E.V.A.~Eternal Victoried Angel~   作:ジェニシア珀里

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第拾伍話 悲憤慷慨

 

 

 IPEAの機体封印格納庫に深紅のエヴァがゆっくりと降ろされていく様子を、リツコとマヤは神妙な面持ちで見つめていた。

 

「まさかこんなところで、バチカン条約が……」

 

 2号機のパスはユーロが保有している。リツコたち本部職員には拒否も、他の機体に変えることすらもできない案件だった。これは、最高司令であるゲンドウに至っても同様、すなわち、どうにもできないことなのだった。

 

「3号機との引き換え条件……。最新鋭機とはいえ、起動実験もまだでしたよね……」

 

 マヤはリツコに心配そうな視線を向けて返した。あの4号機の事故以降、敬愛する先輩からいつもの笑顔がさっぱり消えていたからだ。

 これまでも、リツコが暗い影を落としている様子は幾度と目にしてきた。それでもその時は、自嘲的とはいえ微笑を浮かべたり、軽い冗談で誤魔化されてきたものだ。

 しかし今回の、2号機の封印命令を聞いてからのリツコの表情は、焦りと、葛藤と、悔しさが入り混じった険しい顔だった。

 

「搭乗者は……誰に?」

 

 マヤはおそるおそる、訊いた。エヴァは実戦兵器だ。操縦者も含めて、全てにバックアップを用意している。だからこそ、今度の「被験者」は誰になるのか……。

 

「…………」

 

 無言だった。眉を寄せながら、リツコは格納されていく2号機から目を離さなかった。結局、マヤもそれ以上の追及をすることはなかった。

 

 

 

 

 

《E.V.A.~Eternal Victoried Angel~》

 

【第拾伍話 悲憤慷慨】

【Episode.15 Tragedy】

 

 

 

 

 

「……決まってんの?」

 

 シンジは強張る顔を必死に自然体に保ちながら聞いた。

 

「そうだ。3号機の起動実験は予定通り行う」

「何が起きても対処できるように、碇のモニター付きでな」

「だ、だけどどうしてさ? 選考の理由は!?」

「バチカン条約だ。お前も知っているだろう」

「……っ!」

「現在機体のない彼女が搭乗するのが合理的だ。既に本人の了承も得ている」

「なっ……!!」

「話は以上だ。他に何かあるのか?」

 

 シンジは拳を強く握りしめた。

 

「いや……大丈夫。ありがとね、父さん」

 

 今最も言いたくない言葉を腹の底から絞り出し、すぐさま振り返って、出口に向かって歩く。掌に爪が食い込み、血が滲んでいるのがわかる。けれどシンジは、痛みを一切感じることができなかった。

 告げられた言葉に、脳の奥がチカチカと明滅する。

 嘘だ。なんで。どうして。

 疑問と不信と、そして怒りと形容すべきであろう負の感情だけが、彼を重苦しくさせながら動かしていた。

 

 

 

 ******

 

 

 

 食堂では、レイとアスカが一緒にパフェを頬張っていた。それは何の変哲もない、訓練が終わったあとの女子会と表現して相違なかった。もちろん誘ったのはアスカだったが、レイの方もかなり乗り気で、豪勢なストロベリーパフェをそれはまた美味しそうに食べていた。

 

「美味しいでしょ♪」

「ええ。前に碇君や洞木さんたちと食べたチョコレートパフェよりも、私には合ってるかもしれないわ」

 

 嬉しそうに言ったレイだが、最後の一言にアスカは思わずガクッと脱力してしまった。

 

「んもぅ、そういうのを『好き』って言うの! 遠回しに言わなくったって良いんだから」

「そう……これが、『好き』……」

「まったくアンタは……でも仕方ないか。これから少しずつ覚えてけば良いわ。それに……」

 

 アスカはパフェを一口頬張る。そして眼前にある苺を見てもう一言付け加えた。

 

「レイがそういうのも納得だけどね」

 

 その呟きに純粋な疑問を抱いたレイは、アスカに訊き返した。

 

「どういうこと?」

「レイってさ、まあアタシもそうだけど、これまで自然のものをあんまり食べてこなかったでしょ? どれだけ人工でいいものを作ろうったって、やっぱり自然には敵わないのよ」

 

 セカンドインパクトで狂った天候の中で、農産業もかなり打撃を受けたのだが、各地で懸命な保存研究が行われ、常夏である日本で、今も地域密着型の農産業は辛うじて保たれているのだ。苺も同じように、栃木を主導として更なる品種改良が加えられ、今に至る。

 

「加持さんのスイカと同じ。やっぱり陽の光を浴びた食べ物っていうのは美味しいものよ」

「自然……陽の光……」

「もちろん、私たち人間もね」

 

 レイはアスカの目を見据えた。アスカは左手で頬杖をつきながら、軽い動作でもう一口パフェを運んでいく。

 

「……使徒も?」

 

 アスカはスプーンをくわえたままレイの目を見る。

 

「この世界に生きる生命が全てそうなら、私たちを襲ってくる使徒も、自然から力をもらってるの?」

「……そうかもね」

 

 アスカは自嘲気味に微笑んだ。目の前の蒼い髪の彼女だって、薬に頼らず積極的に食事をするようになってから心なしか変わったような気がする。簡単に壊れてしまいそうな雰囲気を纏っていたのが、今ではなんだか逞しい。アルビノの奥に輝く光が、一層揺らめいている。

 

「アスカ……どうしたの?」

 

 他人のわずかな心の動きも、レイは気づけるようになってきた。人の心を持つようになって、一人の友人として、家族として過ごしている。それがアスカにはとても嬉しく、そして苦しかった。

 そう、この幸福な時間を切り裂いてしまうかもしれない残酷な真実を、彼女に突きつけなければならないことに、アスカは罪悪感を抱かずにはいられなかったのだ。

 

「……私たちには、この世界が必要なのよ」

「え……?」

「太陽に照らされて、自然の力の中で、必死にもがきながら一人一人が生きている……。レイが今感じてる苦しさも悲しさも、楽しさも嬉しさも、それって人がそれぞれにもつ、大切な感情なの。私はそれを失いたくないのよ。だから、」

「だから、犠牲になるってのかよ」

 

 レイは背後から聞こえてきたその声に、思わず振り返った。そこには、怒りと悲しみに満ちた表情の少年が立っていた。

 今の一言はレイには別人のものではないのかと錯覚するほど重く感じた。抱いたことのない類いの不安が、レイを微かに震わせた。

 

「……早かったわね」

 

 アスカも少し驚いた表情を見せながら、シンジの目を見て俯いた。本当はもう少し、自分の気持ちが整理できるまで黙っていたかったのだが、突き止められては無理もない。逃げ場がなくなったことに諦めの笑みを浮かべ、グラスに残っていた最後の苺をレイのパフェに乗せた。

 

「ごめんね、レイ。あとでちゃんと話すから。この苺は今日のお礼ね」

 

 そう言って席を立つと、シンジに一瞬の目配せをして、そのまま食堂から出て行った。

 

「碇……君?」

 

 レイにはもはや訳が分からなかった。二人とも一体どうしたというのか。いつも、あんなに明るく朗らかな二人が、今日は纏っている雰囲気が、なんだか怖かった。

 

「ごめん、綾波。あとでちゃんと説明する」

 

 アスカと全く同じ台詞を言い残し、そのままシンジも立ち去っていった。

 食堂に一人取り残されたレイは、目の前の苺を見つめながら、言いようのない恐怖に席を立てず、しばらくの間、身体の震えを止めることができなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「どうしてなんだよ」

 

 廊下でアスカに追いついたシンジは、怒りを隠さずに彼女へ問いかけた。その非難めいた口調に、アスカは心が痛むのを抑えられなかった。

 

「……起動実験のためには、誰かが3号機に乗らなきゃいけない。今回は私が選ばれたの。光栄よ、こんな重要な実験に起用してもらえて」

「そういう話じゃないだろ!?」

 

 シンジは啖呵を切った。バルディエルが寄生していることはアスカも知っているはずだ。だったらなぜ、何も言わず(・・・・・)、自ら犠牲になることを承知した? シンジには訳が分からなかった。

 アスカは振り返ると、首と目線を一度振った。シンジはその動きで監視カメラの存在にやっと気づき、拳を握り締めて言葉を飲み込んだ。

 彼女はまだ、冷静だった。

 

「とりあえず、コーヒーでも飲みながら。ね?」

 

 その寂しそうな笑顔すらも今のシンジには辛くて、悔しくて目を伏せたのだった。

 

 

 

 リツコの研究室へと着いた二人は、リツコも心配するほど暗い影を落としていた。もちろん彼女も、二人がなぜこんな状況なのかは理解していた。というより、この状況を防げなかったことに、リツコ自身も落胆していたのである。

 リツコからコーヒーを差し出されたものの、無言のまま、数分が経った。その間に偶然か、加持も神妙な心待ちで研究室へとやって来ていた。

 

「……私が乗らなかったら、シンジが乗ってたでしょ」

 

 静寂を裂いたのはアスカだった。シンジはアスカの目を見据えた。

 

「……こんなこと、他の人にやらせたくなんかないだろ。ましてや、綾波やアスカに……」

 

 シンジは力なく答えた。

 

「でもよく考えて。シンジが今回のことで戦闘不能になったら、ゼルエルはどうするの?」

「だから、3号機から帰還するための策を考えてるんじゃないか……!」

「前のように、同じように事が進むと思ってるの?」

 

 シンジは息を吞む。アスカは悔しさに手を強く握る。

 

「前と同じだったらどれほど良いか……そんなの私も分かってる。でも今回、碇司令が遠くで状況をモニターしてる。変な動きをしたらすぐにこの場所から追放、人為的なエラーも起こせないの、わかるでしょ。それにラミエルやサハクィエル見てたら、絶対にこれからも一筋縄じゃいかない。ましてやパワーアップしたゼルエルとの戦いに、初号機が、シンジが無傷で残っていなきゃ何もかもが終わる。私たちがこの世界に還ってきたのは、この世界を救うためでしょ……?」

 

 アスカは諭すようにシンジに語りかけた。事実、彼女の言っていることは一番合理的であるし、サードインパクトを防ぐために何が大事なのか考えたとき、簡単に導かれる結論だった。

 だがシンジは絶対に認めることができなかった。ゼルエルだけじゃない、バルディエルだって変わっている可能性は大だ。もしも、トウジのように左足を失うのみならず、「死」という最悪の結果になったとき、自分はどうすれば良い?

 アスカを喪うこと、それはこの世界で生きる意義を失うことと同義だからだった。いくら前史を、世界の理を知っているからといって、14歳の少年の心にはあまりにもショックな事実だった。

 シンジは悔しくて、自分の無力さにただ悔しくて、手のひらで顔面を力いっぱいに押さえて叫んだ。

 

「だからって……なんで君が犠牲にならなきゃいけないのさ……!」

 

 しかしアスカにしてみても同じだった。シンジを喪いたくない、その気持ちが彼女を強く動かし、3号機への搭乗を決断させていた。

 シンジが無茶をすることも、感情を抑えきれずに苦しむことも、アスカはよく知っている。だからこそシンジの叫びはアスカにも、大きく響いていた。

 

「リツコさんも加持さんもなんか言ってくださいよ……なんとかできないんですか!? 起動前に殲滅する方法とか!」

「……僅かでも、可能性の高い方法で挑む。さっき調べたんだが、碇司令は松代のMAGI2号を自分のコントロール下に置くつもりらしい」

「そんな……小細工ができないってことですか……?」

「……そうだ」

 

 加持が眉を寄せながら呟いた。リツコも続けた。

 

「バチカン条約によって2号機が封印された以上、アスカの乗れる機体は3号機以外にないの。客観的に見ても、司令の方針を打ち崩すのは……」

「そんな……」

 

 シンジは悔しさと怒りに打ち震え、俯いた。

 

「……シンジ」

「……何だよ……」

「……アンタって、本当にバカよね」

「……は?」

 

 シンジが顔を上げるとそこには、またしても笑顔のアスカがいた。

 

「知ってるわよ。世界の理なんか、本当はどうでも良いってこと」

 

 これには加持とリツコが少しばかり反応した。しかし二人も、何も言うことはできなかった。

 

「それよりも自分の大事なものを絶対に手放そうとしないで、我武者羅に駆け抜けていく。その正義と優しさは、はっきり言って大バカよ」

「……」

「でも……私はそういうアンタが好き。それが『碇シンジ』っていう、惣流・アスカ・ラングレーにとって一番輝いて見える存在なの」

 

 -だから、絶対に死んだりなんかしない。

 

「……え……?」

「相手がいくら進化してようが、こちとら百戦錬磨のアスカ様よ? 鈴原は左足失ったけど、アタシは右腕の骨折ぐらいで済ましてやるわよ」

 

 シンジにはやっぱり分からなかった。どうしてそんなに笑っていられるのか、と。

 

「それに、ヤツには個人的に復讐したいのよ。アンタを傷つけたバルディエルには、アタシが一矢報いたいの」

 

 そう、アスカは以前より決意していたのだ。これまでの使徒や自分だけの干渉に留まったアラエルはともかく、シンジやレイを傷つけたバルディエル以降の4体に対して、妥協するつもりなど一切なかった。

 前史と同じ道なんか、絶対に辿ってやるもんか。それがアスカの覚悟だった。

 

「そんな不安そうな顔しない。アンタを一人残して死ねるかっつーの。当日は加持さんが松代に来て。そうすれば、後処理や職員保護も上手く動けると思う。リツコはネルフを……頼むわよ」

 

 リツコはハッとした。自分と、そしてミサトが本部に留まれば、少なくとも司令の冷酷非道な命令は防げるかもしれない。そうすればシンジやレイのみならず、オペレーターたち通常職員のプレッシャーも軽減される。

 加持もその意図を汲み、そして軽く微笑んだ。

 

「まったく、人使いが荒いな、アスカは」

「伊達に大尉なんかやってないわよ。生き残るためには、使えるものは使わないと」

 

 そしてアスカは、シンジに向き直って言った。

 

「私は、私たちの未来のために闘う。この世界を、守るんでしょ?」

 

 シンジはその微笑みに、言葉を返すことができなかった。

 

 

 

 ******

 

 

 

「……3号機に?」

 

 その夜、アスカとシンジはレイの居室を訪ね、バルディエルのことを打ち明けた。

 

「そう。来週の起動実験でシンクロした瞬間に、ヤツは起動する。そのままネルフに向かうはずだから、その途中をシンジとレイで迎え撃つ作戦よ」

「でも、そうしたらアスカは……」

「ええ、おそらく。エヴァに侵食されて、コントロールを乗っ取られると思うわ。でも安心して、それだけだったら死ぬことはないはずよ」

 

 シンジは顔を背けた。レイは引っ張られるように顔を向けると、眉をひそめた。

 アスカがやろうとしていることがどれだけ危険なことなのか、それはレイ自身もすぐに理解できた。シンジの神妙な顔を見れば尚更だ。

 それでもレイは、おそらくその危険さえもわかっているのであろうアスカに返せる言葉がなく、震えながら膝の上に置いていた拳を握り込んだ。

 

「そいつを倒すには、司令を欺きながらやり通すにはこれしかないの。迷惑かけるけど、やってちょうだい」

 

 外は今日も静かだった。ミサトがいないところで、こっそりと話すために、レイの部屋だけに集まって、ひたすら小声で話していた。

 

「大丈夫。レイ、アンタならできる。私が保証する」

 

 その真剣な目に、レイは知った。

 アスカだって、碇君だって必死なのだ、と。戦いを終えたら、それこそなんにもなかったように楽しそうな顔で過ごしているけれど、本当は一つ一つの戦いを、全力で生き抜こうとしている二人に、自分は何ができる?

 碇君だって、本当は嫌なのだろう。アスカを危険な目に遭わせたくなんかないんだ。

 でも。

 

『勝たなきゃ、……全部終わるもん』

 

 第八の使徒との戦いの前、アスカが小さな声で呟いていたのをレイは思い出した。

 勝つために、全てを守る覚悟が、アスカにはあるのだと悟った。

 レイは、一先ず覚悟を決めた。

 

「……どうすれば、いいの?」

「……ありがとう。3号機は自立状態の松代から東御経由で本部に向かうと思う。戦線は野辺山で展開できるよう、リツコに話してあるわ」

「時間は、夕方ごろ?」

「そうね、近接戦闘になると思うんだけど、だいぶ暗くなってるはずだから、いつもよりも身動きは取れないから覚悟しておいて」

「……わかったわ」

「相手は侵食型。いざとなったら、アタシの腕の一本や二本は気にしなくていいから、絶対に3号機の殲滅を優先すること。いいわね?」

「……わかったわ。でもアスカ」

 

 レイは、最後にアスカの手を掴んで言った。

 

「絶対に、死なないで……」

 

 

 

 ******

 

 

 

 遠足や修学旅行の日が早く来ないかと待ちわびる子どもみたいに、楽しみにしていることがある日が来るまでは、いつもよりも時間がとても長く感じるものである。

 世界が自分の思い通りに動いてくれたらどんなに楽しいかと、誰もが思うだろう。でも、時の流れはそんな願いをことごとく裏切ってゆくのだと、シンジはこの一週間で痛いほど実感した。

 起動実験の日が永遠に来なければいいのに。絶対に叶いっこない願望を心に何度も抱いた。けれどそう思えば思うほど、その日は着実に、あっという間にやってきてしまったのだ。

 準備のためにミサトが本部待機となり、家を留守にしたのが三日前。今回は加持も作戦に参加するために不在だった。一日一回マヤやマコトたちが様子を見に来たりはしたが、保護者がいないという環境にアスカは思いっきり羽を伸ばしていた。レイと何時間もゲームをして盛り上がってみたり、コンビニに売っているスイーツやお菓子を驚くほど買ってきて宴会まがいのことをしてみたり。

 そのたびにシンジはその破天荒ぶりを笑いながら見つめたり、諫めたり、時には自分も参加して楽しんだりした。

 でも、やっぱり不安を拭うことはできなかった。ふと気を緩めると、脳裏に、かつて三号機をめちゃくちゃにした時の光景がよみがえってきてしまうのだ。

 もし、自分のこの手で、アスカを傷つけることになってしまったら。一番の恐怖が、シンジの肺を突いていた。

 そんな、あまりに早く感じた一週間を経て、起動実験の当日の朝がやってきた。

 

「じゃあ、行ってくるわね」

 

 アスカはただ一言、まるでヒカリと街に買い物にでも出かけてくるかのような普通の表情で家を後にした。

 

「行ってらっしゃい」

 

 レイは手を振って見送った。これが、無事では済まないであろう、起動実験に行く日の朝の会話だとは、端から見れば絶対に考えられない。

 でも、こうでもしなければ気持ちを保ってられなかったのかもしれない。シンジも、不安も混じった笑顔ではあったが、いつの間にか笑って手を振っていた。

 

「……綾波」

「……わかってるわ。……絶対に……助ける」

 

 その言葉だけで、レイの視線が、明るい栗色のロングヘア―の彼女の後ろ姿を捉えたまま離していないことをシンジは知った。震えるようなレイの声が、これから始まるであろう、厳しい戦いに対する不安と決意を物語っていた。

 

「うん。……助ける」

 

 シンジも、もう一度拳を握り込んだ。

 

 

 

 

 

「それにしても妙よね、加持のヤツが指揮を買って出るなんて」

 

 ミサトのその一言に、リツコは思わずキーボードに滑らせていた手を止めた。

 

「作戦部長の私は本部で待機しろだなんて、せっかくの起動実験なのに変な話だと思わない?」

「……4号機の件があったからじゃない? 司令もいろいろと張り詰めるものがあるのよ、たぶん」

「んー、そんなものかしら。あのバカに責任者が務まるとは到底思えないんだけど」

「あら、嫉妬? それともリョウちゃんのことが心配でたまらない?」

「べっ……別にそんなんじゃないわよ……!」

 

 リツコはフフッと微笑んで、再びキーボードを叩き始めた。

 NERVでは本来の加持の役職は首席監察官である。調整役ともいえる、いわゆる中間管理職の立場なのだ。ゆえに、現場責任者を任されることは本当ならあり得ない話なのだ。

 しかし今回に至っては事態が変則。バルディエルの3号機寄生による松代での事故被害を極限まで抑えるため、ミサトに代わり、裏から手を回すために加持がその役目に名乗り出たのだ。

 この申告にリツコは関わっていない。一度ゲンドウを裏切った経緯がある以上、提言をして怪しまれることを避けたのだ。結果、少し怪訝に思われたものの特に疑われることもなく、起動実験に加持が責任者として向かうことが認められた。

 アスカの思惑通りに、事は全て進んでいた。

 だが。

 

「大丈夫よ、何があっても松代はちゃんとやってくれるわ。……松代はね」

 

 リツコは声のトーンを落として言った。ミサトも、その言葉に思わず眉をひそめた。

 

「……そうよね、この前加持が言ってた使徒の話が本当なら、全て辻褄が合うもの。ただじゃすまないかも、ってね」

「……そうね」

 

 リツコは別段驚くこともなく、ミサトの真剣な呟きにただ頷いた。口に出さなかっただけで、今回のバルディエルの一件をミサトも周知していることはリツコも知っていた。知っていたからこそ、彼女も責任者交代をすんなりと受け入れたのだと、リツコは頭の隅で改めて納得する。

 彼女のその懸念は、あと一時間もしないうちに現実となる。結局のところ、バルディエルが3号機へ侵食することに変わりがないだろうという事実に、リツコはやはり悔しさを隠せない。

 本音を言えばリツコも、加持も、そして恐らくミサトも、3号機には決して誰も乗せたくなどない。報告書を捏造して3号機を破棄することも、もちろん考えた。だが無理なのだ。3号機の件はバチカン条約と同様に、各国のエゴが絡む国際案件。NERV本部と他国・他機関との関係の悪さは言わずと知れている。そんな中でアメリカから輸送されてきた最新兵器を、リツコを含むNERV職員の一声で破棄することなどできなかったのだ。

 そんな中でアスカは3号機に乗ると言いだした。過去を知るアスカがシンジの制止さえも振り切って3号機に搭乗する。それは彼女の決意を絶対に変えられないという一番の証明だ。しかもこれがNERVにとっての最適解となってしまっているのだ。

 全ては、パイロットである3人に託された。事情を知っていながら、今回も大人は力になってやれないのか。そう思うと悲しくて堪らなかった。

 

 ピピッ-

 

 ポケットにしまっていたスマートフォンが微かに鳴った。一応ミサトに気づかれないよう、リツコは画面を開く。

 

『まもなく始める。あとのことは任せた。 加持』

 

 絶望へのカウントダウンが、鮮明に現れ始めていた。

 

 

 

 ******

 

 

 

『送信完了』の文字を確認した後、加持は煙草の煙を吐きながら青い空を見上げた。

 計画は驚くほどにスムーズに進んでいた。完全にアスカのシナリオだ。誰一人、その案を捨することができなかった。シンジすら、折れた。それだけ、彼女の決意は固かった。

 加持は、少しだけ自己嫌悪に陥っていることを自覚した。前史での自分は、真実を追い求めて死んだ。シンジたちの真実を聞いていなければ、この世界でも自分は破滅へと進んでいただろう。

 真実を知るためなら死も厭わない。それだけ加持の決意も固かったのだ。だがそれは、周囲の心配や哀しみを無視した勝手な自己満足だ。加持はその事を悔やんでいた。

 ただ、それよりも悔しいのは、アスカの優しさだった。アスカはその心配や哀しみ、そして今回の行動が自己満足だと言うことすらも理解した上で、シンジを全力で諭し、起動実験と3号機を自分たちに託したのだ。

 アスカが真実も、本心も、全てを曝け出している以上、止めたくとも止める術を加持たちは持てなかった。それがアスカの、心からの優しさだと理解しているから、尚更だ。

 

 遠くに見える漆黒の機体を見ながらそんなことを思っていたとき、不意に携帯が震えた。アスカからの守秘回線だった。加持はコントロールルームから少し距離を取ろうと、歩きながら端末を耳に当てた。

 

『もしもし、加持さん?』

「よっ、珍しいな? そっちから連絡してくるとは」

『フフッ、こっちの世界じゃやっぱり珍しいんだ?』

「大体が俺からの業務連絡だったろ? でもそうか、確かアスカたちの世界では、慕われてたんだったかな」

 

 以前加持は、シンジからそんな話を聞いたことがあった。その時はすでにアスカも前の世界の人間だということを知っていたため、加持は思いっきりからかい返してやったものだが。

 

『慕われてた、なんてもんじゃないわ。猛アタックしてたんだから』

「ハハッ、そうかそうか」

『それなのに加持さんはミサトに未練ばっかりで。ホーント、どれだけ悔しかったことか』

 

 電話の奥から、プラグスーツの空気の抜ける音が聞こえてきた。ミサトの話題については意図的にスルーをかまして、加持は話を続けた。

 

「それだけ好かれてたってことは、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな」

『そうよ。今だってアタシは信頼してる。……ずっと』

 

 急に、アスカの声のトーンが下がった。加持は立ち止まり、耳元の端末へ視線をずらした。

 

「……どうかしたのか?」

 

 加持は尋ねた。アスカが突然に見せた感情に、加持が気づかないはずがなかった。

 

『……3号機が起動したら、一旦隠れるんでしょ? だから、言っておきたかったことを、ね』

 

 この起動実験で松代は大被害を被る。職員の安全は確保するように仕組んであるのだが、責任者として処分を下されるように加持は話を持って行く予定なのだ。ただでさえ目をつけられている加持である、判断をゲンドウらに敢えて委ねることで、自身を、そしてシンジやアスカを疑われないようにさせる回避策である。

 すなわち、どう転んでも監視がつくであろう加持が、チルドレンやNERV職員に接触することは極端に減るということ。アスカはそれ故に、加持と話をしたくて電話をかけてきたらしい。

 ただ、次に聞こえた「話したかったこと」に、加持は戸惑った。

 

『前の世界で勝手に殺されたの、ショックだった。どうして死ぬのが分かってたのに黙ってたのか、それが分からなくて、許せなかった』

 

 思えばこの「アスカ」から、俺に対しては、本音を語られたことがなかったなと加持は思った。初対面の時からどこか「自分自身」と闘い続けているようだったし、逆行してきた彼女に関しても、ひたすら世界とシンジのことだけを見ていた。

 加持は黙って、アスカの次の言葉を待った。

 

『……でもね、最後にミサトに遺したICチップのことを知って、アタシなんだか納得しちゃったの。加持さんが命を賭して警告してくれたのが、ミサトを動かして、シンジを救ってくれた』

「買い被りすぎだ。多分俺のことだ、ただの自己満足でのことだろうさ」

 

 咄嗟に反論していた。自分はアスカとは違う、自分のことしか考えていないのだから、と。

 

『ううん。結果的にっていうのはそうかもしれないけど、もっと大事なことよ』

 

 しかしアスカは否定する。その後に続いた言葉は、どれだけ加持の心に優しく響いただろうか。

 

『私は、この世界に一番真摯に向き合ってたのは、加持さんだったと思ってる。隠された真相に向かって、全力で闘ってた。そのためには、正体を悟られないことも必要だったんでしょ?』

「……なんでもお見通しか。参ったよ」

『でもその覚悟は、普通の人じゃできない。加持さんだからできたこと。だから今でも、私は憧れてるの』

 

 電話の奥で、ゴンドラの揺れる音が聞こえた。そろそろ、通話も切らねばならなくなった。アスカは高らかな声に切り替えて加持に言った。

 

『そろそろ搭乗だから切るわ。あとのこと、よろしくね?』

「アスカ」

 

 思わず引き止めていた。彼女の言いたかったこと、それが「感謝」であることに、加持はとっくに気がついている。

 だからこそ、まだ、大事なことを言えていない。

 

「シンジ君は……」

 

 しかし、もう一度加持は逡巡した。

 シンジ君は絶対に諦めたりしないぞ、と言うつもりだった。だが、止める道理などない。もはや引き返せと諭すつもりもない。そんなことを言う意味は、そこにはなかった。

 ならば、と、加持は口を開く。

 

「彼の信念は、アスカも知ってるはずだろう。絶対に、この世界を救うって」

 

 そして、深く、息をして、一言、尋ねた。

 

「アスカ、お前の信念は何だ?」

 

 

 

『……私の信念は、』

 

 -未来永劫、アイツの信念の隣で笑い続けることよ。

 

 

 

 ******

 

 

 

 加持は2本目の煙草を取り出した。冷静な状態で起動実験に臨むには、もう少しだけ時間が欲しかった。

 そんな加持に、背後から太い声がかけられた。

 

「どうした、気難しい顔をして?」

「高雄さん……。いえ、なんでもないですよ」

 

 その声宜しく、体格も加持に比べて一回り大きい彼は、いつもより元気のない加持を怪訝そうに見た。しかしすぐに笑みを浮かべて、加持の隣に立って手すりに寄りかかった。

 

「これからが本当の勝負なんだろ? もっとシャキッとしろよ。こっちの準備はもう整ってるぜ」

 

 不敵な笑みを浮かべた彼に、加持も笑み返した。

 

「ありがとうございます。すみません、迷惑かけてしまって」

「なぁに、気にすることないさ。確かに目ぇつけられるかも知れねぇけど、そこは上手くやってくれてるんだろ?」

「まぁ、できる限りのことはやり尽くします。その先は、探り探りになると思いますけども」

 

 加持の眺める黒い機体が、微かに揺らいだ。

 

 

 




☆あとがき

本当であれば「シン・エヴァ」が公開されていたであろう今日。
そんな日にこの章を投稿したのは吉なのか凶なのか。(苦笑)
前章までとの感情の振れ幅や下落が変で、現実的に展開としておかしいかもしれませんがごめんなさい、見逃してください。
それでと言ったらなんですが、次の更新がいつになるか分かりません。
というのも、一番辛い部分を書いていて、実は今3回くらい書き直してます。
8年待ってとは言いません。でも待っててください。
全身全霊、込めて書き切ります。
「希望は残っているよ、どんな時にもね」って言葉を信じて。
(今辛かったら第三部(Q相当)の時どうなるんでしょう……?汗)

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