E.V.A.~Eternal Victoried Angel~ 作:ジェニシア珀里
――私はこの作品で、何を描こうとしているのか。
WILLE超常科学多面展開施策室。六畳ほどのお世辞にも広いとは言えないこの空間に、いくつものケーブルに繋がれた理数コンピューターと専門書の数々を内包する、三つの鋼鉄の本棚が壁にしっかりと固定されている。
元は資料室であったこの部屋が、彼女に与えられた居住スペース兼研究ルームであった。研究資料と機材に圧迫されるために彼女が座れるスペースはほんの僅かであり、居心地は良いものではない。ただ彼女本人は寛ぐ時は本棚の上を使うし、長年の鍛錬のおかげもあって疲労にはめっぽう強いため、そこまで気にならないらしい。
それよりも、この組織に自らの居場所があるというだけでも儲けものなのだ。
そういうニュアンスのことを、自らに協力してくれている艦長や直接の関わりを持つ看護官たちに話したことが、彼女はあった。
背後の扉が開き、書類を手にやってきたのは整備局に籍を置く伊吹マヤだった。
「先生、頼まれていた資料、持ってきました」
「ありがとうございます、マヤさん」
白衣を着た彼女は資料を受け取ると、尋常ならざるスピードで目を通し、捲っていく。マヤにとってはすでに見慣れた光景だが、とても一般人ができるような芸当ではない。
「そっか……だとすれば、やっぱり鍵になるのは今建造中の……」
「ええ、第13号機だろうって、センパイも言ってました」
彼女は一通り書類を確認すると、小さく息をつく。
サードインパクトの光景が蘇ってきそうで怖くなるから、目を瞑ることはしなかった。
「……全部使いきるのかもしれないね、碇司令は」
「そうかもしれません。もしアレが完成したら、碇司令は全部の道具を手に入れたことになり得ますから」
その言葉を聞き、彼女は机に乗せていた拳に、弱くない力を込めた。
永い年月が経っても、全く変わることのないゲンドウの野望。ある種の尊敬すらできるものだなと、彼女は自らの境遇と選択の歴史を顧み、そう思った。
人も。
記憶も。
魂も。
この世界に混ざり込んだ、わずかなずれさえも。
使えるものなら、あの男は使う。
「……やっぱり慣れないなぁ、年上に敬語使われるの」
十も年齢の違う整備長に向けて、彼女はわざと呑気に呟いた。マヤは一瞬キョトンとしたが、彼女のその愚痴が「歪な世界を皮肉っている」のだと自白するような、やるせないため息であることに気づくと、そっと眉を落とした。
「艦長命令ですから」
できるだけ淡白に、マヤは返した。
彼女は苦笑する。
「ミサトさんも、律儀だよね」
「艦長ですから」
「そういうところ、変わらないなぁ」
そう言ってから、彼女はもう一度資料へ目を落とす。
第13号機。
ダブルエントリーシステム。
アダムスの器。
初号機。
綾波型の位相反応。
シキナミシリーズ。
ばらばらに散っていたはずの記号が、ひとつの中心へ向かって収束していく。
まるで、誰かがそういう筋書きを用意しているかのように。
「……嫌な感じだね」
彼女の呟きに、マヤは何も返せなかった。
《E.V.A.~Eternal Victoried Angel~》
【第弐拾肆話 名も無き音】
【Episode:24 Answer Me】
今日は目が早く覚めすぎたと、まだ半分以上働いていない頭の隅でシンジは思った。
この部屋には時計もなく、陽の光も入らないから時間を確認する術はないのだが、ほとんど減っていない疲れが、その結論に至らせている。というか、このところあまり眠れていないのが現状だった。
しかし、ふたたび寝るのも気が引ける。
ぼやける視界を正すために、シンジは無意識に目へ手を伸ばして、右目を数回擦る。相変わらずの無音が部屋を支配していて、聞こえてくるのは自らの呼吸音とシーツの衣擦れの音だけだった。
「……」
視線の先には、シンジのS-DATが静かに置かれている。
黒い、年季の入ったカセットプレーヤー。擦り傷だらけの筐体は、何もないまっさらな部屋の中では、少しばかり異彩を放っていた。
NERVに連れ去られて来てから何度かいじくり回してみたものの、音は全く聞こえてこず、プレーヤーの動作以前に電源すら入らなかった。
動かなくなったのは、初めてだった。
これだけ年月が経っていれば当然だとは分かっている。十四年。人間であれば、子供が大人になってしまうだけの時間だ。古い機械が黙り込むには、十分すぎるほどの時間だった。
それでも、シンジにはどうしても、それをただの故障とは思えなかった。
これは元々、自分のものではなかった。
父が持っていたものだ。
いつからか、それを自分が使うようになった。
音楽を聴くための機械。
周囲の声を遮るための機械。
自分の中に閉じこもるための機械。
この世界に来てからは、盗聴機能なんていう本来の目的以外の仕組みを持たせたこともあったけれど。
「綾波……」
自身とともに、初号機の中から復元されたこのプレーヤー。
ゼルエルからレイを救い出したとき、彼女がその手に持っていたのだ。そして何の因果か、再び自身の手に舞い戻っている。
綾波が、なぜこれを持っていたのか。
なぜこれだけが、自分と一緒に初号機の中から戻ってきたのか。
それが分からなかった。
「……カヲル君に頼んでみるかな」
おそらく、彼なら何か分かる。
人の域を越えた存在である彼なら、機械の故障など容易いものだろう。そう思った直後、シンジは目を閉じて小さく唸った。
「いや……でも……」
膝を抱え込み、全身に力を込める。圧せられた肺から、生温い空気が吐き出される。
シンジは深く逡巡し、自分がしようとしている事への正誤を思案する。細く目を開くと、膝と膝の隙間からS-DATがぼんやりと見えた。
これを動かしたいのか。
音を聞きたいのか。
綾波がこれを持っていた理由を知りたいのか。
それとも、自分はまだ、戻らないものが戻ってくる音を聞きたがっているのか。
長いこと悩んだ挙げ句、結局はベッドから立ち上がってS-DATを掴み、部屋を出ていくのであった。
******
「今日は早いね」
カヲルがピアノのある広場にやってきた時には、シンジは数曲を弾き終わっていた。
「うん、他にやることもないから。それに、楽器を弾くのってやっぱり楽しいんだ」
「自らの奏でる音が、一つの歌として形をなしていく。文化を紡ぎ創り出してきたリリンの持つ、素晴らしい心だ」
カヲルはピアノにわずかに寄りかかりながら、その華奢な白い指で天板をなぞる。
「それにしても、すっかり上達していて凄いね。響く音も、とても力強い」
「ありがとう。……でも、まだまださ。カヲル君の繊細な音は、僕には上手く出せないよ」
まるで「隣の芝生は青い」だね、とカヲルは笑った。シンジも、そんな彼の屈託のない笑みに小さく微笑む。
しかし、少しばかり感傷的になっているのを隠し通すことができなかったようで、カヲルの顔から笑みがフッと消え、代わりにわずかな困惑を含んだ気遣いの色が表れた。
「元気、少ないね。どうかしたのかい?」
「うん……ちょっと眠れなくて」
やはりこのS-DATを渡すべきではないのかもしれない。ポケットに入ったままのカセットプレーヤーを、シンジはどうするべきか再び悩んでいた。
「眠れない時は、音に出る」
「……音に出る?」
「うん。今日の君の音は、少し濁っていたよ」
シンジは思わず瞬きをした。
「濁るって、音が?」
「そう、濁りだ」
「いや、そう言われても……水じゃないんだから」
「リリンは面白いね。心が音に出ているのに、自分ではなかなか気づかない」
「それ、普通に怖いこと言ってるからね」
カヲルは不思議そうに首を傾げ、それから楽しそうに笑った。
「怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「カヲル君のそういうところ、たまに本当に分からないよ」
「それは嬉しいな」
「褒めてないんだけど」
シンジは呆れたように言った。少しだけ、胸の奥に溜まっていた重さが緩む。
けれど、ポケットの中のS-DATに指先が触れると、すぐにまた同じ場所へ戻ってきてしまう。
「カヲル君」
「うん?」
「これ、見てもらえるかな」
シンジはポケットに手を入れた。指先に、擦り切れた外装の硬い感触が触れる。そのまましばらく動けなかったが、やがて意を決して取り出す。
黒い古びたS-DAT。
カヲルはそれを見た瞬間、驚いたというより、懐かしむように目を細めた。
「君は、やっぱりそれを持っているんだね」
「……前にも、見てたもんね」
「うん。君が世界から耳を塞ぐ時、いつもそこにあった」
シンジは少しだけ眉を寄せた。
「その言い方、ちょっと嫌だな」
「ごめん。責めているわけじゃないよ」
カヲルは柔らかく微笑む。
「君にとって、それは逃げ道で、同時に帰る場所でもあった」
「……そんなに綺麗なものじゃないよ」
「綺麗かどうかは、重要じゃない。君がそれを必要としていたことが、大切なんだ」
シンジは何も言えず、S-DATをカヲルへ差し出した。
カヲルはそれを手に取った。乱暴に扱うことはなく、まるで薄い氷を持つように、指先だけでそっと支える。
「今のこれは、少し違うね」
「分かるの?」
「中に、君以外の意図がある。とてもリリンらしい、疑いと備えの痕跡だ」
シンジは小さく息を呑んだ。
「……リツコさんに、少し改造してもらったんだ」
「なるほど。彼女らしい」
「そこまで分かるの?」
「彼女の作るものには、彼女の思考が残る。合理的で、疑り深くて、それでも最後の一線では人間を信じようとする。そんな手触りだ」
シンジは目を伏せた。
リツコの冷たい声が、脳裏をよぎる。
ヴンダーの艦橋。
DSSチョーカー。
自分へ向けられた、管理対象を見る目。
けれど、あの人はかつて、確かに手を貸してくれた。
「これを、直したいのかい?」
カヲルの問いに、シンジは少し迷ってから頷いた。
「……うん。たぶん」
「たぶん?」
カヲルの問いに、シンジは苦笑するしかなかった。
「音が聞きたいのか、これが動くところを見たいのか、自分でもよく分からないんだ。ただ……これ、初号機の中から戻ってきたんだ。僕と一緒に」
「綾波レイも、持っていたんだね」
シンジは息を詰める。
「うん」
カヲルはS-DATの側面を指でなぞった。小さなボタン、傷のついた蓋、摩耗した端子。シンジには分からない何かを確かめるように、ゆっくりと触れていく。
「これは、壊れているというより、止まっていると言った方が近い」
「止まってる?」
「うん。君の記憶。綾波レイの記憶。初号機の中に沈んだ時間。それから、もっと古い誰かの手触り。それらが、少しずつ絡まっている」
止まっている。
その言葉が、妙に胸に残った。
電源が入らないだけの機械に対して使うには、少し大げさな言い方だ。けれど、シンジにはその表現が不思議と腑に落ちた。
進めないまま、戻れないまま、十四年の時間を抱えて止まっている。
「動かせる?」
シンジの声は、自分で思ったよりも弱かった。
カヲルは答える前に、S-DATへ視線を落とした。
「動かすことはできるかもしれない」
「本当?」
「でも、それで君が聞きたい音が戻るとは限らないかな」
シンジは思わず反芻した。
自分は何を聞きたいのだろう。
昔、通学路で聞いていた音楽だろうか。
ミサトの部屋で、耳を塞ぐために聞いていた音だろうか。
リツコと共犯者のように顔を寄せ合って、小さな基板を覗き込んだ時の音だろうか。
綾波がこれを握っていた理由だろうか。
あるいは、もう一度戻りたい時間の残響なのか。
「音が出るだけでいいんだ」
そう言った直後、自分でもそれが嘘だと分かった。
「……たぶん」
カヲルは優しく笑った。
「君は正直だね」
「全然。嘘ばっかりだよ」
「嘘をついている自分に気づけるなら、それは正直さの一部だよ」
そう言うと、カヲルはS-DATを両手で包み込んだ。何か特別な光が生まれたわけではなかった。奇跡のような音も、神秘的な波動もない。ただ、彼の白い指が、古びた機械の隙間に溜まった時間を撫でているように見えた。
やがて、かすかな音がした。
ジジ、と砂嵐のようなノイズ。
シンジは息を呑む。
S-DATの小さなランプが、ほんの一瞬だけ点滅した。
「動いた……?」
シンジは思わず身を乗り出した。
カヲルは黙っている。
その表情から、いつもの柔らかな余裕が少しだけ消えていた。
ノイズの奥から、途切れ途切れの音が漏れる。音楽というにはあまりに短く、旋律というには壊れすぎている。けれど、シンジはその欠片を知っていた。
何度も聞いた音。
何度も逃げ込んだ音。
そして、その奥に、ほんのかすかに別の気配が混じっていた。
「綾波……?」
呼んだ瞬間、音は途切れた。
ランプが消える。
S-DATは再び、ただの壊れた機械に戻った。
「……今の」
シンジは続きを言えなかった。
カヲルはS-DATを見つめたまま、静かに言う。
「まだ、戻りたくないものがあるのかもしれない」
「戻りたく、ない?」
「あるいは、戻り方が分からないのかもしれないね」
シンジはS-DATを受け取る。手の中のそれは冷たく、何も語らない。さっき確かに鳴ったはずなのに、今はもう完全に沈黙していた。
「カヲル君にも、分からないんだね」
「分からないことは、たくさんあるよ」
カヲルはそう言って、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「僕は何でも知っているわけじゃない。知っていることも、正しく見えているとは限らない」
「カヲル君が?」
「うん。僕も間違える」
その言葉は、シンジの胸に妙な引っかかりを残した。
カヲルも間違える。
当たり前のことのはずなのに、シンジはどこかで彼を「間違えない存在」のように見ていたのかもしれない。
それは信頼ではなく、依存に近いものではないのか。
そう考えかけて、シンジは首を振った。今はそこまで考えたくなかった。
「ありがとう、カヲル君」
「役に立てたかは分からないけどね」
「ううん。十分だよ」
シンジはS-DATを胸の前で握りしめた。
音は戻らなかった。
けれど、完全に死んでいるわけではないと分かった。
それだけで、今は十分な気がした。
「シンジ君」
「何?」
「君は、それを直したいんだね」
「……うん」
「直すことと、元に戻すことは、同じではないよ」
シンジは顔を上げる。
カヲルは穏やかな表情をしていた。けれど、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「壊れたものを直そうとすると、人はどうしても、壊れる前の形を思い浮かべる。でも、時間を越えたものは、同じ形には戻らない。戻せたように見えても、それは別のものだ」
「……それでも、直したいって思うのは間違い?」
「間違いではないよ。けれど、その時は確かめた方がいい」
「何を?」
「それが、本当に相手の望む形なのかを」
シンジは答えられなかった。
相手の望む形。
S-DATに望みなどあるのかは分からない。
けれど、綾波はどうだったのだろう。
初号機の中にいる彼女は、何を望んでいるのだろう。
黒いプラグスーツの綾波は、自分が何者なのか分からないまま命令に従っている。
アスカは、何を望んでいるのだろう。
自分は、皆を助けたいと思っている。
壊れているものがあるなら、直したいと思う。
取り返せるものがあるなら、取り返したいと思う。
突き進んだ先で、取り返す。
そう決めた。
そうやって、ここまで来た。
でも、その先で自分が取り返そうとしているものは、本当に相手が望んでいるものなのだろうか。
シンジが黙り込んだのを見て、カヲルは柔らかく言った。
「急がなくていい」
「……うん」
「でも、君は急いでしまうんだろうね」
シンジは苦笑した。
「そうかもしれない」
「それが君の優しさで、君の危うさだ」
カヲルの言葉は、責めているようには聞こえなかった。
だからこそ、余計に胸が痛んだ。
******
カヲルと別れたあと、シンジはS-DATを手にしたまま、NERV本部の廊下を歩いていた。
相変わらず、ここには人の気配が少ない。
巨大な施設であるはずなのに、音が吸い込まれていくような静けさがある。壁も床も天井も、かつて自分が知っていたNERV本部に似ているのに、決定的に何かが違っていた。
生きている場所ではなく、何かを待っている場所。
そんな印象が拭えない。
ふと、前方に人影が見えた。
細い身体。
長い髪。
赤みを帯びた髪色。
その姿を見た瞬間、シンジの足が止まる。
「アス――」
そこまで言いかけて、シンジは口を閉じた。
違う。
彼女はアスカではない。
暗がりの中で、マリンブルーの瞳だけが澄んで見えた。その色は、嫌になるほどアスカに似ていた。だからこそ、違うと分かった。
壁にもたれるように立っていた少女は、こちらを見ていた。NERVの薄暗い光の中で、その瞳だけが不自然なほどはっきりと見える。シンジが近づく前から、彼女はそこにいたのだろう。あるいは、最初から待っていたのかもしれない。
「古いもの、大事にしてるのね」
彼女はシンジの手元を見て言った。
シキナミシリーズ278番体。
レヴ。
アスカと同じ顔の系譜を持ち、しかしアスカではない少女。
シンジはS-DATを握る手に力を込めた。
「……見てたの?」
「見てたら悪い?」
「悪いとは言ってない」
「じゃあ、いいじゃない」
レヴは肩をすくめた。仕草は軽い。けれど、その目はシンジの表情を逃さない。
「壊れてるんでしょ、それ」
「うん」
「なら捨てればいいのに」
あまりに簡単に言われて、シンジは返事に詰まった。
レヴは続ける。
「壊れた機械なんて、邪魔なだけじゃない。音も出ない。役にも立たない。場所を取るだけ。そんなもの持って歩いて、何がしたいの?」
「捨てられないものも、あるからだよ」
「どうして?」
「……大事だから」
「動かないのに?」
「動かなくても」
レヴは少しだけ目を細めた。
「変なの」
その言い方は冷たかった。だが、完全な嘲笑とは違う気もした。理解できないものを前にして、どう扱えばいいのか分からない。そんな苛立ちに近い。
「直せば元に戻ると思ってる?」
「え?」
「それ。直したら、昔みたいに音が鳴って、昔みたいな気分になれて、昔みたいな誰かが戻ってくると思ってんの?」
シンジは言葉を失う。
レヴの声は鋭かった。けれど、その刃先はシンジだけに向けられているようで、同時にどこか彼女自身にも向いているようだった。
「そんなわけないだろ。……分かってるさ」
「本当に?」
レヴは壁から背を離した。
「ナナヒカリって、壊れたものを見るとすぐ直そうとする顔をするのね」
シンジは黙る。
「初期ロットも、あの旧式も、世界も、自分も。何でもかんでも、壊れてるなら直せばいいと思ってる」
「違う」
「違わない。そういう顔してるじゃない」
シンジは反射的に否定しようとした。
だが、言葉が出てこなかった。
直したい。
救いたい。
取り戻したい。
それは嘘ではない。
でも、その願いが本当に相手のためなのか、自分が失ったものを取り戻したいだけなのか、シンジ自身にも分からない。
カヲルの言葉が蘇る。
それが、本当に相手の望む形なのかを。
「壊れた部品は交換する。修理するより、その方が早い」
「部品じゃない」
シンジは咄嗟に言った。
レヴのマリンブルーの瞳が、わずかに細くなる。
「誰が?」
「綾波も、アスカも。誰も、部品なんかじゃない」
「へえ」
レヴは笑った。
「じゃあ、私は?」
シンジは顔を上げる。
レヴはまっすぐにシンジを見ていた。そこに笑みはない。挑発するような声音の奥に、何か確かめようとする硬さがあった。
「アンタは、私をどうするつもり?」
その問いは、廊下の静けさの中で妙にはっきり響いた。
この前も聞いた言葉だった。
だが、シンジはまた、すぐには答えられなかった。
助ける。
そう言うのは簡単だった。
だが、その言葉を口にした瞬間、自分は彼女を「救われるべき誰か」として決めつけてしまうのではないか。
彼女が何を望んでいるのかも知らずに。
彼女が助けを求めているのかも分からないまま。
アスカに似ているから。
シキナミシリーズだから。
ゲンドウに利用されているかもしれないから。
そんな理由で「助ける」と言うことは、果たして正しいのだろうか。
シンジは、S-DATを握りしめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「僕が、君をどうするかじゃない」
「……は?」
「君がどうしたいのかを、知りたい」
レヴの目が細くなる。
怒ったのだと、シンジはすぐに分かった。
「何それ」
「僕は、君のことを知らない。君が何を望んでるのかも、何が嫌なのかも、何を大事にしてるのかも知らない。だから、僕が勝手に決めちゃいけないと思う」
「綺麗ごと」
レヴは吐き捨てた。
「どうしたいかなんて、知らないわよ。そういうふうに作られてないもの」
その言葉に、シンジは胸を突かれた。
黒いプラグスーツの綾波も、似たようなことを言っていた。
命令がなければ、何もできないと。
けれど、同じだと決めつけるのは違う。
この少女は、この少女として怒っている。
「レヴ」
名前を呼んだ瞬間、彼女の表情がわずかに動いた。
本当に一瞬だった。
だが、シンジには分かった。
番号ではなく、名前のように呼ばれたことに、彼女は反応した。
「……気安く呼ばないで」
「嫌なら、やめる」
「それも、私が選んだ名前じゃない」
シンジは黙った。
「REV-278。そう呼称されてたから、番号よりマシだと思っただけ。レヴなんて、名前じゃない」
「それでも」
シンジは言った。
「君がそう切り離した音なら、僕はそう呼ぶ」
「……」
「君が別の名前を選ぶまで。嫌なら、やめるよ。でも、番号では呼びたくない」
レヴは黙った。
廊下の奥で、どこかの装置が低く唸っている。
NERV本部の奥深くで、何かが少しずつ組み上がっている音のようだった。
「初期ロットのことは、綾波って呼ぶんでしょ」
不意に、レヴが言った。
シンジは息を詰める。
「なのに、私は『アスカ』じゃないわけ?」
「それは……」
言葉が詰まる。
矛盾しているように聞こえる。
シンジ自身にも、そう思えた。
黒いプラグスーツの綾波を、シンジは綾波と呼んでいる。
けれど、目の前の少女をアスカとは呼べなかった。
なぜなのか。
しばらく沈黙してから、シンジは答えた。
「綾波は、今はそれ以外の名前を持っていない」
「私は?」
「君をアスカって呼んだら、僕はきっと、君に僕の知ってるアスカを重ねる」
レヴの目が揺れた。
「それは、君を見ていることにならないと思う」
「……随分、都合のいい言い訳ね、ナナヒカリ」
シンジは否定しなかった。
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃなくて、そうなのよ」
レヴの声は低い。
「アンタたちはいつもそう。名前をつけて、意味をつけて、これは違う、これは同じ、これは救う、これは壊れてるって決める。決められる方がどう思うかなんて、後から考える」
「……」
「それで、優しいつもり?」
シンジは答えられなかった。
突き進んだ先で、取り返す。
そう決めたはずだった。
でも、目の前の少女は、その言葉の裏側を見ている。
進む者に踏まれる側を。
取り返すと言われる側を。
何かの代わりにされる側を。
「分からないからって、放っておくつもりはない」
シンジはようやく、それだけを言った。
レヴは目を細める。
「それで間違えるかもしれないけど……それでも、何もしないよりはいいと思ってる」
「何もしないよりマシ、ね」
レヴは乾いた声で笑った。
「ガキが考えるようなことだわ」
シンジは唇を噛む。
「アンタが間違えた時、壊れるのはアンタじゃないかもしれないのに」
その言葉は、シンジの胸に突き刺さった。
反論できなかった。
レヴは鼻で笑う。
「だから、信用できないのよ」
そして背を向けた。
「選びたいなら、まずアンタが選びなさいよ、ナナヒカリ」
「え?」
「私をあの旧式の代わりに直すのか」
レヴは振り返らない。
「それとも、レヴっていう面倒な別物として見るのか」
そう言い残して、彼女は暗い廊下の奥へ歩いていった。
シンジは追いかけなかった。
追いかけて何を言えばいいのか、分からなかった。
手の中のS-DATは、また沈黙している。
けれど、ほんの少し前に確かに音を鳴らした。戻ったわけではない。直ったわけでもない。ただ、まだ完全には終わっていないと示すように。
シンジはそれを見下ろし、小さく呟いた。
「……別物として、見るよ」
その声は、レヴには届かなかった。
けれど、言わずにはいられなかった。
廊下の奥で、彼女の足音だけが遠ざかっていく。
壊れたものを直すこと。
止まったものを動かすこと。
名前のない誰かを、名前で呼ぶこと。
それらが本当に救いなのか、シンジにはまだ分からない。
それでも、アスカの代わりとして見ることだけは、できなかった。
★あとがき(2026.06.03)
お久しぶりです。ジェニシア珀里です。
4年間もお待たせしてしまい、まずは申し訳ありません。
何度も「続きはまだでしょうか」と期待の声をいただきました。
それでもなかなか書けなかったこと、考えをまとめられなかったことを、自分自身でもずっと情けなく思っていました。
こんなところまで原典を辿らなくても、なんて呆れたりもしています。
書き始めた当時は大学生だった私も、いつの間にか社会人となり、4年目となりました。
一日一日をこなすだけで精一杯でした。
……と言えば聞こえは良いかもしれません。
けれど結局のところは、前回の23話以降、この作品で私が何を書きたかったのか、すっかり迷い込んでしまっていたのだと思います。
それほどまでに、シン・エヴァが綺麗に掻っ攫ってしまった。そう感じていたのです。
本当に「エタり」かけていました。
書く意欲すら完全に持っていかれたような、そんな気がしていました。
でも、終われませんでした。
この4年、ずっと心の奥底につかえていたものがありました。
この度、ようやくですが、終章へ向けて動き出せそうです。
それに伴い、これまでの序章・破章も、一部演出を更新させていただき、「Dep-1.01」「Dep-2.02」として改訂いたしました。
ゆっくりな更新になるかもしれません。
あるいは、連日の更新になるかもしれません。
ですが、書きたいことは定まりました。
お約束していた通り、必ず、走りきります。
これからの本作を、『E.V.A.~Eternal Victoried Angel~』を、よろしければ、最後まで見届けていただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。