その階層に降り立った立香をその瞬間に苛んだのは、今まで感じてきたような、直接的に命を脅かされることに対する分かりやすい危機感ではなく。
目には見えないし耳にも聞こえない、五感では感じられないのに『何か』がすぐ傍に存在していることだけは分かるという、得体が知れないからこその恐怖と気持ち悪さで。
訳も分からないまま慄く立香に気づいたリンクは、思わずといった様子で感心した声を上げた。
「分かるのか、お前ってこういう類の気配に割と敏感なんだな」
「…………何がいるんだ?」
「知らない方がいいと思う」
疑問や反論を挟む余地が無い勢いでそう言い切ったリンクが、立香の返事を待たずに動き出す。
剣を抜くでも、魔術を使うために集中するでもなく、その場で獣のように四肢をついた彼は次の瞬間、本当に獣と化していた。
リンクは十代半ばの少年として見ると小柄な方だけれど、同サイズの肉食獣となれば、戦闘能力を持たない普通の人間からすれば立派な怪物だ。
正体はリンクだと、襲ってこないと分かっていても、生き物としての当然の本能を刺激されて一瞬背筋を竦ませた立香に、狼と化したリンクは笑ったのだと察せられる僅かな唸り声を零しながら駆け出した。
そうして立香が目の当たりにしたのは、強靭な獣の四肢で地を蹴ったリンクが鋭い牙を剥きながら見えない『何か』へと飛びつき、虚空に浮いていたらしいそれを引きずり落とし、地に押さえつけて動けなくなったその身を、唸り声を上げて首を激しく左右に振りながら食い千切るという、『相手が見えなくて良かった』と普通に思ってしまうような情け容赦ない狩りのシーンであった。
《狼に変身し、それによって得た獣の五感を更に研ぎ澄ますことによって、肉体を持たないゴースト型の魔物の姿すら鮮明に見極めることが出来る。
これは、『黄昏の勇者』が持ち得ていた力だね。
……僕の個人的な意見だけど、彼の一番凄いところは、『獣の姿に変えられてしまった』という呪いを、獣と化した身で出来ることを普通に『能力』として受け入れ、使いこなしてしまったことだと思う。
二度と人間に戻れないかもしれない、次は無いかもしれないという不安と恐れは、大切な人達を助けたいと願う彼の歩みを止めさせるには至らなかった。
神話や伝説の中で、どれだけ多くの者達が異形の呪いによって破滅したのかを考えれば、『黄昏の勇者』を苛んだ困難が如何に過酷なものだったのかを、それに立ち向かった彼の勇気を思わざるを得ないよ》
静かな声で解説交じりの語りを口にするロマニと、無言で見守る立香の前で、リンクの牙が何匹目かの見えない敵を噛み砕く。
それによって、こういう状況でなければ気のせいで済ませてしまいそうな程に朧気ながら、それでも確かに感じていた気配が完全に消え、無意識に込めてしまっていた肩の力を抜いたその瞬間、頭上高くに新たな異変が現れた。
モザイクのタイルが徐々に敷き詰められるように展開した黒を、無機質な赤い光が彩る。
赤と黒の渦を巻く穴、それを知る者からは『ポータル』と称される異界への門は、立香達がそれまで目の当たりにしてきたものとは雰囲気と質が明らかに違う、影が形を取ったかのような数体の異様の魔物を吐き出した。
《あれは、もしや『影の使者』か!?
これはまた、厄介なのが出てきたなあ!!》
「強いやつなの?」
《それなりに強いだろうけど、それでもリンク君なら大丈夫だと思う。
僕が厄介って言ったのはね……『ゼルダの伝説』に記載されていた内容からすると、あいつらは一体でも残せば全体が復活するんだ。
だから出来るだけ纏めて倒さないと、いつまでも戦い続ける羽目になってしまうんだよ》
「何だそれ、面倒くさい!!
『伝説』の中で、『リンク』はどうやってあいつらを倒したの!?」
《復活させる間もなく大技で一気に倒し切るか、もしくは、復活を妨げる特殊な結界を展開させながら戦うか。
負担が少なくて確実なのは後者の方だけれど、それが出来たのは『黄昏の勇者』ではなく『姫君』のほ…………》
立香の問いに答えようとしたロマニの声は、途中で途切れた。
立香もまた、それに対して文句は言えなかった。
『影の使者』の群れを前に、身を屈めながら唸り声を上げていたリンク……その強張った背中に突如質量を持った影が降り注ぎ、小さな体に見合わない無骨な冠を身につけた魔物の姿を形作ったのだから。
驚いたのは立香達だけでなく、リンクはむしろ彼ら以上に驚いて、そこが定位置と言わんばかりに堂々と腰を下ろしている『彼女』へと向けて懸命に振り返ろうとしている。
狼の体の構造からして、ただ首を捻るだけで自身の背中を見ることは出来ず、逸るあまりにその場で回り出してしまったリンク。
ちょっと間抜けなそんな姿に、影の魔物は呆れた溜め息でもついているかのように肩を竦め、『ぺちんっ』と音が鳴りそうな仕草と勢いで、その小さな両手のひらをリンクの背中に二度三度と叩きつけた。
それだけで、『喝』には十分だった。
呆けてしまっていた表情と空気を一瞬で張りつめ、牙を剥いて奔り出したリンクの背中で横座りになりながら、魔物はその小さな体に収まるものとは到底思えないような膨大な力を行使する。
魔物を中心に円形に広がった、踏み込んだ者をそのまま呑み込んでしまいそうな闇の結界。
全ての『影の使者』が、その範囲内に踏み込んでからのほんの数秒の間に、地に脚をつけることなく『影の使者』の体を足場に跳んだリンクの牙は、全ての喉元を食い千切っていた。
地に伏せたまま起き上がることなく、霧散しながら消えていく『影の使者』達。
その名残が僅かに漂う、戦闘終了直後の独特の静けさの中で、言葉なく立ち尽くしている者達がいた。
いつの間にか人の姿に戻っていたリンクと、そんな彼と目線を合わせられる位置に小さな体を浮かせている魔物。
シャドウ・サーヴァントを思わせるような、影がそのまま質量を持ったかのようなその身からは、表情どころか顔の造形すら窺えない筈なのに。
体の割に大きな目を細め、口の両端を三日月のように吊り上げ、ニイッという音が聞こえそうな、意地悪そうな……胸の底から込み上げるものを堪えて引き攣った、必死の強がりで作り上げた不器用な笑顔が、立香には見えた気がした。
「ああ、そうだな」
「最後、『またな』って言ってたもんな」
「今この時だけの夢……俺の能力を再現するために、記憶と逸話から作り出された影法師だとしても」
「また会えて嬉しいよ」
「ありがとう、ミドナ」
そのやり取りを最後に、影の魔物はゆっくりと消えていった。
対峙する者がいなくなっても、その階層をクリアした証である次に進むための魔法陣が現れても、言葉なく立ち尽くしたままのリンクに、恐る恐る近づいてきた立香がそっと語りかける。
「リンク、大丈夫か?」
「……ああ立香、待たせてごめんな。
驚いた、宝具ってああいう形のものもあり得るんだ。
こういう状況でもなければ絶対に使えなかったし、少ない機会を逃したら存在自体にすら気付けなかったかもしれない」
特異点攻略を楽にするためだけでなく、自分自身の個人的な希望としても、この身で出来ることを追求していきたい。
改めてそんなことを考えていたリンクに、立香が続けて問いかけた。
「あ、あのさ、さっきのお前ってもしかして」
「ほんと色々とよく気付くなあ、個人の資質に加えてマスターだからかもしれないな。
基本的には俺に全部任せてくれるとしても、あの状況では流石に黙って見ていられなかったらしくてさ。
俺も空気を読んで、少しだけ下がっていたよ」
「やっぱり……表情とか雰囲気とか、何か違うと思った」
《…………え゛っ、それってつまり。
さっきのリンク君は、リンク君じゃなくて、『黄昏』の》
いや、『彼』だったとしても『リンク』君であることには違いないんだけど……と、ショックと混乱のあまりに、自分では秘めているつもりの内心を呟きまくるロマニ。
そんな彼にリンクが返したのは、意味深な笑顔のみであった。