ふわりと風に持ち上げられたスカートの端を気にせず、寝転がった草のお布団に、その香りを胸いっぱいに吸い込む。
ふわりふわり揺れるぴんく色の花。名前も知らない小さな花。
青い空には白い雲。ふわふわ流れていく雲たち。
……あ、呼んでる。行かないと。
楽しみだなあ。楽しみだなあ。どんな所なんだろう。友達はできるかな?
楽しみだな。……はーい、今行きます。
◆
目を覚ます。
体を起こして、ぼんやりと虚空を眺め、しばらく。
準備しようと、ようやく思い立った。
布団から出てあくびをする。光る時計は午前五時頃を指していた。
遮光カーテンからは光が入ってこないし、明かりは点けないので、何時でも暗いのに変わりはない。
水を飲もうとキッチンまで行って、皿が落ちているのに溜め息を吐いた。……また落ちてる。置き方が悪かったのかな。 破片を箒で掃きながら、残っているお皿は何枚だっただろうかと考える。……さっきから壁を叩いているのは誰だろう。……今度こそ斬るか。
刀を担いで急いで外に出て、首を傾げる。……そういえば、私の部屋の左隣に部屋はない。
……?
部屋に戻って破片を片付け、ドンドンと壁が鳴るのにコンコンと叩いて返す。……音がしなくなった。誰なんだろう、本当に。
最近夜とかに壁を叩く音がするんだけど、このか達がする訳ないし、他に知り合いはいない。……晴子? まさか。あの子はお店から出ないみたいだし、違うだろう。
ぺっと洗面台に水を吐き出して、歯ブラシを戻す。顔も洗って、さて、刀を振りに行こうと気合を入れる。……ん、そういえば私、何かやろうとしていたような……。
半霊を探しに? ……違う気がする。
「……ん?」
半霊? ……霊……お化け……っ!?
サッと血の気が引いた。いや、それはない。それはあり得ない。
だって、私も半分は幽霊。お化けが私に危害を加えるはずが……!
パリン、と台所から音がするのに、ダッシュで外に出る。考えるのはやめよう。勘違いだ。直接危害は加えられていないなんて考えるのはやめよう。ほら、最初にお皿が割れてた時は踏んづけちゃったじゃない! 危害なら加えられてる! よってお化けじゃない。……お化けだったら、私はもう部屋に戻れない。
ほの暗い朝の道を歩いていると、ふっと前方に光。びくっと体を震わせてそちらを見ると、そこには幽々子様が浮かんでいた。
「なんだ、幽々子様……」
ほー、っと息を吐いて、すぐはっと息をのむ。まさか、壁を叩いていたのは……!? って、そんな訳ないか。
幽々子様は優しく微笑んで、私の隣に並んだ。走り込みをしている時も、刀を振っている時も、傍にいて微笑んでいた。それだけで心が落ち着く。ああ、幽々子様がいるなら、私、何も怖くない。
家に戻る。暗い部屋を通って、脱衣所へ。汗で濡れた肌着と制服を洗濯機に放り込み、浴室で乾かしていた私と魔理沙と霊夢の服を取り込んでおき、シャワーを浴びた。
……幽々子様、シャワー浴びてる時に後ろに立たないでください。死んでしまいます。
替えの制服を着て、朝ご飯を用意する。白米と、目玉焼きと、お味噌汁。お醤油をかけて、と。
それから、小さなコップを二つ用意して、よく冷えたお酒を注ぐ。一つは私の前に。もう一つは、向かい側に座る幽々子様の方へ。
いただきますと言って箸を取る。そのまま、何も言葉を発することなく食事を終えた。お腹が満たされて、ちょっと眠くなる。
ちびちびとお酒を飲みながらじっと幽々子様を見つめる。
私も、幽々子様も、声を発しない。あまり話しかけたり、世間話をするようなものじゃないし、何より、声をかけるのは憚られた。
それにしても、お酒、飲まないのかな。ほんのり甘くておいしいのに。
しばらくぼーっとしていると、チャイムがなるのに、玄関の方を見やった。同じく玄関の方を見る幽々子様が、私に顔を向ける。出て構わない、という事だろうか。
膝に手をついて立ち上がり、玄関へ。来訪者は、このかだった。これから出かけてしまうらしい。寂しいけど、手渡されたお菓子を抱いて、少し微笑んだ。……いってらっしゃい。
部屋に戻ると、幽々子様はいなくなっていた。お酒は減ったりしていない。ほの黒く濁ったそれを捨てて、コップを洗っておく。また少しの間ぼっとして、流石にそろそろ、晴子の所に行かないと、と思った。私の服が出来てるかもしれないし、それに、また服を駄目にしてしまったし。
この間の晴子の様子を思い出して、げんなりする。また怒られる……。行きたくはないけど、行かないと。
重い足取りで外に出て、洋服店に向かう。この間は買った服を着ていろと言われた。今度は何を言われるだろう。もう制服しかないけど……。
チリンチリンと鈴を揺らしてお店の中に入る。だけど、いらっしゃいませの声はなかった。晴子の声はかすかに聞こえてくる。くぐもった声。……誰かと会話してる?
カウンターの方へ行く。いつも晴子が本を読んでいる場所には誰もいない。ただ、ぽっかりと口を開けた通路の方から、声が聞こえてきていた。
「――上手くやってるわよ」
疑ってるの? とどこか楽しそうな晴子の声に、きっとあの大人びた笑顔を浮かべているのだろうと思いつつ、こちら側にある小さな丸椅子に腰を下ろす。まだかかりそうだし、待っていよう。
静かな店内を眺めながら、弾む晴子の声と、電話越しに聞こえる男の人の声を聞く。からかうような声音。途切れない会話。
ひょっとして、晴子の……結婚した相手、なのだろうか。
「もう蹴られるのはごめんだからね」
くすくす、と笑う声。
……私、これ、聞いてていいのだろうか。
一度耳を塞いで、小さく聞こえてくる会話に余計に気になってしまって、手を放す。うう、どうしよう……。
足をパタパタやりながら意識を別の所に飛ばそうとやっていると、声音が変わる。
男の方の後ろで、何かの鳴き声と、女の人の声。行かなくちゃ、と男が言う。死なないでよ、私の希望、と晴子が囁いた。
ぼーっとしているフリをしながら、会話を盗み聞く。
「そう。頑張ってね、みんなの希望、さん?」
『君もね。世界に満ちる夢?』
せめて良い夢が見られるように祈っとくわ、と晴子が言って、ガチャリと重い物を置く音。それから、ばーか、と晴子の声。
……終わったのだろうか。
立ち上がって振り返ると、ちょうど晴子が溜め息を吐きながら現れて、椅子の上に乗った。
大きな本を取り出してカウンターの上に広げ、頬杖をついて、私を見る。
「あなたって、面倒くさいわね」
おもむろに突き付けられた指に、そんな言葉。意味がわからない。
……ひょっとして、すでに要件がばれているのだろうか。
それでも一応、服を汚してしまった事を伝えると、大きく息を吐いて、ぶすっとした顔。
ああ、まずい。きっと変な事を言われる。一応お金は持ってきたけど、できれば買いたくはない。
「……さっきの声」
咄嗟に話を逸らそうとして、さっきの電話の事を口にする。口を開きかけていた晴子は、ん? と小さく首を傾げて、続きを促してきた。
「……晴子の、結婚相手?」
少し逡巡してから聞くと、晴子は一瞬呆気にとられたように目を見開いて、次いで、はー、と息を吐きながらヒラヒラと手を振った。
「何を勘違いしてるか知らないけど、違うわよ。そんな訳ないでしょ」
……でも、その指輪は……左手の薬指につけられたその指輪は、なんなのだろう。
「これ?」
顔の横に手を掲げた晴子は、その表面を撫でつつ、ただの記念品みたいなもん、と言った。
「ふん、人の気持ちも知らないで、『みんなの希望』ですって。女の子の前でよくそんな事言えるわよね?」
じゃあ、晴子はさっきの男の人を好きではないのだろうかと思ったけど、そういう訳ではなさそうだ。不機嫌顔であらぬ方を眺めながら、そんな言葉。反対の手がトントンとカウンターを叩く。
「熱い目で、おれがさいごのきぼうだーとか言っといて、あれなんだもの。そりゃあ、事情が事情でしょうけど、ぶつぶつ……」
悪夢でも見せてやろうかしら、なんて零す晴子に、何て言えばいいかわからなかった。
事情がさっぱり見えてこない……。相手の男が随分キザなんだってのはわかったけど……。
ギロッと私を睨む晴子に一歩引くと、「メイドの服と現人神の服、合わせて六万円ね」と手を差し出してきた。……やっぱり買わせられるんだ。そして着せられるのね……。
嫌では無いけど、いい加減自分の服が着たい。まだできてないのだろうか。
聞いてみると、どうやらできているらしく、三着。それも合わせて十二万円。……私のクリームソーダ代が。
「割引して七万二千円ね。さっさと出す」
ん、と手を出されて、その上にお札を乗せていく。まあ、あまり使い道もないし、自分の服のためだし、いいか。
一転機嫌が良くなって、ふんふん鼻歌を歌いながらレジにお金を詰めて、おつりを渡してくる晴子。機嫌が直ったのかな。
今ならこれもつけてあげるわー、と手渡された機械をてきとうに弄っていて鳴った声にびっくりしていると、紙袋に服を詰めた晴子が戻ってきた。
うーん、値段を言わないって事は、このXマークのついた機械は貰ってしまっていいのだろうか。あいにく家にはあまり機械はない。……飾っておけばいいか、晴子みたいに。
「こっちに来なさい。お着替えの時間よ」
……逃げてもいいかな。
背を押されるまま、試着室に押し込まれ、咲夜の服を着させられる。こないだ見た給仕さんみたい。
でろっと零れた中身と赤く染まったメイドの姿を思い出しつつ、晴子に言われるまま、鏡の前の椅子に座る。何をするかと思えば、髪を編み込まれた。顔の両側、リボンで止められる。仕上げにカチューシャが取り上げられて、ホワイトブリムをキュッと。編んだ髪も、頭も、張り詰めたみたいでちょっと痛い。
鏡に映る自分は、幾分幼く感じるものの、イメージの中の十六夜咲夜とそう変わりはなかった。…………。
なんだ、似合うじゃないのと笑う晴子に、首を振る。こんなの私じゃない。私の肩にあごを乗せて、前髪の両端を外に跳ねさせてみせる晴子の指を乱暴に払って、立ち上がる。ふむ、と晴子が声を漏らした。
「そう重く感じる事ではないわよ? ちょっとイメージチェンジ。息抜きに、違った自分になってみるとか。たまにはいいんじゃない?」
「……たまには、いいですわね?」
違った自分で息抜きとか、まあ、そういう方法があるのは知ってるし、何だか気を遣ってくれるのも嬉しいけど、「たまには」の言葉にここ最近の自分の姿を思い返して、にっこり笑いながらそう返す。目が怖いわ、と晴子が言った。
ふっと息を吐いて、刀に手をかける。……うん。大丈夫、私は妖夢だ。鏡に映る、刀を背にした咲夜……十六夜咲夜の格好をした妖夢……私にもう一度頷く。あなたってやっぱり面倒くさいわ、と呆れたように晴子が言った。
「ふん、キマってるわよ、妖夢。さ、そしたら、紅茶を入れてちょうだい?」
……何を、馬鹿な事を。
私をメイドにでも見立ててか、気取ってそう言う晴子の頭をぺしりと叩く。主人の頭を叩くなんて! と怒る晴子に、ひょっとして本気で言っているのかと思う。……のらないと、駄目なんだろうか。
下げていた手をちょいと前で重ねて、おじょーさま、と声をかける。ツンとした感じ? どんな表情をすればいいの?
「……今日は私、興がのっていまして、とってもおいしい紅茶を淹れられそうですわ。楽しみにしててください」
ちょっと舌を噛みそうになって、照れ隠しにツンと顔を上げてみる。「……本気?」と晴子に引かれた。……晴子…………いや、いい。後で刀でも振ろう。
眉を寄せて感情を押し殺していると、そんな紅茶いらないわ。それよりチューハイでも飲む? と誘われた。あのジュースみたいなのか。甘くて、あんまり酔わないやつ。
カウンターの上に置かれた缶を手に取って蓋を開け、晴子が誘うまま缶同士をぶつけ合わせる。乾杯……随分久しぶりにやった気がする。くっと呷る晴子を眺めてから、自分も少し口をつける。シュワ、と舌の上でちょっとした痛みが広がって、その後に甘いのが…………甘い、のが……。……。
「……苦い」
顔を顰めて、缶の中身を覗く。暗くてよく見えない。
「そりゃあ、グレープフルーツだし。……そんなしかめっ面してると皺になるわよ?」
……そんな年じゃない。
眉間を指で揉み解しながら、自分の缶と晴子の缶を見比べる。赤と黄色。黄色が私。
あまーい、とわざとらしく笑みを浮かべて見せる晴子に、缶を置いて、楼観剣を左腰に下ろす。鯉口を切る私に、晴子は首を傾げて、わたしのと交換する? と聞いてきた。……する。
差し出された缶を受け取ろうと手を伸ばすと、ひょいと遠ざけられた。……何を。
「さて、交換の前に問題よ。刀で斬られたらどうなる?」
……そんなの、斬り返すに決まってる。手を戻して答えると、微妙な顔をされた。
「……あのね、わたし、普通の人間なの。刀で斬られたら痛いし、下手しなくても死ぬの。わかる?」
そんな馬鹿な。晴子は妖怪でしょ?
なんの力も感じないけど、なんとなくそう思う。
「馬鹿な事言わない。それじゃあ、木乃香を斬ったら、木乃香はどうなる?」
このか……?
一瞬、彼女を手にかける想像をしてしまって、気分が悪くなる。
そんな事、絶対しない。しないけど……死んでしまうだろう。
「そういう事よ。わかったら、むやみやたらに刀を抜こうとしないの。しょうもない事で抜くなら、その刀は没収ね。代わりにナイフでも持ったら?」
「……嫌」
首を振って、拒絶する。それは、嫌だ。だって、この刀が無いと、私……。
コン、と私の前に缶を置いた晴子が言う。
「それが嫌なら、肝に銘じておく事ね。どうせ抜かなきゃならない時は来るんだから、戦いたい気持ちはその時にとっといて、ね」
抜く時が来る……。
ここ最近頻繁に抜いている事を思い出して、こくりと頷く。晴子も頷いて、私の手から缶を奪い、それを呷った。うん、おいしい、と吐息を漏らす。
私も晴子が飲んでいた缶を持ち上げ、口をつけた。……うん、甘い。
「それを飲んだら行きなさい。私、服作りたいから」
ほふ、と息を吐いた晴子の言葉に、お財布の中身を心配する。
後でコンビニに寄って、お金を下ろしておこう……。
◆
「魂魄……妖夢、か?」
カサリと紙袋が鳴るのに、立ち止まる。
後ろから聞こえてきたのは、聞き覚えのある女性の声。振り返れば、制服姿のサクラザキセツナが立っていた。
背にある黒い袋に、鋭い目。何か用かと問おうとして、やめる。
「……ヒト違いでは? 私は、ただの、メイドですわ」
きゅっと紙袋の紐を握り、少しだけ怪訝そうな表情を作ってみる。セツナは眉を寄せて、何のつもりかは知らないが、と言った。
「あっているはずだ。……話がある」
……なんだ、やっぱりイメージチェンジなんて無理だ。私は妖夢だから、それ以外にはなれない。
案内された先は、人気のない通りだった。
「この人達に見覚えはあるか」
不気味なほど静かな狭い通路を見回していると、セツナが懐から三枚の写真を取り出し、私に見せてきた。……ああ、私が斬った奴ら。
「なぜ、斬った」
「襲ってきたから」
少しも考える事無く答えると、ピリ、と敵意を向けられた。自然に楼観剣に伸ばしかけた手を、晴子の言葉を思い出して止め、手を下ろす。すぐ抜くのは良くない。
理由は、それだけか? セツナの問いかけに、何も答えずにただ立つ。それをどう受け取ったのか、理由を聞いても? とセツナ。
「話すつもりはない」
このかの危険だから、なんて。
「……なぜ?」
「話す必要を感じないから」
このかの部屋をじっと見つめていたセツナの姿を思い出して、冷たく言い放つ。敵意が強まり、セツナが袋から伸びる紐を握る力が強まるのに、ああ、と溜め息みたいな笑いが出る。それで、勘付いた。斬って知るつもりか。なら、私も。
持っていた紙袋を左へ放り、左腰に下ろした楼観剣に手をかけると、目を細めたセツナが何のつもりかと問いかけてきた。わからない事はないだろうに。
「真実は、斬って知る。……そう簡単に私は斬られない」
お前がこのかの危険がどうか、私も斬って確かめる事にしよう。シャンと抜き放ち、正眼に構える。仕方がないな……と口角を吊り上げたセツナも、袋から長い刀を取り出し、横向きに持ってスラリと抜いた。
「これは仕方がない事だ。お前を止めるために、やむなく私は剣を抜いた」
放り投げられた木製の鞘が軽い音をたてて転がる。構えながら、まるで自分に言い聞かせるみたいに呟くセツナを不思議に思うも、グッと体中に力を張って、言葉を放つ。
「妖怪の鍛えたこの楼観剣に……斬れぬものなど、あんまり無い!」
「お前が戦うと言うなら、仕方がない。斬る!」
「――っ!」
地を蹴って飛び出そうとして、咄嗟に刀を振りおろす。
「む!」
いつの間にか低い姿勢で迫っていたセツナの振り上げた刀とぶつかり、押し負けてかち上げられる。持っていかれる上半身の勢いに任せて背を反らして跳び、刀から離した片手を地に叩きつけて後方回転、さらに後ろに跳んで距離を取る。追撃の手はなかった。
「相変わらず凄まじいまでの反射神経だ……。なら、少しは……」
相変わらず?
刀を両手で握って構え直すと、体を前に倒したセツナが急接近して来る。大振りに振るわれた刀に、斜め前に転がって避け、立ち上がって斬りかかる。
合わせてセツナが振った長い刀の切っ先が建物の壁を容易く切り裂いて、私の刀にぶつけられる。-っ、凄い力……!
ズズッと下がる足に力を込め、なんとか押し返そうと歯を食いしばるも、力及ばずに弾かれる。振るわれる長刀に、仰け反ったまま無理矢理片足で後ろに跳んで躱す。
胸の上をピッと通っていった刀の先が、通りの壁に音もなく入っていく。ドロリと吹き出た血が青い服と白いエプロンを汚すのに、ひっと小さく声が漏れた。息をするたびに痛んで、ドクドクと脈打つ。……でも、動けない訳じゃない。傷は、浅い。
「こんぱ、っ!」
刀を下ろそうとしたセツナの懐に飛び込んで、その腹を斬りつけながら抜ける。重く硬い手応え。刀じゃない。
振り返ると、ちょうどセツナもこちらを向く所だった。左手一本で長刀を持ち、空いた右手はお腹の前。腕に一本線が通り、わずかに血が流れ出していた。
「…………」
無言で刀を構えるセツナに、こちらも、首や額に滲む汗をそのままに、ふっと息を吐いて構える。上着の裾から滴る血が、スカートを染めつつあった。
風が傷口を撫でると、ピリリと鋭い痛みが背中まで突き抜けて、顔を顰める。……と、ずず、と黒い影が体中から吹き出てきた。……鬱陶しい!
痛みは引くし、妙に力が張るものの、視界の端にちらちらと揺らめく炎は、邪魔でしかなかった。
耳元で哀しげな呻きが聞こえてくるのに、乱暴に耳をぬぐって、地を蹴る。
素早く振り上げた刀を、受け止めようというのか、構えられた刀ごと叩き斬ろうと力いっぱい振り下ろす。軌跡を描く光が刀身に収まるより速く刀と身を引き、弾こうとしたのか、力強く斬り上げたセツナの懐に右肩から飛び込んでいく。
体重全部を傾けてぶつかり、びくともしないのを着地してすぐ、右手ごと刀の柄を握り込んで、鳩尾へ突き立てる。
「ぐっ……!」
一歩引いたセツナに、もう一度ガツンと叩きつける。コンクリート壁を殴りつけているような感覚が帰ってくる。この硬さは何? まるでダメージを与えられている気がしない。
わずかな距離を踏み込み、左手を離しての薙ぎ払いで腹を斬りつける。この距離だと思うように刀を振れないらしい。
「くっ!」
差し込まれた手に腹を切る事叶わず、両手で握り直した刀で斬り上げる。再び腕で防がれた。ジャッ! と硬質な音が鳴り、鮮血が飛び散る。
その飛沫を照らす桜色の光が刀身に収束するのと、刀を振りかぶるのは同時だった。
――断命剣。
「冥想斬っ!」
「ッ!!」
倍以上に伸びた刀身を振り下ろす。
光がセツナの体に触れる寸前、その姿が掻き消えたかと思えば、斜めに刀を構えたまま遥か後方に移動していた。防ぎきれなかったのか、肩口辺りの服に切れ込みが入り、薄く血が滲んでいた。
私の技が起こした風が収まると、私の荒い息遣いだけが通りに響くようになる。セツナは、汗こそ浮かべているものの、息は乱れていない。……スタミナが違う。
「貴様は……なんなんだ」
瞳に警戒の色を浮かべるセツナの動きに注意しながら、腰の白楼剣に手を伸ばす。
「――させるか!」
ドッ、と地面が爆発して、一瞬での接近に、後方に跳びながら刀を掲げる。振り下ろされた刀を防ぎ、同時に白楼剣のリボンを解く。完全に力負けした刀が肩に押し込まれ、刃の上を流れた長刀が耳に食い込む。
察知してか飛び退くセツナに風の力がぶつかり、刀を吹き飛ばし、服の裾をわずかに花びらへと変える。驚く暇なんて与えない。歯の隙間から鋭く息を吐いて、低く駆け出す。
ただの一足で開いた距離は大きい……が、セツナが立て直す前に、その首に刀を叩き込むのは難しくなかった。
……直感に従わないのなら、だけど。
無理矢理刀を止めようとして、セツナの首筋に当たるくらいに止まり、と同時に私の首に入ろうとしていたセツナの手刀も、ピタリと止まった。
どちらも動けない状況になるかと汗を流すと、どうしてか、セツナが手を下ろした。
……?
「……なんとなく、わかった。お前は危険ではない」
……危険? 私が?
「だが、聞きたい。お前は何者だ? なぜお嬢様に近づく」
……お嬢様? 一体、何の話?
困惑するばかりの私に、このかお嬢様の事だ、とセツナは言った。このか……なぜお前の口から彼女の名が出る? 柄を握る手に力を込めると、セツナはわずかに眉を寄せた。
……首を落としてしまおうか。
その答えが出るより早く、セツナの口から説明される。
「お嬢様をつけ狙う輩を排除したお前は、しかし急激にお嬢様に接近した。私はお前を第三勢力の手の者ではないかと考えた。そう思ってしまうほど、近づき方がおかしかった」
それは……このかが、優しいから。優しくしてくれるから。
ドロリと流れ落ちる血液が地面に染みていく。
頭が痛い。……近づくなと言いたいの? お前こそ、何なの。どうして私の邪魔をする。
「だが、切り結んでわかった。お前の腕は未熟すぎるし、身のこなしもなってない。潜り込ませるには、お粗末すぎる」
……私が弱いのなんて知ってる。こいつは私を貶すのが目的なのか。
ふー、と疲れと一緒に息を吐く。……私が、このかの危険な訳ない。
「……なに?」
「お前はなんなんだ。なぜこのかをお嬢様と呼ぶ」
――お嬢様。それは、もしかして。似ても似つかない姿だけど、もしかして。
「私は、お嬢様の護衛だ。たとえ学園長が放っていても、私は怪しいお前を放っておけなかった。……そういうお前は?」
馬鹿な考えを否定するように、そんな言葉。……護衛? このかの? ……このかには、もう守ってくれる人がいるの? 私は……。
お前は何者なんだ、と静かに問うセツナに、小さく首を振って、それから、魂魄妖夢、と小さく告げる。
「半人半霊。白玉楼の庭師。幽々子お嬢様の、け……護衛」
少し首を傾げたセツナが、護衛? と繰り返す。……そうだけど、私はこのかの事も守りたい。
だって、このかは優しい。それに、それに……学園長も、支えてやってくれって言ってたから。
「学園長が……なんだ、そうか……」
深く息を吐くセツナに、いつの間にかだらんと下げてしまっていた楼観剣に目を移し、ゆっくりと鞘に納める。
……斬ってわかったのは、セツナの正体。……護衛は二人もいらない? やっぱり、斬る? ここでセツナがいなくなれば、このかを守れるのは、私だけになる。
私に背を向け、刀を回収したセツナが歩み寄ってくるのを眺める。スカートから血が滴る音を遠くに、ただ、セツナの言った『このかの護衛』という役割の事だけを考えていた。
私は幽々子様の……護衛、では、ないけど、護衛だ。あくまで幽々子様の従者。私の主は、幽々子様ただ一人。
……でも、だけど……一人くらい、守ってもいいじゃないか。力が及ばなくたって、私は、優しくしてくれるこのかを守りたい。セツナの方が強くても、だったら、私はもっと強くなる。もっと。
「血が止まっているな……手当てをしよう」
私の肩に手をかけて傷を見ているセツナの顔を見る。それに気づいたセツナが、すまない、と言った。謝罪などいらない。自分から斬り合って受けた傷だから。
困ったような表情を浮かべるセツナが少し間を空けてから、わかった、と頷いた。それから、すまない、ともう一度言う。謝罪はいらないって言ったのに。怪しい奴がこのかに近づいたら、私だって斬るから。
それに……楽しかった。
◆
手当てはいらないと押し切って、紙袋を回収し、早苗の服に着替えてから、歩いて家まで戻った。
脱衣所……洗面台の鏡に、ピンク色の肌着一枚の私が映っている。編んだ髪を解くと、ちょっと癖がついてしまっていた。
少しだけ覗いた左耳には、切れ込み。それから、鎖骨の下に入った一本の線。どちらももう痛みはない。でも、念のため消毒液をかけておこう。
傷痕は……私の服を着ていれば、隠れるか。耳は……うーん、絆創膏でもつけておこう。
籠の中に入った咲夜の服と早苗の服をちらりと見て、溜め息を吐いた。
□
「戻ったか」
刹那が部屋に戻ると、同室の真名が、無事のようだなと声をかけた。
一応傷を負ってるんだが、と洗面所に向かう刹那に、どこも欠けてないなら、無事でいいじゃないかと返した。
「……誤解だった」
「ん?」
服を脱いで、傷の手当てをする刹那の零した声に、機嫌良く銃の手入れをしていた真名が手を止める。まさか、と表情が変わった。
「勘は鋭いが技能は無いし、それに、話した限りでは、そう悪い奴ではないと……」
「刹那、それは甘いぞ」
表面に騙されるな。戒めるように言う真名に言い返そうとした刹那は、その眼が色を変えているのに口を噤んだ。
「言っただろう。私には見える。奴の周りに渦巻く死霊が。憎しみと悪意に満ちた者共の姿が。見た目や言動に惑わされるな。奴は、少なくとも数百は殺しているだろう」
それも、いつまでも纏わりつかれているほど恨まれるやり方で。
「……龍宮。私にはどうにもそうは思えない。確かに彼女は……三人は殺しているが、理由あっての事だ。それに、どうやら守りたいものがあるようだし……」
「守るものがあるから大量に殺しているとも言えるな」
「それは、そうだが」
うーんとあごを押さえながらうなる刹那に、真名は不思議に思った。やけに肩入れするな、と。
「ここを出て行く時は斬る気に満ちているように見えたんだがな?」
「それは、八つ当たりというか……」
こほん、と小さく咳払いをして、斬って知った、と刹那。
「やはり斬ったか」
「少しだけだ! じゃなくて、茶々を入れるな。……真実は斬って知るとは彼女の言葉だが、実際斬り合ってわかった事も、まあ、ある。彼女がどうやらお嬢様を守ろうとして動いていたらしい事とか」
真剣な表情で語る刹那に、真名は嘆息して、それ以外には? と聞いた。
金が絡まないのに積極的に情報を集めようとする真名の本気さに、しかし、まだ何も掴めていないのだろうかと疑問に思いつつ、刹那は語る。
「彼女の剣は、彼女曰く妖怪が鍛えた物らしい。実際その力を味わったが、素で気で強化した体に傷をつけてきた」
これだ、と肩の傷を指さす刹那に、ふむ、と真名が相槌を打つ。
「ユユコという人物の護衛らしいが、今まで見ていた限り、彼女がお嬢様以外の誰かを守ろうとしていた事はない」
「ここにはいないか……嘘か。情報が足りないな」
「龍宮は何も掴めてないのか」
息を吐いて両手を上げる真名に、手当てを終えた刹那が、お手上げ? と聞き返す。
しかるべき所に聞くべきか、と零す真名が妖夢の転入を知るのは、携帯を手に取った数分後の事だった。
□
子供を斬った。このかの危険だったからだ。
向こうから仕掛けてきたとはいえ、気分の良いものではない。
首を振って、気持ちを散らす。忘れよう。いちいち気にかけていたら身が持たない。
それより、汚れてしまった制服の事を考えよう。入学は明日なのに、着ていく服が無くなってしまった。うーん……。うん、私の服を着よう。そして、しばらく晴子の所に行くのはやめよう。
目の前に畳んで置いてある早苗の服を見ながらそう決めて、それを片付ける。それから、私の服に手をかけて、突然鳴り響いた電話の音に跳ね上がる。ドッドッと脈打つ胸を押さえながら、ゆっくりと振り返る。……電話だ。まさか……まさか、晴子?
ぶすっとした晴子の顔を思い浮かべて、首を振る。棚に置かれた電話に歩み寄って、少し待ってから電話を取った。
『もしもし、妖夢ちゃん。近右衛門じゃ』
……学園長。
ほー、と息を吐くと、どうしたかな? と問いかけられ、慌ててなんでもないですと答える。
学園長の要件は、この間のセツナの事だった。伝達が上手くいってなかったとかで、直接謝罪したいのだと言う。……正直、どうでもいい。
『そうそう、最近不審者が増えていてのう。妖夢ちゃんも危ないから、外に出る時は、できるだけ誰かと一緒にいるんじゃぞ。できれば大人の人と一緒にの』
世間話にてきとうに相槌を打つ。それより、早く服を着たいのだけど。
ぴっ、とドロワーズを引っ張りながらそんな事を考えていると、気持ちが伝わったのか、明日の事へと話題が切り替わった。
明日、何時に学校へ行って、最初にどこへ行くか。何をするのかの確認。ちゃんと覚えてるのに。それでは、良い学園生活を、と言って、電話は切れた。
……着替えよう。
と電話に背を向けたところで、再び鳴り響く音。……今、良い学園生活を、なんて言って切ったのに、言い忘れかな。呆れつつ、電話を取る。
『もしも~し、妖夢?』
…………。
いやいや、と心の中で否定する。だって私、晴子に電話の番号、教えてないのに。何かの間違い……そう、間違い電話だ。あれ? でも、妖夢って……。
一瞬、早苗の服がしまってあるタンスの方を見る。今だけ別人になってしまいたかった。
『何黙ってるの、妖夢』
「……いえ」
電話越しに聞くと、大人の声にも聞こえる晴子の言葉に、短く答える。
『うん、ねえ妖夢。あなた明日から学校でしょ?』
……なぜそれを。
『そりゃあ、あんたが酔っぱらってベラベラ喋ったからよ』
「!?」
『冗談よ。で、あなた、制服の替えは持ってたかしら』
……持ってたけど、さっき駄目にしてしまった。
その事を伝えると、少しの沈黙の後、替えが欲しかったら注文なさい、と言われたので、そうしておいた。
じゃーねー、と軽い調子で電話が切られると、溜め息を吐く。ドキドキした。……さて、今度こそ服を着よう。
立ち上がって、開きっぱなしのタンスの方に歩いて行こうとして、外……いや、隣からこのかの声が聞こえてきた。ネギ……先生が、恋人を探しに日本に来たとか。
…………。
……先生、そんな目的で来てたんだ。
ネギ(もう先生はいらないだろう)の弁解の声も聞こえてきたけど、それはあまり意味をなさないだろう。
玄関のドアを開いてちらっとだけ顔を外に出すと、ちょうど目の前をこのかが通る所だった。
「あ、妖夢ちゃ……こらこら、そんなカッコで外出たらあかんよー」
別に、そんなつもりではないけど。ただ、ちょっと覗けばこのかの顔が見れるかなって思った……んでもなくて。なんとなく。
手をふりふり去って行くこのかを見送って、ふと反対を見ると、ネギとアスナがこっちを見て固まっていたので、そろそろと部屋の中に体を戻した。
久々に私の服を着て、まったりクリームソーダを飲みながら壁を見ていて、ふと、明日の準備をしようと思い立った。
通学用のカバンにノートや文房具が詰め込んであって、体操服の入った袋も用意してあって、一見準備万端に見える……けど、そういえば、キョーカショがどーのと学園長が言っていたような気がする。
書店に買いに行けと言っていたし、本なのだろうか。……店員さんに聞けばわかるか。
刀を背負って、お財布も用意して、いざ出発。学園長が、外に行く時は誰かと一緒に、と言っていたので、ドキドキしながらアスナを誘うと、二つ返事で請け負ってくれた。……アスナも、優しい。
……そういえば、最近よく関西なんたら教会というのが勝負を仕掛けてくるので、遠い場所に行こう。いつもの行動範囲から外れれば絡まれる事もない……たぶん。
結果を言えば、関西教会の人とは会えなかった。だけど、教科書を買った帰り、幽々子様に導かれて向かった先にそれ関係らしい女性がいて、当然のように襲い掛かって来た。
アスナを待たせるのも悪いので、時間をかけず斬り伏せる。電柱の近くで手持無沙汰に待っていたアスナには、「……トイレに行ったはずのに、変な所から出てくるわね」と怪しまれてしまった。
でも、服に血が付くような失敗はしてないから、それはばれなかった。……危うく返り血を浴びる所だったけど。
うーん、でもこの調子じゃ、服代だけでお財布が空になってしまう。どうにか服を汚さず斬り殺せる方法はないのだろうか。
斬撃を飛ばすとか……?
学校に行くと言うアスナに、私も学園長の所に行こうとついて行きながら、今度試そうと考えた。