とある科学の物質変化   作:ロボ燕

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#1 彼の始まり

“──ぼくと、ともだちになってくれる?”

“いや。わたし、よわむしはきらいなの”

 

 薄靄に包まれたように不鮮明な夢の中に、声が反響する。

 

 声の主は、同じぐらいの歳の少年と少女。黒い髪の少年は気弱そうな面持ちで、ついさっきまで泣いていたのか、目の周りに涙の跡がこびりついていた。

 

 しかし少女の方は、顔どころか全身の輪郭さえおぼろげだ。声も、少年のそれに比べて奇妙にエコーがかかったように聞こえる。

 

“じゃあ……ぼくが、つよくなったら……”

“かんがえてあげてもいいわよ”

 

 しゃくりあげながら問う少年に、少女は少しだけ口の端を上げて答える。顔の判別もできないというのに、なぜか彼には、少女が笑っていることが分かった。

 

“……やくそくする”

 

 ごしごしと目の周りを拭いながら、少年は決意を込めて言う。少女を見据えるその顔に、先程までの気弱な雰囲気はなかった。

 

“ぼく、つよくなる。だれにもまけないぐらい、つよくなる。だから────”

 

***

 

 

 その続きを呟こうとして、彼──瀬島秋人(せじまあきと)は目を覚ました。

 何度かまばたきをし、やがてむくりと身を起こすと、ぼんやりした頭で洗面所へ向かう。顔を洗いながら、秋人は先程の夢を思い返した。

 それは夢であって夢ではない、幼い頃の記憶。自分以外の記憶が全て曖昧になってしまってはいたが、『強くなる』という約束だけは、しっかりと刻み込まれていた。

 歯ブラシをくわえながら、秋人は顔にかかる髪をかき上げる。幼い頃は黒かった髪は、約束に対する彼の意思を象徴するかのように、燃えるような赤色に染め上げられていた。

 

 

#1 彼の始まり

begins night

 

 

 『学園都市』──人口の大半を学生が占めることからそう呼ばれるこの街では、『記憶術』や『暗記術』という名目で、学生を対象とした『超能力の開発』、すなわち『脳開発』が行われている。開発は基本的に学校単位で行われており、それは秋人の通う蘇芳坂中学校も例外ではなかった。

 

「秋人!お前、アレ見た?」

 

 教室に入るなりクラスメイトの一人にそう訊かれ、秋人は思わず一歩後ずさる。なんだか雰囲気が妙だ。その友人だけでなく、教室全体のが、である。ふと教室を見ると、あちこちで何人かが集まり、議論か何かをしているようだった。

 わけがわからず、戸惑いながら「……アレって?」と訊き返すと、その友人はじれったそうに答える。

 

「飛行船だよ飛行船!見てねーの?」

 

 飛行船とは、ニュースやら広告やらを流しながら学園都市の上空を行き交う、画面付き飛行船のことだ。上を向いて歩くのは流石に危険なため、見ないという人もいるのだが、今日に限ってはこの教室のほとんど全員が目にしているようだった。

 

 ということは、よほど衝撃的なニュースが流れていたのだろうか。昨晩の夢に思いを馳せていたために、飛行船を全く見ていなかった秋人には見当も付かず、首をかしげながら訊ねる。

 

「見てないけど……なんか面白いニュースでも流れてた?」

「面白いも何も、大ニュースだよ!8人目の超能力者(LEVEL5)が出たんだってさ!」

「…………マジで!?」

 

 『超能力者』という単語に反応し、秋人は目を剥いた。

 

 学園都市が開発する能力、及びそれを持つ能力者には、0から5までの強度という概念が存在する。超能力者とはつまり、学園都市に存在する能力者の頂点に立つ7人──もとい、8人のことで、その実力は、一人で軍隊と渡り合えるとも言われている

 要は『学園都市ベスト8』のようなもので、その中にも更に序列というものが存在している。

 第何位かはともかく、そのうちの一人になること。今現在、秋人にとってそれが『約束』を果たすための目標だった。

 

 そんな秋人が超能力者の話題に食い付かないはずがなく、矢継ぎ早に質問する。

 

「どんな人?能力は?序列は?どこの学校!?」

「わかんねー」

「は?」

 

  至極あっさりとした返答に、思わず拍子抜けしてしまった秋人を尻目に、友人は話を続ける。

 

「だから、わかんねぇの。名前も歳も性別も、それどころか序列も非公開でさ。他の超能力者に比べて情報が少なすぎんだよ」

 

 なるほど、と秋人は改めて教室を見回す。教室のあちこちで行われている議論は、おそらくそれに関するものなのだろう。よく耳をすましてみると、時々「イケメン」や「美人」といった単語が聞こえてきた。

 

「一つだけ分かってるのは《物質変化(トランスフォーマー)》って能力名だけ。どんな能力かぐらい教えてくれてもいいのになぁ」

「《物質変化》……」

 

 その名称を反芻し、考え込む秋人。そうしているうちに、友人は隣のクラスに呼ばれていった。どうやら新しい超能力者は学校中で、というより学園都市中で話題になっているらしい。

 じゃあな。うん。と言葉を交わし、秋人は自分の席に着いた。そして再び考えに没入しようとした矢先、今度は別な人物が話し掛けてくる。

 

「よう。なぁに考え込んでんだよ?」

「……あ、おはよ、翔」

 

 顔を上げた秋人の前に立っていたのは、眼鏡を掛けた茶髪の少年。中学校に入学して以来の友人である彼は、蓮城 翔といった。

 

「どんな奴なんだろうな、《物質変化》」

「え?」

「『え』じゃねぇよ。そのこと考えてたんじゃなかったのか?」

 

  前の席に座りながら、呆れたように言う翔に、秋人は少し考えてから答える。

 

「うーん……まあ、『物質』を『変化させる』能力だとは思うけど」

 

 そのままじゃねぇか、と呆れられるが、それ以外に思い付かないのだから仕方がない。頂点の8人に名を連ねるほど強力なのは確かだが、なまじ名称が明らかになっているせいで、そこから連想される能力が限られてしまうのだ。

 それは周囲で話しているクラスメイトも同じなのか、議論の方向はもっぱら外見や性格に向いているようだった。

 

「ま、当たり前っちゃ当たり前か……お、京子」

 

 そう言って、翔は教室の入り口に向かって手を挙げる。目をやると、黒髪をポニーテールにした少女がこちらに向かって来るのが見えた。

 雨宮京子(あめみやきょうこ)。小学校に入る前から付き合いのある、秋人の幼馴染である。

 

「……なに、あんたたちも《物質変化》の話?」

 

  翔の隣の席に座りながら、呆れたように京子は言う。

 

「『も』ってことは、やっぱり話題になってんの?」

「話題になってるどころじゃないわよ。どこもかしこもその話ばっかり。ここに来るまで、少なくとも10回はその話聞いたわね」

 

 心底うんざりした口調で言いながら、京子は先程から一言も喋っていない秋人を見やる。聞いているのかいないのか、翔と京子が話している間、彼は視線を何処へとなく漂わせているだけだった。

 ずい、と身を乗り出し、秋人の顔を覗き込む京子。それにようやく気付いた秋人は、思わず身を引いた。

 

 

「な、なに……?」

「……あんた、また『あの夢』見たんでしょ?」

 

 ぐ、と秋人は言葉に詰まる。彼以外に『夢』のことを知っているのは、京子と翔の二人だけだ。特に京子の方は、翔よりも付き合いが長いだけあって、この話題には敏感だった。『夢』の話になると妙に不機嫌になるのも彼女の方なのだが。

 答えあぐねる秋人を見て、京子は更に何かを言いかけるが、それは始業のチャイムに遮られる。程なくして担任の教師が姿を現し、話は打ち切られてしまった。

 

 

***

 

 

  結局その後も『夢』の話題には触れないまま迎えた、放課後。秋人と翔の二人は、ファミリーレストランで食事を摂っていた。

 

「……お前、身体検査(システムスキャン)の結果、どうだった?」

 

何の脈絡もなく翔が訊ねてくる。突然の質問に驚きつつ、秋人は答

えた。

 

「あー、前回と同じ、大能力(LEVEL4)だったけど。翔は?」

 

 俺も同じ、と、翔は空になったグラスに水を注ぎながら言った。

 身体検査とは、年に数回行われる能力の測定のことだ。《物質変化》の発表も、身体検査の結果あってのことである。

 

 測定の結果自体は朝のHRで手渡されていたが、二人はそれについて学校で話すことはしなかった。何故なら。

 

「……京子、やっぱり無能力者(LEVEL0)だったのかな」

「……多分な」

 

 この場にいない親友のことを考え、二人は重い息を吐く。

 無能力者──開発を受けた学生の中で、スプーンを曲げる、物を空中に浮かばせるといった僅かな能力さえ手に入れることができなかった者。京子がその無能力者であることが、理由だった。

 もっとも、京子の方はレベルなどさして気にしている様子は見せていない。要するに、二人が勝手に気を使っているだけなのであるが。

 それでも、なんとなく暗い雰囲気になってしまった二人は、早急に食事を終え、帰宅しようとしたのだが。

 

「……しまった」

「どうした?」

「財布、学校に忘れてきた」

「……そりゃ一日中ボーッとしてたらそうなるわな」

 

  幸い、翔が十分な額の金銭を持っていたため、問題にはならなかった。呆れながらも自分の分を立て替えてくれたことに感謝し、秋人は財布を取りに行く旨を伝えた。

 

「は?なんでわざわざ取りに行くんだよ。どうせ明日も学校だろ?」

「いや、なんとなく不安だからさ。先に寮に帰ってて!」

 

 それだけ言って、秋人は走って行ってしまった。あっという間に遠ざかる背中を見て、了解の意を示す暇もなかった翔は、せめて返事ぐらいさせろっての、と呟きながら帰路についた。

 

 

***

 

 

 学校への道は闇に包まれつつあり、ぽつりぽつりと街灯が点きはじめていた。やっぱり明日にすればよかったかな、と考える秋人だが、依然としてその足は学校へと向いたままだ。このあたり、彼も頑固だった。

 

 携帯電話を開くと、ディスプレイに表示された時刻は『19:21』。校門が閉まる時間を正確に把握していたわけではなかったが、遅くなりすぎるのはまずいと思い、近道をしようと普段は通らない角を曲がった、その矢先だった。

 

 不意に、何もないところから声が聞こえた気がした。

 

 否、何もないわけではなかった。声のする方向に目をやると、ビルとビルの間、ちょうど街灯の光が届かない路地で、三人の男が一人の少女を取り囲んでいた。ナンパかカツアゲかだろうか。いずれにせよ、ろくなことではないことは確かだった。

 

 その様子を見て、秋人は歯ぎしりをする。彼自身、似たような経験があるだけに、目の前の光景を見て見ぬふりをすることができなかった。だから。

 

「……その子を放してください」

 

 気付けば、男たちに向かって啖呵を切っていた。

 その声に振り向いた彼らは高校生に見え、秋人より頭一つ背が高く、揃いも揃って物騒な目付きをしていた。

 

「……んだよ、中坊かよ」

 

 秋人を確認すると、男たちはにやりと底意地の悪い笑みを浮かべた。いいカモだ、とでも思っているのだろうか。

 実際、秋人と男たちにはかなりの体格差がある。たとえ男たちが無能力者で、秋人が能力を全力で使ったとしても、勝てるという保証はなかった。

 秋人自身、そのことはよく分かっていた。だから元から戦う気などさらさら無く、自分が引き付けている間に少女に逃げてもらおう、という魂胆だった。

 しかし、肝心の彼女は動く気配を見せなかった。暗がりにいるため表情は分からないが、もし怯えているのなら、男たちを挑発してこの場から遠ざけるまでだ。そう考え、秋人はあからさまにため息を付いた。

 

「あ?なんだてめぇ」

 

 それを見て、最初とは別の男が苛立った声で突っかかってくる。かかったな、と心の中で呟き、秋人はまるで諭すかのように続けた。

 

「……あんたら、恥ずかしくないんですか?」

「あぁ?」

「か弱い女の子に男三人がかりで、恥ずかしくないんですか?って訊いてるんです」

 

 そう言った直後、ぶちっ、という音が聞こえた気がした。

 しかし、目の前の男たちが何かしたようには見えない。なら何の音なのだろうかと考えを巡らせていると、ドスの利いた声で、三人目の男が嘲ってくる。

 

「……おいクソガキ。ケンカ売ってんだったら、喜んで高値買い取りして──」

 

 その続きを聞くことは、叶わなかった。男の方は最後まで言い切っていたのかもしれないが、いずれにせよ判別を付けることはできそうにない。それほど唐突で凄まじい爆発音が、辺りに轟いていたからだ。

 秋人がゆっくりと振り向くと、向かい側の道路で闇夜を照らすように炎が上がっていた。どこまで飛んでいたのか、そこに停められていたと思われる車が、部品を撒き散らしながら落下し、ぐしゃりと潰れる。もはや原型を留めてはいなかった。

 それを為したのは秋人でも、恐らくその光景を唖然とした表情で見ている男たちでもない。

 となると、残りは────

 

「誰が、弱いですって……?」

 

 向き直った秋人の見つめる先、男たちの背後で、バチバチという弾けるような音が断続的に発せられていた。

 その音の主は、少女。彼女がいる暗がりだったはずの空間は、今や青白く照らされている。少女自身が放つ、電気によって。

 

「誰が弱いのかって……訊いてんのよっ!」

 

 そう言うと、少女は身に纏った電気を更に苛烈なものにする。まるで雷雲そのものかのような彼女から尋常でない力を感じ取った秋人は、口をあんぐりと開けたままの男たちに、至って冷静に告げる。

 

「……あんたら、逃げたほうがいいかも」

 

 その言葉に、男たちは律儀にも頷き、悲鳴を上げながら脱兎の如く逃げ出した。それを見届けると、秋人は少女に視線を戻す。

 歳と身長は秋人と同じぐらいだろうか。茶色の髪を首の下辺りで切り揃え、学校の制服であろう灰色のスカートと白いブラウス、その上にサマーセーターを着ている。怒りを露にしているものの、顔立ちは整っており、『美少女』という言葉を想起させた。

 

「……で」

 

 沈黙を破ったのは、少女の方だった。

 

「もう一回だけ訊くわよ。……誰が、弱いですって?」

 

 やっぱりか、と秋人は心の中で呟いた。男たちが逃げるのを追わなかった時から、というより彼女が最初に怒りを見せた時から感付いてはいたが、彼女は秋人に対して怒っているらしい。

 

 その原因は恐らく、『弱い』と言われたこと。

 

「あの……勘違いさせたならごめん。俺、『弱い』じゃなくて『か弱い』って言ったんだけど」

「そんなこと分かってるわよ。どっちにしろ、あんたが私を『弱い』って思ってるってことに変わりはないでしょ」

 

  弁明を遮られ、秋人は言葉に詰まる。

 少女の言うことは間違ってはいなかった。秋人は確かに、彼女が危ないと思ったから助けたのだ。

 それはつまり彼女が──少なくとも男たちよりは──『弱いと思った』ということになる。秋人自身にその気はなかったが、結果としてそうなってしまうのだ。

 

(……何を言っても無理そうだなー、これは)

 

 説得は諦めかけていた。というより、少女の方が既に臨戦態勢に入ってしまっている。下手に説得しようとしても、彼女を余計に刺激するだけだろう。

 しかし、そんな状況とは裏腹に、秋人の表情に落胆の色は見られない。むしろ、輝いてさえいる。強さを求めるが故に、強い能力の持ち主に対して、憧れの念を抱かずにはいられないのだ。

 そして、そんな人物と勝負をしてみたいという気持ちも、少なからずあった。喧嘩や殺し合いではなく、互いに傷付ける意思がないことが前提の『勝負』だが。

 

「……君が弱いって言うつもりはなかったけどさ」

 

 依然、不機嫌な目で電撃を発する少女の前で、秋人はゆっくりと右腕を持ち上げる。

 

「……勝負するって言うなら、受けて立つよ?」

 

 一瞬の集中の後、広げた掌の上に、バレーボール大の火球が出現した。

 それを見た少女は、一瞬驚いたような表情になるが、すぐに口許を僅かに上げて不敵に笑った。望む所だ、といったところだろうか。

 発火能力(パイロキネシス)。文字通り、火炎を操る能力である。その中でも秋人の有する能力は、《火炎爆弾(ファイアボール)》と呼ばれていた。

 対峙する少女の能力は、十中八九電気を操る《電撃使い(エレクトロマスター)》だろう。50m近く離れた所にある車を天高く吹っ飛ばしたその威力から、レベル3以下であることは有り得ない。

 いい勝負ができそうだな、と笑みを浮かべた秋人に呼応するかのように、彼の掌の火球が勢いが増す。それを見た少女もまた満足げな表情で口を開く。

 

「……手加減は、無しで行くわよ?」

「こちらこそ」

 

 各々の発する能力は、今や太陽や雷と見紛うほどになっていた。

 夜の闇の中にあって、真昼の如く光が溢れる路地。そんな奇妙な空間を描き出す火球と電撃が、遂にぶつかり合う────その寸前、遥か遠くからサイレンの音が聞こえ、二人は手を止めた。《警備員(アンチスキル)》と呼ばれる、対能力者用の治安組織のものだ。

 

(…………遠く?)

 

 否、遠くではない。始めこそ幽かだったその音は段々と近付いて来ており、はっきりと聞き取れるほどになっていた。

 どこか近くで事件でも起こったかな、と考えた瞬間、嫌な予感が秋人の頭をよぎった。

 ゆっくりと振り返ってみると、その予感は的中する。先程少女が吹っ飛ばした車──『だったもの』の周りに、人だかりが出来ていたのだ。

 

(やばっ!)

 

 幸いにもこちらには気付いていないらしいが、それも時間の問題だろう。警備員が到着すれば、確実に見つかる。そうなった後のことは考えたくない。

 

「────休戦っ!」

 

 そう叫び、秋人は路地を、少女の方に向かって駆け抜けた。

 

「はぁ!?ちょっ、待ちなさいよ!」

「後ろ見て、後ろ!」

 

 彼が壁になっていたために状況が分かっていない少女に、秋人は親指で自分の背後を指しながら言う。すれ違い様、向かい側の道路に視線を向けた少女が、小さく「げ」と呟いたのが聞こえた。

 

 それから後のことは、よく覚えていない。なるべく人目につかない路地を走り抜け、息も絶え絶えに寮に辿り着いた頃には、既に8時を回っていた。

 ここまで来れば安心だろう、と呼吸を整え、心臓の鼓動が落ち着いてから、はたと気付く。

 

(……よく考えたら俺、何もしてないじゃん)

 

 車を吹っ飛ばし、大破させたのは少女だ。そうさせてしまったのは自分の言動が原因だが、少なくとも逃げる必要はなかったはず。警備員に見付かったとしても、厳重注意か、運がよければ職務質問程度で終わっただろう。

 だが、逃げてしまった。これでは思いっ切り共犯に見えてしまうではないか。というか、先に逃げたのだから、主犯に見えなくもない。

 首を突っ込んだのは自分の意思だ。だから災難だと嘆くつもりはないし、少女を非難するつもりもない。そもそも、助けるにしても、余計なことを言わなければ車は大破せずに済んだのだ。

 かと言って、少女を警備員に突き出せばよかったわけでもない。彼女は元々被害者だし、誰かを犠牲にして自分だけが助かるなどという真似はしたくなかった。

 やり場のない気持ちが、胸の中に停滞する。どんな気分になればいいのかも分からず、ただ疲れたと言わんばかりの溜め息をつくことしか出来なかった。

 結局何をする気にもなれず、風呂に入ってベッドに倒れ込む。その時になって、彼はやっと気付いた。

 

「…………財布、取ってくるの忘れた」

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