやったことは、失敗だったらしい。びくともしなかった鬼のもう片方の腕が、未だ浮いている私に向かってきた。
私にはどうしてかそれがとても遅く見えていて、だけど、避けられなかった。
バチンと視界が一瞬真っ白になって、次には木に叩きつけられていた。体の中で、バキバキと何かの折れる音が聞こえて、地面に膝をつく。
落ちた衝撃にも手放さなかった刀をついて体を支えると、喉に血の味が広がって、吐き出してみれば、それは血だった。
ずきんと、胸が痛む。
「え、あ……」
理解するのと、痛みが体中に広がるのは同時だった。
声にならない悲鳴が細く響く。痛い。潰れてしまったみたいに、体が痛い!
げほごほと咳込むと、赤い血が飛んで、お腹に鋭い痛みが走る。いくつもの尖った何かが、内側から突き破ってきているみたいに。
なにこれ、こんなの、知らない。こんないたいの、やだ……!
柄を掴む手に力を込めて、ふと、宙を舞っていた。ガンと揺さぶられる脳に、ぐるりと回る景色。とても遠くに凄い衝撃と、ぐしゃりと潰れる音。今度こそ、本当に潰れてしまったのだとわかった。
なんで……なんでなぐるの? もういたいのに、いたいのに!
太い木と一緒に転がって、それでも手から刀は離れなくて、どうにか這う。
痛い。地面と
やだ。
やだ、やだ、やだ!
こんないたいのやだ! そうだ、そうだ、おに、ちゃ、助けて、わたし、こんなの、やだよ!
「ひ、ぎぅ……に、ちゃ、たす……け」
後ろに迫る鬼が怖くて、潰されたくなくて伸ばした手は……言いかけた言葉は、目の前に広がった淡い光を前に途切れた。
低い視界の先に光の蝶々が舞い上がって、青い衣の裾が揺れていた。
血の気が引く。
同時に、一気に現実に引き戻された気がした。
漏れていた
口の中に広がる血の味だけが、ただそこにある。
「……ゅ、」
喉が痙攣して、震えた声しか出ない。投げ出した腕の先に握られた刀が、幽々子様の足を貫いて、すり抜けていた。
縋る思いで見上げる。失態。こんな姿を見せて、幽々子様は……。
冷たい瞳が、私を見下ろしていた。
言葉は無い。だけど、失望されているというのはわかった。
がくがくと震える体に鞭打って立ち上がろうとすると、私から顔をそらした幽々子様が、私の横を通って向こうへと歩いて行った。
「ま、って、ちが、これぁ……」
せりあがり、飛び散る血を気にとめず、必死に声を絞り出す。なんとか立ち上がって振り返ると、幽々子様は迫り来る鬼をすり抜けて、木々の向こうの暗がりへと消えていってしまった。
「まって、まってください!」
肺に穴でも空いてしまったみたいに痛んで、口の中を血が満たす。それでも、声を出すことはやめなかった。
なんて姿を見せてしまったのだろう。これじゃあ、見限られてしまうのも当然じゃないか。
そんな冷静なことを考えてしまう自分に、ぎゅっと柄を握る。両手で握った刀の先を奥へ向けて、思い切り突き出した。
邪魔だ。
幽々子様を追わないと。追って……
肉を突き貫く感覚に、刀を振るって鞘に納め……ようとして、収まらないのに舌を打つ。刀身が曲がっている。いや、今はそんなことより!
煙のように消えゆく鬼の中を突っ切って、幽々子様の消えていった方へと走る。
足の感覚がない。今は、お腹や胸の痛みだけが頼りだった。
◆
時々、息に混じって血を吐きながら、木々の間を走り抜ける。
走る中で、何体か鬼を見た。どいつもこいつもイメージと違う姿ばかり。私の知っている鬼じゃない。だから、斬り捨てた。
「ゆゆこさま!」
森の外が見えるくらいに、その先に舞う桜の花びらを見て、私は叫んでいた。
遠く見える洋風の建物が並ぶ手前、森と町の境界線。そこに飛び出した私を待っていたのは、幽々子様じゃなかった。
月明かりに照らされて立っているのは、大太刀を振るう女性だった。
サイドテールを揺らすそいつが、刀を納めないままにこちらを見て、目を見開いた。が、すぐに表情を引き締め、こちらに刀を向けてくる。
幽々子様は……いない。もっと向こうか。
そいつを気にせず先に進もうとすると、「何者だ」、と、声。闇に響く凛とした声だった。
……お前も。
「わたしのじゃまをするか」
サイドテールの剣士は、私の問いに身じろぎひとつせず、代わりに先程と同じ質問をしてきた。
答える必要はない。邪魔をするなら、排除するだけだ。
急がないと。早くしないと、私は。
「!!」
雷に打たれたような感覚に、私は咄嗟に横に転がっていた。私のいた場所を何かが通り抜けて、次いで、どこか遠くで何かが破裂する音がした。
サイドテールの剣士が背後を振り仰いで何事かを叫ぶ。何と言っているのかわからない。耳がおかしい?
気にせず、片膝をついた体勢から立ち上がろうとして、全力で刀を振っていた。そうしなければいけないという絶対の感覚があった。
刀身に何かが当たり、すぐそばの地面が弾けた。勢いよく飛び散った土が布越しの太ももに当たるのと、半ばよりも下から折れた刃が地に突き立つのは、ほとんど同時だった。
目を見開く。そんな、そんな……馬鹿な。
腕が震える。私の目に映るのは、根元を僅かに残しただけの楼観剣で……!?
「あっ、あああ!!」
甲高い声が響いた。剣士がこちらを向くが、そんなこと、気にしていられない。
譲り受けた大切な刀が…………半霊を失い、剣まで失って、私はどうすれば、幽々子様になんと言えば……!!
ギリ、と口の端を噛んで、剣士を睨みつける。
あいつだ。あいつのせいで、全部だめになった。幽々子様に見捨てられてしまった。
きっと半霊を盗んだのもコイツだ。全部、ぜんぶ、この……!!
立ち上がり、折れた刀を無理矢理に鞘へ押し込む。
ゆるせない。……きる!
刀を構える剣士へと、地
を蹴って突進し、間合いに跳び込む。お前の刀も、同じように!
「ッ、じんきぃいい!!」
大きく踏み込んで抜刀する。
斬れるという確信があった。
なのに。
「みらい」
言葉の中で、私のお腹から背へと突きぬける刀を見た。
肉と一緒に断ち切られる意識の中、どこか遠くで、「ああ、ばちがあたったんだ」と思った。