朝起きたらイケメン小学生になっていた。…ああ、俺だって自分自身何を言っているのかわからないさ。周りを見渡すとまるで見覚えのない部屋に寝かされていて、その家の子供にでもなったかのようにサイズぴったりのパジャマを身に纏っている。鏡を覗けば、逆立った茶髪に自信ありげな雰囲気を漂わせた少年が、笑みをこちらに向けていた。ほんとに、一体どうなってんの…。
戸惑いは隠せないが、何もしないわけにはいかず、状況を一つずつ確認していった。階下にいた母親らしき女性や、姉と思われる少女に話を聞くと、どうやらここは俺のいた世界とはまったく別の場所らしい。
集まった情報をまとめると、
・人間はポケモンと共に暮らしている。
・少年少女は10歳になるとトレーナー資格試験なるものを受けることができ、合格すればポケモントレーナーとして旅に出ることが許される。
・俺の名前はグリーン
以上である。色々と、突っ込みたいことはある。いやほんと、突っ込みどころ満載なのだが。まず、そもそも何で俺は、こんな訳のわからない状況に置かれているのだ。昨日までの記憶をたどってみても、心当たりなど欠片もない。
いつものように会社に出勤して、残業し、夜遅く帰宅した。シャワーを浴びてコンビニ弁当に酒を煽り、夜12時には就寝したはずだ。それがどうしてこんな非日常に、突然駆り出されてしまっているのか。理不尽すぎる事態にとてもついていけない。
…まあとりあえず、まずは外に出てみなければ始まらないか。母親や姉と名乗る彼女らが嘘をついていないとも限らないし、盛大なドッキリだという線も捨てきれない。家を飛び出し、外を散策する。
そこは広大な自然に囲まれた、長閑な田舎町だった。川のせせらぎ、葉叢のざわめき、鳥の声。全てがこの世界を、ファンタジーではない、実在だ、と伝えていた。
俺は不思議と高揚して、思わず駆け出していた。数軒の民家を通り抜け、草はらを超え、森林に近いところまでたどり着く。
上を見上げると、木々の枝に休んでいたのは、鳥達ではなかった。俺は確かにその姿を、ゲームやアニメで、目にしたことがあった。背から翼にかけて茶色い羽毛に覆われ、腹はクリーム色の体毛が伸びている。目元は黒く、鋭い。野生的な嘴からは、小動物ながら、どこか剣呑な雰囲気を漂わせていた。間違いない、ポッポだ。俺は額に湿った汗と心の興奮とをぐっとこらえて、また街まで、走って引き返していくのだった。
街の中心部まで来ると、ここらで一番大きな建物がそびえ立っていた。立ち止まり、その影に入って体を休める。息は荒く乱れて、膝は笑っていた。
「何あれ、マジで殺されそうだったんだけど。怖すぎだろ、誰だよポッポをスライム的な立ち位置に置いたやつは。」
「どうしたんじゃグリーン、物騒なことを呟いて。」
ハッ、と後ろを振り向くと、どこか見覚えのある老人が俺の方を見ていた。急いで眼前の建物を見やれば、そこには確かに、『オーキドポケモン研究所』と書かれている。迂闊な…。めっちゃでっかく書いてあるやん。なんで気づかなかったんだ。
俺は思わずオーキド博士をまじまじと見つめた。なるほど、確かにゲームでおなじみのビジュアルと瓜二つだ。そしてふと思い至る。この体はこの人の孫ってことになるんだよな。それって少し、マズくないか?
「あー、いや、なんでもない。ただちょっと、アクシデントに遭遇しただけだ。」
しどろもどろになりながら、なんとかそれらしい言葉を選ぶ。
「ふうむ、また何か変なことを企んでおらんだろうな。」
「変なことって。俺はそんなにしょっちゅう企んでねえよ。」
オーキド博士は意外そうに眉をひそめた。いやまずい。どう接したらいいかまるでわからん。とりあえずなんか喋らないと、もっと怪しまれる。
「…それよりじいさんは何してたんだよ。」
「ワシは気分転換に散歩に出かけようと思っていたところじゃ。」
「へえ、年寄り臭いな。」
嘲笑的な表情を浮かべて、地面の小石を蹴飛ばす。オーキド博士は苦笑している。その反応を見るに、今度は正解だったようだ。
「ところでグリーン、お前はこんなところをほっつき歩いていて大丈夫なのか?三日後の試験の準備はどうなっておる。」
「…ああ、試験ね。ハッ、なに言ってんだよ、俺が試験くらいで躓くわけないだろ。」
グリーンらしくを意識して、自信に満ちた笑みをたたえて言う。
「はあ、我が孫ながら、その自信過剰はどこからくるのやら。」
これもオーキドの反応は悪いものではない。呆れたように眉根を上げる表情は、それを日常の会話であると答えていた。
「まあ、流石に今日は寄らずに家に帰るよ。試験は三日後、だもんな。」
「うむ、頑張れよグリーン。」
不思議なことだが、喋りながら俺は、この肉体にとって自然な言葉遣いや態度、仕草を理解しつつあった。
グリーンらしく、なんて意識したとして、ゲームでオーキドとの会話シーンが数えるほどしかない彼の口調と接し方を、そうそう再現できるものではないはずだ。どう話すことが自然なのか、体が知っている、そんな感覚だった。
まあ、便利なことには違いない。肉体への違和感や恐怖もあるが、それは今は考えないことにした。
それにしても、試験、とオーキドは言っていたが、俺はそれに多少心当たりがあった。
急いでグリーン宅に戻り、自室のカレンダーを調べると、確かに三日後の日付が赤く丸で囲んであり、『試験当日!!』と大書されている。机には様々な教本や参考書が雑然と置かれ、表紙には『トレーナー資格試験過去問題集』とか、『ポケモン基礎学!よく出る問題200』といった見出しが躍っていた。
母親がそのことについて軽く喋っていたが、まさかそれがこんなにすぐの出来事とは思わなかった。今朝から散々なことばかり起こる。俺はため息を一つついて、勉強机に座った。
問題集をペラペラとめくっていると、なぜか気持ち悪いほどに、内容が理解できた。いや、この『理解』というのも、おそらく俺本来の記憶からではなくて、肉体であるグリーンによるところが大きいのだろう。
鉛筆を手にとって、一問一問、丁寧に解いていく。試験科目はポケモン基礎学、国語、数学、理科、社会。そして実技だ。
国語や数学などは俺の世界のものと似通った内容で、レベルはだいたい高校受験程度といったところか。小学生にやらせる内容ではないが、この肉体の知識と俺の経験を足して合わせれば、さほど難しくも感じなかった。
スラスラと淀みなく回答していく。その後の採点の結果、正答率は9割弱程だった。受験では6、7割正解していれば合格なのだが、この世界の試験ではどうだろうか。
やるべきことが決められているとやってしまう社畜根性は、どうにかしなければ。あれから一週間が経った。結局、何故この世界に来たのか、とか、戻る術はあるのか、なんてことは思考の端に追いやって、ただひたすら試験勉強に明け暮れてしまった。
そして無事合格した。内容?さして語ることもない。特に難しいと思う間も無く終わった。というか、グリーンの才能が突出しすぎているのだ。一週間過ごす中でしみじみ実感したが、記憶力、読解力、計算能力が図抜けていて、高校程度の勉強範囲ではまるで苦戦しない。
実技に関しても、別段てこずることはなかった。何匹かのポケモンと触れあわせたり、指示を出させたりと、この世界らしいものではあったが、天性の才能なのか、ポケモンたちは俺の指示を従順に受け入れて、なすがままにされていた。正直拍子抜けだ。
そして、一週間この世界で生活していると、いよいよ覚悟もできてくる。つまり、自分はグリーンの体でこの先も生きていくしかない、という覚悟だ。
最初のうちは世間に向けてグリーンという個人を『演じている』感覚が強く、苦痛や精神的疲労を伴っていた。
しかしこうして時間が経つと、グリーンの外面は俺の精神と完全に癒着し、まるでそれが昔からそうであったかのように、自然に振る舞えるようになっていたのだ。ここまで来ると、もはや手遅れかもしれない。
俺自身が、グリーンとしての自分を『普通』だと感じているのだから、元に戻れるかは微妙なところだ。この世界で一生暮らす、そんな未来さえ見据える必要が出てきたということだ。
そして試験の合格通知が来てからすぐに、オーキド博士から呼び出しがあった。研究所に向かうと、博士は笑顔で俺を出迎えた。
「やあグリーン。まずはトレーナー資格試験の合格、おめでとう。」
「当たり前だろ。なんたって俺だぜ。あの程度の試験、難しくもなんともない。」
言葉は苦もなくすべり出た。表情は自然と不遜なものになる。自身たっぷりの笑みに、博士は苦笑した。
「まあ心配はしておらんかったが。だがまさかお前があれほどの好成績を叩き出すとはな。」
「意外そうにするなよ。今回はまあまあマジメに勉強したんだぜ。それぐらいできてくれなきゃ困るっつーの。」
もしかすると、グリーンの脳スペックはオーキドの血を引いていることが大きいのかもしれない。ポケモン学者として名高く、数多くの実績を積み上げてきた彼の孫ならば、ありえない話ではない。
「ああ、うむ。ワシとしては嬉しい限りじゃ。こうなってくるとワシの後を継がせてみるのも面白いかもしれんな。」
「はあ、じいさん、まさかそんなくだらないことを言うためだけにわざわざ呼んだのかよ。」
俺が呆れたように言うと、博士は肩をすくめて、真面目な顔つきを作った。
「もちろん用事はそれだけではない。」
博士はおもむろに、机にかけられていた布を掴み、取り払った。そこには、三つのモンスターボールが、蛍光灯の下に輝いていた。
「なあ、これってもしかして。」
「うむ、モンスターボールじゃ。中にはカントー地方で初心者トレーナーに配られる最初の三匹が入っておる。」
急速に鼓動が早くなる。三つのボールが宝物のように感じられて、喜びが全身を駆け巡った。
「もらっていいのか、じいさん!」
「ああ、だが少し待て。もう一人、来る。」
「もう一人?」
まさか、と俺は思う。もう一人と言われて、思い当たるのは彼だけだ。とはいえ、俺は一週間この街で暮らして、一度も会うことはなかった。本当に会えるのか。胸には期待感が込み上げていた。
「お、きたようじゃぞ。」
ガチャ、と扉の開く音がして、そちらを見やる。外光に包まれるようにして、彼はあらわれた。
「…どうも。」
赤いジャンパーが翻る。どこかヒヤリとさせる雰囲気を放つ彼は案外、可愛らしかった。澄明な瞳、無表情ながら整った顔立ち、艶のある黒髪のショートヘア。そしてトレードマークの赤い帽子を目深に被っている。
「レッド、さあ、こっちへきなさい。」
博士が手招きすると、彼はゆっくりと歩いてきた。その立ち居振る舞いは幼いながらに風格を纏っていて、後にGSCにおける裏ボスとして君臨するに相応しいものだった。
俺はグリーンの脳内ナビゲートに従って、ここで話すべき内容を口に出した。
「へえ、レッド、お前も試験に受かってたとはな。」
「…当たり前。」
「ハッ、そうかよ。まああんくらい簡単に受かってくれなきゃ、幼馴染としちゃ恥ずかしいけどな。」
会話の中で、少しの違和感を発見する。レッド、声高くね?まるで女の子のような…。というか、よくよく見ると普通に女の子だった。少年風のいでたちではあるが、体つきはどことなく女性的な特徴を帯び、すらりとした体躯や膨らみ始めた胸元が、明らかにそれを女体だと主張している。
まじかよ。まあ、ありえなくはないのかもしれないが。だが待て、FRLGの女主人公はリーフだろ?普通ならそっちが出てくるはずだ。なのになんで、TSレッドが出てくるんだよ…。
まるで『こんらん』にでもかかったように頭がぐらつく。原点にして頂点と呼ばれた彼、俺がポケモンのキャラクターの中で最も好きだった彼が、まさか彼女だったなんて…。ショックで少し顔が引きつった。
「レッド、グリーン。君たちは今日付けでポケモントレーナーとしての資格を持ち、旅に出ることを許された身となる。そんなお前たちに選別として、最初のポケモンをワシから、プレゼントしよう。」
俺とレッドは並べられたモンスターボールの前に立つ。
「先に選んでいいぜ。俺は大人だから、ゆずってやるよ。」
レッドは俺を一瞥すると、頷いた。そして彼女は自分の目の前にあったボールを掴む。
「博士、これにします。」
「ほう、炎のポケモン、ヒトカゲじゃな。」
レッドがヒトカゲを選んだのを見て、俺も躊躇なく一匹を選択した。
「なら俺はこいつだ。」
「水のポケモン、ゼニガメか。」
ライバルらしく、主人公の選んだ御三家に有利なポケモンを選んだ。
「それからこれは、ワシからのわがままなんじゃが。」
オーキド博士は言いながら、懐から、おなじみのあの機械を取り出した。
「それは?」
「ポケモン図鑑、という。捕まえたポケモンの情報を自動的に記録する道具じゃ。」
俺とレッドは図鑑を受け取った。形状は電子手帳のように小型で、折りたたみ式。開いてみると情報を映し出すディスプレイと、操作用の十字キーやいくつかのボタンが取り付けられている。
「こんなもんもらっちまっていいのかよ。」
「ああ。いや、ぜひもらってくれ。実はな、この機械はワシの夢なのじゃ。世界中の全てのポケモンをまとめた、完璧な図鑑を作ること。そのために長い年月をかけてこの図鑑を完成させたのじゃが、どうやら歳をとりすぎたようでな、自分で図鑑を埋めるのは少々難しい。だから、才能溢れるお前たちに、これを託したいのだ。150匹のポケモン全てを記録した、完璧な図鑑を、ワシに見せてはくれないか。」
博士は俺とレッドを、強い眼差しで見つめた。
「まあ、いいぜ。どうせポケモンを散々捕まえることになるだろうしな。片手間で完璧な図鑑作ってやるよ。せいぜい出来上がりを見て腰抜かさないようにしとくんだな!」
隣でレッドも深く頷いていた。博士の熱意は俺たちに十分伝わっていた。散々世話になっているわけだし、断るはずがない。
「ありがとう、二人とも。」
博士は感極まって俺たちの手を握った。おいおい大げさだろ、と俺は笑う。博士もつられて笑った。レッドは相変わらず無表情だったが、気のせいでなければ少しだけ、楽しそうに見えた。
「なあレッド、お互いせっかくポケモンをもらったんだ。バトルしようぜ。」
レッドは無言で頷いた。その瞳の奥には、きらめく闘志が宿っていた。俺は思わず口元に笑みが浮かぶ。
「はあ、こうなることは分かっとった。バトルならば裏庭を使うといい。」
裏庭に移動した俺たちを出迎えたのは大勢のギャラリーだった。娯楽の少ない田舎町だからか、大人も子供も等しく熱狂的な視線をこちらに向けていた。
「レッド!頑張るのよ!」
「グリーン!そんなやつぶっとばせ!」
騒がしい掛け声に囲まれていても、レッドは我関せずといった様子だ。俺は人混みの中に姉を見つけて、気を引き締めた。仮とはいえ家族の前で無様を晒したくはない。ふう、と深呼吸をして、意識をバトルに集中させる。野次馬の一人が名乗り出て、審判を務めることになった。
「それではこれより、マサラタウンのレッド対グリーンによる、ポケモンバトルを始める。ルールは一対一のシングルバトル。道具の使用は禁止。ポケモンが戦闘不能と判断されるか、トレーナーが降参を宣言した時点でバトルは終了とする。では、…開始!」
ほぼ同時にボールを投げる。地面にぶつかるとはじけるような音をさせて、ポケモンが登場した。ゼニガメが背後の俺を振り返り、見つめている。
「ゼニガメ、これから俺がお前のトレーナーだ。よろしく頼むぜ。」
「…ガメッ!」
決意のこもった鳴き声だった。やる気は十分。向こうのヒトカゲも、ギラギラした目でこちらをにらんでいる。
「覚えている技を確認したいときはポケモン図鑑をかざすといいぞ。」
博士に言われるままに俺たちは図鑑を自分のポケモンにかざす。
・たいあたり
・しっぽをふる
・みずでっぽう
たったこれだけ、いや、もらったばかりなのだから当たり前か。むしろ水技を覚えていることに感謝すべきだろう。この三つの技で相手を確実に倒すための方法を探さねばならない。
まず、俺のゼニガメと照らし合わせれば相手の技構成は予想できる。ひっかく、なきごえ、ひのこ、そんなところだろう。有効打になりうる技は覚えていないはずだ。ならばこちらは積極的に踏み込んでいい。初めてのポケモンバトルで勝手がわからないのだから、小細工などは考えず、タイプ相性を活かした戦い方がベストだ。
「よしゼニガメ、みずでっぽう!」
ゼニガメの口から勢いよく水撃が飛ぶ。消防車の放水すら上回りそうな水圧がヒトカゲに迫る。
「かわして。」
まるで動揺していない平坦な声音に、ヒトカゲは従順に従った。遠距離からのみずでっぽうであれば、難なく躱されてしまうようだ。
「ヒトカゲ、ひのこ。」
「みずでっぽうで迎撃しろ。」
激しく二つの技がぶつかり合う。均衡を保っていたのは一瞬で、みずでっぽうがすぐにひのこをかき消した。ヒトカゲに水飛沫がかかり、わずかな隙を生む。
「今だゼニガメ、たいあたり!」
一気に距離を詰める。ヒトカゲは焦りから硬直し、避けようとしない。
「ヒトカゲ、なきごえ。」
しかしレッドの指示で我に帰ったのか、すぐさまギャアッ、というに叫びを上げる。それは人間が聴いても気分のいい音ではないが、おそらく戦っているポケモンにはそれ以上の効果があるのだろう。ゼニガメはその威嚇的な声に怯え、動きに躊躇が生まれる。
「ひっかく。」
ゼニガメの腹をヒトカゲの爪が斬りつけた。
「チッ、堪えろ、たいあたりだ!」
だが技を食らって動転したゼニガメの攻撃は空を切る。
「たたみかけて、ひっかく。」
「バックステップだ!一度距離をとれ!」
再び迫り来るひっかくを、なんとか後ろに飛ぶことで回避する。
「逃げ続けろ!」
「追いかけて。連続でひっかく。」
背中を見せて全力で逃走しているゼニガメは反撃できない。ギャラリーたちの声が一層騒がしくなる。
「おいグリーン、負けてんじゃねーよ!」
「いつもでかい口叩いてるくせになあ!」
俺は内心イライラしながら、2匹の一挙手一投足を見据え、逆転のためのタイミングをうかがっていた。
ひっかくを繰り返すうちに、ヒトカゲの攻撃のリズムにはごく僅かずつ、ずれが生じていく。まだバトル慣れしていない初心者用ポケモンだからな、あたりまえだ。俺はヒトカゲの身体がぶれて、今までで一番バランスの悪いひっかくをした、その瞬間に勝負をかけた。
「ゼニガメ、背中の甲羅でひっかくを受け止めろ!」
逃げながらできる防御方法といえばこれだ。ゼニガメは逃走をやめ、甲羅を突き出す。ヒトカゲのひっかくはそれに弾かれて、仰け反ってしまう。
「飛び掛かれ!」
「…!」
レッドもこれには動揺しているようだ。ヒトカゲの体にまたがったゼニガメは完全に相手の動きを封じている。向こうも必死にもがいているが、体重の違いから抜け出すことはできない。
「とどめだ、みずでっぽう!」
「ひのこ!」
至近距離での技のぶつかり合い、激しい衝撃とともに、土煙が舞い上がる。遮られた視界の中、誰もがその勝負の行方を固唾を飲んで見守った。
「…両者戦闘不能!よってこの勝負、引き分け!」
土煙の晴れて見えたのは、寄り添って倒れ臥す二体の姿だった。ギャラリーからどっと声が上がる。拍手や口笛が飛び交った。
「引き分け、か。気に入らねえ。」
「…。」
レッドも無表情ながら、どこか悔しそうにしている。お互い納得のいかない結末だった。こうして俺たちの初バトルは幕を閉じた。
あれから二日経ち、全ての手筈を整えた俺は、ようやくこの街から旅立つこととなった。
「グリーン、忘れ物はない?」
「ねえよ。さっきから何度同じこと聞くんだよ。」
「母親の心配性くらい許しなさい。まあお姉ちゃんの方が心配してるみたいだけど。」
隣を一瞥すると、姉であるナナミが瞳を潤ませていた。
「だってさあ?あんなちっちゃかった弟が、まさか旅に出るなんて思わないじゃん。あーあ、あの可愛くて素直だったグリーンが、旅かあ。」
感傷を誤魔化すように、明るく間の抜けた調子で姉は話す。
「何言ってんだよ姉貴、そんな大層なもんじゃねえよ。パッとポケモンリーグ優勝して、すぐ帰ってくる。ただの旅行だ。」
俺が笑うと、ナナミの顔が少しだけ、明るさを取り戻した。美人な顔で、クスッと笑った。
「…うん、そうだね。怪我しないで、すぐ帰ってきて。約束!」
「ああ、当たり前だ。」
俺は強く頷いて、姉に別れを告げた。
家族として過ごした時間は10日と経っていない。だが少なからず、胸には親愛の情が宿っていた。それはグリーンの体によるものかもしれなかったが、それでもいいと、今は思った。
カバンを背負って街を歩くと、誰彼構わず声をかけてきた。この小さな街ではグリーンという名は浸透しているらしく、みんな親しみを込めて見送ってくれる。
オーキドの孫という肩書きも手伝って、老人連中は真面目くさった顔で俺の肩に手を置き、激励した。
それから同年代か一回り上くらいの女の子たちから、凄まじい勢いで迫られた。まあグリーンは顔も整っているし、だいたいのことはそつなくこなせる器用さがあるから、これほどの女性人気も当たり前かもしれない。少女たちに囲まれながら俺はどこか他人事のように考えていた。
「グリーン君、あの、いつ帰ってくるとかって、予定はあるの?」
「さあな。まあ最強のトレーナーになったら、一度戻ってくるよ。」
「そ、そうなんだ。」
頬を染めてもじもじとする黒髪ロングの少女。
「あの!私、来年のトレーナー試験で絶対に合格して、グリーン君を追いかけるから!だから、まってて!」
「ああ、来いよ絶対。」
そうして握手を交わして、別れる。このパターンを何度か繰り返しながら、一番道路へと歩みを進めた。知り合いに対してはグリーンの脳内ナビゲートに従って対応しているのだが、なんというか、こいつのモテる理由が嫌という程わかってくる。忌憚なく思ったことを口に出す割に、案外女心をわかっていて、扱いもうまい。だが何人もの子をたらし込むのは、10歳の少年としてどうかと思うのだが。
街の出口に、一人の少女が立っていた。
「レッドか。まさか俺を待ってたのか?」
「…。」
相変わらずの無愛想に苦笑する。レッドは特に表情を変えるでもなく、一言呟いた。
「…次は負けない。」
一瞬何を言われたのかわからなかった。が、すぐに納得すると、可笑しかった。こいつもつまりは、かなりの負けず嫌いなんだな、と。
「ハッ、勝つのは俺だ。」
こちらの言葉を聞くと、レッドは満足したのか、それ以上何も言わず、踵を返して一番道路を駆けていった。
『トレーナー資格試験』
満10歳から受けることのできる試験。ただし難易度はかなり高めに設定されているため、実際に10歳で試験に合格することは極めて困難。