これまで読んでくださった読者様に、感謝を。
――雨が名残惜しい。
ふと、歩きながらそう思った。
もしあともう少し雨が降り続けていたのなら、二人だけの暖かい空間を、また感じることが出来たのに。
今上を見上げても、私たちを覆う傘は無い。手を伸ばしても、触れることの出来ない陽の光が暖かく差し込むだけ。雨は、窓を打ち付けるほど激しいものだったのにも関わらず、その名残は、空の紅みを映す地面にのみ残っていた。
「紗夜と一緒に居る日で、こんなに綺麗に夕日が見れたのって初めてじゃないか?」
「えぇ、もしかしたらそうかもしれませんね」
空から視線を外して、彼を見ながら同意する。私達は今、二人で無計画に公園を歩いていた。公園に生い茂る木々達は、先程の強い雨風にも負けずに、力強く私達を囲い、その枝に宿る紅葉達は、陽の光に負けないくらいの紅みを帯びていた。
「暖かい日が続いていたので、あまり実感がありませんでしたが、もう秋なんですよね」
そんな木々を傍目に、そう呟く。
――秋。どうも私は秋に縁があるらしく、この季節になると、色々な思い出が甦ってくる。
"私らしい音"を知った日。妹と約束を交わした日。――彼と出会った日。
どの思い出にも、私の背景には秋があり更に雨が降り注いでいた。
「確かに。今日はともかく、明日から結構冷え込むらしいぞ。今日の朝、天気予報で言ってた」
「そうなんですね」
彼が、心底嫌そうな顔で言う。彼は極度に寒さが苦手なのだ。
「ほんと、段々布団が離れなくなってくるんだよ……」
「なるほど。それで以前、お出掛けする日に遅刻してきたんですね?」
「その説は誠に申し訳ありませんでした」
彼が居た堪れない顔で謝ってくるのに対し、少しだけ勝ち誇ったような笑みを向ける。
この話を今井さんにしたら、「うっわ〜、それは無いわ〜……」と、渋い顔をしていた事は秘密にしておきましょう。
「過ぎた事ですし、もう気にしていませんよ」
「そうか、なら良かった」
「……そうやってすぐ開き直るところ、直した方がいいですよ」
いつも通りのやり取りで、どちらともなく笑い出す。
「まぁ、とりあえず、明日は暖かい格好して行った方が良いかもしれんな」
「分かりました。貴方の言葉を信じて、明日は少しだけ暖かめな格好をして行きましょう」
家に置いてある服を、頭の中で思い浮かべる。
そうなってくると、少し厚手の冬服を出さないといけませんね。確か、夏頃に今井さんと一緒にショッピングへ行った際に、買った服が何着かあったはず。今井さんが、私の好みに合わせて選んでくれたものなので、恐らく問題なく着こなせるでしょう。
「紗夜の着てくる服って基本的にセンスが良いからな。明日が楽しみだ」
「センスがいいだなんて……全然そんなことありません」
口では否定しつつも、少しだけ嬉しく思う私がいた。その反面、少しだけ申し訳なく思う気持ちもあった。彼が絶賛しているそのセンスは、ほとんど今井さんから教えて貰ったものであり、自分で培ったものではないから。
「本当だって。俺の友達もみんな、お前のこと美人だって言ってるぞ」
「……そんなの別に嬉しくありません」
そんな思いもあって、『貴方からそう思われているだけで、私は満足です』、なんて言える訳もなく、ただ素っ気ない返事だけを返す。
「そんな美人さんを独り占めできるなんて、俺は幸せだなぁ……」
しかし、素っ気ない返事をされてもなお、嬉しそうにする彼。本当に、恥ずかしいことを平然と言ってのける人ですね……。
空の紅さと相まって、私の顔色が悟られないのが幸いだ。
「まぁ要するに、それだけ俺が紗夜の事を好きだって事だよ」
「またそういう事……」
言動では彼の発言を否定しつつも、彼からの好きという言葉に、少しだけ心拍が上がっていた。
――"好き"。
昔の私にはわからなかった、この感覚。
ライブの時の緊張や、全力で走った後とは違う、鼓動の一定のリズム。それが、全身に暖かな血液と共に幸福感を運ぶような、そんな感覚をこの言葉は教えてくれた。
――私も、貴方のことが好きですよ。
隣の彼に微笑みかけつつ、心の中でそう呟く。
今はまだ無理でも。いつしか貴方の横で、この気持ちと、彼との関係と、向き合う日が来るかもしれない。
だから、その日まで――自分の声で伝えられる日が来るまで、この言葉は心に仕舞っておくことにする。
首に提げた錠のついたネックレスを握りしめて、静かにそう決意する。金属で出来たそれは、私の鼓動に呼応するかのように一度だけトクンッと揺れた――ような気がした。
もう一度彼の手を強く握り直してから、彼に笑顔を向ける。……さて、と。
「ところで、今朝天気予報を見てきたのに、何故傘を忘れたんですか?」
「へ?……あっ」
私の指摘に対し、一瞬ポカーンとした顔を浮かべた後、顔がみるみるうちに『やっちまった』という顔になっていく。
「はぁ……。どうせ貴方のことです。スマホを弄っていたら、たまたまそこだけ耳に残ったのでしょう?」
溜息をついて、冷静に彼の行動を分析する。
一度だけ、朝に彼の一人暮らしの家にお邪魔させてもらったことがあるのだが、スマホ片手に朝ごはんを食べる彼を見て、行儀が悪いと注意したのを鮮明に覚えている。恐らく今回もそんな感じで、たまたま点いていたテレビの音声のその部分だけを、小耳に挟んだのだろう。
「あー、まぁ、そんな感じ……」
「そうですか。それなら次からは、気を付けて、ちゃんと持ってきてくださいね」
彼の言葉に頷きつつ、公園の出口に向かうべく歩みを進める。なにか腑に落ちない気がしますが、これ以上突き詰めても恐らく雰囲気が悪化するだけなのでやめておきましょう。
……次は、私が忘れてみようかしら。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
もうどれくらいの時間、二人で歩いただろうか。
先程まですぐ近くの広場で、眩しいくらいはしゃぎ回っていた子供達の姿は、いつの間にか無くなっており、その代わりに備え付けられている街灯が、空いたスペースを明るく照らしていた。
「今日も、色々ありましたね」
公園の入口付近に建つ大きな時計を見つつ、そう呟く。もうすぐ帰らなければならない時間。大学生にもなって、子供達みたいに門限があるのは些か納得はいかないが、これも両親の――特に父親の性というものだろう。こうして大学に通わせてもらっているのだから、素直に従わなければ。
「そうだな。こうやって公園をただただ無計画に散策するなんて、雨の日じゃできないし、貴重な体験だった」
「もし他の女の子が相手だったら、きっと愛想つかされてますよ」
「そりゃ、そうかもな」
お互い声もなく、静かに笑う。当たり前だ。仮にもデートだと言うのに、無計画に公園を歩くだけなんて、イマドキの女の子からしたら退屈極まりないことだろう。
それでも、私にとっては凄く濃密で楽しい時間だった。現に、カフェであんなに話が弾んだ後なのに、公園で会話が、一度も途切れることはなかった。
恐らく彼もそれを感じてくれているのだろう。いつもは眠気眼で気だるげな顔が、終始満面の笑みであり、握る手の力はいつもより強く、そして温かい。
「まぁ、お前以外の相手なんかいないと思うけどな」
「また貴方はそうやって――」
彼の何気ない言動に対して、いつもの言葉を言いかけて、口を噤む。せっかく、良い感じの雰囲気なのだ。……たまには彼みたいに、自分の気持ちに素直になるのも悪くないかもしれない。
そう思い立ち、タハハと誤魔化したような笑い声をあげる彼の顔を見据えて、微笑みを称えながら言う。
「――いえ、私も、貴方以外の人はいないと思っています」
彼は私の言葉に一瞬目を丸くしてきょとんとしていたが、頭の中で言葉の意味を反芻したのだろう。頬が、みるみるうちに夕焼けのように真っ赤に染まっていっていた。
「……やっぱ、お前には敵わないなぁ」
彼の消え入るような声に答えるかのように、心拍数がドクンっと上がり、頬が上気していく。本当、私はいつからこんなに感情の起伏が激しくなっていたのだろうか。少なくとも昔の私では、こんなに心が満たされることなんて、そうそうなかったはずだ。
「おー、紗夜が茹でダコみたいだ」
私がそんなことを思っていると、同じく顔を真っ赤に染めたままの彼が、私を指さして笑っていた。恐らく彼なりの照れ隠しなのだろう。
「わ、私は別にそんなつもりはありません!第一この程度で恥ずかしがっていては、この先大変に――」
「へー?この先って一体何があるのかな~?」
口元に手を当て、ニヤニヤとこちらを見てくる彼。
「そ、それは……!」
言わせようとしてくる彼をキッと睨みつける。もう小学生でもあるまいし、そのくらい自分でも分かるはずなのに、この人は……!
「ごめんごめん、冗談。紗夜が俺との将来のことをちゃんと考えてくれてるってことだよな。それが知れて、すごく嬉しいわ」
「貴方との将来、本当にちゃんと考え直す必要がありそうですね」
「いや本当にごめんなさい。以後気をつけます」
彼のからかいに対して、私がいつもの様に否定する。肯定と否定の繰り返し。これが私と彼の日常。
雨は、そんな私達の日常を彩る背景の一部。それが今日という日だけは、夕焼けに塗り替えられることだろう。……明日からの日々は、どうか分からないけれど。
「さて、と。こんな所で立ち止まってるのもアレだし、そろそろ帰ろうか。家まで送るよ」
「はい、よろしくお願いします」
彼に頭を下げてお礼を言いつつ、帰路へと歩みを進め始める。
帰路を歩く間、私達はどちらともなく、まるで相合傘をしているかのように寄り添い合っていた。私達の距離は、きっとこれが一番良い距離なのだろう。
雨が私の日常を彩っているように、彼の存在もまた、雨と同じく私の日常を彩る人だ。それと同時に、彼からも、雨からも沢山のことを教えて貰った。
――雨は私に沢山の物を私にくれた。
日菜との思い出。あの日の約束。そして、彼との出会い。
――彼は私の心を満たしてくれた。
雨の日の相合傘は、いつも私の心を温めてくれた。
――雨はいつでも私を見守ってくれていた。
私の心が沈んでいる時は、一緒に泣いてくれた。時には怒り、時には『大丈夫だよ』と声を掛けてくれた。
彼は――。
「いつも通りここら辺でいいか?」
「……え?あ、そ、そうですね」
どうやら、いつの間にか考え込んでいたらしく、彼の声にハッとして顔を上げると、眼前には家の近くの見慣れた景色が広がっていた。
「そんじゃ、気を付けて帰れよ……っていってもすぐそこだし、大丈夫か」
「え、えぇ」
私の返事を聞いた彼は、一つ頷くと、パッと私の手を離す。
「あっ……」
「そんじゃ、今日はサンキューな」
いつもの様に、ニコッと笑いかけてくれた後に、身を翻して手を振る彼。私はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
いつもこうやって別れているはずなのに、どうして今日だけは、こんなにも胸がズキズキと痛むのだろう。
彼に握られていた手で、痛む胸元をギュッと掴む。まだ微かに残る彼の温もりは、外気に晒されて、今にも消え入りそうだ。
今日が終わっても、どうせ明日また会える。普段の自分なら、そう結論づけてこの痛みを忘れようとしただろう。――でも何故か今日だけは違う。
妹の曲を聴いて、彼を待っていた数十分。カフェで過ごした数時間。公園をくまなく散策したあの時間。そして、夕焼けを背景に満面の笑みを浮かべる彼の姿。全てが全て、今日初めてのことだった。恐らく、この先訪れることの無い、最良の時間。
そこまで考えて、気付く。
――私はきっと、寂しいのだろう。
私の知らない感情を沢山教えてくれた彼。私の事を沢山知ってくれようとした彼。私の過去を知っても尚、それを否定せずに今の私を受け入れてくれた彼。
彼と過ごした、今日という特別な時間が終わってしまう。その事に対して私は寂寥感を覚えているのだろう。
――まだ、彼と居たい。
そう結論づけたと同時に、私の身体は動いていた。
「あ、あのっ!!」
近所迷惑になる。そう思ったけれど、それでも抑えきれなかった声が、暗闇に響く。遠くなりかけていた彼の背中がピタリと止まり、どうした?という風に、こちらにゆっくりと体を向ける。
「あと、もう少しだけお時間をよろしいですか?すぐ終わりますから」
足早に駆け寄り、待っている彼の胸元に、私の両の腕をそっと置く。
「今日、カフェでお話した事、覚えてますか?」
「つぐみちゃん……の事じゃないよな。そうなると、教師のこと?」
「そうです」
彼の胸元で、一度だけ大きく深呼吸をする。彼の服から香る柔軟剤の香りが、私の強ばった心を優しく、柔らかくほぐしてくれる。
「私が教師になりたい本当の理由。それが今、分かりました」
彼の胸元から離れ、彼の目が見える位置まで下がってから、彼の目を見据える。
白金さんや宇田川さん。今までは私が彼女達に物事を教えていたのだと思い込んでいたけれど、それは半分間違いだった。私は、彼女達からも大切なことを学んでいたのだ。
「――大切なモノや人から、自分の良さを教わる楽しさや嬉しさ、もどかしさを、もっとみんなに知って欲しい。私はそれを教える人になりたい。子供達が楽しみながら物事を学んで、成長出来るような環境を作りたい。それが、私が教師を目指す目的です」
誰かに言われたからなんとなく――ではなく。これが私の、私だけの教師像だ。
「……そっかそっか。ようやく紗夜の言葉で、紗夜のことを聞けた気がするよ」
彼が、先程離れた距離をすっと縮める。気のせいか、少しだけ彼の目が潤んでいるかのように見える。
「紗夜はさ、きっと周りの期待に常に応えようと努力してきたんだと思う。でもさ、それは返って紗夜の本当にやりたいことを押し潰してしまってるんじゃないかなって心配で」
「貴方は私の父親ですか……?」
彼の言葉は、どう考えても彼氏から出る言葉ではないと、流石に恋愛情事に疎い私にも分かる。寧ろ私の父と同じ匂いを感じるくらいだ。
「やだよ紗夜の父親なんて」
しかし彼は、嫌みたいで。
「まぁ、私みたいな無愛想な娘は確かに――」
私は自嘲気味にそう呟いた。しかし、彼は私の言葉を遮るかのように最後の距離を一歩詰めると、
「だって、父親じゃお前と結婚できないじゃんか」
そう言って、私の体を抱き締めた。
「……ふふっ、貴方らしいですね」
彼の胸の中でそう呟きつつ、自分の腕を彼の腰に回す。いきなりのことで少しだけ戸惑ったが、不思議と緊張や恥ずかしさ等はなく、私の心は平穏でいて、陽だまりのような温かさに包まれていた。
こうやって抱き合ったのはいつぶりだろうか。……いや、もしかしたら初めてかもしれない。
「これからもよろしくな、紗夜」
「……はい」
返事をした直後、私の目から涙が零れた。
自分の閉じていたものを初めて打ち明けて、それを受け入れてくれたことへの安堵だろうか?それとも――。
理由はなんであれ、あと数秒もすればこの涙は肌に浸透するか、零れ落ちるかで消えてしまう。この瞬間もこの涙のようにすぐに終わってしまうものだろう。
――だから、私は"今"感謝を伝えなければ。
「夕季さん、私の新たな夢を気付かせてくれて、ありがとうございました」
彼の胸元から顔を上げ、彼の唇にそっと自分の唇を近付ける。
静かに目を瞑る。
あぁ、この瞬間がずっと続いてくれたら良いのに――。
――最後に一雫、雨が私の頬を静かに伝っていった。
読了お疲れ様でした。
このような氷川紗夜もきっと存在しているかも知れません。……今の彼女からは絶対に想像できませんが笑
これから二次創作の方は控えて、一次創作に集中していきたいと思いますので、応援の程、よろしくお願いします。
3ヶ月に渡る短編でしたが、根気強く待ってくれていた読者様。本当にありがとうございました。またどこかの舞台で会いましょう。
4/12 追記:連載して欲しい声が多数ありましたが、次回投稿予定のAfterStoryでこの小説を締めさせて頂きます。