第1話 広い草原、広い広い空――
青空を見上げていた時間なら、きっと忘れてるんだろうと思ったりする。
なんて。
「おはよう」
君が言う。
「おはよ」
僕が返す。
彼女は僕の嫁。結構昔から付き合って、プロポーズして、結婚して……なんてことがあったとは思うけど、
「忘れていいよ」
だなんて、君が笑いながら言うものだから、僕はあっさりと忘れさせてもらった。
結婚何周年だなんて、きっちり決めて祝うほど、僕はしっかりしてはいないし、
出会って何年なんて、きっちり覚えているほど、君はしっかりしてはいないし。
でも、君があるとき言ったんだ。
「じゃあ、毎日を記念日にしよう」
いい案だと思ったんだけど、おぼえてる?
忘れてるかな。別におぼえてなくてもいいんだけど。
僕もさっき、思い出したばかりだし、ね。
記念日の案を出した時、君はこうも言ったんだ。
「幸いなことに、キミと私には時間がある。余裕もある。想いもある」
君はそう言って、かわいらしく首を傾げて、続ける。
「だったら、毎日を記念日にしたって、おつりがくる。……でしょ?」
そう言ったのは君なのに、二人とも覚えてはいなかった。
まぁ、不満じゃないけどね。
僕もさっき思い出した。から、しつこくは言わないよ。
しつこく言うのは苦手だしね。
って、君に言ったら笑ってくれるんだろうけど、ちょっとはずかしいや。
ちょっと歩いて、家から近場の、広くて見晴らしの良い公園に来た。
草原みたいだ、なんて僕は言ったけど、君は認めてくれなかった事を覚えている。
君が先に口を開いた。
「青空、きれいだね」
「うん、綺麗だね」
きっと口べたなんだろう。ぱっと思いついたのがこの言葉だったんだろうな。
なんて言ったら怒られるんだよね。そう分かるくらい、君のことをよく知ってる。
思い出したのは、このとき。
青空の真ん中に浮かぶ雲が、とっても綿菓子みたいで。
美味しそうだな、って言ったら君は笑うんだろうな、
なんて思ってたら、思い出したんだ。
のどかな自然のある国の国立公園みたいな、 ちょっとした坂のある草原の場所で寝そべる、二人。
君は坂を元気に滑り降りたんだけど、僕は転げて怪我をするのが嫌だったから、坂の上の方、坂のところでも傾斜がなだらかな場所に腰を下ろした。
丁度坂を駆け下りて、満足そうな顔をして少し息を荒くした君が帰ってきて、さっき話していた事の続きを聞いてきた。
「へえ、そんなこともあったかね。……で? 記念日、なってる?」
転んではいないはずなのに、何故か髪に木の葉っぱがくっついてきていた。
手を仰いで近くに来てもらって、その葉っぱを取りながら返答した。
「あんまり。ずっとこんな感じだから、記念ってほどでもないんじゃあない?」
案外、木の葉っぱはくっついてきていた。
前髪に一枚、後ろに揺れる長い髪に二、三枚。
髪の間に絡まってついてきていたので、取るのが大変だ。
僕が木の葉っぱと格闘している時、君は背を向けたそのままの姿で言ってきた。
「キミはいつもそうやって、きれいな感想を言うよね。青空みたいだ」
会話は続く。
「そりゃあ、とっても嬉しいね。君も、青空みたいに綺麗だよ」
「そういうことは、もう少し先に言うべきだとは思わないのかな? キミ」
「のんびり屋だし、仕方ないかな、なんて思ってる」
声が少し高くなって探偵っぽく聞こえる『キミ』って声が、君の声。
なちゅらるでかじゅあるな、けだるげな『君』って声は、僕の声。
分かりやすいね。
くっついてきた葉っぱは、無事に取りきれた。
「いいよ」なんて声をかけたら、前髪もぼさぼささせた君が振り向いた。
乱れた髪を直すのは僕だから、「あーあ」なんて言って汚さないよう意識させようとしたけれど、君はそんな事に気づかない様子で言った。
「そっか。別に気にしてないよ」
僕も、別に。気にしてないよ。
髪を撫で付けるのは嫌いじゃないし、ね。
あれ? うちの子ってこんなに可愛らしかったかな?
「うん。僕も」
「だよね」
「うん」
こんな、何でもない会話。
とっても綺麗で、僕は好きなんだよね。
って、そのまま、君に伝えてみる。
さっきのように風の流れる草の上に立ってはいない、足を揃えて草原に寝そべった君が、当たり前のように僕の隣に寝そべり、言う。
当たり前だったね。嫁だもの。
「そうなの? 私も好きだよ」
横顔だけ見せて、こちらには顔を向けない君。
赤く染まっている頬は隠せてないよ。って言ったら、怒られるんだろうね。
今度は僕が先だ。
「そっか。じゃあ、おなじだね」
「えへへ、……てれるね」
思いは、抗えないんだ。
感じてしまった思いが恥ずかしいものだったから、わざと言い出してみた。
「照れた君もかわいい、なんて言ったら、困る?」
横顔だけだった君の顔がこちらに向いて、笑った。
いつもの、悪巧みをするときの顔だ。
……何を考えているのか、僕には分からない。
「困らない。もっと言っていいよ」
悪巧みの顔。僕をいじれる空気になった時に、君が見せる顔。
もうその表情は知ってる、ってこと、君は知らない。
しかえしだ。
「僕のおなかに頭をのせて、膝をぺしぺし叩いてみて?」
「こう?」
寝そべったままで移動してきて、膝の間に君の姿が隠れる。
僕は足が長いから、冬に、ヒーターの前で体育座りをしてぬくぬくと暖を取っていた頃、昔飼っていた気がする犬が足の間に入ってきた記憶。そんな感じがした。
小さな指先が、膝のてっぺんをぱしぱしと打ってくる。
「これが、とてもかわいい」
「いいね。すごくいい褒め方だ」
ご満悦の様子。
僕も、今の褒め方はとっても良いと思って気に入った。
それを大好きな君に褒められて、嬉しくないわけはないよね。
「そりゃあ、てれるね」
実際、ちょっと赤面しちゃったけど、
僕の顎のすぐ下くらいに頭を移動させた君に、僕の頬は見られない。計画通りさ。
「いいじゃん、これ。膝もしっかりしてる」
「その感想はちょっと、あとちょっとってかんじ」
計画通りじゃない。変な感想で返されて、余計に赤面する。
微妙な着眼点の感想も、君が言うと格別だね。
って伝える前に、君はちょっと怒ったように言ってきた。
「かわいいって言う」
だから、僕は即座にこう伝えたんだ。
「そういうとこもかわいい」
「だよね。わかる」
そういうこと言っちゃダメ、って言いそうになった。
位置的に、君から僕の頬は見えないけど……逆に、僕は君の頬が見えない。
嫁の照れ姿が見えないのは誤算だったね。
「おなかが重いけど、あんまり重くない気がする」
変な感想で返してみる。
「重いほど重くないよ、私」
「意味が分からないよ」
「それがいいんじゃん」
意味は理解できる。
その言葉、面白いけど……君がそんな、複雑な表現を使える訳はない。
前に僕が考えて使った言葉かもしれないので、僕が忘れているだけかも。
さっすが。嫁はやっぱり侮れないね。
ってぇ意味で、意味が分からないよ。って言った。
嘘じゃないよ。めちゃくちゃな言葉だし、意味は分からない。
でもそこがいい。君だから、なんでもいい。
流石僕。上手い。
今さっき浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「それも照れ隠し?」
「どうかな。試してみる?」
「大好き。愛してる」
「だよね」
流石君。負けたよ。
やっぱり侮れないよね。
けれど、君の返答にはかすかに驚きが混じっていたのを、僕は見逃さなかった。
可愛いじゃんか。
「このまけずぎらいちゃんめ」
本当、僕の嫁は負けず嫌いなんだから。
「その感想はちょっと変かな」
負けず嫌いの君がそう言って対抗してくる。
だから、ちょっと、ちょっとだけ変な感想を、僕が返してみる。
「気にしたら木が恋しくなる」
「なにそれ。伝説の文豪が死ぬ前に書いた表現みたい」
「かんがいぶかい、って言いたいの?」
「ちょっと違う」
にやりと笑った顔を、見せつけるようにこちらに向けてくる君。
だけど、その顔ももう知ってるんだよね。
「って、言えばわかってるふうに聞こえるって算段でしょ?」
「ばれてる」
君は時々、そういう面白い表現をするよね。
君らしくて僕は好きなんだけど。
「しってたもん」
僕の呟きが草原に溶けた。
ふわー、っと溶けるような時間。
どこかも知らない地面には染みてほしくない。
できるなら、僕の膝に溶けていてほしい、そんな素敵な時間。
だから、僕は今すっごく感謝してる。ありがとね。
「で、そろそろかえる?」
「そでをひっぱるな。伸びる伸びる」
「かわいいでしょ、この動作」
「そういうこと言っちゃだめ」
飽きたように、仰向けだった体を僕の顔が見えるようにひっくり返した君。
僕はもう少しのんびりしていたかったんだけど、君が僕の服の袖を引っ張るもんだから、うとうとしかけていた意識が戻された。
「しらない。かえる? かえる?」
「……おなかすいたの?」
「えへへぇ、よくわかったね」
「……だよね。知ってた」
くいしんぼうちゃんめ、なんて言ったら怒れるので、今回は言わないことにするよ。
あ、怒れる、であってるね。
きっと君は『そんなこと言ってると本当に太っちゃうぞ』なんて言うだろうから。
「ねえ、言ったそばから寝るのはどうかと思うんだけど」
「幸せだから、帰りたくない」
お嫁さんを貰って言いたかったせりふ、第三位。やっと言えた。
今、僕、すごく……すごくすごく嬉しい。
「じぶんかってちゃんめ」
じぶんかってでよかった。