E.V.A.~Eternal Victoried Angel~   作:ジェニシア珀里

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 ――地球を困らせるほどの、想い。





第弐拾伍話 私は雨

 

 

 

 モニターに映るNERV本部の立体図を、アスカは黙って見つめていた。

 見慣れたようで、見慣れない場所だった。

 かつて自分たちが戦っていたNERVとは、もう違う。あそこは司令部でも要塞でもない。碇ゲンドウが最後に必要なものを並べておくための、冷たい祭壇のようなものだ。

 シンジは、あそこにいる。

 そう考えただけで、喉の奥が焼けるように痛んだ。

 

 連れ去られてから数日。状況分析も、リツコたちの仮説も、すべて頭では理解している。けれど、理解したところで焦りが消えるわけではない。

 あいつは、また誰かに利用される。

 たとえ本人が罠を疑っていても。

 たとえ昔よりずっと強く、賢くなっていたとしても。

 助けられる誰かを目の前に置かれたら、シンジは進んでしまう。

 その性分を、碇ゲンドウが知らないはずがない。

 

「……例のオルタナ278」

 

 アスカは画面から目を離さずに言った。

 

「まだ、本部内にいるのよね」

 

 背後で、端末の操作音が小さく響いた。

 先生と呼ばれている白衣の彼女が、表示された波形を確認しながら答える。

 

「可能性は高いわ。二年前に観測された生体波形と、最近のNERV本部近辺の反応は一致している。少なくとも、消滅はしていない」

「Mark.10との同期反応は?」

「断続的。安定しているとは言い難いけれど、切れてはいない」

 

 アスカは奥歯を噛んだ。

 Mark.10。

 アダムスの器。

 そして、シキナミシリーズ278番体。

 腹立たしいほど、嫌な組み合わせだった。

 

「シンジにぶつけるつもりね」

「断定はできない」

「できるわよ」

 

 アスカは即座に返した。

 

「碇ゲンドウがあの子を本部に置いている意味なんて、そう多くない。私への牽制か、シンジへの揺さぶりか。あるいは、その両方」

 

 先生は否定せず、代わりに、少しだけ目を伏せた。

 

「あなたは、どう見てるの」

 

 アスカが問うと、先生はしばらく黙ってから答えた。

 

「少なくとも、彼女は単なる予備個体ではないと思う」

「……」

「NERVが何をさせるつもりなのかまでは読めない。でも、あの子の存在自体が、アスカにも、碇シンジ君にも作用することは間違いない」

 

 あの子。

 その呼び方に、アスカの胸の奥が少しだけ痛んだ。

 番号ではなく、子供を指す言い方。

 兵器ではなく、誰かを指す言い方。

 この女性は結局、自分自身で決めたはずの仮称を、一度として口に出すことをしていない。そのちぐはぐさが、彼女らしいとすら、今となっては思ってしまう。

 二年前、初めて278番体の所在が確定した時のことを、アスカは思い出した。

 

 

 

 

 

《E.V.A.~Eternal Victoried Angel~》

 

【第弐拾伍話 私は雨】

【Episode:25 What Am I?】

 

 

 

 

 

 二年前のその記憶は、アスカにとって少しだけ輪郭が遠かった。

 自分の目で見ていたはずだった。

 自分の口で話していたはずだった。

 けれど、あの日の自分は、今の自分よりずっと冷静だった。

 WILLEの戦闘服を着て、検査室の椅子に座り、淡々とモニターを見つめている。足を組んではいたが、背筋は伸び、表情は薄い。必要な情報を必要なだけ受け取り、感情の揺れを最小限に抑えていた。

 アスカなら、たぶん最初から噛みついていた。

 そう思った瞬間、胸の奥で小さな違和感が疼く。

 その冷静さは、自分のものだったのか。

 それとも、十四年を生き延びるために、この身体が覚えたものだったのか。

 考えても、答えは出なかった。

 ゼルエルの一件以来、NERVもWILLEも知っている。

 この身体が、単純なパイロット一人として扱える状態ではないことを。

 バルディエルの残滓。

 不安定な同期波形。

 応答の揺らぎ。

 時折、本人でさえ説明できないほど冷え切った判断。

 それらはすべて、監視と記録の対象になっていた。

 けれど、外の人間に見えるのは、声に出た言葉と計測値だけだった。

 その奥で何が揺れているのかまでは、誰にも分からない。

 

 検査室には、先生のほかに、ミサトとリツコ、そしてマリもいた。

 ミサトは腕を組み、押し黙ったまま画像を睨んでいる。艦長としての顔をしていたが、目の奥には隠しきれない苦さがあった。リツコは端末に視線を落とし、計測値を確認しながら、口元を固く結んでいる。

 マリだけが、壁際に軽く背を預けていた。

 いつものように気の抜けた姿勢ではある。だが、その目は笑っていなかった。

 先生が、机の上に一枚の画像を置いた。

 解像度は粗い。

 だが、そこに映る人影の輪郭を見間違えるはずがなかった。

 わずかに赤みを帯びた金髪。

 細い身体。

 そして、自分たちと同じ顔の系譜。

 

「NERV本部周辺で確認された個体よ」

 

 先生は言った。

 

「シキナミシリーズ、278番体。便宜上、こちらではオルタナ278と呼称します」

 

 アスカの指先が、ほんの少しだけ動いた。

 外から見れば、ただの反応だったと思う。

 けれど、その揺れは、身体の奥深くまで響いていた。

 自分と同じ系列。

 けれど自分ではない。

 どこかで廃棄されていたはずの可能性。

 あるいは、使われずに残された代替品。

 そんなものを見せられて、何も感じないわけがない。

 

「活動状態にあるの?」

 

 アスカの口から出た声は、ひどく落ち着いていた。

 自分の声なのに、遠かった。

 

「うん。生きている、と表現していいかは難しいけれど、少なくとも休眠個体ではないね」

「NERVが保有している?」

「おそらく」

 

 リツコが補足するように言った。

 

「MAGIの残存ログと、外部観測の照合ではそう判断するしかないわ。NERV本部から定期的にシキナミ系列に近い微弱波形が出ている」

「目的は?」

 

 アスカの問いに、先生はすぐには答えなかった。

 

「そこまでは分からない」

「分からない、ですか」

「うん。分からない」

 

 その言葉に、ミサトの眉がわずかに動いた。

 

「分からないまま放置できる案件じゃないわね」

「もちろんです」

 

 先生は静かに答える。

 

「ただ、断定できないものを断定したら、碇ゲンドウの誘導に乗ることになる」

 

 リツコが小さく息を吐いた。

 

「その通りね。あの男は、こちらの想像まで材料にする」

 

 アスカの表情は変わらなかった。

 けれど、胸の奥で苛立ちが跳ねた。

 分からない、で済む話じゃない。

 ゲンドウがシキナミの別個体を残している。

 しかもNERV本部の中に。

 それだけで十分に最悪だ。

 

「牽制、でしょうね」

 

 気づけば、アスカはそう言っていた。

 先生が目を細める。

 

「牽制?」

「この身体への牽制。少なくとも、その効果はある」

 

 淡々とした声だった。

 だが、その奥に、抑えきれない苛立ちが混ざっている。

 

「それと、碇シンジへの揺さぶり」

 

 ミサトが目を伏せた。

 先生が眉を顰めた。

 

「……彼に?」

「あいつは、放っておけないだろうから」

 

 そう言った瞬間、アスカの奥で何かが軋んだ。

 シンジは放っておけない。

 あの顔で、あの声で、何も選ばせてもらえない少女を見せられたら、きっと手を伸ばす。

 助けようとする。

 自分が傷つくことになっても、相手がそれを望んでいるか分からなくても、それでも立ち止まれない。

 そしてゲンドウは、それを分かっている。

 

「碇司令は、彼の性質を使うつもりでしょうね」

 

 先生の声は低かった。

 

「優しさ。罪悪感。誰かを救いたいという衝動。そして、あなたたちの顔と名前」

「……趣味が悪いわね」

 

 アスカは言った。

 本当に、趣味が悪い。

 使えるものなら何でも使う。

 シンジの罪悪感も、優しさも、恋心も。

 自分たちの顔も、名前も、全部。

 マリが壁際から低く口笛を吹いた。

 

「最悪だねぇ。あの髭親父、相変わらず人の地雷原でタップダンスするの好きだにゃ」

「茶化さない」

 

 ミサトが短く言った。

 だが、マリは笑わなかった。

 

「茶化してないよ。姫たちの顔を餌に使うとか、冗談でも笑えないって話」

 

 アスカの視線が、一瞬だけマリへ向いた。

 胸の奥がわずかに緩む。

 マリは見ている。

 今のアスカも、奥に沈んだ説明しきれない揺らぎも。

 いつも、ふざけた口調で。

 けれど、必要な時にはちゃんと見ている。

 先生は画像を見下ろしたまま、少しだけ沈黙した。

 

「彼女自身は?」

「……」

「278番体自身を、どう見る?」

 

 アスカはすぐには答えられなかった。

 NERVの手駒。

 シキナミシリーズの残骸。

 ゲンドウの牽制材料。

 そう切り捨てるのは簡単だった。

 けれど、画面の中の少女は、自分たちと同じ顔をしていた。

 同じ顔で、違う目をしていた。

 きっと、あの子も何も選ばせてもらっていない。

 何者かになる前に、用途を決められた。

 名前より先に番号を与えられた。

 好き嫌いより先に、運用目的を与えられた。

 その事実が、腹立たしかった。

 

「敵として扱う必要があるなら、そうするわ」

 

 アスカは言った。

 声は冷静だった。

 

「でも、敵で終わらせたいとは思わない」

 

 リツコが、わずかに目を細めた。

 

「合理的ではないわね」

「ええ、分かってる」

「でも、否定はしない」

 

 リツコはそう言った。

 

「彼女をただの駒として処理するなら、碇ゲンドウと同じ視点になる」

 

 ミサトは沈黙していた。

 けれど、彼女の指が腕の上で強く握られているのが見えた。

 先生は静かに、アスカを見た。

 

「優しいね」

「合理的な判断よ」

「そう」

 

 先生は、少しだけ笑った。

 

「そういうことにしておこうか」

 

 アスカは何も返さなかった。

 ただ、その沈黙にはわずかな不服が混じっていた。

 この白衣の彼女の言い方には、妙なところがある。

 人を観察しているようで、どこか祈っているようでもある。

 自分たちを戦力として見る目と、子供として見る目が、いつも危ういところで重なっている。

 だから腹が立つ。

 そして、少しだけ安心する。

 

「もし、碇シンジ君が彼女と接触したら?」

 

 先生が問う。

 

「揺れるでしょうね」

 

 アスカは即答した。

 

「彼は、たぶん間違える」

「間違える?」

「助けたいと思って、相手のことを見落とすかもしれない。自分の痛みで、誰かの痛みを測るかもしれない」

 

 口にしながら、アスカは自分の声が妙に冷静なことに気づいていた。

 まるで、誰かがすぐそばで同じ結論を出しているような感覚だった。

 それが悔しくて、でも、否定できなかった。

 

「それでも?」

 

 先生が訊いた。

 アスカは一瞬だけ黙った。

 その沈黙の奥で、感情が揺れた。

 信じたい。

 そう思っている自分がいた。

 怖い。

 それも本当だった。

 自分と同じ顔をした別の誰かを、シンジがどう見るのか。

 自分がいない十四年の間に、シンジが誰を救い、誰に手を伸ばすのか。

 自分の恋心の先に、どんな結末があるのか。

 怖くないわけがなかった。

 けれど。

 

「それでも、あいつは最後にはちゃんと向き合う」

 

 アスカは言った。

 

「逃げる時はあっても、最後には目を逸らさない。少なくとも、私はそう見ているわ」

 

 先生は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「あなたたちは、碇シンジ君に厳しいのか甘いのか、分からないわね」

「両方じゃ?」

 

 アスカがそう返すと、先生は小さく笑った。

 マリも口元だけで笑う。

 

「ま、姫がワンコ君に甘いのは今さらだしにゃ」

「マリ」

 

 ミサトが低くたしなめる。

 

「はいはい、黙ってますよっと」

 

 マリは両手を軽く上げた。

 けれど、その視線はアスカから離れなかった。

 先生の笑みはすぐに消えた。

 彼女は画像を伏せ、声を少しだけ低くする。

 

「現時点で、NERVが278番体をどう使うつもりなのかは分からない。けれど、彼女が碇シンジ君とあなたたちに作用する可能性は高い。だから、覚えておいて」

「何をですか」

「彼女を、ただの罠としてだけ見ないで」

 

 アスカは黙った。

 

「罠であっても、罠として置かれた本人まで罠そのものになるわけじゃない」

 

 嫌な女だと、アスカは思った。

 そういうことを、正しいタイミングで言ってくる。

 逃げ道を塞ぐように。

 けれど、潰すためではなく、立たせるために。

 アスカは少しだけ目を伏せた。

 

「……覚えておくわ」

 

 その言葉は、確かに残った。

 罠として置かれた本人まで、罠そのものになるわけじゃない。

 

 あの時、アスカはまだ知らなかった。

 二年後、シンジがNERVに連れ去られ、その278番体と本当に出会うことを。

 そして、その出会いが、シンジをさらに奥へ進ませるだろうことを。

 知っていたら、止められただろうか。

 たぶん、無理だった。

 アスカには、シンジを信じたい気持ちがあったから。

 

 

 

 

 

「……やっぱり、接触してると思う?」

 

 アスカは先生へ問うた。

 彼女は端末から目を離さない。

 

「確証はない。でも、DSSチョーカー経由で得られてる計測値に、シキナミ系列に近い波形が上がってる。278番体である可能性は高いね」

「そう」

 

 アスカは自分でも驚くほど静かに返した。

 腹は立つ。

 怖くもある。

 けれど、ただ焦って叫ぶほどではなかった。

 二年前から、こうなる可能性はあった。

 ゲンドウがあの子を利用することも。

 シンジが揺さぶられることも。

 自分がそれに傷つくことも。

 全部、分かっていた。

 分かっていても、痛いものは痛い。

 

「アスカ」

 

 先生が、珍しく名を呼んだ。

 

「大丈夫?」

 

 アスカは小さく笑った。

 

「大丈夫じゃないわよ」

 

 正直に言うと、先生は少しだけ目を丸くした。

 

「でも、折れるほどじゃない」

 

 そう続けると、彼女は静かに息を吐いた。

 

「……そう」

「あなた、二年前に言ったわよね。罠として置かれた本人まで、罠そのものになるわけじゃないって」

「覚えてたの」

「聞きたくなくても、残る言葉ってあんのよ」

 

 アスカはモニターに映るNERV本部を睨む。

 

「碇ゲンドウが何を考えていようが、あの子はあの子よ。シンジを揺さぶるための道具でも、私への牽制でも終わらせない」

「……」

「そう見るって決めたのは、私だけじゃないしね」

 

 先生は、何も言わなかった。

 アスカも、それ以上は言わなかった。

 マリに言われたことを思い出す。

 彼女は、シンジ君に託そう。

 アスカは、アスカの思った途を進めばいい。

 あの時は、怖かった。

 今も怖い。

 シンジが、私ではない私の顔をした少女を見る。

 その子を放っておけないと思う。

 手を伸ばす。

 傷つく。

 それを想像するだけで、胸が掻きむしられるように痛む。

 でも、それでも。

 アスカは、シンジに誰かを見捨ててほしいわけではない。

 自分のために、あの子を番号のまま見てほしいわけでもなかった。

 だから。

 

「絶対、シンジを取り返す」

 

 あいつから。

 ゲンドウから。

 カヲルから。

 この世界の筋書きから。

 そして、シンジが見ようとしたものを、アスカも見る。

 たとえそれが、自分を傷つけるものだったとしても。

 

「例のオルタナ278」

 

 アスカはその呼称を、わざと口にした。

 番号でしか呼べない、自分たちの側の不完全さを噛み締めるように。

 

「次に会う時は、ちゃんと見るわ」

 

 先生が、静かにこちらを見た。

 

「敵として?」

「必要ならね」

 

 アスカは答えた。

 

「でも、それだけじゃ終わらせない」

 

 モニターの向こうで、NERV本部の輪郭が青白く光っている。

 シンジ。

 あんたが今、あの子をどう呼んでいるのか、私は知らない。

 でも、どうか。

 番号だけでは、見ないであげて。

 祈るようなその言葉を、アスカは声には出さなかった。

 

 

 

 

 

 レヴと別れてから、シンジはしばらくNERV本部の廊下を歩いていた。

 目的地があったわけではない。部屋に戻るつもりではいたが、足取りはどうにも重かった。手の中には、また沈黙したS-DATがある。さっきまで確かに鳴っていたはずなのに、今はただの古い機械として掌の中に収まっている。

 気が滅入っている。その自覚はあった。

 アスカの代わりに直すのか。

 それとも、レヴという面倒な別物として見るのか。

 彼女が残した言葉は、まだ胸の奥に刺さっている。痛みはある。けれど、その痛みに沈み込むことは違う気がした。

 

「レヴ……」

 

 また悪い癖が出ている。

 シンジは小さく息を吐いた。

 自分を責めるだけなら簡単だ。自分が悪い、自分が間違えた、自分が傷つけた。そうやって内側に沈んでいけば、考えているようでいて、実際には何も見なくて済む。

 それでは、レヴの言葉を聞いたことにならない。

 彼女は、自分を責めろと言ったのではない。

 見ろと言ったのだ。

 アスカの代わりではなく、レヴという別物として見る。

 そう言ったのは、自分だ。

 なら、落ち込むためではなく、次にどう見るかを考えなければならない。

 

「……あ」

 居住区画へ続く廊下の曲がり角で、黒いプラグスーツの綾波レイが立っていた。

 何かを持っているわけではない。

 誰かを探している様子もない。

 ただ、壁際に立ち、命令を待つ人形のように静かにそこにいた。

 この施設では、食事も衣服も、必要なものは自動的に部屋へ届く。誰かが何かを受け取りに歩く必要は、ほとんどない。

 それなのに、彼女は廊下に立っている。

 何かをするためではなく。

 おそらく、何かを命じられるまで。

 

「綾波」

 

 呼んでから、シンジはわずかに息を止めた。

 

「碇君」

 

 彼女は淡々と応じた。

 その呼び方が、胸の奥を小さく刺した。

 同じ音だった。

 けれど、同じ温度ではなかった。

 

「ここで何してるの?」

「待機」

「……ここで?」

「次の命令まで、移動中断」

「誰かに言われたの?」

「そう」

 

 綾波は短く答えた。

 そこに不満はない。疑問もない。ただ、そう命じられたからそうしている。それだけだった。

 シンジは言葉を探す。

 

「……寒くない?」

「寒くは、ない」

「疲れない?」

「疲労は、ない」

「……そう」

 

 そこで会話は途切れた。

 彼女は、こちらを見ている。

 シンジも、彼女を見ていた。

 黒いプラグスーツ。

 白い肌。

 赤い瞳。

 綾波レイという名前。

 けれど、違う。自分が知っているレイとは違う。

 ゼルエルの中で手を伸ばし、S-DATを握っていたあのレイとも違う。

 その違いを、間違えてはいけない。

 でも、違うからといって、目の前の彼女をただの別個体として片づけていいわけでもない。

 

「……綾波」

「何」

 

 シンジは一度、言葉を飲み込んだ。

 レヴの声が蘇る。

 

『初期ロットのことは、綾波って呼ぶんでしょ』

『なのに、私はアスカじゃないわけ』

 

 今、自分は何をしているのだろう。

 彼女を呼んでいるのか。

 それとも、自分の中にある誰かの名を重ねているのか。

 シンジはゆっくり息を吸った。

 

「君は、綾波って呼ばれるの、嫌?」

 

 レイは瞬きをした。

 

「嫌、って?」

「嫌な気持ちになるかってこと」

「分からない」

 

 即答だった。

 拒絶ではない。困惑でもない。本当に、その判断基準を持っていないだけなのだと分かる。

 

「私は、綾波レイではないの」

 

 その瞬間、シンジは胸が凍るような感覚を懐いた。

 そうか。

 この綾波は知らないのかもしれない。

 その名前が、シンジの中でどれほど多くの記憶に繋がっているのかを。

 自分が今、その名前に迷った理由を。

 

(言っちゃダメだった)

 

 そう思った。

 ここで何かを説明すれば、彼女はきっとその意味を考える。命令のためでも、自分のためでもなく、シンジの言葉によって、自分が何者かを測ろうとしてしまう。

 そんなことを、今の彼女に背負わせていいはずがない。

 

「……いや」

 

 シンジは首を横に振った。

 

「ごめん。変なこと聞いた」

「なぜ謝るの」

「……僕の問題だから」

「問題」

「うん」

「私は、綾波レイ」

「うん」

「それ以外の意味があるの」

 

 シンジは息を詰めた。

 鋭い問いではなかった。

 責めているわけでもなかった。

 ただ、言葉の隙間にある不自然さを拾っただけなのだろう。

 だからこそ、答えづらかった。

 

「……今は、ない」

「今は」

「……ごめん」

「また、謝った」

「うん。悪い」

「悪い」

 

 レイはその言葉を、小さく繰り返した。

 シンジは苦笑しかけて、やめた。

 笑ってごまかすこともできた。

 けれど、それではまた逃げてしまう気がした。

 

「君が嫌じゃないなら、僕は綾波って呼ぶ」

「嫌では、ない」

「……うん。じゃあ、そう呼ぶ」

「なぜ、迷ったの」

「僕の問題だよ」

「問題」

「うん、君のせいじゃない」

 

 レイは黙っていた。

 理解しているのか、していないのかは分からない。

 ただ、聞いてはいた。

 

「名前は、命令に必要?」

「命令のためだけじゃないよ」

「なら、何のため?」

 

 シンジは少し考えた。

 

「誰かを、誰かとして呼ぶため」

「誰かとして」

「番号とか、役割とか、命令とか、そういうものだけじゃなくて」

「分からない」

「うん」

「でも、記憶する」

「……ありがとう」

 

 レイは、ありがとう、という言葉の置き場所が分からないように黙った。

 それから、彼女の視線がゆっくりと下がった。

 シンジの手元。

 S-DAT。

 彼女の赤い瞳が、そこに留まっている。

 知っているものを見つけた顔ではなかった。でも、懐かしむ顔でもない。何かを思い出そうとしている顔でもない。

 ただ、見ていた。

 理由もなく、目だけが離れないように。

 

「……これ、気になるの?」

「気になる?」

「見てるから」

「……分からない」

 

 少しだけ間があった。

 

「分からないけど、見てしまう」

 

 シンジはS-DATを握る手に力を込めた。

 違う。

 この子は、あの綾波ではない。

 S-DATを持っていた綾波ではない。

 ゼルエルの中で手を伸ばした綾波ではない。

 彼女の中に、その記憶があるわけではない。

 それでも、目を逸らせない何かがある。

 

「……」

 

 同じ名。同じ原型。同じ始まりから作られた、別の存在。

 なら、自分はこの反応を何と呼べばいいのだろう。

 

「これは、古い音楽プレーヤーだよ」

「音楽プレーヤー」

「そう、音を聞く機械」

「音」

「うん。今は壊れてるけど」

「音は、命令に必要?」

 

 シンジは少しだけ笑った。

 

「たぶん、必要ないかな」

「なら、なぜ聞くの」

「聞きたいから、かな」

「聞きたい」

「うん。理由がなくても、聞きたいものってあるんだ」

 

 レイは古いプレーヤーを見つめている。

 

「分からない」

「そっか」

「でも、見てしまう」

「……そっか」

 

 それだけで十分だった。

 知っている必要はない。思い出す必要もない。彼女が何かを感じていると決めつける必要もない。

 ただ、目が離れない。今はそれだけでいい、か。そう思った。

 

「いつか、音が出たら聞いてみる?」

「それは、命令?」

「違うよ。試してみるかな、ってだけ」

「試す……?」

「うん。嫌なら聞かなくていい。分からないなら、分からないままでもいい」

「分からないまま」

「うん」

 

 シンジはS-DATをポケットに戻した。

 レイの視線が、それを追う。

 けれど、彼女は何も言わなかった。

 廊下の遠くで、機械音が低く響いている。

 NERV本部の奥で、何かが動いている。人の気配はなく、生活の匂いもない。ただ、目的だけが空間を満たしている。

 その中で、彼女は何も持たずに立っていた。

 

「じゃあ、また」

「……?」

「これ、別れる時に言う言葉」

「別れる時」

「うん。でも、また会うつもりがある時」

「また、会う?」

「うん。僕はまた来るよ」

「命令?」

「ううん。僕が、そうしたいから」

 

 レイは、シンジを見た。

 その目に感情らしいものはまだ薄い。

 けれど、何も映していないわけではなかった。

 

「そう」

 

 短く、彼女は言った。

 シンジは頷き、彼女の横を通り過ぎた。

 背中に視線を感じた気がして、振り返りかけて、やめた。

 今は、それでよかった。

 

 

 

 

 

 翌朝。ピアノのある広場へ向かう途中、シンジはずっとS-DATの重さを意識していた。

 古い機械で、壊れていて、音も出ない。

 それでも、レヴは捨てればいいと言った。

 黒いプラグスーツのレイは、理由も分からずそれを見ていた。

 カヲルは、戻りたくないものがあるのかもしれないと言った。

 自分は、何を聞きたいのだろう。

 答えは、まだ出ない。

 ただ、ひとつだけ分かったことがある。

 目の前にいる誰かを、自分の失ったものの形に押し込めてはいけない。

 けれど。

 

「……それだけじゃダメだ」

 

 違う存在として見る。

 そう決めるなら、自分が何を失わせ、何を残したのかも見なければならない。

 そうでなければ、また同じことを繰り返す。

 広場には、カヲルがいた。

 ピアノの前ではなく、崩れた柱の残骸に腰を下ろしている。赤く淀んだ空を見上げるその横顔は、いつもより少しだけ遠かった。

 

「やあ、シンジ君」

 

 カヲルは振り返らずに言った。

 

「そろそろ来ると思っていたよ」

「そういうところ、本当に不思議だね」

「今日は、少し分かりやすかったからね」

「僕、そんな顔してる?」

「音よりも分かりやすい時がある」

 

 シンジは苦笑した。

 

「また濁ってる?」

「いや」

 

 カヲルはそこで、こちらを見た。

 

「少し、沈んでいた。でも、沈むことだけを選んではいない」

 

 シンジは返事に困った。見透かされている気がした。

 けれど、不快ではなかった。

 

「レヴと会ったよ」

「そう」

「綾波とも、話した」

「うん」

「どっちも、僕にはちゃんと見えていない気がした」

 

 カヲルは静かに聞いている。

 

「でも、見えていないって分かったなら、まだ見ようとできる。そう思いたい」

「それは、とてもリリンらしい強さだね」

「……強さなのかな」

「少なくとも、弱さだけではないよ」

 

 シンジはS-DATをポケットの上から押さえた。

 自分が見ていないもの。

 見ようとしてこなかったもの。見たつもりになっていたもの。

 それらが、少しずつ目の前に並び始めている。

 

「カヲル君」

「うん」

「僕が初号機で起こしたことの跡を、見られる?」

 

 カヲルの表情から、穏やかな色が少し消えた。

 

「見たいのかい」

「うん」

 

 シンジは頷いた。

 

「怖いけど、見たい」

「それは、罰として?」

「違う」

 

 今度は、はっきりと言えた。

 

「罰を受けたいわけじゃない。自分を責めたいだけなら、たぶん一人でもできる」

 

 カヲルは黙っている。

 

「でも、それじゃ駄目なんだと思う。僕が誰かを助けたいとか、取り返したいとか言うなら、まず自分が何を残したのか見ないといけない」

「それが、君に必要なことかい?」

「うん。でも、義務っていうより」

 

 シンジは言葉を探した。

 

「見ないまま進みたくないんだ」

 

 カヲルは、しばらくシンジを見つめていた。

 その目は優しかった。

 けれど、どこか深いところで悲しんでいるようにも見えた。

 

「君は、目を逸らすことをやめようとしているんだね」

「やめられてるかは分からないけどね」

「やめようとしている。それだけでも、大きなことだよ」

「そうかな」

「そうさ」

 

 カヲルは立ち上がった。

 瓦礫の上に積もった白い塵が、わずかに舞う。

 

「分かった」

「カヲル君……」

「行こう」

 

 彼は静かに言った。

 

「君に見せたい場所がある」

 

 その声は優しかった。

 だからこそ、シンジの胸に小さな不安が落ちた。それでも、シンジは頷いた。

 見ると決めたのは、自分だ。

 進むと決めたのも、自分だ。

 その先に何があるのか、まだ知らない。

 けれど、知らないまま進むことだけは、もうしたくなかった。

 静寂の中、シンジはカヲルの後を追って歩き出した。

 

 

 







★あとがき

こんにちは、ジェニシア珀里です。
まずおことわりしておきます。一週間隔で投稿するわけではありません。あくまで投稿するタイミングをここにしたかっただけです。続きの進捗は、良いような悪いような微妙なラインです。
はい、正直これは保険です。ダサいだろうなと思ってます。でもすみません、そうさせてください。

最新プロットを書きながら、エヴァとは何か、それをずっと考えていました。
皆様にとってはどうでしょうか。第壱話から30年が過ぎ、シン・エヴァまで走りきった末に、自らの心に刻まれたものは何か。

私はそれを、語りたいのです。
そんな私のわがままですが、良ければ、どうかお付き合い頂けますと幸いです。
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