「妹がお世話になっている方達だとは露知らず、失礼いたしました。
お詫びとお礼を兼ねて、貴方達には女神の祝福をあげましょう。
海岸沿いを歩いていくと洞窟への入り口が見つかるわ、その一番奥に宝物を用意してあるの。
この時代には、本来存在しないとっておき……こんなご褒美は滅多にしないのだけれど、特別に差し上げますわ」
そう言って微笑んだステンノの言葉を受けて、示された洞窟へと向かおうとした一同の歩みは、踏み出す前に止められた。
立香には、丁度いい機会に、少しずつの消耗で長い時間を保たせる形の召喚にも慣れておいた方がいいと。
メドゥーサには、折角久しぶりに姉と会えたのだから、共にゆっくり過ごせばいいと。
マシュには、現界が可能なだけの魔力しか供給されていなくて戦闘行為に移れないメドゥーサと、そもそも戦えないというステンノの護衛を務めてもらいたいと。
ネロには、守り役のマシュが居ないという状況が不安だから、いっそのこと共に待っていてほしいと。
一人一人にそれらしい理由付けをしながら、要は『自分一人で行かせてほしい』と告げているリンクに、一同は不安と懸念を募らせた。
すぐ単独行動に出るのはリンクの悪い癖だけれど、怒られると分かっていながら、それでも必要なことだからと割り切ってもいる彼は、いつもならば許可なんて取らずに勝手に動き出してしまう筈なのに。
状況は不自然極まりないのに、笑顔も振る舞いもいつもと全く変わらないように思えてしまうリンクの様子が、一同にはかえって異様なものに思えた。
荒れ狂う内心を懸命に抑え、表向きを取り繕った結果のようで。
そのまま押し負けて、流されてしまってもおかしくはなかった圧力に、立香は背筋とこめかみに冷や汗を流しながらも懸命に抗った。
そうして今、最後まで心配そうにしていた女性陣から見送られた二人は、鎖のように連なる足跡をふたつ並べながら、潮騒の響く波打ち際を歩いている。
どうにも様子がおかしい彼を一人には出来ないと、『サーヴァントと距離を置いても現界を保たせる練習だ』と言い切って強引に同行を承諾させたこと自体に関しては、少しも後悔してはいないのだけれど。
自身の2~3歩分ほど前を無言で歩いているリンクに、何と声をかけるべきか、どんな話題を振るべきかを悩んでいる間に、目的地らしい洞窟の入り口が進行方向の先に見えてきた。
そのことに気づいてふと注意を逸らした、ほんの一瞬油断した立香の思考に、突如乾いた破裂音が響いた。
背筋が跳ねる程に驚きながら音の出所へと振り向いてみれば、そこにあったのは、自身の頬を両手で挟んだリンクの姿。
結構な力を込めたらしく、手の下の肌は見ていて痛々しい程に赤くなっていて、宝石のような碧い瞳は涙で滲んでいる。
そうして、ほんの一瞬だけ俯いた顔を上げて笑ったリンクは、既にいつも通りの彼だった。
「…………よしっ」
「リンク?」
「ごめんな立香、俺の様子おかしかっただろ?」
「……なあ、リンク」
「余計な心配かけたけど、でももう大丈夫だから」
「リンク、誤魔化すな!!」
「…………」
思わずといった様子で逸らした目線は、そのまま押し通すには無理があったことをリンク自身が確かに自覚し、その上で、このまま有耶無耶にしてくれるのを期待していたことの表れに他ならない。
本来ならば立香だって、無暗に事を荒立たせるのは避けたいところだし、リンクが本当に何でもなかったのならば、望み通り誤魔化されてやっても良かったのだけれど。
周りに異変を悟らせてしまっていた、取り繕えていなかった、あからさまに引き摺る程のショックを受けていたという事実を前に、このまま折り合いをつけてしまうという選択肢はあり得なかった。
「一人だけで抱えて、誰にも知られないまま呑み込んで終わりだなんて。
……そういうの、もうやめてくれよ。
お前が色々と溜め込んでいたこと、それが辛かったこと、皆ちゃんと知ってるから」
「…………ありがとう。
気になったことがあったらちゃんと話した方がいいって、受け止めてくれるって、もう分かっていた筈なんだけど。
やっぱりちょっと心配だったんだ、あまりぶっちゃけたら引かれたりガッカリされたりするんじゃないかって。
……一応俺、勇者な訳だし」
「『一応』じゃなくて、お前は世界中から認められている正真正銘の勇者だろ。
……もしかしてお前、気にしてたのはステンノの発言そのものじゃなくて、それに対して腹を立てた自分の方だったのか?
勇者としてもっと余裕を持つべきだったのにとか、対応の仕方間違えたとか、そういった感じで」
特に深く考えたりはせずに、ふと思いついたことをそのまま口にしただけだった筈の発言は、把握しきれずにいた状況の空白部分に思いがけず綺麗に嵌まり込んだ。
『誰かの為』にならば、長い時間や困難な試練を経て身につけてきた強大な力や技を幾らでも揮ってみせるけれど、それが『自分の為』となると途端に躊躇ってしまう。
『勇者』という偶像に対する勝手なイメージではなく、友人として確かに目の当たりにしてきた個の性分として、『リンク』という少年はそういう人だった。
自分が抱いた推測が正しかったとしたら、この機会に思い直させなければと立香は思った。
自分が成し遂げてきたことに対して、正当な評価や見返りを求めるのは当然だし、不当に貶められて腹を立てるのもまた当然なのだから。
リンクはもっと自分で自分を正しく評価するべきだと、
伝えようとした立香の意気込みは、途中で妨げられた。
立香の言葉を受けたリンクが、薄っすらとした笑みに困惑や躊躇いを滲ませながら、自身の考えの全てが正しい訳ではなかったことを示す事実を口にしたことで。
「………そう、だな。
『勇気ある者』として似つかわしくないって言われてムカッときたし、イラッともなった。
そう簡単には気付かれないように隠蔽かけてるし、教えてもいないんだから仕方ない筈なのに……それでも思ってしまった、『知らないくせに』って。
『何を馬鹿なことを』って、『俺で駄目なら他の誰が相応しいんだ』って、心の中で声を上げていた」
「……そんな風に思うのは、絶対に、悪いことなんかじゃない。
だってお前は、ちゃんと知れば誰だって凄いと認めるしかないようなことを、たくさん成し遂げてきたんだろ?」
「……ありがとう。
そう言ってもらえるのは本当に、素直に嬉しい。
だけどさ、立香、お前の予想は少しだけ間違ってる。
俺にとって本当に衝撃的だったのは、ステンノの発言そのものじゃなくて、それを受けて不満を抱いた俺自身……貶められたと感じ、怒りを覚えたという事実そのものなんだ。
ハイラルにいた頃の俺は、その称号が自分を意味するものであることを受け入れ、自ら名乗るようになり、周りからそう呼ばれて応えるようになってからも……時の神殿で瞼を閉じた最後の時まで。
『勇者』であることと、それに伴う責任と運命を、ずっと嫌がっていた筈だったんだから」
いつか必ず将軍になるって、また俺の隣に立つって言ってくれたバドの就任式は、俺が仕切る筈だった。
そういう年になったからってだけの、区切りとしての成人じゃなくて、ちゃんと育って大人になった俺を、ばあちゃんに見てもらいたかった。
陛下やインパは、私的な場ではちょっと心配になるくらいに俺に甘くて、上司や同僚というよりはむしろ姉とか父親みたいで。
つい口を滑らせた後、そう思ってくれて構わないって返されたのを、その時は適当に流したんだけど……本当は嬉しかったんだ、冗談だとしてもちゃんとお礼を言っておけば良かった。
………ゼルダと、ずっと一緒にいたかった。
二人で並んで、同じものを見て、同じものを聞きながら、共にハイラルを守っていきたかった。
守りたかった約束や、叶えたかった未来は、まだまだ沢山あったけれど。
マスターソードを抜いて、『勇者』であることを受け入れた瞬間に、全部諦めた。
……何故って、だって俺は知っていたから。
『厄災』がどれだけ強大で恐ろしい敵なのか、『黄金の聖三角』にまつわる因縁がどれだけ過酷なものなのか。
ハイラルの長い歴史の中で、何人もの『勇者』とその仲間達が、幾度となく抗ってきたけれど……何も失わないまま、誰も傷つかないまま終わらせられたことは、ただの一度も無かったってことを。
皆が、かつての『賢者』や『英傑』達と同じようなことになるかもしれないって、想像するだけで目の前が暗くなった。
そんな不安を抱きながら日々を過ごすことが耐えられなくて、俺は『リンク』の名前と姿と力、あと記憶を持っているだけのただのハイリア人だって、勇者の運命とは関係ないって、一生懸命に思い込もうとしたけれど………うん、無理があるよな、俺もそう思う。
そして、そんな誤魔化しがついに利かなくなって、『勇者』であることを受け入れるしかなくなった俺は、さっき話したような約束とか夢とか、『勇者』としての戦いを妨げるような、心残りになりそうなものの全てを捨てた……いや違うな、閉じ込めて蓋をした。
自分が頑張りさえすれば皆を助けられるなら、俺が傷つきさえすれば皆が無事でいられるなら構わないって、皆の未来を守れるなら俺の未来はいらないって、そう思ったことに嘘は無かった筈なのに。
夢や約束、それらを諦められない『本心』を閉じ込めた容れ物の蓋は、ちょっとしたきっかけですぐ開きそうになって、押さえるのが本当に大変で。
決して無茶なことを願っていた訳じゃないのに……俺が『リンク』でさえ、『勇者』でさえなければちゃんと叶えられてた筈なのにって、思わずにはいられなくて。
結局俺にとって、最後の最後まで、『勇者』は重荷だった。
すぐ近くで水が滴り落ちる音と、肌が粟立つような冷気と湿気を感じて顔を上げた立香は、いつの間にか自分達が、目的の洞窟内に入り込んでいたことにようやく気が付いた。
話の方に集中していたとはいえ、いくら何でも周りが見えてなさ過ぎだと自分で自分に呆れながら、無理もなかったと思う部分も少なからず存在している。
ロマニを含めた、オペレータールームからの声はいつの間にか聞こえなくなっていて、今までのやり取りをどれだけの人が聞いていたのかは分からないけれど。
自分も含めた全員が、同じような表情を浮かべ、同じような想いを胸中で渦巻かせているのだろうということを、想像するのは容易かった。
「…………重荷だったって、辛かったって、言うならさ」
「うん」
「…………どうしてお前、笑ってるんだ」
「……そうして繋げた先に、立香達が命がけで守りたいと願うような歴史と未来が、ちゃんと続いていてくれたから。
たくさんのものを置いてきてしまったけれど、それに負けないくらいにたくさんのものが、俺を待っていてくれたから。
……頑張って良かった、勇者になって良かったって。
『俺達』の旅路を『勇気あるもの』だったと認め、讃えてくれた皆が、お前達が、俺にそう思わせてくれた。
俺はリンク、俺は勇者だと、胸を張って誇れるようにしてくれたんだよ」
その言葉と笑みを受けて、一気に滲んでしまった視界の中で、尚もリンクは続けた。
それまでの重苦しい空気を敢えて壊そうとしているかのような、殊更に陽気な声色と振る舞いで。
「まあ俺も、自分の心境がそんな風に変わってるってことを自覚したのは、本当についさっきなんだけどな」
「ステンノに『勇者として相応しくない』って言われて、腹を立てたことで?」
「……前までの俺だったら、そこで怒るどころか、むしろ納得していたかもしれないからなあ。
彼女自身は本気で俺のことを馬鹿にしたかったんだろうけれど、俺が『勇者』であるという事実と実績は、そんな言葉をかけられた程度で揺らぐようなことじゃないし。
結果的にきっかけをくれたこと自体には、怒るどころか感謝してるから、お前が心配してるようなことにはならないよ」
「…………そっか、良かった。
でも、だったらどうして、あんなあからさまに不穏な振る舞いをしたんだ」
余計な心配をかけさせやがって……と、据わった目で暗に責めてくる立香に、リンクは申し訳なさそうな苦笑いを浮かべながら返した。
「単に取り繕えるだけの余裕が無かったんだよ、その瞬間まで想像もしていなかった心境をいきなり自覚させられたんだから。
下手に行動を起こしたりしなければ、落ち着くまで誤魔化せたかもしれないけれど。
……今を逃したら、同じような好機が次にいつ来るか、分からなかったからなあ」
「好機って?」
「……ステンノに『勇者らしくない』って言われて、怒って、自分の変化を自覚して。
その後でさ、ふと思ったんだよ。
『そういえば、確かに俺は目覚めてからこの方、勇者として本気で戦ったことがまだ無かったな』って」
「…………はい?」
その発言が事実であると、少なくとも当人は本気で口にしていると、理解して受け入れるまでには数秒を要した。
これまでにリンクが幾度となく見せてきた戦いを、彼が『勇者』であることを証明してきた筈の光景を、脳内で巡らせながら唖然としてしまっている立香をよそに、リンクもまた同じものを思い描きながら、立香とは異なる印象を語っていく。
「いや……と言うより、『本気で戦える、もしくは戦う必要がある状況が無かった』と言った方が正しいな。
オルレアンの時は、サーヴァントの体の使い方を把握するのが遅れて宝具やスキルの類いが使えず、武器の調達にも手間取って、余計な苦労をしていたし。
ローマに来てからは、人間相手の戦いばかりで基本的に要手加減だった上に、ただ単に相手を物理的に倒せばいい訳じゃない形の、駆け引きや工作の方が重要になる展開も多かったし。
『俺達』の冒険、旅路が偉業とされ、『俺達』が『勇気ある者』と称される理由の中でも、特に大きなもののひとつ。
ほんの一瞬、たった一回でも間違えてしまえば命取りになるような、強大な怪物との戦いを、サーヴァントの身を得てこの時代で目覚めた今の俺は、まだ為していないんだ」
「……それは、機会が無かったんだし、仕方ないんじゃないか?」
「ああ、そうだな。
仕方なかったし、そんな事態にならなかったことは、組織としては紛れもなく幸運だった。
だからこれは、あくまで俺の個人的な事情で、我が儘だ。
特異点という閉じられた世界の、『神の住む島』という人の認知から離れた領域の、洞窟という更なる密閉空間の、『女神の試練』という特殊な条件までもが付加された場所。
こんな好条件が重ねて整っている状況は、逃すにはかなり惜しかった。
手順と感覚に覚えもあることだし、今この場でだったら、『記憶と経験を基にした再現』はそう大変なことじゃないと思う」
「…………えっ、待て、ちょっと待て。
お前、何をやるって?」
嫌な予感に表情を引き攣らせた立香の、少し上擦りながら震えていた問いかけに、リンクは言葉ではなく、自身の左手の甲をそっと翻す動作で応えた。
立香が目にしたのは、自身の手の甲に刻まれている紅い三画とは似て非なる、黄金の三角。
最も古く、最も強い力を持つとされる原初の『願望器』であり、『最後の願い』の受諾と成就によってその側面が失われた今も尚、大抵の願いならば物量のごり押しで叶えられるとされている無限の魔力の源。
それが、赦されている筈なのに滅多に使おうとしない主の、本当に珍しい願いを受けて、眩い輝きを放ち始めていた。
「ごめんな、立香……こうすると決めていたからには、お前の同行は、何が何でも断っておくのが正解だったんだろうけど。
俺自身に余裕があまり無かったのと、お前が心配してくれているのが嬉しくて、つい押し切れなかった。
でも大丈夫、参考にするのは『俺達』の戦いの記憶と経験だから、当時その場にいなかったお前が狙われることは無い筈。
……でも、まあ、流れ弾にだけは気を付けてくれ」
そう言って、少し申し訳なさそうに笑ったリンクの足元の、見るからに頑丈だった剥き出しの岩盤に、突如巨大なヒビが走る。
あっという間に枝分かれし、蜘蛛の巣の如く広がった亀裂は、その辺り一帯を呑み込みながら瞬く間に崩壊した。
上げていたかもしれない立香の悲鳴や怒号は、その轟音によって完全に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。