ここには何もない。ただ、暗闇が広がる空間だった。
息をするだけで苦しくて、声を出す気力さえ湧かなかった。
重く沈むような静寂の中、俺たちは壁にもたれ、かすかに残る意識で息を吐いていた。
地の底――どれほど深くまで来たのか、もはや感覚すら曖昧だ。ただ、ここが“破邪の洞窟”の最下層であることだけは確かだった。
濃密な瘴気が、まるで粘液のように、ねっとりと肌にまとわりついてくる。
そう。俺とマリンは息をするのも命がけの状態で、ここまで辿り着いたんだ。
だが、肝心の“破邪の秘宝”は、影も形も見当たらない。それだけを頼りにやって来たというのに……。
諦められるはずがなかった。俺たちは徹底的に空間を調べ回った。
だが、本当に何もなかった。意気消沈したまま、後ろ髪を引かれる思いで、引き返すしかないと考えた――その矢先だった。
階上でマァムたちがザボエラと激しくぶつかり合った影響だろう。
通じていた階段が、崩れ落ちたのだ。
もはや、地上へ戻る道はない。
引き返すことも、救いを待つこともできない。
暗闇と静寂だけが、俺たちを包んでいた――。
どれくらいの時間が経ったのか、もうわからなかった。
俺たちはただ、壁を背を預け、うなだれたまま、どうしようもない無力感に呑まれていた。
そして、瘴気に蝕まれた体は、もう――手遅れだった。
「……ごめん」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
秘宝も見つけられず、地上で戦っているみんなの力にもなれない。そのうえ……マリンまで巻き込んでしまった。……たとえ大魔王を倒せたとしても、ここから助かる望みは薄いだろう。何もできないまま――何ひとつ掴めないまま――終わるのか。
そんな思いが、胸の奥をきつく締めつけた。
そのときだった。
隣から、そっと、温かなものが触れる。
「トーヤ……」
マリンの声が、静かに、でもはっきりと耳に届いた。
振り向くと、彼女は泣いていなかった。絶望してもいなかった。
むしろ、かすかに笑っていた。
「大丈夫。まだ……終わったわけじゃないよ」
その小さな言葉が、信じられないほど重かった。こんな状況で、どうしてそんな顔ができるんだ。
俺には、むりだ……。
「だって、あなたは……何度だって、立ち上がってきたじゃない。きっと、大丈夫。だから……」
そっと俺の手を握るマリンだったが、その手は冷たく冷え切っていた。
それでも、たしかに、震えるような力で俺を支えようとしていた。
けれど、俺はマリンの言葉に応えることが出来ない……。
「……もう、無理だ」
ぽつりと、俺はこぼす。
心の奥に隠していた弱さが、堰を切ったように溢れ出す。
「全部無駄だった。俺がこの世界で出来ることなんて、もう……いや、最初から何もなかった……」
かすれた声だった。
情けなくて、涙なんて流したくなかったのに、瞳の奥がじわりと熱くなる。
でも、マリンは責めなかった。
手を離すこともなかった。
それどころか、ふっと小さく笑って、俺の手を包み込みながら、ぽつりと語り出した。
「ねえ……ちょっと、昔の話をしてもいい?」
唐突なマリンの言葉に、俺は少し驚きながらも、黙って耳を傾ける。
「私ね、小さい頃……森で迷子になったことがあるの」
何を言い出すんだ、と思いながら、俺は静かに聞き入った。
「ひとりで何時間も、泣きながら歩き続けて……」
本当に怖かった。このまま死んじゃうんじゃないか。どうしてこんなことになったんだろう。誰も助けに来てくれないんだろう。
――マリンは、そんな思いばかり抱えていた、と言った。
静かな語り口の中に、幼い日の絶望がにじんでいた。
「……でもね、そんなとき、小さな小屋を見つけたの。そこで――あなたと出会ったの」
「それって……」
「……私たちが、まだ五歳の時のこと」
ああ。思い出した。
確かマリンはエイミと隠れんぼをしていて、間違えてキメラの翼で森の中に飛んでしまった――だった気がする。
ぼんやりとした記憶が、少しずつよみがえる。
「わたしね、本当に怖かったの。助からないって思ってた。もう誰にも会えないんだって、諦めてた……。だからね、あの時、あなたが現れてくれたとき……わたしは、本当に嬉しかった」
そう言って、マリンは恥ずかしそうに、それでもまっすぐ俺を見た。
「それが、わたしの初恋。……あの時からずっと、ずっと、あなたのことが好き」
俺は言葉を失った。
こんなにも――長い間、ずっと――。
俺は、自分自身を、ここまで情けないと感じたことはなかった。
この世界は、あまりにも広く、冷たく、厳しい。
どれだけもがいても、必死に叫んでも、届かないことだって、たくさんあった。
無力だった自分。無意味だったあがき。
――そもそも、俺がこの世界に転生した意味なんて、あったんだろうか。
心の奥底で、そんな思いが、ずっと俺を飲み込みかけていた。
ここでは、何かひとつを成そうとするたびに、何か別のものを踏みにじらなきゃならない。そんな、残酷な場所だった。
だけど――。
「……トーヤ」
か細く、その手は震えていたけれど、決して離れなかった。
たった一人でも、俺の存在を必要としてくれる人がいる。
たった一人でも、俺を信じてくれる人がいる。
「……つーか、ぶっちゃけ。バーンなんか、どうでもいいんだよ」
更に言うと、世界平和だってどうでも良い。
ただ、このどうでも良いってのは興味がないとか、面倒だとか、そんな理由じゃない。
……そうだよ。せっかく、二度目の人生をもらったってのに。俺は、まだ、全然楽しめてねえじゃねえか。
「俺も、好きだ。バーンのやつをぶっ飛ばしたら、結婚の前にまずはデートだな」
単純明快で申し訳ないが、俺がこの世界で戦う理由なんてそんなもんだ。
そして――戦わなきゃならない以上、こんなところでくたばっている訳にはいかない。
そう思った途端、俺は無理やりにでも立ち上がろうとした。
だが、そのとき、隣にいたマリンが――ぐったりと、壁にもたれるようにして崩れかけた。
「マリン……!」
マリンの呼吸は浅く、意識はほとんど飛びかけていた。
俺は、マリンの小さな手をぎゅっと握りしめた。
「……待ってろよ。すぐに、地上まで連れてってやるから」
こんなところで、終わってたまるか。まだ何も楽しめてない。
まだ、マリンと笑い合って、ふざけ合って、未来を語り合いたい。
――その一心で、俺は目を閉じた。
もう知ったことか。俺がどうなろうと関係ない。
俺は、身体の奥底へと意識を沈めた。内側に渦巻くものを、必死に、必死に、手繰り寄せる。オーラというオーラを、根こそぎかき集める。
――途端、血の巡りが滞る。喉が焼ける。脳が悲鳴を上げる。
「……ッぐ……!」
瘴気に侵され、ボロボロの体に無理を強いたせいだ。オーラを練れば練るほど、苦痛は増していった。全身が悲鳴を上げ、骨が軋み、意識がぐらつく。
だが、それがどうした。それでも……それでも俺は、マリンを、助けなければならない……。
目の前で、か細い呼吸を繰り返すマリン。
震える指先で、必死に俺の袖を掴んでいたあの手。
あの温もりだけは、絶対に手放したくなかった。
「……っ、くそがッ。……な、なんだ……!?」
突如として、激痛が、すっと引いていった。焼けるようだった全身が、嘘のように、静かになっていく。
代わりに、体の奥から、温かなものが湧き上がってきた。それは、俺の意志に応えるかのように脈打ち、形を持ち始める。
俺の中心から、光が広がっていた。
ぼんやりと、最初はかすかな輝きだったそれは、みるみるうちに大きく、強くなっていく。
気づけば、周囲の瘴気が、音もなく掻き消されていた。ぐらついていた意識が、急速に澄んでいく。あれほど厚く重かった瘴気も、この光の前に、霧散していった。
+
「すばらしい……ッ!?」
暗闇の中、驚愕の声とともに、興奮気味の拍手が響き渡った。
死神キルバーン――・本来なら、すでにトーヤによって滅ぼされたはずの存在。
彼は人形の肩の上で、心からの称賛を惜しまなかった。
「何の道具も呪文もなく、瘴気を打ち払うとは……! まさに奇跡! これぞ、破邪の洞窟の真の秘宝だ!!」
自らの身に起きた異変を理解するよりも先に、トーヤはその声に驚き、思わず名を叫んだ。
「キルバーン……!? テメェ、生きてやがったのか!」
「ふふふ……死神が簡単に死ぬ訳がないだろう? もっとも、今はそんなことはどうでもいい」
仮面の奥から、氷のように冷たい視線がトーヤを貫く。
「キミこそ見事だよ、少年……。気づいているかい? キミは今、究極の力を手に入れた」
キルバーンの声には、心の底からの驚嘆と――抑えきれない欲望が滲んでいた。
死神キルバーンは、ゆっくりとトーヤに歩み寄りながら言葉を紡いだ。
「この破邪の洞窟は、かつて神々によって作られた……。邪悪なるものに立ち向かう力を、人間たちに授けるために、ね」
仮面の奥の目が、ねっとりと光る。
「強力な呪文、魔道具、神器――ここにはあらゆる力が用意されている。だが、それらはすべて“玩具”のようなものさ。今、キミが手にした力に比べたら」
キルバーンは人差し指を立てると、劇的な間を置いて続けた。
「それは、物でもなければ、技でもない。どれほど絶望しようと、どれほど傷つこうと……なお、立ち上がる心。邪悪を前にしても、くじけず、迷わず、自らの信念を貫く魂」
拍手の音が、再びトーヤの耳に響いた。
「それこそが、この洞窟に眠る真の秘宝……破邪の源、“不滅の意志”だ」
「不滅の、意志……?」
トーヤは戸惑いながら呟いた。
この身に宿る感覚――それは確かに、力だった。ただの魔法でも、肉体の力でもない。もっと根源的な、魂の底から湧き上がる何か。それこそが、破邪の秘宝――人が持つ最後の、そして最強の武器だと、死神は言う。
キルバーンはさらに一歩近づくと、まるで友人に話しかけるような調子で囁いた。
「だから、少年。ボクも微力ながら力を貸そう――」
そして、声を潜め、にやりと笑った。
「今のキミなら、バーンだって殺せる」
リボーンの死ぬ気と同じ理論です。