E.V.A.~Eternal Victoried Angel~ 作:ジェニシア珀里
「彼女の居住場所をかい?」
日も落ち始めて、今日はこのまま解散しようかという話になり、ピアノを弾くのを終わりにした後、黒い綾波の部屋についての相談をカヲルにした。
「うん。あのプレハブ小屋にいさせたくはないんだ。綾波本人は良いかもしれないけど、彼女のためにはならない」
「……本当に、変わらないな君は」
カヲルはニコリと微笑んだ。
「わかったよ、部屋のことは任せて。僕の居住区画には、まだ少し余裕があるからね」
「ありがとう。……あとさ、カヲル君」
「なんだい、シンジ君」
シンジは、真剣な目でカヲルを見つめた。
「今度は必ず、君を助ける。僕は君にも、生きててもらわなきゃ困るんだ」
タブリスと呼ばれた、最後の使徒。
普通であれば敵対する存在で、殲滅しなければならない。
だがもちろん、シンジはそんな風には思わない。
大切な友人の1人なのだ。過ごした時間は短くても、シンジは彼のいる世界の方が、何倍も輝いた世界だと、思っている。
「生と死が等価値だなんて、言わせないから」
カヲルは困ったように、でもどこか嬉しそうに、微笑んだ。
【第弐拾参話 魂の器】
【Episode:23 PRODUCTIONMODEL】
ここで出る食事はオールペーストでとても人工的であり、WILLEで食べたものと比べると、なにか違う感じがするのはたぶん気のせいではないだろう。それでも、もしかしたら食べられるものがあるだけマシなのかもしれない。
そんな朝食を、部屋で時間どおりに食べながら、シンジは黒い綾波のことについて考えを巡らせていた。
昨日の別れぎわにカヲルに頼んでおいた居住場所についてだが、そこで聞いた話がこれまたどうしてシンジの常識外れな内容だったからだ。
「綾波の件だけど、この事は父さんには……」
「心配いらないよ、司令は彼女に対しての興味はないからね」
「え……そなの?」
シンジはそれを聞いて拍子抜けした。綾波レイのクローンは今でも駒の一つとして利用されているものと当然思っていたからである。
「そう。彼女はオルタナティヴ・アヤナミシリーズの4番体。彼女にはリリスの魂は宿っていない」
「オルタナティヴ……か。代わりの、ってことだよね」
「ああ。君が破壊したんだろう? 元のシリーズは」
「う、うん……リツコさんと一緒に」
少しだけ、心が痛んだ。リツコと共に彼女たちを破壊した、あの時の覚悟と涙を思い出したからだ。
しかし、同時に一つ浮かんだ疑問に、シンジは困惑した。
「……宿っていない? 魂が?」
カヲルは、小さく頷いた。
「……ってことは、まだ?」
「だろうね。君と仲が深い彼女は、初号機に残されている」
アスカの言ったとおりだ、とシンジは思った。レイはまだ、あの中に息づいている。なぜ初号機からサルベージされなかったのかは謎だが、それでも、レイが完全に消えてしまった訳ではないことに、安堵する。
「あ……でも、そうしたらあの綾波は? 魂はいったい……」
「それこそだよ」
カヲルはシンジに被せるように言った。
「魂がなければリリンは肉体を制御できない。けれどその反対は違うってことに、みな気づかなかったのさ」
……まさか、とシンジは息を呑んだ。そしてそれは、見事に的中していた。
「君の知る綾波レイは魂を2つ持っていた。前の世界でも、今回もね」
そう考えるのが自然じゃないかい?と言わんばかりにカヲルは微笑んだ。
「そうでなければ、バルディエルが『彼女』と共生できないだろ?」
シンジの脳裏に、眼帯を付けたアスカの姿が浮かび上がった。
そうなると、このNERVにいる黒い綾波は、文字通り「道具」のためだけに生きているわけで。
あれから一晩、いろいろと考えてはみたが、シンジはなんだかいたたまれない気持ちになってしまった。
「『命令』でしか生きられない……」
何せ、命令がないと服さえ着ないのだ。羞恥だとか、好意とかといった感情すら知らないのが綾波レイという少女なのは知っていたが、こと彼女にいたってはそれよりももっと、根底から何も知らないように感じた。
父は一体何を企んでいるのか。たった一つの目的のために、今度はあの13号機を使うつもりなのだろうが、シンジの経験も想像すらも超えた今、その真意が分からない。
「……やっぱり、もっと聞かなきゃ」
彼ならば何か知っているかもしれない。世界の逆行者の一人である彼ならば。
シンジは食べ終わったトレーを受け取り口に戻すと、新しいワイシャツに着替え、ピアノのある広場に向かった。
******
楽譜もなしに即興の連弾をしている姿を誰かが見たら、思わず拍手を送りたくなるだろう。しかもその演奏が、ピアノ経験のない少年であるなら尚更だ。
しかし当のシンジはそんなことは一切関係なしに、カヲルとのデュエットに楽しく集中していた。
「どうしたらもっと上手く弾けるかなあ」
「上手く弾く必要はないよ。ただ気持ちのいい音を出せばいい」
カヲルは高音域の主旋律を弾いているだけあって音の変化が激しい。それでもポンと弾む音が清らかに鼓膜を刺激してくるその指さばきに、シンジは見とれ、聞き惚れてしまう。
「気持ちのいい音、かあ……どうやったら出せるんだろ」
「反復練習さ。同じ事を繰り返して、少しずつ自分の正解に近づく。自分が納得できるまでね」
自分の低音域とカヲルの高音域が、ピッタリ意識がかち合い、次第に高い方へと上がっていく。
この感じ、ダ・カーポだ。
「良いね。音が楽しいよ」
主旋律をもう一度奏でていき、ここでコーダ。
カヲルも穏やかな旋律を捨て、終曲へと走る。
そして、最後の和音を二人で叩く。綺麗に決まった。
「……うん。二人ってすごいや」
反響する音が完全に消え去ってから、シンジは小さく呟いた。
「第13号機は、ダブルエントリーした両者の息を合わせなければいけない。結界の張られているセントラルドグマに侵入するためには、どうしてもね」
カヲルはピアノの天板にそっと触れながら言う。
「でも大丈夫さ。これだけリズムが合っていれば」
カヲルから聞いた父の次なる計画は、セントラルドグマにある2本の槍だという。今のセントラルドグマはリリスの張った結界、いわゆる「L結界」によって完全に封印されてしまっているのだとか。
自身が原因となったニアサードインパクト。その後、ゲンドウとSEELEによって画策されたその続きの儀式を、リリスへの接触・解放で引き起こしたサードインパクト。そのさらに次のステージ、フォースインパクト。その発動を、NERVとSEELEは目論んでいるらしい。
そもそも、これまでのセカンドとサードの、人類補完計画での位置づけは大きく違うものとなっていた。カヲル曰く、セカンドインパクトで海の浄化、サードインパクトで大地の浄化、そして前史ではなかった、次なるフォースインパクトで魂の浄化。
今度のインパクトは、そのフォースを実行するために2本の槍を回収するというものらしい。
「約束の時はすぐに来る。僕にとってはようやくだけどね」
カヲルは、その計画を利用しようと提案した。
ドグマにあるのは、ロンギヌスの槍とカシウスの槍。カシウスの槍は初めて聞く名前だったが、ロンギヌス同様に神の力を宿す槍であることは同じらしい。
この二つを用いることで、世界を書き換える。絶望のロンギヌスと希望のカシウス、2本が揃えば世界を書き換えることも、人類補完計画を起こさない世界も実現できるというわけだ。
タイミングさえ、ちゃんと掴めば。
ただ……。
「……」
「うん? どうかしたかい?」
シンジは少し、胸につかえていることがあった。
それを振り払うように、目を閉じて首を振った。
「ううん。なんでもない。もう1回やろう?」
紅く染まった鋼鉄の壁際から、2人を見る影があることには、シンジはまだ、気づけなかった。
******
翌日、シンジはカヲルと共に黒い綾波の新居へと荷物を移動させた。といっても、今度の彼女の荷物は段ボールすら必要ない程の量である。
今の荒廃したこの建物に、まともなものがある保証はないとカヲルは言うが、それでもやはり、ちゃんとした服とかを用意してあげたいところではある。
「……?」
寄るところがあると言ったカヲルと一旦別れてから歩くこと数分。彼女のことを考えていたシンジは、突然に視線を感じて立ち止まった。
何やら、気配が不穏だった。昨日まではなかった、凍てつくような視線。しかし、振り返ってもそこには埃ひとつない廊下が長く続いているだけで、歩くのは自分一人である。聞こえていた自分の足音の反響すらも、自分が立ち止まったことですぐに消えてしまう。
「……気のせいかな?」
そう思いながら、再び歩き始めた。
この世界にやって来てから、感覚が敏感になっているのは事実である。悲劇を免れるために意識している節もあるし、かつてのサードインパクトのときに初号機と共に神化した感覚が残っているためか、無意識下でも何となくそういった気配には敏いのだ。
気配だけではなく、音や光に対してもそうだった。だからこそ。
気のせいではないということに気づくのは、すぐだった。
「────!?」
後ろで、何かが落ちる音がした。
そして感じていた気配が、殺気立つものに変わっていく。
少なくとも、カヲルではないことは確かだ。なら一体誰だ。いったい誰に狙われている?
シンジは息を殺しながら音のした方を見ながら少しずつ近づいていく。音のした方は、通路を曲がった先だ。
聞き間違いでなければ、あれは薬莢の音だ。カラカラと転がる金属の、反響が際立つ筒状の物体。
けど、どうしてそんなものが? 疑問を抱えながら、シンジは曲がり角を慎重に覗く。
「……ん」
やはり、薬莢だ。ホコリ1つもない廊下に、転がっていた。
静かに近づいて、それを手に取る。
「……?」
薬莢に鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。
「……夕陽の香り?」
次の瞬間。
頭上からガコン──!という耳をつんざく音がして、刹那、シンジは腕を捻り取られて組み伏せられてしまった。
「がッ……──!?」
咄嗟に振りほどこうとしたが、すぐにシンジは静止していた。
後頭に、重く黒い鉄が押し付けられているのを感じたためだ。
ただ、シンジは意外にも冷静だった。完全に背後を取られる格好になったこともそうだが、それ以上に見事すぎる相手の身のこなしに、素直に感服したのだ。
「……僕もまだまだってことか。完敗だよ」
体躯的には高校生、いや、自分と同じで中学生くらいだろうか。そこから推測するに、チルドレンかもしれない人物だろう。
「…………」
背後のソルジャーは答えず、無言のまま撃鉄を引いた。
さすがにマズいと思ったシンジは、そのままの体勢で訴える。
「待ってよ。僕はここの対抗勢力から拉致されてきたんだ、NERVの人間なら知ってるだろ」
この完全自動化された施設で、NERV以外の人間が入り込めることはおそらくない。それ故の結論。
「…………」
「……君が誰なのかは知らないけど、少なくとも僕を殺すメリットはないんじゃないの?」
ソルジャーは、銃口をさらに押し付ける。
「それとも……もしかして試してる? 僕のこと」
一瞬だけ、捻られている手が震えた。その一瞬の隙をシンジはつき、動いた。
いつだったか、アスカに教えてもらった戦術だ。神経を研ぎ澄ませ、精確なタイミングで精確な場所を打破する。
一対一であれば、完全に抑えつけていても関係なく、人間誰しも隙ができる。その隙「だけ」は絶対に逃さないのが大事だと。
銃口を頭から逸らし、床を右脚で蹴り上げると同時に上体を捻り込んで相手の拳銃を持つ手を掴む。そのままさらに上体を捻り、拳銃を奪い取って素早く構える。
実に2秒。あっという間に攻守は逆転する。
アスカに教わった事がここで役に立った。
そう思った瞬間──
「ふーん?」
「──っ!?」
シンジは自分の目を疑った。
そこには、自分のよく知った姿が。
大好きな彼女と同じ姿があったのだ。
「伊達にナナヒカリ、ってわけじゃなさそうね。第13号機パイロットα?」
******
艦橋を歩くアスカに向けられる視線は、決して良いものではない。敵視されていないだけマシではあるが、それでもリリンと乖離した存在であるアスカを、WILLE職員のほとんどはどこか畏れて、あるいは哀しみの目で見てしまっている。けれど、それをアスカは咎めなかった。
アスカは14年間、眠っていた。その間は「彼女」が、自身の記憶と自らの信念に従って、行動していた。
14年。その年月は本当に長く、遠かった。本来なら自分だって28歳、アラサーと呼ばれていてもおかしくはない。しかし、惣流アスカにとって、この身体と心は未だに14歳で、簡単に変わることはない。
『死ぬときのことなんか、僕は考えないよ』
しかしシンジはまだ、諦めていなかった。絶対にアスカと帰るんだという決意を、変えていない。その姿は、アスカにはあまりにも眩しすぎた。
だから、DSSチョーカーを渡したのだ。
命をかけてほしいなどとは微塵も思ってはいない。シンジを死に近づけたいなどと、アスカが思うわけがないのだから。しかし、シンジにチョーカーを渡すことを一番初めに提案し、その役目を買って出たのは、実は他ならぬアスカだった。
シンジに装着させることを本心では望まなかったミサトやリツコも、シンジを憎む人間の多いWILLEのトップという立場上、何も言うことはできなかった。
これは、アスカのエゴだ。
WILLEにはシンジを処したい人間が多いが、結局のところ殺されることはないだろうと思う。それは偏に、心の底ではシンジを守りたいと願うミサトやリツコが、人類の意志を、希望を信じてWILLEを率いているからだ。
NERV側にしても、フォースのトリガーとなりうるシンジを、みすみす使い捨てることはしないはずだ。それに碇ゲンドウは、結局はシンジの父親だ。
だが、自分はシンジとは違う。元を辿れば替えがきくロット型。おまけに身体にはバルディエルが潜んでいる。シンジよりも、確実に死に近い存在と成り果てた。だからといって簡単に死ぬつもりはないが、やはりアスカは不安なのだ。
もし世界を取り戻したとして、その先で自分が、アスカがそこに生きられるのか。純粋に笑って、シンジの隣に立てるのか。それが不安だった。
だから、アスカはチョーカーを渡した。碇シンジと式波アスカが、この世界で一緒に立っている、その姿を見たい、信じたい、感じていたい、ただそれだけのためだ。
「まぁ結果的に、NERVに攫われちゃったから結果オーライなのかもだけどね……」
眼前に、コア化しているかつての紫鬼が現れた。いまはAAAヴンダーのメインエンジンに転用されている。
「もうすぐ、碇司令があの切り札を出してくる。今度こそ絶対に、決着をつける」
目の前の巨体が動くことはない。しかし、紛う事なき生命の鼓動に、アスカは語りかける。
「……レイ」
アスカは、その機体に残っていると信じる蒼髪の少女に向けて、静かに叫んだ。
「待ってて。戦い終わったらその時は、アンタも必ず取り戻すから」
言い終わると、アスカは再び襲ってきた頭痛に一瞬よろめいた。
「……ぐ……っ」
眼帯を押さえるように左目をかばい、手すりを掴む右手に、力を込める。
「……アンタたちの生きていく世界は、絶対に守る」
痛みが弱まったところで左目を押さえていた手を外し、初号機を見据えた。その左目は、蒼く煌めいていた。
「たとえその世界に、……私たちがいなくても」
******
『この世界は、根本から違ってた』
アスカはこの前、そう自分に告げていたが。その意味が、もっと大きいものであることを理解した。
苗字が「惣流」ではなく「式波」であった理由。彼女の母親について何も分かっていないという謎。
これが真相か。自らの存在理由さえ、魂の形さえ異にしているこの現状を、根底から違うと言わずに何と言えようか。
「シキナミ・アスカ・ラングレー。Mark.10のパイロットよ」
「……碇……シンジ。よろしく」
黒いプラグスーツを身に纏い、目には何も着けておらず、両目からのぞくサファイアブルーの綺麗な瞳が自分を見据えている。
クローンだ。彼女はアスカのクローンなんだ。背筋がゾッと凍った。
「どうなってるんだよ、カヲル君」
背後に近づいていた気配に対し、シンジは言い放った。
動揺を、ひた隠しに隠して。
「君の考えている通りさ。この世界では『惣流・アスカ・ラングレー』という人物ではなく、NERVによって造り出された《兵士》としてのクローン体。零号機と2号機のように、アヤナミシリーズがプロトタイプなら、シキナミシリーズが
膨れ上がる動揺を全力で拳に握り込み、シンジは目の前の彼女を真っ直ぐに見つめる。彼女はどこ吹く風で、拳銃を返すようにシンジに手を出した。
「彼女はシキナミシリーズの278番体。最も戦闘力に長けた戦士だよ」
「所詮戦闘データだけよ。じゃなきゃ、こうやって呼び出されたりしてない。それに、コイツにだって隙をつかれた」
「本気を出してはいないだろう?」
「ったく、いちいちうるさいわね。私は戦闘訓練始めるから」
彼女は素っ気ない態度で、シンジから受け取った自身の拳銃をホルスターに仕舞い、歩き出す。カヲルは呆れた面持ちでそれを見ていた。
「相変わらずだね、レヴ」
「レヴ?」
聞き慣れない呼び名に、シンジは訊き返した。
「レボリューションの『REV』さ。この世界に革命を起こして、自らの居場所を取り戻そうとしているから、彼女のことはたまにそう呼んでいるのさ。それに、WILLEの彼女と区別するにもその方が良いだろう?」
「余計なお世話よ」
レヴと呼ばれた彼女は、眼光鋭くカヲルを睨んだ。
「同じ人間が二人。そんなことするからややこしいことになるっての。まったく、いい迷惑よ」
「けど、それを打破するために、君も望んで残っている」
「……ええ。絶対這い上がってやる」
彼女はそう言うと、廊下の奥へと消えていった。
「シンジ君もおいでよ。彼女たちの戦闘訓練、見てみるといい」
「…………」
カヲルに誘われるまま、シンジはあとをついていった。
******
「ゼーレの少年がMark.10の少女と第3の少年を引き合わせた」
すっかり崩壊したNERVの司令室。その中央にある机に肘をつきながら、ゲンドウは冬月の報告を聞いた。
「その後、Mark.10の少女が主導で戦闘訓練を行っている。ここ数日はMark.09のパイロットも交えて数回だ。……些か動きが速いようだが、大丈夫なのか、碇?」
「問題ない。第13号機の完成は近い。セントラルドグマに侵入さえできれば、それでいい」
ゲンドウは重い声で、淡々と応える。
「……ゼーレのシナリオを書き換えるだけでは済みそうにないと、私は思うがね」
冬月は外に広がる荒廃した世界を眺めながら、一言呟いた。
「ぷはっ──!!」
ボトルの水を一気に半分飲み干し、シンジは肩で息をしながらタオルで汗を拭った。
ようやく、心の整理ができるようになってきた。シキナミアスカ・ナンバー278、通称レヴと呼ばれた彼女は、父によって作り出されたクローンシリーズ:シキナミタイプの1人であり、選別に最後まで残ったうちの片割れだった。WILLEの動きを警戒した父の独断行為であるが、ゼーレも沈黙を以て特に干渉はしてきていないらしい。
この感情を何と形容すべきなのか、シンジには分からなかった。彼女と面と向かって話せるはずもなく、ただひたすら彼女と、黒い綾波と、カヲルの3人に交じって、葛藤する間もないくらいに訓練をすることでこの数日を過ごした。
あの子は……「アスカ」はこのことを知った時、何を感じただろう。そして僕は……彼女とどう接していくべきなのだろうか。
「ナナヒカリ」
「っ……?」
気が付くと、目の前に黒いプラグスーツの彼女が仁王立ちでシンジをを見下ろしていた。
「ど……どうしたの?」
戸惑いながら尋ねるシンジに、ドリンクを口に含みながら、乱雑にヘッドホンを放り渡した。
「え……何?」
「ちょっと付き合いなさい。こっち」
彼女はそう言うと、飲み終わったスパウトパックを回収シューターに放り込み、スタスタと歩いていってしまう。渡されたヘッドホンを手に、シンジも慌てて彼女の後を追いかけていった。
ダンッ―!と言う爆発音と共に、50m先の的に風穴が空く。次に、薬莢の転がる音が反響して聞こえてくる。耳当てをしているとはいえ、音の1つ1つはちゃんと聞こえてくる。
もう一発銃声が鳴り響き、彼女の放った弾丸は今度は的の中心を貫いた。シンジはその結果に感心しつつも、対象を鋭い眼光で見据える彼女の様子に何も言えず、ただただ気圧されていた。
「次。アンタの番」
「あ……うん」
ヘッドホンのマイクスイッチをオンにした彼女から、拳銃を構えるように促される。シンジは指示通りに腕を上げ、照準と視線を真っ直ぐに的に向ける。
ダンッ──!
発射した反動で、手首が跳ねる。弾丸は少し外れたところを貫く。若干の痺れが、シンジの腕を襲った。
ダンッ──!
もう一発。今度はさっきよりも中心近くに直撃する。彼女のようには、やはり上手くいかないが。
ただ、彼女はどうやら感心した様子だった。
「……ふぅん、なかなかやるじゃない。射撃訓練もやってたわけ?」
彼女はカヲルから聞いていたのか、シンジが14年眠り続けていたことを知っている。ただし細かい事情は聞かされていないらしく、時折こうやって「碇シンジ」に対する探りを入れてくる。
今の問いも、字面通りの意味ではない。真意はおそらく「エヴァで戦うのがメインなのに、なぜ射撃の訓練までやってた?」というような尋問である。
「……まぁね。NERVにいる以上は、必要みたいだったから」
カチャリと弾のリロードをしながら、シンジは素っ気なく答えた。シンジはこの手の質問に関しては、悟られないようにはぐらかそうとしている。気を抜くと真実を──自らがこの世界の人間ではないことを、うっかり喋ってしまいそうなのだ。
「理由はそれだけ?」
「……そうだよ。狙われて当然だったし」
当たり障りのない答えを、できるだけ自然に投げ返す。自分に視線を向けられているのを感じるが、シンジは頑として横を向くことはしない。彼女の眼を見たが最後、確実に射貫かれると分かっているから。
少しの沈黙の後、シンジが弾の装填を終えるのと同じタイミングで、彼女は口を開いた。
「それはそうね。この世界に、……頼れる人間なんていない」
ダンッ──!
「っ!?」
キーンという反響音が脳を貫いた。
「……悪かったわね、スイッチ切り忘れた」
シンジがヘッドセットごと耳を抑えて横を向くと、彼女は顔を苦く歪めながらスイッチを弄っていた。そして三たび銃を構えて、彼女はもう一度弾を撃つ。
切り忘れは、動揺からだろうか。彼女の顔は、心なしか険しくなっているように見えた。
シンジはふと、14年前のある一日の景色を思い出した。
この世界で過ごすようになってから、時間のあるときは戦闘訓練も行うようにはしていた。しかし武術訓練はともかく、エヴァのシミュレータを使わない射撃訓練は怪しまれる危険もある。そのためリツコ経由で貰った重さや反動制御などの改造を施した特製のエアガンを使い、葛城家の廊下を上手く使って少しは練習をしていたのである。
時にはアスカやレイとも一緒にやっていて、的当てで競ったりしたこともあった。彼女たちには、シンジは一度も勝つことができなかったものだが。
「鼻先?」
「そう。心臓を狙っても相手はしばらくは死なない。一発で仕留めるなら意味がないの」
険しい顔で、その時のアスカは語っていた。
「脳を撃ち抜くのが、より確実」
「……残酷」
そう発したのは、シンジではなくレイだった。
「分かってるわよ。私だってやるつもりはない」
心が荒んでいた時なら、やっていたかもしれない。いや、きっとやってたわね。そうアスカは付け加えた。
アスカは顔を歪めてエアガンを構えると、的から少し外れたところに弾をぶつけた。
「けど、私たちは常に、鼻先にコイツを突きつけられてる。それは覚えとかなきゃいけないのよ」
シンジとレイは、お互いに顔を見合わせた。
それだけこの世界が残酷であるということを、その日もまた突きつけられたのである。
レイの前では口に出さなかったものの、アスカが言った「心が荒んでいた時」というのは、前史でのアスカ自身のことだ。結果だけを見て、自らの居場所の為には躊躇などしない。かつての惣流・アスカ・ラングレーの行動原理は、それだった。
目の前の、黒いプラグスーツの彼女は、そんな前史のアスカとよく似ていた。それも、縋れるような人間が一人もいない、より孤独に蝕まれ続けたような瞳だった。
「……ねえ」
シンジは、レヴに対して、初めて問いかけた。その声に、彼女は構えていた銃をそっと下ろして、静かにマイクを入れる。
「……何?」
「……君は、……どうするつもりなの」
怪訝そうな顔を、レヴはシンジに向けた。
「何を、願ってるの」
途切れ途切れになりながら、シンジはゆっくりと、訊く。
「……」
重く冷たい空気が、2人を纏う。
いつの間にかシンジは、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめていたことに気づく。
「……じゃあさ」
レヴが、口を開く。
「アンタは、私をどうするつもり?」
レヴはそれだけ言うと即座にマイクを切り、拳銃を構えた。
彼女の弾は結局、一発も的の中心から外れることはなかった。
☆あとがき
9ヶ月もお待たせして、言い訳なんて言えるわけがない。(笑)
ご無沙汰してます、ジェニシアです。
エヴァって、本当に訳が分からないです。(良い意味で。)
自分の中で納得しようとするために始めたこのシリーズを書きながら、自分ってなんだろう、世界ってなんだろうとか考え出してしまうんですから。奥深いどころの話じゃない、うん。笑
さて、本日は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』公開から1周年です。もう1年が経ってしまったというのがなんだか信じられないです。そしてふと、思うのです。エヴァンゲリオンという作品は、「まだ終わってないのではないか」と。
新劇場版は、25年の歴史は終わったけれど、まだまだ分からないことがあまりに多い。観客に対して、ファンである私たちに対して、「シン・」を通して投げかけられた問い。それに、私は何と答えるのか。
相変わらずスーパースローペースですが、このシリーズを通して、私は自分なりに、これからも考えていきたいと思います。
よろしくお願い致します。
2022.03.08 ジェニシア珀里