黒く焦げた大地の上に、ひとりの少年が立ち尽くしていた。
両刃のうち片方がボロボロに砕けたままの《ダイの剣》が、そんな彼の姿を、まるで鏡のように映し出していた。
「……ポップ……」
かすれた声が、唇からこぼれる。
ほんの数分前、自分は親友を――かけがえのない仲間を――殺そうとしていたのだ。
否、いまもなお、その衝動は完全には消えていない。それを止めたのは、自分の意志ではなかった。
折れたのは、剣であり――そして、心だった。
体を支配している“暗黒闘気”の力は、いまだダイの体の内に渦巻いている。
けれど、彼はまるで重力すら失ったかのように、呆けたまま、風に吹かれていた。
「……なんで……俺……」
肩が震える。涙は流れていない。けれど、その声は、壊れそうなほどに脆かった。
遠く、かすかにポップの気配を感じる。彼はまだ生きている――死んではいない。
ならば、とどめを刺さなければ……。
そう脳裏に過った瞬間、胸の奥が、拒絶するように軋んだ。
どうしても拭えない。どうしても消えない。
取り返しのつかない何かが、そこには確かにあった。
そのとき――
――ディーノ。
どこからか、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
聞き覚えのあるその響きに、ダイは朦朧としたまま、意識の深淵からゆっくりと浮かび上がっていく。
やがて、胸の奥に刻まれた声の主が、静かに輪郭を持ち始めた。
――この声は……ダイの父。バランのものだった。
風の音にまぎれて、それは再び響いた。懐かしく、そして温かい。
父親の手に包まれているかのような、そんな響きだった。
「……父さん……?」
『……ディーノ……おまえの心が、また……戻ってきたのだな』
その声は、頭の奥に直接響いてきた。
言葉というよりも、想いそのものが、まるで波のように伝わってくる。
「父さん、どこに……? 無事だったんだね……!」
『私は……もう動けぬ。だが、意識だけは……おまえに届いている。紋章を共鳴させて……語りかけているのだ』
声は弱々しかった。けれど、その内に宿る想いは、確かで、揺らぎがなかった。
それは、ダイの心を静かに包み込み、支えてくれる。
「……俺……ポップを……」
『……知っている。見ていた。だが、それでもおまえは、自分で選んだ。剣が折れたのは、心が抗ったからだ。おまえが……おまえであってくれて……本当によかった』
バランの声は、少しだけ誇らしげだった。
「やめてよ……そんなの……。俺は……ポップを、親友を殺そうとしたんだ!いや、もしポップを殺さなかったとしても……同じことだ。俺は……人間たちを滅ぼしたいって……そう思ってる。この気持ちに……ウソはないんだ……!」
吐き出すように言ったその声は、怒りでも後悔でもなく、ただ、苦しかった。
バランはしばし沈黙した。そして、静かに、言った。
『……少し話をしよう。母さんのことだ』
語られたのは、バランの過去だった。
ソアラを心から愛していたこと。愛する妻と、生まれたばかりの子を守るために、処刑を受け入れたこと。
だが、その覚悟すら及ばず、ソアラが――自分を庇って――命を落としたこと。その瞬間、人間を心の底から憎んだこと。
『……ソアラは最後に、こう言っていた。“人間を怨まないで”と。……私は、それを守ることが……できなかった』
その言葉の奥に、深い後悔と哀しみが滲んでいた。
「……俺も一緒だ。人間が……憎いんだ。父さんと……同じだよ」
ダイの声は低く、震えていた。
罪の意識と、消えない憎悪。自分の中にあるふたつの感情が、ぶつかり合っていた。
だが、バランは静かに首を振るように、きっぱりと言った。
『――いいや、違う。おまえは、私じゃない。おまえは……おまえ自身だ。私とおまえとで、まったくに違うことがひとつある。私には、仲間がいなかった。だが、おまえには信頼できる仲間がたくさんいるじゃないか』
その声は、かつて強大だった竜の騎士のものではなく、ひとりの“父”としての想いに満ちていた。
『……それに、ソアラはこうも言っていた。“ディーノとふたりで、幸せに”とな……。私は……その願いを叶えてやれなかった。だからせめて、おまえには……』
「父さんも――」
『……いいや、私のことはいい。今は……おまえのことだ。おまえには、幸せになって欲しいんだ。自分の心に向き合わず……親友を見殺しにしてしまっては……とても幸せになどなれないだろう?』
その言葉は、ダイの胸の奥深くに突き刺さった。
震える唇が、やがて必死に声を絞り出す。
「……ポップを……助けたい! 助けたいんだ、父さん……!!」
その叫びは、言葉であると同時に――心そのものだった。
+
「ポップを助けたい」――そう強く願ったダイだったが、心の奥底では、まだ迷いが残っていた。
かつてのように、自分自身を信じきれない。だからこそ、ダイは思わず頼ってしまう。
――父さん。たすけて……。
だが、頼るにはあまりにバランの状態は酷かった。
今のバランは、遠く離れた地で重傷を負い、意識だけを保っているにすぎない。手も足も出せない。戦うどころか、かろうじて想いを届けているだけ……。
ならば――やるしかないのは、ダイ自身だった。
その沈黙のなかで、バランの声が再び、穏やかに、しかし力強く響いた。
『ディーノ……おまえは、竜の騎士だ。私の血を引き、そしてソアラの心を継いでいる。ならば、できる。いや――おまえにしか、できない』
その言葉に、迷いは徐々に薄れていく。
ダイの胸の奥で、かつての光が、わずかに灯りはじめていた。
『まずは、紋章を出すんだ。私の言うとおりにしろ。……いいな?』
「う、うん……わかった!」
静かでありながら、揺るぎない信頼に満ちた父の声。
ダイはその言葉に導かれるまま、竜の紋章へと意識を集中させた。
全身の力を解き放つように、息を吸い、呪文を唱える――。
だが――何も起きなかった。
『もう一度だ! 迷いを捨て、力を解き放て!』
バランの叱咤に、ダイは再び呪文を唱えた。
心の奥から力を振り絞り、今度こそと叫ぶように――。
それでも、沈黙のまま。何も起こらない。
焦りが胸を締めつける。だが、そんなダイに向けて、父の声がそっと寄り添った。
『信じるのだ、自分の力を。助けたいと、心の底で想うんだ』
その言葉に、ダイは目を閉じた。
浮かんでくるのは、仲間たちの姿だった。
誰よりも勇敢で、誰よりも優しいポップ。
父・バラン。師・アバン。マァム、ヒュンケル、レオナ、――自分のために傷つき、戦い続けてきたかけがえのない仲間たち。
助けたい。守りたい。絶対に、失いたくない。
その祈りのような願いが、ダイの胸の奥からあふれ出した。
次の瞬間――
ダイのアバンのしるしが、まばゆい光を放った。
その輝きは一筋の光球となって空へと昇り、やがて幾筋もの光の柱へと変わって地上に降り注いでいく。
そのうちの一本が、地に伏していたポップを包み込んだ。
傷つき、血を流していたその体が、ゆっくりと癒やされていく――
まるで、仲間を想うその一心が、奇跡を呼び起こしたかのように。
ポップの顔に、わずかではあるが精気が戻っていた。
その場に立ち尽くしたまま、ダイは呆然とポップを見つめていた。
胸に込み上げてくる感情は、言葉にならなかった。
張り詰めていた心が一気にほどけ、ダイは膝をつき、拳を握りしめて涙をこぼした。
「……よかった……! みんな、助かって……本当に……よかった……!」
溢れる涙は、止めようもなく頬をつたった。
その一滴一滴に込められていたのは、恐怖、焦燥、絶望、そして――仲間を想う、何よりも強く、揺るぎない心。
その姿を見て、バランは優しく語り掛けた。
『よくやった……ディーノ。それこそが、最高峰の回復呪文――ベホマズンだ。誰よりも純粋に、誰かを救いたいと願う心――それを持つ者だけが、奇跡を起こせる』
「俺が……ベホマズンを……」
『ああ。お前の“心”が、仲間を癒やしたのだ。呪文の力は、それに応えただけだ……』
その言葉を聞いたダイは、目を伏せて小さく笑った。
涙はまだ乾いていなかったが、その表情には、確かな安堵が浮かんでいた。
だが――
仲間たちは、目を覚まさない。
静かに眠るその姿に、ダイは再び真剣な眼差しを向けた。
彼らを守れた。けれど、まだ終わってはいない。
全てを終わらせるために、自分は――行かなくてはならない。
「……ありがとう、父さん。みんな……少しだけ、待ってて」
ゆっくりと立ち上がるダイ。
その背にあるものは、仲間の想い、託された希望、そして、自らが選び取った決意。
ダイの瞳には、遥か上空に浮かぶ巨大な逆さの城――バーンパレスが映っていた。
――行くぞ。すべてを、終わらせるために。