何だ、この男は……。
笑っている……? 余のこの姿を見て、あろうことか――笑っている……だと?
バーンの胸中に、戸惑いと苛立ちが渦巻く。全魔力を注ぎ込み、理性すら捨てて変じたこの姿は、恐怖そのもの。
余を前にして笑うなど……ありえぬッ!!
「……虫けらが……なめおって……!」
バーンの巨体が一歩を踏み出すたびに、王宮の床がひび割れ、瓦礫が崩れ落ちていく。天井の装飾が砕け、柱が悲鳴のように軋んだ。
かつて荘厳だった王の間は、もはや崩壊寸前。空間全体が重圧に耐えかねて震えている。
だが、トーヤはすでに走り出していた。瓦礫を蹴り、隙間を縫うように這い回る。
「……逃げるかッ!!」
踏み出すたびに、バランスを失った床が崩れ、壁が砕けた。バーンの巨体がトーヤを追い詰めるように迫る。
一歩遅れれば、その巨脚に押し潰され、跡形も残らぬだろう。
笑い声はもう止んでいたが、顔にはまだ余裕が残っている――バーンには、そう見えた。
「おい、さすがにその巨体でやることが踏み潰すってのはどうなんだよ」
軽口に、バーンの怒気がはっきりと形になる。
「黙れッ……!!」
両の掌を広げ、魔力を集中させる。
漆黒の波動が膨れ上がり、周囲の空気を歪ませ、王宮の瓦礫を浮かせながら、奔流と化してゆく。
「次は……逃がさんぞ、人間!!」
咆哮とともに放たれた、破壊の一撃。
対するトーヤは、即座に霊丸を撃ち返した。
だが――力の差は歴然だった。
霊丸の光は黒い奔流に呑まれ、あっという間に霧散する。押し寄せる魔力の波を前に、トーヤは咄嗟に横へ跳んだ。
紙一重で直撃を逸らすも、逃れきれない余波が襲いかかる。トーヤはすぐにシャハルの鏡を構え、正面から受け止めにかかる。
凄まじい衝撃。鏡が激しく軋み、全身に鈍い痛みが走った。それでも必死に耐えるが、バランスを崩した一瞬、鏡が手から滑り落ちる。
盾は床を転がり、瓦礫の山に呑まれていった。
吹き抜けた黒煙が晴れていく中、トーヤの前に、圧倒的な巨体がゆっくりと迫っていた。
「ふふふ、どうやらこれで、終いのようだな……!」
大魔王の声が、崩れ落ちる王宮に低く響き渡る。
だが――瓦礫の中から、トーヤがゆっくりと身を起こした。
血と煤にまみれながらも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。視線を上げ、遥か高みにそびえる大魔王を見据えたまま、ひとつ息を吐く。
「……今なら使えるか……? ああ、でもなぁ……」
トーヤが、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
次の瞬間、彼の身体からにじみ出るオーラと魔力が渦を巻く。力を搾り出すようにして立ち昇ったそれらは互いに絡み合い、やがて炎となって腕にまとわりついていく。
その炎は激しくうねり、やがて一頭の黒き龍の姿を形作った。
「あっちぃなクソがッ……。おら、いくぜ! 邪王ーー炎殺ーー黒龍波ァアアア!」
咆哮とともに黒炎が放たれ、空間を焦がしながらバーンへと飛翔する。
それを見た大魔王は即座に理解した。
――あれが奴の切り札か。最後の、決死の一撃。
バーンは全魔力、全闘気を両腕に集中し、真正面からそれを迎え撃った。
「ぬおおおおおおッ!!」
黒炎が直撃し、肌を焼き、視界すら熱に揺らめかせる。だが、大魔王は退かない。全身を焦がされながらも、巨体はなお立ち尽くしていた。
それでも、心の奥に焦りが走る。
――この熱……この圧力……っ! 想像以上か……!!
「これしき……これしきぃぃぃッ!!」
吠えるように叫び、魔力をうねらせて巻きついた黒炎を強引にねじり返す。
「返してやる……人間ッ!!」
黒き竜が再び咆哮を上げ、今度はトーヤを喰らわんと逆流した――。
黒き竜が再び唸りを上げ、トーヤへと迫る。己が放った黒龍波が、跳ね返され逆流してきたのだ。
迫り来る黒龍波を前に、トーヤは両腕を交差し身構えた。その黒き灼熱が生み出す熱風が、凄まじい衝撃となって駆け巡る。
「力と引き換えに寿命削ってる感、すごいなこれ……」
爆発にも似た黒炎の奔流の中――その中心から聞こえてきたのは、灼かれたはずの身体から立ちのぼる苦悶でも悲鳴でもなく、場に似つかわしくない男のつぶやきだった。
バーンの目が見開かれる。
――何だ、これは……?
何が起こった......。あの黒炎……今の奴は、あの凶悪なエネルギーを……吸収しているのか?
黒き炎が、彼の両腕から肩、背中へと這い上がり、まるで羽衣のように纏っていた。
揺らめく焔は意思を持つかのようにうねり、龍の形を残したまま、まるでトーヤの一部となったかのように静かに燃え続けている。
バーンは呆然と、そして見惚れるようにその姿を見上げた。
――なんと、美しい。
力の奔流が渦を巻き、死の気配すら感じてなお、その姿は、まるで炎の中に咲く黒き花のように気高かった。
トーヤの足元を、焦げた床石が崩れ落ちていく。
そして次の瞬間、風を裂いて、黒炎を纏った影が――疾風の如く、バーンへと襲いかかった。
バーンの目に、黒炎を纏った一匹の“点”が映る。その“点”が――風を裂き、空間を縫うように跳ねた。
次の瞬間、衝撃がバーンの左頬を襲う。巨岩のような皮膚が焼け爛れ、火花とともに抉れた。
――なにッ……この威力は……!
バーンの巨体が、宮殿の瓦礫を踏み砕きながら半歩よろける。ビルほどもある体が、たった一撃で揺らいだ。
「よっと!」
真上。トーヤの影がバーンの身体を足場に飛翔し、漆黒の火脚が落ちてくる。
バーンが反射的に腕を翳す。が、地響きを伴う炸裂音と共に、その腕に重たい熱が食い込んだ。巨躯がわずかにのけ反る。
空間に、黒い弧がいくつも描かれる。炎と圧力を帯びた拳と蹴り。小さな人間――いや、もはや一個の“火の獣”が、魔王の巨体を駆け巡る。
「どうしたよデカブツ、あんたの拳、いまんとこ全部空振りだぜ?」
声は、どこからともなく響く。足元、肩、背中、視界の隅……小さすぎて追いきれない。だが、確実に身体を蝕んでいた。
――なんという速度、そして力……!
――この小さき者が……余を、押している……だと……!?
バーンは、自らの巨体が重荷となる瞬間を味わっていた。
動作が一瞬遅れれば、そこに拳が走る。防御が遅れれば、黒炎が肉を焼く。回避しようにも、その身はあまりに大きく、壁のごとく動きが鈍い。
だが、バーンはなおも怯まなかった。押されていようとも、トーヤの力に“限界”は見えていた。だからこそ――大魔王は揺るがぬ確信を抱いていた。自らが、最後には勝つと。
この力は確かに脅威だ。しかし強大すぎる力には、必ず代償が伴う。経験か、あるいは本能か――バーンは直感的に、それを見抜いていた。
そしてその読みは、まさしく的中していた。
トーヤの力は、すでにピークを過ぎつつある。
先ほどまで一瞬で駆け抜けていた脚が、わずかに重さを帯び、黒炎の威圧も、どこか切れ味を鈍らせ始めていた。その変化を、大魔王の眼は見逃さない。
それもそのはず。
トーヤは、日に四度までしか撃てぬ“霊丸”を、すでに三発も消費している。さらに、先ほど放った“黒龍波”は、魔法力のすべてを燃やし尽くし、それに相応するオーラまでをも代償にしていた。
終わりは、近い。
「ぐあっ……!?」
不意に、バーンの巨腕が唸りを上げ、トーヤを薙ぎ払った。
直撃――その小さな身体が宙を舞い、数メートル先の瓦礫へと叩きつけられる。
口の端を吊り上げたバーンだったが、その表情はすぐに苦痛に歪んだ。
灼けるような激痛が、薙ぎ払った腕を駆け上がってくる。トーヤの身を包んでい黒炎が、大魔王の腕を灼いたのだ。
「チッ……忌々しい……!」
バーンの巨体がわずかによろめき、焦げ付いた腕を押さえる。
だが、トーヤもすぐには立ち上がれなかった。
瓦礫の中、苦痛に顔をしかめながら、肩で息をつき、膝を震わせる。
「はは……やっと……一発、入ったな……。ずいぶんと、のんびりしてんじゃねえか」
どちらが先に膝をつくのか――。
バーンが踏み出す。
トーヤもまた、ふらつきながら前へと出る。
黒炎と漆黒の闘気がもつれ合い、ぶつかり合い、焼け焦げた王宮に爆音が響く。
破壊の波が周囲を焼き払う。崩れた玉座、割れた柱、砕けた床。そのすべてが、二人の死闘の余波に耐えきれず、少しずつ形を失っていく。
――先に膝をついたのは、バーンのほうだった。
「……!?」
巨体が、ひときわ大きな音を立てて、片膝を地に沈める。
バーン自身、信じられないといった表情を浮かべていた。だが身体は、もう言うことをきかない。
そして――バーンの体が、ふわりと、揺らめくように形を失っていく。巨体が解けるように、崩れ落ちていった。
現れたのは、かつての端正な姿。魔界の王にして、かつて人の形をしていたころのバーンだった。
「……戻った、だと……? 私が……?」
バーンは驚愕を隠せなかった。
鬼眼王――第三の眼を解放し、かつての姿を捨てたとき、彼は理解していたはずだった。
二度と戻れぬ。あの力を使うということは、自分の誇り以外の全てを捨てる覚悟が要ると。
だが今、彼は“戻って”しまった。
理解は追いつかない。
だが、ひとつだけ確かなことがある――自らの意志で戻ったのではない、という事実だ。
トーヤが持つ“破邪”の力の影響か。あるいは、極限まで蓄積したダメージが引き金になったのか。
その因果は不明だ。だが、どんな理由であれ、今の自分をこの状態にしたのは、紛れもなく目の前の男――トーヤだ。
バーンは、かすかに震える指先を見つめながら、静かに確信する。――ここで、自分はこの男に討たれるのだ、と。
かつて神にも等しい力を誇った身が、今や人の姿で、ただ立ち尽くすしかできない。
「……終わりだぜ、バーン。ケリを、つけてやるよ」
トーヤが、よろめきながらも一歩を踏み出す。
だがその瞬間――彼を包んでいた黒炎が、風に吹かれた霧のように、ふっと霧散した。
バーンの瞳がかすかに揺れる。
感じていた圧――あの重苦しいまでの殺気と闘気が、まるで幻だったかのように、跡形もなく消えていた。
「……なっ――」
次の瞬間、トーヤの膝が崩れる。
まるで糸が切れた人形のように、その場に膝をついた。
「――っ!? ……ふ、ふはは……ふはははははッ!!」
バーンの高笑いが、虚ろな王宮に響き渡った。
トーヤは、力尽きたのだ。
息はある。意識も、かろうじて残っている。
だが、それだけだ。もはや剣も拳も振るえはしない。
勝利の天秤は――ゆっくりと、しかし確実に、バーンの方へと傾いていく。