E.V.A.~Eternal Victoried Angel~ 作:ジェニシア珀里
――地球を困らせるほどの、想い。
モニターに映るNERV本部の立体図を、アスカは黙って見つめていた。
見慣れたようで、見慣れない場所だった。
かつて自分たちが戦っていたNERVとは、もう違う。あそこは司令部でも要塞でもない。碇ゲンドウが最後に必要なものを並べておくための、冷たい祭壇のようなものだ。
シンジは、あそこにいる。
そう考えただけで、喉の奥が焼けるように痛んだ。
連れ去られてから数日。状況分析も、リツコたちの仮説も、すべて頭では理解している。けれど、理解したところで焦りが消えるわけではない。
あいつは、また誰かに利用される。
たとえ本人が罠を疑っていても。
たとえ昔よりずっと強く、賢くなっていたとしても。
助けられる誰かを目の前に置かれたら、シンジは進んでしまう。
その性分を、碇ゲンドウが知らないはずがない。
「……例のオルタナ278」
アスカは画面から目を離さずに言った。
「まだ、本部内にいるのよね」
背後で、端末の操作音が小さく響いた。
先生と呼ばれている白衣の彼女が、表示された波形を確認しながら答える。
「可能性は高いわ。二年前に観測された生体波形と、最近のNERV本部近辺の反応は一致している。少なくとも、消滅はしていない」
「Mark.10との同期反応は?」
「断続的。安定しているとは言い難いけれど、切れてはいない」
アスカは奥歯を噛んだ。
Mark.10。
アダムスの器。
そして、シキナミシリーズ278番体。
腹立たしいほど、嫌な組み合わせだった。
「シンジにぶつけるつもりね」
「断定はできない」
「できるわよ」
アスカは即座に返した。
「碇ゲンドウがあの子を本部に置いている意味なんて、そう多くない。私への牽制か、シンジへの揺さぶりか。あるいは、その両方」
先生は否定せず、代わりに、少しだけ目を伏せた。
「あなたは、どう見てるの」
アスカが問うと、先生はしばらく黙ってから答えた。
「少なくとも、彼女は単なる予備個体ではないと思う」
「……」
「NERVが何をさせるつもりなのかまでは読めない。でも、あの子の存在自体が、アスカにも、碇シンジ君にも作用することは間違いない」
あの子。
その呼び方に、アスカの胸の奥が少しだけ痛んだ。
番号ではなく、子供を指す言い方。
兵器ではなく、誰かを指す言い方。
この女性は結局、自分自身で決めたはずの仮称を、一度として口に出すことをしていない。そのちぐはぐさが、彼女らしいとすら、今となっては思ってしまう。
二年前、初めて278番体の所在が確定した時のことを、アスカは思い出した。
《E.V.A.~Eternal Victoried Angel~》
【第弐拾伍話 私は雨】
【Episode:25 What Am I?】
二年前のその記憶は、アスカにとって少しだけ輪郭が遠かった。
自分の目で見ていたはずだった。
自分の口で話していたはずだった。
けれど、あの日の自分は、今の自分よりずっと冷静だった。
WILLEの戦闘服を着て、検査室の椅子に座り、淡々とモニターを見つめている。足を組んではいたが、背筋は伸び、表情は薄い。必要な情報を必要なだけ受け取り、感情の揺れを最小限に抑えていた。
アスカなら、たぶん最初から噛みついていた。
そう思った瞬間、胸の奥で小さな違和感が疼く。
その冷静さは、自分のものだったのか。
それとも、十四年を生き延びるために、この身体が覚えたものだったのか。
考えても、答えは出なかった。
ゼルエルの一件以来、NERVもWILLEも知っている。
この身体が、単純なパイロット一人として扱える状態ではないことを。
バルディエルの残滓。
不安定な同期波形。
応答の揺らぎ。
時折、本人でさえ説明できないほど冷え切った判断。
それらはすべて、監視と記録の対象になっていた。
けれど、外の人間に見えるのは、声に出た言葉と計測値だけだった。
その奥で何が揺れているのかまでは、誰にも分からない。
検査室には、先生のほかに、ミサトとリツコ、そしてマリもいた。
ミサトは腕を組み、押し黙ったまま画像を睨んでいる。艦長としての顔をしていたが、目の奥には隠しきれない苦さがあった。リツコは端末に視線を落とし、計測値を確認しながら、口元を固く結んでいる。
マリだけが、壁際に軽く背を預けていた。
いつものように気の抜けた姿勢ではある。だが、その目は笑っていなかった。
先生が、机の上に一枚の画像を置いた。
解像度は粗い。
だが、そこに映る人影の輪郭を見間違えるはずがなかった。
わずかに赤みを帯びた金髪。
細い身体。
そして、自分たちと同じ顔の系譜。
「NERV本部周辺で確認された個体よ」
先生は言った。
「シキナミシリーズ、278番体。便宜上、こちらではオルタナ278と呼称します」
アスカの指先が、ほんの少しだけ動いた。
外から見れば、ただの反応だったと思う。
けれど、その揺れは、身体の奥深くまで響いていた。
自分と同じ系列。
けれど自分ではない。
どこかで廃棄されていたはずの可能性。
あるいは、使われずに残された代替品。
そんなものを見せられて、何も感じないわけがない。
「活動状態にあるの?」
アスカの口から出た声は、ひどく落ち着いていた。
自分の声なのに、遠かった。
「うん。生きている、と表現していいかは難しいけれど、少なくとも休眠個体ではないね」
「NERVが保有している?」
「おそらく」
リツコが補足するように言った。
「MAGIの残存ログと、外部観測の照合ではそう判断するしかないわ。NERV本部から定期的にシキナミ系列に近い微弱波形が出ている」
「目的は?」
アスカの問いに、先生はすぐには答えなかった。
「そこまでは分からない」
「分からない、ですか」
「うん。分からない」
その言葉に、ミサトの眉がわずかに動いた。
「分からないまま放置できる案件じゃないわね」
「もちろんです」
先生は静かに答える。
「ただ、断定できないものを断定したら、碇ゲンドウの誘導に乗ることになる」
リツコが小さく息を吐いた。
「その通りね。あの男は、こちらの想像まで材料にする」
アスカの表情は変わらなかった。
けれど、胸の奥で苛立ちが跳ねた。
分からない、で済む話じゃない。
ゲンドウがシキナミの別個体を残している。
しかもNERV本部の中に。
それだけで十分に最悪だ。
「牽制、でしょうね」
気づけば、アスカはそう言っていた。
先生が目を細める。
「牽制?」
「この身体への牽制。少なくとも、その効果はある」
淡々とした声だった。
だが、その奥に、抑えきれない苛立ちが混ざっている。
「それと、碇シンジへの揺さぶり」
ミサトが目を伏せた。
先生が眉を顰めた。
「……彼に?」
「あいつは、放っておけないだろうから」
そう言った瞬間、アスカの奥で何かが軋んだ。
シンジは放っておけない。
あの顔で、あの声で、何も選ばせてもらえない少女を見せられたら、きっと手を伸ばす。
助けようとする。
自分が傷つくことになっても、相手がそれを望んでいるか分からなくても、それでも立ち止まれない。
そしてゲンドウは、それを分かっている。
「碇司令は、彼の性質を使うつもりでしょうね」
先生の声は低かった。
「優しさ。罪悪感。誰かを救いたいという衝動。そして、あなたたちの顔と名前」
「……趣味が悪いわね」
アスカは言った。
本当に、趣味が悪い。
使えるものなら何でも使う。
シンジの罪悪感も、優しさも、恋心も。
自分たちの顔も、名前も、全部。
マリが壁際から低く口笛を吹いた。
「最悪だねぇ。あの髭親父、相変わらず人の地雷原でタップダンスするの好きだにゃ」
「茶化さない」
ミサトが短く言った。
だが、マリは笑わなかった。
「茶化してないよ。姫たちの顔を餌に使うとか、冗談でも笑えないって話」
アスカの視線が、一瞬だけマリへ向いた。
胸の奥がわずかに緩む。
マリは見ている。
今のアスカも、奥に沈んだ説明しきれない揺らぎも。
いつも、ふざけた口調で。
けれど、必要な時にはちゃんと見ている。
先生は画像を見下ろしたまま、少しだけ沈黙した。
「彼女自身は?」
「……」
「278番体自身を、どう見る?」
アスカはすぐには答えられなかった。
NERVの手駒。
シキナミシリーズの残骸。
ゲンドウの牽制材料。
そう切り捨てるのは簡単だった。
けれど、画面の中の少女は、自分たちと同じ顔をしていた。
同じ顔で、違う目をしていた。
きっと、あの子も何も選ばせてもらっていない。
何者かになる前に、用途を決められた。
名前より先に番号を与えられた。
好き嫌いより先に、運用目的を与えられた。
その事実が、腹立たしかった。
「敵として扱う必要があるなら、そうするわ」
アスカは言った。
声は冷静だった。
「でも、敵で終わらせたいとは思わない」
リツコが、わずかに目を細めた。
「合理的ではないわね」
「ええ、分かってる」
「でも、否定はしない」
リツコはそう言った。
「彼女をただの駒として処理するなら、碇ゲンドウと同じ視点になる」
ミサトは沈黙していた。
けれど、彼女の指が腕の上で強く握られているのが見えた。
先生は静かに、アスカを見た。
「優しいね」
「合理的な判断よ」
「そう」
先生は、少しだけ笑った。
「そういうことにしておこうか」
アスカは何も返さなかった。
ただ、その沈黙にはわずかな不服が混じっていた。
この白衣の彼女の言い方には、妙なところがある。
人を観察しているようで、どこか祈っているようでもある。
自分たちを戦力として見る目と、子供として見る目が、いつも危ういところで重なっている。
だから腹が立つ。
そして、少しだけ安心する。
「もし、碇シンジ君が彼女と接触したら?」
先生が問う。
「揺れるでしょうね」
アスカは即答した。
「彼は、たぶん間違える」
「間違える?」
「助けたいと思って、相手のことを見落とすかもしれない。自分の痛みで、誰かの痛みを測るかもしれない」
口にしながら、アスカは自分の声が妙に冷静なことに気づいていた。
まるで、誰かがすぐそばで同じ結論を出しているような感覚だった。
それが悔しくて、でも、否定できなかった。
「それでも?」
先生が訊いた。
アスカは一瞬だけ黙った。
その沈黙の奥で、感情が揺れた。
信じたい。
そう思っている自分がいた。
怖い。
それも本当だった。
自分と同じ顔をした別の誰かを、シンジがどう見るのか。
自分がいない十四年の間に、シンジが誰を救い、誰に手を伸ばすのか。
自分の恋心の先に、どんな結末があるのか。
怖くないわけがなかった。
けれど。
「それでも、あいつは最後にはちゃんと向き合う」
アスカは言った。
「逃げる時はあっても、最後には目を逸らさない。少なくとも、私はそう見ているわ」
先生は、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなたたちは、碇シンジ君に厳しいのか甘いのか、分からないわね」
「両方じゃ?」
アスカがそう返すと、先生は小さく笑った。
マリも口元だけで笑う。
「ま、姫がワンコ君に甘いのは今さらだしにゃ」
「マリ」
ミサトが低くたしなめる。
「はいはい、黙ってますよっと」
マリは両手を軽く上げた。
けれど、その視線はアスカから離れなかった。
先生の笑みはすぐに消えた。
彼女は画像を伏せ、声を少しだけ低くする。
「現時点で、NERVが278番体をどう使うつもりなのかは分からない。けれど、彼女が碇シンジ君とあなたたちに作用する可能性は高い。だから、覚えておいて」
「何をですか」
「彼女を、ただの罠としてだけ見ないで」
アスカは黙った。
「罠であっても、罠として置かれた本人まで罠そのものになるわけじゃない」
嫌な女だと、アスカは思った。
そういうことを、正しいタイミングで言ってくる。
逃げ道を塞ぐように。
けれど、潰すためではなく、立たせるために。
アスカは少しだけ目を伏せた。
「……覚えておくわ」
その言葉は、確かに残った。
罠として置かれた本人まで、罠そのものになるわけじゃない。
あの時、アスカはまだ知らなかった。
二年後、シンジがNERVに連れ去られ、その278番体と本当に出会うことを。
そして、その出会いが、シンジをさらに奥へ進ませるだろうことを。
知っていたら、止められただろうか。
たぶん、無理だった。
アスカには、シンジを信じたい気持ちがあったから。
「……やっぱり、接触してると思う?」
アスカは先生へ問うた。
彼女は端末から目を離さない。
「確証はない。でも、DSSチョーカー経由で得られてる計測値に、シキナミ系列に近い波形が上がってる。278番体である可能性は高いね」
「そう」
アスカは自分でも驚くほど静かに返した。
腹は立つ。
怖くもある。
けれど、ただ焦って叫ぶほどではなかった。
二年前から、こうなる可能性はあった。
ゲンドウがあの子を利用することも。
シンジが揺さぶられることも。
自分がそれに傷つくことも。
全部、分かっていた。
分かっていても、痛いものは痛い。
「アスカ」
先生が、珍しく名を呼んだ。
「大丈夫?」
アスカは小さく笑った。
「大丈夫じゃないわよ」
正直に言うと、先生は少しだけ目を丸くした。
「でも、折れるほどじゃない」
そう続けると、彼女は静かに息を吐いた。
「……そう」
「あなた、二年前に言ったわよね。罠として置かれた本人まで、罠そのものになるわけじゃないって」
「覚えてたの」
「聞きたくなくても、残る言葉ってあんのよ」
アスカはモニターに映るNERV本部を睨む。
「碇ゲンドウが何を考えていようが、あの子はあの子よ。シンジを揺さぶるための道具でも、私への牽制でも終わらせない」
「……」
「そう見るって決めたのは、私だけじゃないしね」
先生は、何も言わなかった。
アスカも、それ以上は言わなかった。
マリに言われたことを思い出す。
彼女は、シンジ君に託そう。
アスカは、アスカの思った途を進めばいい。
あの時は、怖かった。
今も怖い。
シンジが、私ではない私の顔をした少女を見る。
その子を放っておけないと思う。
手を伸ばす。
傷つく。
それを想像するだけで、胸が掻きむしられるように痛む。
でも、それでも。
アスカは、シンジに誰かを見捨ててほしいわけではない。
自分のために、あの子を番号のまま見てほしいわけでもなかった。
だから。
「絶対、シンジを取り返す」
あいつから。
ゲンドウから。
カヲルから。
この世界の筋書きから。
そして、シンジが見ようとしたものを、アスカも見る。
たとえそれが、自分を傷つけるものだったとしても。
「例のオルタナ278」
アスカはその呼称を、わざと口にした。
番号でしか呼べない、自分たちの側の不完全さを噛み締めるように。
「次に会う時は、ちゃんと見るわ」
先生が、静かにこちらを見た。
「敵として?」
「必要ならね」
アスカは答えた。
「でも、それだけじゃ終わらせない」
モニターの向こうで、NERV本部の輪郭が青白く光っている。
シンジ。
あんたが今、あの子をどう呼んでいるのか、私は知らない。
でも、どうか。
番号だけでは、見ないであげて。
祈るようなその言葉を、アスカは声には出さなかった。
レヴと別れてから、シンジはしばらくNERV本部の廊下を歩いていた。
目的地があったわけではない。部屋に戻るつもりではいたが、足取りはどうにも重かった。手の中には、また沈黙したS-DATがある。さっきまで確かに鳴っていたはずなのに、今はただの古い機械として掌の中に収まっている。
気が滅入っている。その自覚はあった。
アスカの代わりに直すのか。
それとも、レヴという面倒な別物として見るのか。
彼女が残した言葉は、まだ胸の奥に刺さっている。痛みはある。けれど、その痛みに沈み込むことは違う気がした。
「レヴ……」
また悪い癖が出ている。
シンジは小さく息を吐いた。
自分を責めるだけなら簡単だ。自分が悪い、自分が間違えた、自分が傷つけた。そうやって内側に沈んでいけば、考えているようでいて、実際には何も見なくて済む。
それでは、レヴの言葉を聞いたことにならない。
彼女は、自分を責めろと言ったのではない。
見ろと言ったのだ。
アスカの代わりではなく、レヴという別物として見る。
そう言ったのは、自分だ。
なら、落ち込むためではなく、次にどう見るかを考えなければならない。
「……あ」
居住区画へ続く廊下の曲がり角で、黒いプラグスーツの綾波レイが立っていた。
何かを持っているわけではない。
誰かを探している様子もない。
ただ、壁際に立ち、命令を待つ人形のように静かにそこにいた。
この施設では、食事も衣服も、必要なものは自動的に部屋へ届く。誰かが何かを受け取りに歩く必要は、ほとんどない。
それなのに、彼女は廊下に立っている。
何かをするためではなく。
おそらく、何かを命じられるまで。
「綾波」
呼んでから、シンジはわずかに息を止めた。
「碇君」
彼女は淡々と応じた。
その呼び方が、胸の奥を小さく刺した。
同じ音だった。
けれど、同じ温度ではなかった。
「ここで何してるの?」
「待機」
「……ここで?」
「次の命令まで、移動中断」
「誰かに言われたの?」
「そう」
綾波は短く答えた。
そこに不満はない。疑問もない。ただ、そう命じられたからそうしている。それだけだった。
シンジは言葉を探す。
「……寒くない?」
「寒くは、ない」
「疲れない?」
「疲労は、ない」
「……そう」
そこで会話は途切れた。
彼女は、こちらを見ている。
シンジも、彼女を見ていた。
黒いプラグスーツ。
白い肌。
赤い瞳。
綾波レイという名前。
けれど、違う。自分が知っているレイとは違う。
ゼルエルの中で手を伸ばし、S-DATを握っていたあのレイとも違う。
その違いを、間違えてはいけない。
でも、違うからといって、目の前の彼女をただの別個体として片づけていいわけでもない。
「……綾波」
「何」
シンジは一度、言葉を飲み込んだ。
レヴの声が蘇る。
『初期ロットのことは、綾波って呼ぶんでしょ』
『なのに、私はアスカじゃないわけ』
今、自分は何をしているのだろう。
彼女を呼んでいるのか。
それとも、自分の中にある誰かの名を重ねているのか。
シンジはゆっくり息を吸った。
「君は、綾波って呼ばれるの、嫌?」
レイは瞬きをした。
「嫌、って?」
「嫌な気持ちになるかってこと」
「分からない」
即答だった。
拒絶ではない。困惑でもない。本当に、その判断基準を持っていないだけなのだと分かる。
「私は、綾波レイではないの」
その瞬間、シンジは胸が凍るような感覚を懐いた。
そうか。
この綾波は知らないのかもしれない。
その名前が、シンジの中でどれほど多くの記憶に繋がっているのかを。
自分が今、その名前に迷った理由を。
(言っちゃダメだった)
そう思った。
ここで何かを説明すれば、彼女はきっとその意味を考える。命令のためでも、自分のためでもなく、シンジの言葉によって、自分が何者かを測ろうとしてしまう。
そんなことを、今の彼女に背負わせていいはずがない。
「……いや」
シンジは首を横に振った。
「ごめん。変なこと聞いた」
「なぜ謝るの」
「……僕の問題だから」
「問題」
「うん」
「私は、綾波レイ」
「うん」
「それ以外の意味があるの」
シンジは息を詰めた。
鋭い問いではなかった。
責めているわけでもなかった。
ただ、言葉の隙間にある不自然さを拾っただけなのだろう。
だからこそ、答えづらかった。
「……今は、ない」
「今は」
「……ごめん」
「また、謝った」
「うん。悪い」
「悪い」
レイはその言葉を、小さく繰り返した。
シンジは苦笑しかけて、やめた。
笑ってごまかすこともできた。
けれど、それではまた逃げてしまう気がした。
「君が嫌じゃないなら、僕は綾波って呼ぶ」
「嫌では、ない」
「……うん。じゃあ、そう呼ぶ」
「なぜ、迷ったの」
「僕の問題だよ」
「問題」
「うん、君のせいじゃない」
レイは黙っていた。
理解しているのか、していないのかは分からない。
ただ、聞いてはいた。
「名前は、命令に必要?」
「命令のためだけじゃないよ」
「なら、何のため?」
シンジは少し考えた。
「誰かを、誰かとして呼ぶため」
「誰かとして」
「番号とか、役割とか、命令とか、そういうものだけじゃなくて」
「分からない」
「うん」
「でも、記憶する」
「……ありがとう」
レイは、ありがとう、という言葉の置き場所が分からないように黙った。
それから、彼女の視線がゆっくりと下がった。
シンジの手元。
S-DAT。
彼女の赤い瞳が、そこに留まっている。
知っているものを見つけた顔ではなかった。でも、懐かしむ顔でもない。何かを思い出そうとしている顔でもない。
ただ、見ていた。
理由もなく、目だけが離れないように。
「……これ、気になるの?」
「気になる?」
「見てるから」
「……分からない」
少しだけ間があった。
「分からないけど、見てしまう」
シンジはS-DATを握る手に力を込めた。
違う。
この子は、あの綾波ではない。
S-DATを持っていた綾波ではない。
ゼルエルの中で手を伸ばした綾波ではない。
彼女の中に、その記憶があるわけではない。
それでも、目を逸らせない何かがある。
「……」
同じ名。同じ原型。同じ始まりから作られた、別の存在。
なら、自分はこの反応を何と呼べばいいのだろう。
「これは、古い音楽プレーヤーだよ」
「音楽プレーヤー」
「そう、音を聞く機械」
「音」
「うん。今は壊れてるけど」
「音は、命令に必要?」
シンジは少しだけ笑った。
「たぶん、必要ないかな」
「なら、なぜ聞くの」
「聞きたいから、かな」
「聞きたい」
「うん。理由がなくても、聞きたいものってあるんだ」
レイは古いプレーヤーを見つめている。
「分からない」
「そっか」
「でも、見てしまう」
「……そっか」
それだけで十分だった。
知っている必要はない。思い出す必要もない。彼女が何かを感じていると決めつける必要もない。
ただ、目が離れない。今はそれだけでいい、か。そう思った。
「いつか、音が出たら聞いてみる?」
「それは、命令?」
「違うよ。試してみるかな、ってだけ」
「試す……?」
「うん。嫌なら聞かなくていい。分からないなら、分からないままでもいい」
「分からないまま」
「うん」
シンジはS-DATをポケットに戻した。
レイの視線が、それを追う。
けれど、彼女は何も言わなかった。
廊下の遠くで、機械音が低く響いている。
NERV本部の奥で、何かが動いている。人の気配はなく、生活の匂いもない。ただ、目的だけが空間を満たしている。
その中で、彼女は何も持たずに立っていた。
「じゃあ、また」
「……?」
「これ、別れる時に言う言葉」
「別れる時」
「うん。でも、また会うつもりがある時」
「また、会う?」
「うん。僕はまた来るよ」
「命令?」
「ううん。僕が、そうしたいから」
レイは、シンジを見た。
その目に感情らしいものはまだ薄い。
けれど、何も映していないわけではなかった。
「そう」
短く、彼女は言った。
シンジは頷き、彼女の横を通り過ぎた。
背中に視線を感じた気がして、振り返りかけて、やめた。
今は、それでよかった。
翌朝。ピアノのある広場へ向かう途中、シンジはずっとS-DATの重さを意識していた。
古い機械で、壊れていて、音も出ない。
それでも、レヴは捨てればいいと言った。
黒いプラグスーツのレイは、理由も分からずそれを見ていた。
カヲルは、戻りたくないものがあるのかもしれないと言った。
自分は、何を聞きたいのだろう。
答えは、まだ出ない。
ただ、ひとつだけ分かったことがある。
目の前にいる誰かを、自分の失ったものの形に押し込めてはいけない。
けれど。
「……それだけじゃダメだ」
違う存在として見る。
そう決めるなら、自分が何を失わせ、何を残したのかも見なければならない。
そうでなければ、また同じことを繰り返す。
広場には、カヲルがいた。
ピアノの前ではなく、崩れた柱の残骸に腰を下ろしている。赤く淀んだ空を見上げるその横顔は、いつもより少しだけ遠かった。
「やあ、シンジ君」
カヲルは振り返らずに言った。
「そろそろ来ると思っていたよ」
「そういうところ、本当に不思議だね」
「今日は、少し分かりやすかったからね」
「僕、そんな顔してる?」
「音よりも分かりやすい時がある」
シンジは苦笑した。
「また濁ってる?」
「いや」
カヲルはそこで、こちらを見た。
「少し、沈んでいた。でも、沈むことだけを選んではいない」
シンジは返事に困った。見透かされている気がした。
けれど、不快ではなかった。
「レヴと会ったよ」
「そう」
「綾波とも、話した」
「うん」
「どっちも、僕にはちゃんと見えていない気がした」
カヲルは静かに聞いている。
「でも、見えていないって分かったなら、まだ見ようとできる。そう思いたい」
「それは、とてもリリンらしい強さだね」
「……強さなのかな」
「少なくとも、弱さだけではないよ」
シンジはS-DATをポケットの上から押さえた。
自分が見ていないもの。
見ようとしてこなかったもの。見たつもりになっていたもの。
それらが、少しずつ目の前に並び始めている。
「カヲル君」
「うん」
「僕が初号機で起こしたことの跡を、見られる?」
カヲルの表情から、穏やかな色が少し消えた。
「見たいのかい」
「うん」
シンジは頷いた。
「怖いけど、見たい」
「それは、罰として?」
「違う」
今度は、はっきりと言えた。
「罰を受けたいわけじゃない。自分を責めたいだけなら、たぶん一人でもできる」
カヲルは黙っている。
「でも、それじゃ駄目なんだと思う。僕が誰かを助けたいとか、取り返したいとか言うなら、まず自分が何を残したのか見ないといけない」
「それが、君に必要なことかい?」
「うん。でも、義務っていうより」
シンジは言葉を探した。
「見ないまま進みたくないんだ」
カヲルは、しばらくシンジを見つめていた。
その目は優しかった。
けれど、どこか深いところで悲しんでいるようにも見えた。
「君は、目を逸らすことをやめようとしているんだね」
「やめられてるかは分からないけどね」
「やめようとしている。それだけでも、大きなことだよ」
「そうかな」
「そうさ」
カヲルは立ち上がった。
瓦礫の上に積もった白い塵が、わずかに舞う。
「分かった」
「カヲル君……」
「行こう」
彼は静かに言った。
「君に見せたい場所がある」
その声は優しかった。
だからこそ、シンジの胸に小さな不安が落ちた。それでも、シンジは頷いた。
見ると決めたのは、自分だ。
進むと決めたのも、自分だ。
その先に何があるのか、まだ知らない。
けれど、知らないまま進むことだけは、もうしたくなかった。
静寂の中、シンジはカヲルの後を追って歩き出した。
★あとがき
こんにちは、ジェニシア珀里です。
まずおことわりしておきます。一週間隔で投稿するわけではありません。あくまで投稿するタイミングをここにしたかっただけです。続きの進捗は、良いような悪いような微妙なラインです。
はい、正直これは保険です。ダサいだろうなと思ってます。でもすみません、そうさせてください。
最新プロットを書きながら、エヴァとは何か、それをずっと考えていました。
皆様にとってはどうでしょうか。第壱話から30年が過ぎ、シン・エヴァまで走りきった末に、自らの心に刻まれたものは何か。
私はそれを、語りたいのです。
そんな私のわがままですが、良ければ、どうかお付き合い頂けますと幸いです。