数年の内に、まちのケーキ屋さんは、近辺によく知られる店になっていた。グルメ系雑誌に紹介されて、たまに遠くから食べに来る人もいる。店の大きさは変わらないが、着実に真緒の夢に近付いていた。
そしてある時、真緒が言った。この店を大きくするのはやめた、と。
それは何も、現状の人気に満足したから出てきた言葉ではない。父の遺したこの店を、この形のまま残したいがためにそう言ったのだ。
今の稼ぎなら、隣の空き家を潰して今の倍ほどの店舗も作れる。味に惚れて弟子入りしようという者もいたから、その気になれば支店なんかも出せたはずだ。だが真緒は、それをしなかった。時折りくるバイトの申し出なども断っていた。特に、相手が女性だと絶対に譲らなかった。
四六時中門戸にべたべたべたべたと引っ付かれて、それでも妹を見続ける真。ここに第三者を加えたら、もしかしたら真はもう、真緒の事を見なくなってしまうかもしれない。そんなのはありえないとわかっていても、真緒は心配で、どうしようもなかった。
このままがいい。今のままで十分。
真緒は、現状維持を望んでいた。
一年が過ぎ、二年が過ぎ……。
何事もなく日々は過ぎ去る。
相変わらず真と真緒の関係は変わっていないし、門戸はやたらと真を慕っているし、瑞希は学校生活を満喫しながらも、甘えん坊は治ってない。
目に見えて変わっているものなど、店の売上か瑞希の身長くらいのものだ。
瑞希は、心も身体もその成長は目覚ましく、真の細腕では抱き上げるのが難しくなってきている。それでもまだ、小さい真緒よりさらに小さいのだから、この後も背はぐんぐんと伸びていくだろう。
一年を通しての緩やかな、しかし急速な成長は、真の楽しみの一つだ。
彼女が変わる事に寂しさや不安を感じていた真だったが、時間が経てば経つほど真と瑞希の絆は深まり、二人の笑顔があふれるばかりで、悪い事など何もないと気付いてからは、素直に妹の成長を受け止め、見守るようになった。
一方の真も、子供ながらにすでに完成系に近づいていたのか、ここ数年では身長もさほど伸びず、見た目もあまり変わらなかった。顔から幼さが抜け、いよいよもって子供には見えなくなってしまったのが一番の変化だ。
成長期がとっくに終わっている真緒は、身長の代わりに増える体重に戦慄して、早起きしてジョギングをするようになった。門戸も一緒だ。実は、この中で一番重いのは門戸なのだ。
自分の姿や形に自信を持っていた門戸も、以前真に飛びついた時、彼が漏らした「おも……」という言葉にショックを隠し切れず、真緒と共に走って体重を落とそうと考えた訳だ。
ただ、お腹
ちなみに数ヶ月単位で続いたこのジョギングによってすっきりした真緒のお腹周りは、三日で元通りになった。門戸はそもそも体重が増えもしないし減りもしなかった。
運動会。遠足。音楽会。授業参観。瑞希の通う小学校で何か行事があるたび、一騒動が起きた。
たとえば初めての遠足で、楽しみに準備をしている妹とは正反対に、自分の手の届かない、すぐ駆けつけられない場所に行ってしまう事を不安に思った真が顔を青褪めさせておろおろとしていた。それだけならば、何事もなく遠足が終わった時、兄妹ともにひとつの出来事を経験し、成長した、と一言で片づけられただろう。
しかし、真のそんな珍しい姿を見て、門戸も真緒も揃ってこう提案した。「そんなに不安なら、こっそりついてっちゃえばいいじゃない」。
急遽店を閉め、三人揃って遠足先である水族館へ赴き、うろちょろして、担任の教師に見つかって注意された。三人の変装のおかげで、瑞希はまさか兄がついて来ているなど夢にも思わず、学友と共に水槽に張り付いて泳ぐ魚を覗いていた。
以来、行事のたびに店を閉めるようにして、行事には必ず三人揃って向かうようになった。そんな事してお店の経営は大丈夫なのかと言えば、大丈夫なのである。有名になった今、小学校の行事の際はお休みしますよ、と告知すれば、瞬く間に広がるからだ。最初の一回は、せっかく足を運んだのに開いてなかった、と苦情が入ったが、お詫びのセールをすればぱったり止んだ。休店後はセール。これが定番になった。
運動会では、親も走る競技があるのだが、これに出場した真がビリを取って落ち込む事があった。運動はからっきしのだったのだ。なんでもそつなくこなす印象を持っていた真緒はびっくりして、「こけなかっただけましじゃない!」と慰めにもならない声をかけていた。門戸なんかあんぐりと口を開けて呆然としていた。『信じられない』と顔に書いてあるのに、ますます落ち込む真だったが、その後の徒競走で1位をとった瑞希がフラッグを持って真に駆け寄り、手渡して、「これでお兄ちゃんも1位だよ!」と笑いかければ、たちまち元気になった。
音楽会など、鑑賞するだけでなのだから何も起きないのが普通なのだが、しかしやはり少しは騒ぎがあった。といっても、拍手をしながら瑞希の名前を呼ぶ門戸だとか、帰る人波に飲まれて流されていく真緒だとか、放課後の教室で、瑞希とその友達を含めた少人数で小さな音楽会が開かれ、真が高い歌唱力を披露したりだとか、そんなレベルだ。
授業参観では、これも三人で行ったので(もちろん許可はとってあるのだが)、友人達がどっちが瑞希の母なのかわからずこしょこしょと話し合っていたり、真を指して「お兄ちゃん」と言った瑞希を本気で心配したりと、案の定の事であった。母の括りに入らなかった真緒が一番ダメージを受けていたのは彼女だけの秘密だ。他には、教師が「この問題、誰かわかるかしら」と子供達に振り返ると、後ろに並ぶ親の中から「はいはいはーい!」と門戸が手を挙げて出たり。ちなみに親が手を挙げるのはある程度許容されているのだが、真緒は心底恥ずかしかったらしく、ぷんすか怒って、もう変な事はしないように、と門戸に言い聞かせた。懐かしくなっちゃって、と笑う門戸。学生時代を思い出してか、「先生に教わっていた頃を思い出したんデース」と感慨深そうだった。
春夏秋冬、そうして騒がしく、楽しく過ごしてきた。
「妖怪が鍛えた楼観剣に、斬れぬものなどあんまりない!」
かつて真が買い与えた東方projectは、瑞希の中で大ヒットを飛ばしたらしい。
その中でも半人半霊の庭師、魂魄妖夢を気に入ったようだ。これは、ゲーム本編だけでなく、書籍や同人誌などの影響もあった。もともと東方を知っていた真緒が好機とばかりに色々と集めてきて、またたくまに東方グッズが増えたのだ。真も門戸も真緒に勧められて、東方の知識を深めていった。
丸めた新聞紙を竹刀のように振る瑞希に、危ないよ、と注意した真は、ふと気になってなぜ妖夢が好きなのかを聞いた。瑞希は満面の笑みを浮かべて、
「剣が格好良いの! かわいいし、なんかお兄ちゃんみたいだから好き!」
「俺みたい? ……そうかなあ」
「かっこかわいい、なんでしょ? クラスでもお兄ちゃん、大人気だよ」
「……あんまり嬉しくない」
「えー、なんで? 私、お兄ちゃんみたいになりたいのに」
お兄ちゃんみたいな美人に、なんて言われて、真はうーんと首をかしげた。果たしてそれは良い事なのだろうか。ついでに言えば、自分のどこが妖夢に似ているのかもいまいち理解できなかった。
刀でも持てばわかるだろうか、と瑞希から新聞紙を借りて振ってみても、飛び込んできていた門戸を叩き落としたくらいで、成果は上がらなかった。
ちなみに、真の容姿や性別が原因で瑞希がいじめられたり、孤立したり、という事は起きていない。真も、それを心配していた時期があったが、おおらかな校風のためか、誰一人そんな事を気にして瑞希と距離を置く生徒はいなかった。逆に、ケーキ屋で働いていると聞いて近付いてくる子の方が多かった。あわよくば遊びに行って食べさせてもらったり、遊びに来てもらってお土産に持ってきてもらったりを期待する子は多かった。
そんな打算で近付く子も、瑞希の性格に触れれば、たいていすぐに打ち解けて普通の友達になる。だから、瑞希の交友範囲はどんどん広がって行った。
三年生になった瑞希が、学校の宿題か、将来の夢は何かを作文にするために悩んでいた。
参考にしたいと言われて、三人がそれぞれ自分の夢を語る。
「私は、もう知ってると思うけど、あれよ。このケーキ屋さんの名を広めること。もっと繁盛させるってのは、ちょっと贅沢かな。あ、瑞希ちゃんくらいの年の頃はケーキ屋になりたいなって思ってたわ。それより前になると宇宙飛行士だけど。なんで、って? さあ、覚えてないわ。さすがに。だから作文探してやろうとか思わない事ね門戸ぉー!」
「私の夢はもう叶ってマース! こうして真と過ごせるなんて……みんなに悪いくらいネ。ンー? みんなとは誰か、デスカー? それは内緒デース! そういう約束……ンッン、子供の頃の夢の話デシタネー。勝利……Smileをみんなに届ける事デース!」
「俺? 俺の、夢……うーん、なんだろう。お前が元気に育ってくれたら、嬉しいんだけど……違う? そういうのじゃないって言われても……。ええと、小学生の頃はなんだったかな。野球の選手とか、サッカーの選手だとか、周りと同じ事を言ってたような気がする。今は、そうだね。あえて言うなら、このままみんなで一緒にいる事が夢かな。……変かな? こうして普通に過ごす事って、大事で大切な事だと思うのだけど」
ふんふんと頷いた瑞希は、しばらく考えた後に、私はお兄ちゃんみたいになるのが夢! と宣言した。
それはちょっと、と真が困り顔で言うと、じゃあ、ケーキ屋さん? と首を傾げる。妥協案なのねー、と微妙な顔をする真緒。門戸はにこにこして、そんな三人のやりとりを見守っていた。
◆
「……普通、か」
また別の日の事。
真緒は、一人調理場でたたずんでいた。
照明の光を照り返す台の前で自分の手の平を見つめる。
普通。それは、真緒からは程遠い言葉だった。
真緒には、
「…………はぁー」
台の上に置いたリンゴを眺めて、溜め息を吐く真緒。
普通。普通ねー、と呟くと、無造作にリンゴへ手を向けて、ぐっと力を込めた。
すると……。
「……普通の括りには入らないわよね、私」
ぼう、と突然リンゴに火がつき、燃え始めた。
再び手の平を眺めて溜め息を吐いた真緒は、トングを持って燃えるリンゴを掴むと、水の張ったボウルに移した。ジュウ、と水を蒸発させて火が消えれば、残ったのはある程度焼けた果実だけ。
切って食べよ、と取り上げて水を切りながら、自分の能力に思いを馳せる真緒。
昔から、この能力はあった。この力のせいで、一時期は異常に火を怖がっていた。今は克服しているが、昔は、それはもう酷かった。いつその力か暴走して誰かを傷つけやしないかと不安を抱え続けていた。
魔法のようなこの現象は、大人になった今では、こうして食べ物に火をつける程度の扱いになっていて、恐れなどほとんど抱いていない。だがそれは、自分に限った話だ。誰かがこれを知れば、やろうと思えば遠方から何も介さずに人だって燃やす事ができるから、恐れられるに違いない。
きっと人の良い真は、この力を知っても今までと変わらず接してくれるだろう。瑞希も、門戸だって。……しかし、少し前に真の口から、普通って大事だよね、というような旨の言葉が飛び出した事に、真緒の心は揺れていた。消えない恋の炎を胸の中で燃やす真緒だが、こんな力を持つ自分は彼から離れた方が良いんじゃないかとか、もしかしたら嫌われるかも、なんて不安に思うと、その炎も揺れに揺れて胸の内を焦がす。
離れたくない。でも、離れた方が良いかもしれない。こんなに近くにいるのに? だからこそ? そうせずとも、向こうから離れていくかもしれない。人は未知の力を恐れるのだ。真だって、普通ではない人生を歩んでいるが、ただの人なのだ。異常な力を恐れない保証はないし、瑞希の危険だと判断すれば、すぐさま離れていくだろう……。
「つっ……」
悶々と考えながらリンゴを切っていれば、手元が狂って指先を傷つけてしまった。些細な傷だが、じんじんと痛んで血が滲む。口にくわえて、ちう、と吸いながら、バンドエイドを求めて出入り口へ向かおうとして、真緒は、そこに門戸が立っているのを見つけて足を止めた。
「ぁ……か、帰って、来てたの」
ドクンと心臓が跳ねる。
なんの冗談だろう。このタイミングで帰って来るなんて。……いつからそこにいたのだろうう。まさか、さっきの……。
いや、それはありえない。だって門戸は、今日は人と会う約束をしていると出掛けていたはずだ。真と瑞希も、定休日の今日は家に帰ってゆっくりしているはずだ。真がいなければ、門戸がこの店に来る理由もないはず。なぜ、ここに……。
ふざけた色など一欠けらも浮かべず、ただじっと自分を見つめる門戸に、真緒は薄ら寒さを覚えた。
そして、察してしまった。先程の自分がやった事を見られていた、と。
「真緒……」
「……な、なによ」
動悸が激しくなると、目も霞んで、まともに立っていられないような錯覚に陥る。
真緒は、門戸にこの力がばれた事にショックを受けているのではなく、門戸が真に話してしまう事を危惧して、冷や汗を流していた。
自分の口で言う訳でもないのに知られるのは嫌だ。それで嫌われるのはもっと嫌。だから、でも、私……。
ぐるぐると回る思考は何も弾き出さず、繰り返される言葉は、どれも口に出される事はなく。
「私……気にしませんヨ。真緒が」
「――っ!」
どんな力を持っていても。そう続ける門戸の言葉は、もう真緒には届いていなかった。
一気に頭が真っ白になって、真緒は、思わず門戸を押し退けて逃げ出してしまった。
その言葉は……。その言葉は、真の口から聞きたかった。
門戸が気にしないと言ってしまったら、真がこの力を恐れるという訳でもないはずなのに、真緒は彼女が先に自分を受け入れてしまった事に強いショックを受けた。
自室に駆け込むと、布団にもぐりこんで、自分の抱く訳のわからない感情に頭を抱えた。
なんで、なんで、門戸が。
同じ言葉ばかりが繰り返される。
真緒は、動揺していた……。
◆
真緒が行ってしまうと、今度は門戸が調理場に一人立つ事になった。
伸ばしかけた腕をゆっくりと下ろしながら、深い溜め息を吐く門戸。
「仕方、ないデスネー……。こればっかりは」
何もできる事が無い。
それに、それに……それどころでは、ないのだから。
門戸はそわそわとしていた。ここのところ、ずっとそうだった。真緒が疑問に思っても、真が聞いても、その理由を話さなかったが、二人とも、門戸が何かに焦り、恐れている事はわかっていた。証拠に、ここ数日の真へのスキンシップは、いつにも増して異常だった。お茶のお誘いは再開されたし、何か形のあるものが欲しいとプレゼントをねだったり、ずっと一緒にいたがったり。
まるで一分一秒が惜しいとでも言うように、真にくっつきっぱなしだった。
それが先の真緒の反応に繋がったのかもしれない。
人の心は些細な事で変化する難しいもので、人と人との関係は、小さな積み重ねの先にあるものだ。
門戸の焦りからくる行動が真緒にも焦りを募らせていた。同時に、不満も。
自分の好きな男性が、自分のコンプレックスを全て無くしたような異性と一緒にいる。しかもその異性は、男性を好いているのだ。これで嫉妬しないはずがなかった。
ただ、今までは、過剰とはいえ、どこか懐いた犬のような振る舞いの門戸に、真緒は心のどこかで安心していたのかもしれない。この『好き』は恋愛の『好き』ではなく、親愛の『好き』なんだ、と。
だがここ数日はどうだろう。離れたくないとばかりに真を独占し、思い出を作りたいなどと、恋人でもないのにプレゼントを要求するのは、真緒にとって危惧すべき大きな変化だった。
なんの前触れもなく変わった門戸。その理由がわからないから、余計に真緒は不安になった。二人の間で何かあったのではないか、二人だけで共有する何かがあるのではないか。真が門戸を拒まないのは、そういう理由があるからではないか……。
考え出せばきりがなく、答えがなければ終わりもない。
そこにきて、自身の特異な能力だ。相容れないかもしれないという不安は、彼女の精神を乱すのにはうってつけだった。
真緒のそんな様子は、門戸もわかっていたのだが……。
「どうしたの?」
「真……」
真と瑞希がやってきた。
二階へ行こうとして、調理場への入り口に立つ門戸を発見したのだろう、足を止めた真が声をかけると、門戸は暗い顔をして真を見つめた。
そこにただならぬ気配を感じた瑞希は、先にお姉ちゃんの所に行ってるね、と二階へ上がっていった。
「……真」
「なあに?」
門戸の様子をおかしく思ったのは、真も同じだ。沈痛な面持ちで見られて、つとめて優しく聞き返せば、門戸は首を振って視線を床に下ろした。
「……瑞希は、三年生になりマシタネ」
「……そうだね」
「真は、birthdayを迎えて、17歳になりマシタネ」
「うん、そうだね」
「真……」
ぐっと顔を上げた門戸の顔は、今にも泣きそうな程歪んでいた。ぎゅうっと服の裾を掴むのは不安の表れか。震える声が、彼女の感情の高まりを表していた。
「欲望なんかに、負けないで……!」
言われて、真は何も言えなかった。
それがどういう意味なのかわからなかったのもあるが、あまりに真剣に言われて、普段の彼女とのギャップに面食らったのだ。
二度、三度と首を振った門戸は、絞り出すように続けた。
「forever……できれば……! できれば、ずっと一緒にいたいデース……!」
「どうしたの、門戸。ゆっくりでいいから話してごらん?」
門戸は、苦しそうに、何かを堪えるようにそう言った。
今日会った人と何かあったのだろうか。門戸の予定を聞いていた真は、すぐにそう思って、彼女にそっと寄り添い、落ち着かせようと肩を擦った。その真の手に門戸が手を重ね、自分の頬に当てる。
「昔から……デスネー。ふふ……真は……なんにも変わらないデース」
「……そうかな」
昔から。
思えば、真と門戸の付き合いも、四年近く続いている。その間、門戸はずっと自分に好意を向けてくれていた。真には、その理由がわからなかった。なぜ自分を好くのか……。
瞳を潤ませた門戸は、数度、真の名前を呼んだ。真の手をとり、手の甲を頬に当て、擦る。目を伏せると、何かに想いを馳せるように黙って、少しの間そうしていた。
「先生……」
ぽつりと、門戸が呟いた。
「先生の手、暖かいネ……」
「……先生?」
その呟きは、たしかに先生と言っているように聞こえて、真は聞き返した。
それは、俺の事を言っているの? と。
しかし門戸は答えず、目を開くと、真の目を覗き込んだ。涙に濡れたグレーの瞳には、真の顔が映っていた。
きゅっと手を握られた真が身動ぎをすると、門戸は息を呑んで、真から少し体を離した。いけない事をしている。でも、自分を押さえられない……。そんな葛藤が彼女の中で渦巻いていた。
でも、こんなに気遣われては、こんなに想われては……こんなに近くては。
門戸はもう、ぐちゃぐちゃに混じり合う感情を静める事が出来なかった。
「もう……ワタシッ……もう我慢できないデース!!」
「もっ、どうしたの門戸!」
がばりと抱き付かれて、真は目を白黒とさせた。首に腕を回されると、ほのかな汗の匂いと、香油に似た香りが鼻先を掠める。
背を抱いてやるべきか、そうして慰めるべきかと真が考えている内に、腕に力がこめられ、これ以上ないくらいに体が密着していった。
「先生!」
「――ぅ、な、なあに」
こめられた力は尋常でない強さで、息が詰まる苦しさに喘ぎそうになりながらも、なんとか答える真。切羽詰った呼びかけは、真の庇護欲を掻き立てた。いつも妹にそうするように、背中に手を回そうとして――。
「先生、私はっ! 先生に、いき――」
ふっと、真にかぶさっていた重みが消えた。
と同時に、真は息苦しさから解放された。
門戸が消えたためだ。
「……え」
呆けた声を出した真は、自分の首に手をやって、そこに残る圧力の痛みを確かめた。
ふわりと香る彼女の匂いも、彼女が残した熱も、彼女の姿も瞳に残っているのに、今の今まで真に抱き付いていた門戸は、影も形も無かった。
真は、何が起きているのかわからなかった。何か重大な事を打ち明けようとした彼女が忽然と姿を消すなど、あまりにも現実味がなさすぎて、理解できなかった。
調理場を見回す真の目に、切りかけのリンゴが目に入った。ふらふらと近寄って見れば、焼いてあるのか、少し形が変わっている。なんとなしに、横に置いてあるペーパーナイフを手にした真は、そこでようやく我に返った。
「あれ、門戸は?」
「…………」
階段を下りて来た真緒が調理場に顔を出し、呟いた。その背からひょこりと顔を出した瑞希が、お兄ちゃん? と怪訝そうに兄を呼ぶ。
真は、何も言えなかった。
「あ、それ……」
真がペーパーナイフを手にしてリンゴの前に立っているのを見て、真緒は少しためらった後に、小さく笑みを浮かべて言った。
「それ、ね。私がやったの。瑞希ちゃんにはもう話したんだけど……私、その、ま、まほ……」
「お兄ちゃん、怖がらないで聞いてあげてね?」
言葉を詰まらせる真緒の腕を引いて、目だけで先を促した瑞希が、ぼうっとこちらを見る兄に呼びかけた。
私、魔法が使えるの……。
そう言われて真は、そうだ、まるで魔法みたいに消えたんだ、と漠然と思った。
◆
「そう……あいつ、いなくなっちゃったの」
門戸がいなくなったと知った真緒は、大いに落ち込んだ。
私が逃げたからかな、と責任を感じているようだ。
真は、本当の事を話せなかった。唐突に消えてしまったなど未だに信じられなかったし、自分の秘密を話して不安になっている真緒に、これ以上気苦労を与えるのは憚られた。
どうして、消えてしまったのだろう。彼女は自分になんと言いかけていたのだろう。
そんな思考が頭の中を駆け巡って、真は真緒の話を聞けなかった。
だが、気をとり直すと、今日会った人と何かあったのかも、と真緒を慰めた。
この問題をどうすればいいかなど、今の真には思いつく由もなかった……。
◆
数週間経った。
門戸は未だ戻って来ない。
従業員の一人減った店は忙しく、それだけの期間、真も真緒も、彼女について思い悩む暇はなかった。
ただ、瑞希だけは、懐いていた彼女がいなくなってしまった事を悲しんでいた。
店が落ち着いてくると、二人はそんな瑞希の姿に心を痛め、彼女を慰めようとした。
真はつきっきりで寄り添い、真緒は、上手くできた創作ケーキを作る事で。
「ね、私、とびきり美味しいケーキを作るから……待っててね」
「……うん」
「帰ろう、瑞希。あんまり遅くまで起きてると、体に悪いから」
「…………うん」
瑞希は、遅くまで店にいて、門戸が姿を現すのを待っていた。
彼女は、瑞希の少ない人生の中で、多くを共にした親しい人間だ。
彼女の喪失は、瑞希の心にぽっかりと穴をあけた。
その穴を埋めようと、真と真緒は頑張ろうとしている。
ひとまず瑞希を伴って真が帰宅すると、真緒はケーキで笑顔を、を合言葉に、ケーキ作りに取り掛かった。もう夜は遅いとはいえ、一刻も早く作り上げ、彼女にプレゼントしなければならなかった。
◆
深夜だった。
二人が死んだのは。
それはちょうど、数時間かけて冷ましたスポンジ生地に、クリームを塗り込もうとしている時だった。
凄まじい眩暈に襲われた真緒は、思わずパレットナイフを取り落とすと、台に手をつき、頭を押さえて呻いた。酷い頭痛まで併発していた。
そして、見た。
夢を。
起きているのに、まぶたの裏に映る鮮明な夢。
何度か訪れた事のある真の家が映っていた。
赤く燃え上がり、黒い煙が降る。
まるでそれは、火事のようで……。
事実そうだった。
煙に巻かれて倒れた妹を抱えて逃げようとした真の目の前に、焼け落ちた柱が壁を削って滑り落ち、行く手を塞いだ。
その方向でしか外に出られないというのに。
窓は。窓に。はやく窓に。窓から出て――!
うわごとのように繰り返す真緒の言葉が届いたのかは定かではないが、真は幾度も咳き込みながら窓の方へ歩いて行った。抱えている瑞希はぴくりとも動かない。
窓を目前にして、真が倒れた。
もう手遅れなほどに火も煙も回り、人が生きていられる環境ではなかった。
どこか遠くにサイレンの音。
燃え盛る炎と焼け落ちる木材の音。
真緒は、倒れ伏しながらも妹の頭を抱えて耐え忍ぶ真の、掠れた声を聞いた。
――こんなところで……この子が死んで、いいはず、が……――
どっと汗が噴き出す。腕が滑り落ち、床にへたり込んだ真緒は、汗だくになって荒い呼吸を繰り返した。
照明の光が目に痛い。だがそんな事は気にしていられなかった。
電気の光を見つめながら、真緒は、電話が鳴り響くのを聞いた。
「何を……なんで……」
『とにかく、すぐ来てください。場所は――』
そこからの真緒に記憶はなかった。
何が起こっているのかなんてわからなかったから、記憶のしようがなかった。
姿を消した門戸。つい数時間前に別れた真の顔。眠そうにしながらも門戸を待つと言って聞かなかった瑞希の顔。先程見た夢。
ちかちかと途切れかけの電球のように、映像が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
とった電話の内容などほとんど耳に入っていなかった。
だが、もはや。
もはや彼らが生きていない事は、わかっていた。
それでも一縷の望みにかけて、教えられた病院に向かった真緒に待っていたのは、医師の沈痛な面持ちと、見知らぬ夫婦の疎む目だけだった。
◆
「…………」
電気を落とした部屋の中、真緒は暗い瞳を自分の手に向けていた。
台の上には作りかけのケーキがある。生クリームを塗る途中で手を止めていて、銀のボウルの横にパレットナイフが落ちた形のままに置かれていた。台にはべったりとクリームがついて、半ば溶けてしまっている。
「……マコトクン」
ぼそりと、真緒が想い人の名前を呟いた。囁くような声量は誰に届く事も無く暗闇に消える。ただ真緒は、淀んだ瞳で自身の手を見ていた。
ものを燃やせる自分の手を。
やがて……。
ようやく動き出した彼女は、ケーキに手を向けて、火を放った。
可燃物でなくとも回る火が瞬く間にクリームをドロドロに溶かしていく。
真緒は、次に台に手を向けた。器具や、床や壁や、シンクにもコンロにも、オーブンにも、冷蔵庫にも……。
その全てが燃え上がり、溶け、ひしゃげていく。
最後に真緒は、自分自身に手を押し当てた。
そこに躊躇いなどない。燃え上がる火が瞬く間に真緒を包み込んだ。
「……わたしも、いくからね」
炎の塊になった真緒は、しかし、穏やかに微笑んでいた。
その瞳に、青く光る蝶を映して……。