脈打つ心臓の音が、やけに大きく聞こえる。それは緊張によるものなのか、それとも興奮からなのか。区別を付けることは、出来そうになかった。
──大丈夫だ。きっとうまくいく。心配する必要はない。
そう自分に言い聞かせて、彼は手の──というより全身の震えを抑え付け、なるべく目立たない場所に、それを置いた。
とあるコンビニで、警察と警備員によって、店員や客たちの避難誘導が行われていた。指示に従いはしたものの、外に出された人々は皆、あまりにも突然の出来事に戸惑いの色を隠せないでいる。
入り口に『立入禁止』と書かれた黄色いテープが貼られ、封鎖の作業が進むなか、腕章を付けた学生服の男女が数名、白い手袋を嵌めながら店内へ入って行った。風紀委員である。
その様子を、彼は夜の闇に紛れるように、息を殺して窺っていた。
──立てた計画は、何度も見直した。それこそ、回数が分からなくなるぐらい。ごく自然な頻度でそこに通い、幾度となくシミュレーションもした。
──なのに、なんで僕はこんなに不安なんだ?
風紀委員がコンビニ内に踏み込んで、既に数分が経った感覚がある。計画では、そろそろ次の段階に移ってもいい頃合いだった。
だが、一向にその気配は見えず、彼は次第に焦りはじめる。
──まずい。能力の細工を忘れたか?いや、それは確かにやった。となると、時間の設定を間違えたのかもしれない。
しかし、彼が時計を確認すると、思ったほど時間は経っていなかった。時間の流れが遅く感じる、というのは、まさにこんな状況のことを言うのだろう。
早くしないと、連中がアレを見つけてしまう。そうなれば、僕はもう終わりだ。
──頼む。早く!頼むよ!
祈るような気持ちで、時計とコンビニとを交互に見る。
そして遂に、時計の針が設定した時刻を指し、彼は目を上げた。
しかし、何も起こらない。彼は、足元が崩れ去ったような感覚に見舞われた。
──失敗した。そんな、嘘だ。
自分が『アレ』を仕掛ける瞬間は、監視カメラにばっちり捉えられている。逃げることは無意味だった。襲い来る絶望感から、彼は地面に膝をつく。
その直後、店内が一瞬、赤い光で満たされ、続いて爆発音と共に、道路に面したガラスが外側に向かって一枚残らず砕け散った。
》はっ、と彼は顔を上げる。避難していた店員や客たちが悲鳴を上げ、警察と警備員は大慌てで何処かへと連絡を入れている。割れたガラスからは、もうもうと煙が立ち上っていた。
やがて店内から、調査をしていた風紀委員が姿を見せる。全員が負傷しているようだが、軽い火傷程度だ。命に別状があるようには見えない。
それを確認すると、彼は震える足で立ち上がり、人気のない路地へ向かって疾走した。
どれくらい走っただろうか。ここならもう安全だろう、という場所で足を止め、膝に手をついて前屈みになり、呼吸を整える。
荒い息遣いがようやく収まると、彼は自分の両手を眺める。明らかに暑さや運動からではない、滴り落ちるぐらいの量の汗で濡れているその手は、歓喜や恐怖やらがごちゃ混ぜになったよく分からない感情で、どうしようもなく震えていた。
自分でも気付かない内に、はは、と虚ろな笑い声を上げていた。
監視カメラには捉えられたが、記録媒体のほうはどうせ壊れている。だから、自分の仕業だと感付く者がいるはずはない。暗い喜びと達成感とが、彼を満たしていった。
その一方で、心の何処かでわずかに覚えた罪悪感を、彼は無理矢理押し殺した。
──『申し訳ない』なんて思うな。そう思うべきなのはあいつらの方だ。
──そう、これはあいつらの自業自得だ。あいつらがちゃんと仕事をしていれば、僕がこんな事件を起こすこともなかったんだ──。
#5 虚空爆破
graviton
「──で、どんなカッコだったの?その……『お兄ちゃん』」
「うんとね、お兄ちゃんみたいな髪の毛だった!」
手を繋いだ少女の話に耳を傾けながら、ややこしいなー、と秋人は心の中で思う。どうやら彼女は、自分より年上の男性で、『おじさん』や『おじいさん』でなければ、誰に対しても『お兄ちゃん』と呼ぶらしい。先程の会話がややこしいのは、そういった理由だ。ちなみに、秋人が言った『お兄ちゃん』は少女が探しているらしい人物。彼女が言った『お兄ちゃん』は秋人のことである。
なぜ彼が人探しの手伝いをしているのか。事の発端は、数分前に遡る。
秋人が服を見ようと、『セブンスミスト』という名前の服屋へ入ると、どうやらセールか何かをやっていたらしく、店内はごった返していた。それこそ、捲き込まれて一歩も動けなかったほどだ。
幸いセールの時間はすぐに終わり、それ目当ての客の大部分は帰っていった。人混みから解放された秋人の近くには、同じくバーゲンセールに捲き込まれて連れの『お兄ちゃん』とはぐれたらしい少女がおり、途方に暮れていた彼女に声を掛けて、今に至る。
(俺みたいな髪、か……)
少女の言った『お兄ちゃん』の特徴を思い出しながら、己のぴんぴんと跳ねた赤い髪を弄る。彼女の言った特徴は恐らく髪型の事だろう。こんな派手な色の髪の人間なら、見失う筈はない。
そう推測し、捜索を続けること、数分。隣を歩く少女が、唐突に前を指差した。
「……あ!お兄ちゃんだ!」
駆け出した少女に繋いだ手を引っ張られる形で、秋人は走る。やがて彼女は、その声に振り向いた一人の少年の前で立ち止まった。
至って平凡な顔付きの少年だった。歳はおそらく秋人よりも上で、体格は中肉中背。特徴といえば、ハリネズミか、さもなくばウニを彷彿とさせる、ツンツンとした髪型ぐらいだ。すごい頭だな、と秋人は一瞬、自分も『すごい頭』であることを忘れていた。
少年の方も彼女を探していたらしく、走ってくる少女を確認すると、安堵の表情を浮かべる。次いで、引っ張られる秋人に向かって言った。
「悪いな、世話かけさせちまったみたいで」
「いえ。別に急ぐ用事もなかったんで、大丈夫ですよ」
そう言った秋人に、少女が「ありがとうお兄ちゃん!」と礼を言う。笑みを浮かべてそれに応え、挨拶をして立ち去ろうと顔を上げた、その時。
秋人の目に、見覚えのある人物が映った。
***
同時刻、セブンスミスト。
「じゃじゃーん!初春、これどーお?」
「そ、それ、穿くんですか……?」
下着売り場では、佐天が明らかに大人用と分かる商品を手に取り、それを目にして動揺する初春をからかっていた。その近くには佐天を諫めつつ、時に悪乗りする京子と、彼女らのやりとりを笑顔で眺める美琴がいる。
(そういえば、黒子がこんなの持ってたっけ……)
先程まで佐天が持っていた下着を手に取り、美琴は思い返す。
所有・使用しているのは個人の勝手なのだが、誘っているつもりなのか風呂上がりに見せつけてきたり、無理矢理穿かせようとしてくるのだから始末が悪い。あまりのしつこさに、一度電撃を浴びせてしまったほどだ。その結果、寮の電気系統がダウンしてしまい、黒子共々寮監にこってり搾られる羽目になったが。
その黒子は、この場にはいない。どうやら風紀委員の仕事があるらしく、同行できないことを悔しがっていた。
「御坂さんは、何か見る物あります?」
「私は……パジャマを見たいんだけど、いいかな?」
「あ、それならこっちですよ」
下着の買い物を終えた一行は、佐天の案内でパジャマ売り場に着く。そこに置かれた品々を見て回っていた美琴の目が、ある一点に釘付けになった。
彼女の視線の先には、なんとも可愛らしい──言い方を換えれば、子供っぽい柄のパジャマが置かれていた。
目を輝かせ、それに見入る美琴。と、そこに別の棚を見ていた佐天たちがやって来る。視線をパジャマに固定したまま、彼女は三人に声を掛けた。
「ねえ、これかわいく──」
「うっわ、見てよこの子供っぽいパジャマ!今時こんなの着る人いるんだー」
「小学生の時は着てましたけど、さすがに今は……」
「……サイズは中学生くらいまであるみたいだけど、需要あるのかな」
──が、言い切る前に佐天が発した言葉も、それに続く初春と京子の言葉も、美琴の期待を裏切るものだった。
彼女たちに悪気はなく、素直に感想を述べているだけなのだろうが、美琴は自分を否定されたような気持ちになる。あまりのショックに、京子が「どうしたの御坂さん?」と声を掛けるまで固まってしまっていた。
「……あ、私達、ちょっとそこで水着見てきますねー」
離れていく三人を、美琴は引きつった笑顔で見送る。やがて彼女らが水着売り場に着いたのを確認すると、拗ねたような表情になった。
(……どーせ私は子供っぽいですよーだ)
心の中で呟き、美琴はパジャマに視線を戻す。
子供っぽいと散々こき下ろされたが、やはり欲しい。とはいえ、ここで買ったら確実に変な目をされる。明日一人で来よう、と心に決めた美琴だったが、着てみたいという誘惑に打ち勝つことは難しかった。
(……合わせるだけ。鏡の前で一瞬合わせてみるだけだから!)
そう決心し、チャンスを窺う。佐天たち三人の目が自分に向いていないことを確認すると、音の壁にぶつかるのではないかと思うほど速く、美琴は鏡の前に向かい、パジャマを合わせた。
鏡に映っていたのは、可愛らしいパジャマを両手で持った自分──と、その奥に、自分のこういった姿を見られたくない人物のツートップ、ツンツン頭の少年と、赤い髪の少年だった。
幻覚だ、目の錯覚だ、と思いたかった。が、今現在この世で最も聞きたくなかった二つの声のうちの一つが、彼女を現実へと引き戻す。
「……何やってんだ、お前?」
ばっ、と勢い良く振り向くと──実物が、いた。
「あああああ、あんたたち、なんでここにっ!?」
激しく動揺する美琴に対し、ツンツン頭の少年は「いちゃいけねーのかよ」と面倒くさそうに返す。そんな光景を、秋人は不思議そうに眺め、訊ねる。
「……知り合い?」
「それはこっちのセリフよ!あんたたち、知り合いだったの?」
「いや、知り合いっていうか、さっきそこで知り合ったっていうか……あ、俺、瀬島秋人っていいます」
「ああ、俺は上条当麻。よろしくな」
目の前で呑気に自己紹介を始めた二人に、美琴の苛立ちは募っていく。そしてとうとう、だぁっ!とお嬢様らしからぬ声を上げ、上条と名乗った少年を睨み付けた。
「そんなことより、昨日の決着をここで……!」
どうやら上条との間に何らかの因縁があったらしく、体に電気を纏わせる美琴。それを見た秋人は、慌てて二人の間に割り入る。
「ちょっ、ストップ!」
「何よ、邪魔する気!?」
「いや、こんな所で電撃ぶっ放したら停電するから!」
秋人の言葉に、かつて自分が寮の電気系統を全滅させた時のことを思い出し、美琴はたじろぐ。
「大体お前、こんな子供の前で始めるつもりかよ?」
追い討ちをかけるように言った上条の隣で、小さな女の子が不思議そうに自分を見上げていることに、美琴はようやく気付いた。
「文句があるなら消えてやるから。じゃあな」
それだけ言って、上条は少女と共に去っていった。
美琴はしばらくの間、その背中を睨み付けていたが、追うことはしなかった。やがて溜め息をついて肩を落とし、動く様子のない秋人に向き直る。
「……あんたは行かなくていいの?一緒だったんでしょ?」
「うん。俺はあの子が上条さんを探すのを手伝ってただけだから。……ところでそれ、何?」
秋人が指差したのは、美琴が持っているパジャマだ。慌てて背後に隠しはしたものの、ばっちりと柄を見られてしまったのは明らかだった。
「……………………でしょ」
「……もう一回言ってくれる?」
蚊の鳴くような美琴の声を上手く聞き取ることができず、秋人は訝しげに訊き返す。
「中学生にもなって、こんな柄のパジャマなんて……似合わないって思ってるんでしょ……?」
きっ、と秋人を睨む美琴の顔は、真っ赤に染まっている。見られてしまったことがよほど恥ずかしいのだろう。
が、返って来た返事は、美琴の予想の斜め上を行っていた。
「いや、全然」
「……へ?」
笑うでもなく、ごく自然に言った秋人に、思わず間抜けな声を出してしまう。秋人はというと、そんな彼女をきょとんと見つめるだけだった。
「ほ、ホントに?子供っぽくない?」
「うん。すごくいい柄だと思うけど」
不安げに問い質す美琴に、秋人は相変わらず真顔で答える。どこにも悪い所はないのに、なぜ購入を躊躇っているだろう、とでも言いたげな口調だった。
「そ……そうよね!可愛いわよね、これ!やっぱり買ってこよっと!」
言うが早いか、美琴はパジャマを大事そうに抱えてレジに向かう。その足取りは軽く、スキップしているようにさえ見える。自分のセンスが間違っていなかったことに、浮かれているようだった。
そんな彼女を、佐天、初春、京子の三人は、水着売り場から眺めていた。正確に言えば、美琴が大声を上げた時からずっと見ていたのだが。
「……御坂さん、買っちゃいましたね……」
「しっかし、秋人にあんな趣味があったとは……。もしかして秋人ってロリコ──」
「佐天さん、あいつの名誉のために言っておくけど、それは違うよ」
子供っぽい柄のパジャマを絶賛したことと、最初に美琴の方を見たときに小さい女の子と一緒にいたことからそう判断したらしい佐天の言葉を、京子は中途で遮る。「どうしてですか?」と初春が訊くと、彼女は考え込むような表情になった。言うか言うまいか、迷っているようだ。
「……なんであいつが制服着てるのか、分かる?」
数秒後、京子の口から出た言葉に、二人は秋人の装いを見る。夏休みだというのに、確かに彼は学校の制服を着ていた。同じ学校の京子は私服であるため、常盤台中学のように『常に制服を着用』という校則があるわけでもないらしい。
それなら、なぜ制服なのか。わけが分からなそうにしている二人を見て、京子は言いづらそうに口を開く。
「あいつね……私服のセンスが壊滅的なの。だから『外では絶対に私服を着るな!』って言って、制服着させてるのよ」
「それって……」
「つまり……」
美琴が気に入ったパジャマを、ファッションセンスが壊滅的な秋人が絶賛した。つまり、美琴のファッションセンスもまた然り、ということになってしまう。京子が言いづらそうにしていたのは、その為だったのだ。
この話は美琴には言わないでおこう、と、無言で決心した三人であった。
***
「『
聞き覚えのない単語に、秋人は首を傾げる。三人と合流し、黒子が一緒にいないことを疑問に思った彼に対して、初春が出した答えがそれだった。
彼女の話によると、『虚空爆破事件』とはここ最近頻発している連続爆発事件のことで、黒子、というより高レベルの能力を持つ風紀委員が、その捜査に駆り出されているらしい。
事件の起こった場所や時間に共通点はなく、犯人に繋がる情報は、その犯行が《
風紀委員が捜査に参加している理由は、そこにあった。能力者による事件なら、警察や警備員よりも彼らの方が向いている、というわけだ。高レベルの能力者しか参加していないのは、安全を考慮してのことらしい。
「安全を考慮って……怪我人が出てるの!?」
目を丸くする秋人に、初春は首を振る。横に振ったようにも、縦に振ったようにも見える、微妙な角度だった。
「……最初の方の爆発はほんとに小さくて、怪我っていっても、音と光に驚いて転んだとか、そんな軽いものだったんです。だけど、だんだん大規模になっていって……この間、とうとう爆発そのものによる負傷者が……」
まあ、軽い火傷程度なんですけど、と言って、初春は笑みを浮かべる。不安を覆い隠して無理矢理作ったような、ぎこちない笑顔だった。
全ての犯行が同一犯によるものかどうかは分からないが、『今の』犯人には恐らく、人を傷付ける意思がある。彼女は、そんな人物を捜査している黒子や他の風紀委員の身を案じているのだろう。
「……大丈夫だよ。白井さんなら」
そんな彼女を励ますように、秋人は言った。彼とて、黒子が心配でないわけではないが、ここでそんなことを言っても、初春の不安を煽るだけだと考えたのだ。
それに、秋人は不安だけを抱いていたわけではない。空間移動能力者である黒子なら、いざという時には他の風紀委員を連れて爆発の範囲外まで逃げることが出来るだろう、という考えも、少なからず持っていた。
しかし、初春の方は不安を拭い去ることはできなかったらしい。秋人の言葉に頷きつつも、彼女は依然として暗い顔をしていた。
どうしたものかと考えていると、今度は京子たち三人が声を掛けてくる。
「初春、同じレベル4でも、白井さんとこいつを一緒にしちゃダメよ」
「……ちょっと待て。どーいう意味だよ」
「白井さんの方がよっぽど強いってこと」
「あー、そういえば白井さん、御坂さんの電撃喰らってもピンピンしてますもんね」
「……ま、そういうわけだから」
佐天の言葉を受けて初春の方を向き、美琴は続ける。
「黒子のことは心配いらないわよ。ちょっとやそっとじゃ死なないんだから」
どこか誇らしげに言った彼女を見て、初春はようやく笑顔を浮かべた。
***
一行がしばらく買い物を続けていると、不意に初春の携帯が鳴った。
サブディスプレイに表示されているのは、『白井黒子』の文字。それを見た五人は、一様に安堵の表情を浮かべる。少なくとも、電話を掛けられない程の怪我はしていないということだ。
尤も、爆破予告が出されていたわけでもないため、当然と言えば当然なのだが。
しかし、電話に出た初春の顔が瞬時に驚愕の色に染まったのを見て、秋人達は何か異常な事態が起きていることを悟った。
「──衛星が重力子の加速を観測しました」
通話を終えた初春は、真剣な表情に焦りの色を浮かべ、四人に告げる。
「『虚空爆破』の次の標的は、ここです!」
今度は、秋人達が驚愕する番だった。
「この店が……!?」
ややあって、いち早く衝撃から立ち直ったらしい京子が、冷や汗をかきながらそう呟くと、初春は深刻な表情で頷いた。
「とにかく、避難誘導を始めます!御坂さん、瀬島さん、すみませんが協力をお願いできますか!?」
「わかった!」
「じゃあ俺は上の階を。御坂は下の階の人を頼む!」
二つ返事で、秋人と美琴は階段の方へ疾走していく。後に残された佐天もまた、彼らに続こうと協力を申し出ようとした。しかし。
「初春!あたしも──」
「佐天さん達は早く避難を!」
あたしも手伝う、という言葉は、初春に遮られた。彼女はあくまで、無能力者である自分達を巻き込ませまいとしているらしい。
しかし、その心遣いが、今は逆に辛かった。初春にそんなつもりが無いことは分かっていても、「お前は役立たずだ」と言われたような気がしてしまい、佐天は言葉に詰まる。
「……わかった。初春も、気をつけてね?」
絞り出すように、やっとのことでそう言い、佐天は背を向け、足を踏み出した。
その時、走り出そうとした佐天の腕が、不意に引っ張られる。背後を見ると、真剣な表情をした京子が、彼女の前腕を優しく掴んでいた。
「……初春、私達は避難する前に、放送室にこのことを伝えに行くから!」
「あ……は、はい!お願いします!」
それくらいなら大丈夫だろうと思ったのか、初春は特に引き留めたりはせずに、走っていく京子と佐天を見送った。
「雨宮先輩……」
追随しながら、佐天は呟く。そんな彼女の気持ちを汲み取ったのであろう京子は、前を見据えたまま口を開いた。
「……初春はただ、私達を思ってくれてるだけ。弱いだとか、役立たずだとかなんて思ってないよ」
早くも事態が伝わり、店内が騒然とする中でも、彼女の声は凛と響いて、はっきりと佐天に届いていた。
「だから……私達は、私達にできることを全力でやりましょう」
ね?と、京子は振り返り、笑んで見せる。それを見た佐天もまた、表情に明るさを取り戻し、決然と頷いた。
***
上階の避難誘導を終えた秋人は、取り残された人がいないかどうか確認しながら、最上階から順に階段を降りてきていた。
元の階に辿り着くと、避難誘導が終わったそこは、すっかり人気がなくなっていた。静寂に包まれたその場所を見渡すと、同じように確認をしているらしい初春を発見し、そちらに足を向ける。近付いてくる足音が聞こえたのか、彼女は顔を上げ、安堵の表情を見せた。
「上の階は終わったよ。確認もしてきたけど、逃げ遅れた人はいないみたい。──みんなは?」
「もう避難しました。店内に残っているのは、私達だけ──」
「おにいちゃーん!」
唐突に聞こえてきた、聞き覚えのある声。その方向に目を向けた秋人は、ぎょっとなった。上条と一緒にいたはずの、あの女の子が、脇にぬいぐるみを抱えてこちらに走って来ていたのだ。
「ちょ……何してんのこんなとこで!早く避難しなきゃ!」
てっきり上条と共に避難したものだと思っていた秋人は、切羽詰まった声で言う。そんな彼の心配などどこ吹く風、「ごめんなさぁい」と軽い調子で謝った少女は、初春の方へ向き直り、脇に抱えていたぬいぐるみを差し出した。
「これ、眼鏡のお兄ちゃんが、お姉ちゃんにって!」
「え……わ、私?」
初春が戸惑いつつもそれを受け取ろうとしたその時、ポケットの中から着信メロディが聞こえてくる。「ちょっと待っててね」と少女に断りを入れ、携帯電話を取り出すと、電話の主はまたしても黒子だった。
〈初春!無事ですの!?〉
通話ボタンを押すなり、電話の向こう側にいる黒子の焦った声が、彼女の耳に届く。余程大きい声を出しているのか、その声は近くに立つ秋人にも聞こえていた。
どこか不自然な様子に首を傾げつつ、初春は応じる。
「はい。店内にいた人達の避難は終わりました。私もこれから──」
〈すぐにその場を離れなさい!〉
鬼気迫る黒子の声から、ただ事ではない様子を感じ取ったのか、初春は真剣な表情になり、「どういうことですか?」と問い質す。間髪入れずに、黒子は答えた。
〈『虚空爆破』の狙いは風紀委員!つまり──今回の標的は、あなたですの!!〉
黒子の声が耳に届き、その意味を理解した秋人の脳裏に、嫌な予感がよぎる。振り向いて、少女を見た瞬間、それが当たったことを知った。
いや、正確には少女ではない。秋人が視線を向けたのは、彼女が持っている、初春に渡そうとしたぬいぐるみだ。その形が、困惑顔の彼女の腕の中で、急速に歪み始めていた。
まずい、と思うと同時に、秋人はもはや原型を留めていないぬいぐるみを少女から引ったくり、あらん限りの力で、誰もいない方向へと投げ飛ばした。
放物線を描いて飛んでいったそれが、床に落ちるか落ちないかの所で、突如として赤い光が迸り──まるで孵化するように、巨大な炎が噴き出した。
轟音を上げ、周囲の物を手当たり次第に焼き尽くしながら、炎塊が蛇のように迫ってくる。その様子が、秋人の目には、やけにゆっくりと映っていた。
自分でも何をしているのか分からないほど、ほとんど反射的に、秋人は背後で恐怖に立ち竦む少女を、初春の方へ突き飛ばし──そして、自分はそのまま両手を広げ、二人に覆い被さるように、背中で炎を受け止めた。
痛い、熱い、などという生温いものではない。凄まじい激痛が秋人の思考を支配し、行動の一切を奪う。苦悶の叫びすらも、身を包む業火に呑み込まれていった。
拷問の如き時間はしかし、何かが割れるような音と共に、唐突に終わりを告げた。と同時に、灼熱地獄から解放された秋人はその場に膝を突く。ようやく作動したスプリンクラーの水が、焼け爛れた背中に、雨のように降り注いだ。
激痛に霞む目で背後を見ると、いつの間に来たのか、右手を突き出した格好の上条が立っていた。どうやら彼は何らかの能力を持っていたらしく、巨大な炎の塊は跡形もなく消え去っている。
後に残ったのは、消し炭と化した商品と、己の肉の焼ける、嫌な臭い。
「瀬島さんっ!」
「ちょっとあんた、大丈夫なの!?」
呻き声を上げる秋人の耳に、目の前にいる初春と、避難誘導をしていたはずの美琴の声が届いた。しかし、そんな二人には応えず、秋人は未だ震えている少女の肩を掴む。大火傷を負った彼の姿を見ると、彼女の目から、ぽろぽろと涙が零れ始めた。
「ごめ……ごめんなさ……おに、ちゃ……っ」
「気に、しないで……大したこと、ないから……」
しゃくりあげながら必死に謝る少女を、秋人は痛みを堪え、にっ、と笑って制する。ある程度泣き止むのを待ってから、今度は真剣な表情で訊いた。
「教えて……君に、あのぬいぐるみを渡した奴は、どこにいたの……?」
震える指で、少女は「あっち」と伝える。その方向をじっと見据え、秋人はゆっくりと立ち上がった。少し体を動かすだけで意識が飛びそうだったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
背後から聞こえる静止の声にも構わず、秋人は非常階段の方向へ走っていった。
***
「は、はは……やったぞ……!」
凄まじい爆発と同時に割れたセブンスミストの窓から、黒煙がもうもうと立ち上っている。その光景を、人気のない路地裏から見つめる少年がいた。
眼鏡を掛け、小さな音楽プレイヤーに繋がっているイヤホンを耳に差したその少年の顔は、興奮のあまり紅潮し、目を見開いて笑っている。それはもはや、狂喜とさえ呼べる笑みだった。
「…………そんなに楽しいか………?」
踵を返して逃亡を試みながらも続いていた彼の笑いは、背後から聞こえてきたその声によって、止まる。振り返った少年の目に映った声の主は、ぞっとするほどの火傷を背中に負った、秋人だった。
「……あんたなんだろ、『虚空爆破』の犯人は」
飛びそうな意識を必死で繋ぎ止めながらそう言い、秋人は少年を見据える。立っているのもやっとの状態で、視界がぼやけてはいたが、自分の言葉で対峙する少年が僅かに動揺したことは分かった。
「な……何言ってるんだよ、お前。何の事だか、僕にはさっぱり──」
「とぼけるな」
興奮で紅潮していた顔を蒼くさせ、あくまで犯行を否定した少年を、秋人は一蹴する。その声からは、はっきりと怒りが滲み出ていた。
「今の爆発で、大勢の人が死んだ……。それでもまだ、知らないって言えるのか……!?」
怒りを露にした顔でそう言われ、少年はやっと、自分のしたことが何を招いたのかを理解したらしい。蒼白な顔には、動揺を通り越して、恐怖の表情が浮かんでいた。
「う、嘘だ……僕は、そんなつもりでやったんじゃ……」
「……認めたな」
しまった、と思った時には既に遅かった。うわ言のような少年の言葉は、秋人の耳に届いてしまっていた。
「心配しなくても、誰一人死んでなんかいないよ……。約一名『軽い火傷』がいるけど、それだけだ」
皮肉を込めてそう言い、秋人は続ける。
「……まだ間に合う。今すぐ自首しろ……。じゃないと、そのうち本当に人殺しを後悔することに──」
言い終わる前に、自棄になったらしい少年は、提げていたバッグに手を突っ込み、アルミ製のスプーンを取り出して投げ付けてきた。秋人は咄嗟に、掌に発生させた火球をそれにぶつける。爆発する前に、スプーンは音もなく溶けていった。
「……次、やったら……力づくでも止めるぞ…………」
腕を動かした際に襲ってきた痛みに顔をしかめつつ、警告するように、あるいは脅迫するように秋人が言うと、少年は舌打ちをしたものの、それ以上何かをしてくる様子はなかった。
「……いつもこうだ」
ややあって、少年は苦々しげに口を開いた。
「力のある奴はそれを振りかざして、力の無い僕たちはただねじ伏せられるだけ……何をしてもしなくても、結局は強い奴に踏みにじられる……」
「何言って──」
「そうだろう!?」
叫ぶように、少年は言った。怒りと憎しみとで歪んだその形相に、秋人は思わず言葉を失う。
「殺してやる……!力のある奴はどいつもこいつも……!僕があいつらに何をしたっていうんだ!?」
感情を露にした少年の口からは、次々と呪いの言葉が吐き出されていく。秋人はそれを、ただ黙って聞いていた。
その気持ちは、理解できなくもなかった。事実、秋人が痛みを堪えながらも少年を追ってきたのは、半ば復讐のような気持ちがあったからなのかもしれない。
──だが、だからといって、彼のしたことを肯定する気もなかった。
「……じゃあなんで、風紀委員を狙った……」
震える声で、秋人は静かに呟く。俯いた顔はセットの崩れた髪に隠され、表情を窺うことは出来なかった。
突然纏う雰囲気を変えた秋人に面食らいつつ、少年は吐き捨てるように言う。
「風紀委員だって同じだからだ!不良に襲われてる僕を、助けてくれなかった!結局あいつらも、力を振りかざして威張ってるだけなんだよ!」
「……ふざけるな!」
背の痛みも忘れ、自分でも気付かない内に、秋人は少年の胸倉を掴んでいた。
「風紀委員が悪い、自分は弱いから助けられて当然だ、だって……?そんなの、あんたが逃げてることの言い訳だろ!」
「黙れ……!お前に何が分かる!お前みたいな力のある奴に、僕の気持ちなんて──」
「分かる!」
叫ぶように言って、秋人は顔を上げる。そこに浮かんでいた表情は、怒りでも、憎しみでもない。
「俺も、あんたと同じだったから……!」
涙を頬に伝えたその顔が形作っていたのは、紛れもなく、悲哀だった。
呆気に取られる少年に、秋人は己の過去を語り始める。
それは、小学校に入学した時。何らかの手違いで特進クラスに入れられた秋人は、当然の如く、虐めに遭った。能力者のクラスの中で唯一の無能力者は、格好の標的だったのだ。
「俺はその頃、どうしようもない甘ったれで……泣いてうずくまってれば誰かが助けてくれるって、そう思ってた……」
実際、彼はそうしていた。いじめが始まるのは大概が放課後で、泣き叫んでいれば、校舎の違う京子が助けにきてくれた。 ただ泣いて、叫んで、声を張り上げて、誰かが助けてくれるのを待つ。彼のやったことは、ただそれだけだった。
助けを求めることが悪い、というわけではない。問題は、その分だけ自分が誰かを助けることが出来るかどうか、だ。
だが彼は、自分を変えようとさえしなかった。京子の優しさに甘え、弱さを理由に、自分を変えることから逃げ続けていた。
あの少女に、出会うまでは。
「……だけど、あんたは違う。俺と違って、自分で自分を変えられた。あんたは、俺なんかよりよっぽど強いんだ……」
京子やあの少女がいなければ、今事件を起こしていたのは自分かもしれない、と、秋人はそう思った。彼は少年の中に、かつての自分を見ていたのだ。
だからだろうか。呆然とする少年の目を見据える秋人の口調に、自分とは違う者への尊敬と、過去の自分に対する侮蔑が入り交じっていたのは。
「関係ない人を巻き込んで、殺しかけて……それじゃ、あんたも力を振りかざしてる奴と同じだろ……!その力は、誰かを助けるために使え!俺なんかに出来たんだから、あんたならもっと多くの人を助けられる!」
『誰かを助ける』。
その言葉を聞いた瞬間、少年の目が再び憎悪の色に染まった。
「綺麗事言うな……!お前には助けてくれる人がいたからそんなことが言えるんだ!僕は違う!助けてくれる人なんて、誰もいなかった!」
「だったら──」
少年の声を掻き消すように、あらん限りの声を張り上げて、秋人は言った。
「俺があんたを助ける!」
少年の目が、驚愕に見開かれた。頭の中で、秋人の言葉が幾度も反響する。それは決して、間近で叫ばれたから、などという理由ではない。
ただ、彼には信じられなかった。目の前で荒い呼吸を繰り返す、つい先刻会ったばかりの、それも自分に傷つけられた筈の人物が、『お前を助ける』などと言っていることが。
少年の顔には、もはや怒りも憎しみも浮かんではいなかった。後に残るはただ、秋人の言葉に対する、戸惑いのみ。
「…………だから…………」
数秒後、何も言えないでいる少年に向かって、秋人は呟くように言う。体力の限界が近いのか、ひどく掠れた声だった。
「だから……もう、こんなこと…………や……め…………」
最後まで言い終わる前に、胸倉を掴んでいた手が弛み、秋人は地面にくずおれる。
倒れ伏した彼を呆然と見下ろす少年の頬には、知らず知らずの内に、涙が光っていた。
***
セブンスミスト・裏口付近。
爆発が起こった後、未だにショックを受けていた少女を警備員に任せ、美琴と初春、そして避難していた佐天と京子は、犯人とおぼしき人物を追って何処かへと消えた秋人を探していた。
「あのバカ、何考えてんのよ……!」
辺りを見回しながら、美琴は苦々しげに呟いた。救急車の要請と救助隊の誘導をするために、あの場にいた三人全員が秋人を置いて店の外に出てしまったことを、今更ながら後悔する。下手に動かすのは得策ではないと考えての行動だったのだが、まさかその本人が動いてしまうとは。
あの怪我ではそう遠くへは行けない筈だが、秋人は学園都市の地理に詳しいと言っていた。逃げる犯人を追って、誰も知らないような場所で倒れでもしたら、本当に死んでしまいかねない。
そう思って手分けして探したものの、一向に見つかる気配はなく、やむなく四人は一旦集まることになった。
「御坂さん!そっちはどうでした?」
集合場所には、既に他の三人の姿があった。美琴の姿を確認するや否や、焦った声で訊いてくる初春に、美琴は首を横に振る。
「ごめん、見つからない。みんなの方は?」
「……駄目、電話も出ないわ。ただ気付いてないだけならいいんだけど……」
延々と呼び出し音を流し続ける携帯電話を耳から離し、京子は不安げに言った。
彼女の言わんとしていることは、他の三人にも分かっていた。気付いていないだけならいいが、携帯電話そのものが壊れているか、最悪の場合、電話が無事でも秋人自身が出られない状態に陥っている可能性もあった。
「初春……やっぱり、白井さんに連絡して、他の風紀委員にも手伝ってもらった方が……」
問い掛けられた初春はしかし、佐天の方を見てはいなかった。彼女の視線は、今しがた美琴が走ってきた方向に釘付けになっている。
「……瀬島さん!?」
何事かと声を掛ける前に、初春は叫んだ。三人が振り返り、彼女が凝視する先へ視線を向けると、眼鏡をかけた少年が、赤い髪の少年を抱えてこちらへ向かってくるのが見えた。
慌てて二人に駆け寄ると、それを見た少年は、秋人を慎重に地面へと降ろし、無言で四人へ預ける。そして初春が身に付けている風紀委員の腕章を目にすると、彼は自分の両腕を差し出した。
「……自首します」
「え?」
予想だにしない言葉に、他の三人までもが秋人から思わず目を離し、少年を凝視した。それに構わず、彼は続ける。
「爆破事件の犯人は、僕です。僕を、逮捕してください」
少年の言葉を聞く四人の顔には、一様に驚愕の色が浮かんだ。
何件も事件を起こし、先程まで逃げていたであろう犯人が、突然自首をした。おまけに、自分を追ってきた被害者を担いで。そんなことが有り得るのか。
信じ難い、といった表情のまま固まっている四人に向かって、少年は語る。
「……その人に言われたんだ。力を手に入れたなら、誰かを助けるために使えって。その人は、僕を助けるって言ってくれた。僕が人を助けられるかどうかは分からないけど、その前にちゃんと罪滅ぼしをしなきゃって思って」
四人は思わず、気を失っている秋人に目を向ける。普段の言動から、人に何かを強く言う人物には到底思えず、先程とは違う種類の驚きが顔に浮かぶ。
ただ一人、京子だけは、それに嬉しさと寂しさが入り交じった、複雑な表情をしていた。
「……その人に伝えておいて下さい。『ありがとう』って」
そんな言葉を残した犯人自身に促され、初春は彼と共にその場を離れていった。自首したとはいえ、一応の取り調べはあるらしい。
呆然とそれを見送っていた美琴だったが、背後で秋人が呻き声を上げると、はっとなって彼に向き直る。あまりの衝撃に、彼が大火傷を負っていたことを、今の今まで失念していた。
「それより、早く救急車呼ばなきゃ!こいつ、背中に酷い火傷が──」
秋人を慎重にうつ伏せにした次の瞬間、美琴は我が目を疑った。
彼の背中にあった筈の、目を覆いたくなるような火傷は、僅かに痕を残して消え去っていた。