「あ痛たた……」
「ーーゲホっ」
尻もちをついたブロキーナは、ゆっくりと起き上がりながら顎を撫でた。下顎にクリーンヒットをもらい、視界が揺れる。しばらくは安定しそうにない。
ブロキーナは自らのダメージを計算しながら、お腹を押さえて咳き込むマァムに視線を向けた。今は痛みで動けないものの、マァムは一分と経たずに回復するに違いない。呪文でダメージを回復させて今のうちに止めを刺せば、此度の試合もブロキーナの勝利で終わる。
しかし、ブロキーナは拳の力を抜き、満足げに微笑んだ。
マァムは何かを掴んだのだろう。その動きは、明らかにこれまでとは違っていた。
最後の攻防、ブロキーナの蹴りがマァムの鳩尾を貫いた。だがその瞬間、マァムは防御ではなく、真っ直ぐにブロキーナの顎を撃ち抜いた。
傍で見ていたポップとメルルには捨て身の一撃にしか映らなかった。だが、ブロキーナは感じていた。あれは捨て身でも、単なるカウンターでもない。マァムが見せたのは未完成ではあるが武術の到達点とも言える領域の片鱗だった。
間合いを詰めた瞬間、マァムはブロキーナの懐に飛び込んでいた。襟を掴んだ瞬間、マァムの体は宙を舞っていた。拳を繰り出した次の瞬間、マァムはブロキーナの拳をまともに受けていた。
攻める者は同時に防ぎ、防ぐ者は同時に攻める。武術の極意とは、攻撃と防御を一つにすること。
本来ならば技や歩法で成すべきそれを、ブロキーナはただの構えだけで実現していた。もちろん、相手が格上なら精度は落ちる。力の差が開きすぎれば、そもそも成立しない。だがマァム相手なら、これまでその技は確実に決まっていた。そう、つい先ほどまでは——。
『師を超えろ』——そう言った自分ですら信じられないほどの速度で、マァムはついにこの域へと足を踏み込んだ。
それだけではない。マァムはまだ、その先を目指していた。それが形になったとき、マァムは間違いなく、ブロキーナの遥か先へと進むだろう。つまりは——。
「……もう、ワシが教えることは何もない。マァム、よくやった。おめでとう」
ゆっくりと差し出された手を、マァムはそっと握った。
マァムが感謝を伝えると、ブロキーナは静かに微笑んだ。その笑顔につられ、マァムも微笑む。だが、すぐに表情を引き締めた。
「老師。まだ私は老師のように武術を極めたとは言えません。さっきのもまだーー」
「自惚れてはいけないよマァム。武術の高みとは、辿り着けるものではない。ワシが初めて武術の神と周りの者に言われた時は随分若かったし、今ほど強くはなかった。そしてワシは今でも武術の神なんて大層な名を名乗れるほど強くない。きっとこれから先も武術を極めたなどと言える日が来ることはないだろうね」
攻防一体の構えも、神業といえるほど高度な技だ。しかし、それでも高みの扉を開いた場所に留まっているに過ぎない。
神の領域とは、辿り着けないからこそ神の領域なのだろう、とブロキーナは言う。
「だからこそ、ここから先はお前が道を作っておくれ。師は弟子を導くが、先へ進むのは弟子の役目だ。そしていずれは弟子を持ち、道の先を託すことになる」
武術の継承とはただ受継ぐだけに非ず。次へと繋ぐその時までの道を作ること。それを認められた者が継承者となるのだ。
「なんちゃって」
最後はおどけて締めくくる。
足取りも軽くマァムの傍らを通り過ぎると、ポップの肩を軽く叩いてウインクなどをして見せるのだった。
+
マァムが先に修行を終え、マトリフの勧めでメルルと共にトーヤの元へ向かうことになった。
ありがたい。
ポップはその二人を見送る際、安堵と共にどこか重圧から解放されたような感覚を覚えた。
マァムは本当に強くなった。魔王軍との戦いが迫る中で、これほどの成長を遂げた彼女がいることは、心強いことこの上ない。マァムがいるからこそ、ポップは必死に戦うことができたし、彼女を守るために強くあろうとする気持ちもあった。しかし、今は彼女がそばにいないことに、どこかで安堵している自分がいた。
「しょうがねえよな」と、ポップは呟いた。
ポップの心は迷いの中にあった。間もなく戦わなければならないのは、魔界の王、バーンという怪物だ。だがそれより先に、ミストバーンとの戦いが待ち受けている。その戦いが、ポップにとって何よりも不安なものだった。
ダイを取り戻すという決意は揺るがない。それにウソはない。しかし、問題はミストバーンとの戦いではなく、その後に待っている事実にある。
おそらくーーいや、まず間違いなく、ミストバーンを倒したとしても、バランの肉体が戻ることはないだろう。
アバンはかつて、ミストバーンが暗黒闘気で作られた生命体だと語った。そして、破邪の呪文でその闇を浄化するつもりだと…。だが、ポップにはその呪文がどれほど強力であろうと、ミストバーンを消滅させるほどの力を持つとは思えなかった。
もし破邪の呪文がそんな力を持っていたのなら、バーンパレスでの戦いの際、アバンは隠れることなく戦いに加わったはずだ。あえて戦わなかったのは、できなかったからに他ならない。
つまり、ミストバーンを倒すことは同時に、バランの肉体も消滅させるということだ。
ポップはそのことを理解していた。そして、おそらくこの二人もーー。
「ですよね。マトリフ師匠、ブロキーナ老師」
ポップの問いかけに、二人は沈黙で答えるしかなかった。