『
伝説によると、敗走する劉備軍がこの陣に逃げ込むのを許してしまった陸遜軍は、『踏み入る者を決して逃がさない』と言わんばかりの異様な殺気を前に尻込みし、それ以上の追走を諦めて撤退したという。
類まれな知略で以って人類史に名を刻み、サーヴァントとしてこの地に降り立つこととなったその人の名は、三国志演義の天才軍師こと諸葛亮孔明……の、名と力と存在を思いがけず負うことになった、とある一人のイギリス人。
通常ならばその宝具は、敵の能力を下げると同時にその行動を阻害させる結界や、仲間を護り外敵の接近を拒むための移動式魔術工房として簡易的に使用するのが、魔力の消費量や展開完了までの速さなど様々なものを考慮した上での最適解なのだけれど。
それを彼は、今回に関しては敢えて、必要なだけの魔力と準備時間を費やしながら、概念ではなく実際の陣そのものを顕現させていた。
「……偉大なるペルシアの王よ、申し訳ない。
だが赦せとは言わぬ、これは必要なことだった。
何しろ相手はあの勇者だからな……強敵との戦いに気を取られている瞬間でも狙わなければ、こうも上手く捕らえられた自信ははっきり言って無い。
……しかし、ここまで来れば流石にもう大丈夫だろう。
あとはこの陣を維持し、捕らえ続けることに専念す、れ……ば…………」
火をつけたばかりの煙草が、男の口元からぽろりと零れ落ちる。
まだ殆ど吸っていなかったそれを勿体ないと思うどころか、落としてしまったこと自体にすら、彼は気付けていなかった。
陣の内部は、彼にとっての魔術工房や固有結界のようなもの。
ほんの僅かな沈黙の後に始まった怒涛の動きの全てを、彼は余さず認識していた。
(サーヴァントの気配がひとつ減った、真っ先にとどめを刺したか……いや、ダレイオス三世の魔力は既に尽きかけていた。
最後にぶつかり合ったあの一撃に全てを注いでいて、閉じ込められた次の瞬間には自然と消滅してしまったと考えるのが自然だろう。
……いやいや、そんなことはどうでもいい。
ダレイオス三世に求めていたのは、宝具が発動するまでの足止めと、展開の瞬間に隙を作らせるまで。
早々に退去することなど最初から織り込み済みだ、済んだことを考えている場合か!!)
混乱のあまりに、起こったことを最初から順番に、余計なことまで考え始めていた思考を舌打ちと共に落ち着かせる。
……と言っても、今の彼に出来ることはあまり無い。
軍師の役割は事前に場を整えること、いざ始まってしまえば後は結果が出るのを見守るのみ。
新たに取り出して咥えた煙草のフィルターを一度も吸うことなく噛み潰しながら、天才軍師のスペックを得た名教師は『次』に繋げるための考察を全力で続けた。
(心理的に惑わす類いの仕掛けは効果が薄いか、流石の精神力……いや違うな、あれは何であろうと突破すればいいと思っているだけの脳筋思考だ!!
図太くて大雑把なのかと思えば、森を見つつ木の葉の変化にも気付ける注意深さが無いと分からないような、繊細な仕掛けや抜け道を見逃さないのは何なのだ……。
……なぜそこをそんなやり方で越えられる、迷い込んだ者を確実に仕留めることを想定している区画だぞ!!
〇〇〇〇ッ、この、〇〇〇〇ッ!!
これだから天才という奴は嫌なんだ、少しは常識というものを尊重せんか!!)
途中から、諸葛孔明ではなくガワの人物としての面が強く現れて、自身の頭の中だけとはいえいつもの授業風景のような汚いスラングを吐きながらのツッコミ地獄を形成していることに、当の本人は気付けていない。
そんな余裕は欠片も無かった……天才軍師の奥義たる陣が、少しずつながらも確実に蝕まれていく一部始終を、今の彼には黙って見ていることしか出来ないのだから。
『彼』はただ単に、脱出するために迷宮を攻略しているだけなのだろうけれど。
『踏み込んだ者を誰一人として逃がさない』という概念によって構成されている宝具にとっては、重要な柱となる部分を揺るがしてくる行為は立派な破壊活動に値する。
陣を構成している巨石ではなく、閉ざされていた空間そのものに走ったひびは、感覚を繋げていた術者にしか認知出来ない音と光景を伴いながら徐々に広がっていって。
ふと訪れた一瞬の沈黙の後に、向こう側から凄まじい勢いで飛び出してきたものによって、ひびは穿たれた穴となった。
捨て身の勢いで異空間の壁をぶち破り、2~3度地を転がりながら受け身を取った少年が、砕けたガラスが四散するかのように消えていく結界の名残を背にゆっくりと顔を上げる。
またしても煙草を落としてしまったことにも気付けないまま、見開いた目に映るその姿は、並外れた強さを持っているだけの少年を装った旅装束でも、屍兵の軍団とぶつかり合っていた時の獣のような衣装でもなく。
緑の帽子に緑の衣……金色の前髪の隙間からは宝石のような碧が覗き、射抜かんばかりの眼差しをこの身へと向けていて。
彼がその人なのだということは、前もってきちんと知っていた筈なのに。
伝説そのままの姿を目の当たりにして、それが紛れもない事実なのだということを知識ではなく実感で叩きつけられた衝撃は大きかったのだけれど。
それは、天才軍師のスペックを得た只人である男を上から叩き潰すのではなく、竦みかけてしまっていた背を強く押し上げた。
「『
「…っ!?」
『はっ!?』という間抜けな声が聞こえそうな勇者の表情が、どこからか降ってきた石の柱の幻影によって遮られる。
先程まで展開されていたものとは違って、殆ど瞬間的に構築された超簡易版と言っていいようなそれは、伝説の勇者をほんの数秒しか留めることが出来ずに砕け散った。
その結果だけを見れば、取って置きの策を敢え無く破られた軍師が、破れかぶれで最後の足掻きを行なったようにしか思えないかもしれないけれど。
ひとつめが破られてすぐにふたつめの手を考えられないような者が、天才軍師などと称されるわけがなかった。
……だとしても。
「『
「なっ」
「『
「ちょっ」
「『
「待っt」
簡易版ゆえの構築から発動への手軽さを生かし、脱出したと同時に再び閉じ込めるという単純なことを、ただひたすらに繰り返す。
策も何も無い、それこそ脳筋戦法もいいところだろうと、傍から見る者がいれば突っ込まれそうなやり方だけれど。
彼はそれが最善であると心から思っていたし、現実としてそうだった。
(全力で捕らえ続けろ、出し惜しむな、直接の戦闘に持ち込まれようものならその時点で終わる!!
負けはしないが勝てもしない、現状を無意味に引き延ばすだけで後の無い愚策……ああその通りだ、それがどうした!!
私はただ、自らが誓った役目を果たすのみ!!)
「『
問.濁流によって行く先が遮られている。
答.氷の柱を造り、それを足場にして越える。
「『
問.まるで窯の中にいるかのよう。
答.燃焼を防ぐ薬を使用する。
「『
問.底無しの泥に足を取られる。
答.高速で走れるようになる靴をはいて一気に駆け抜ける。
必要な魔力や時間をギリギリまで絞りながらでは、本来の宝具が持ち得ているような、ありとあらゆる罠や仕掛けの概念を用意するのは無理だけれど。
陣の構築に役立てるために、天才軍師が前以って頭の中で無数に用意していた発想の中のたったひとつを付与するだけならば、十分に可能だった。
そして、勇者リンクがそれに対して攻略を試み続けるさまはまるで、教卓を挟みながら延々と繰り広げられる教師と生徒の問答のよう。
『この状況に如何にして対処するのか』という問いかけに対して、『こういう手段があるし自分はそれを実行に移せる』という答えで以って返す、武器や肉体ではなく概念によるぶつかり合い。
問.巨大な岩が落ちてくる。
答.岩が落下する時間を止めてその隙に突破する。
問.突然に足元が崩れた。
答.鉤つきの鎖を伸ばして縁に引っかける。
問.瞬く間に凍死するほどの寒さが襲う。
答.防寒性に優れた服を着る。
(何故に、どうやってそんな方法でと、文句を言いたくなるようなところは多々あるのだが……上手くいっている、勇者リンクの足止めに成功している!!
諸葛孔明の力を借りた上でのこととはいえ、他者を教え導くこと以外では、自分自身の力では大したことを為せて来られなかったこの私が!!
行けるぞ、この調子なら……今度こそ私は、あいつの願いを叶えr)
期待と高揚に息を荒げていた男の喉が突如、込み上げた質量と鉄の味によって塞がった。
反射的に口元を押さえながら、砕けかけた膝を必死に支えた男の前で、あらゆる者を逃がさない筈の結界が何十回目か砕け散る。
何度も何度も閉じ込められ続けた苛立ちが露わになっていた少年の表情が、指の間から滴る血に気付いた途端に別の意味で引きつり……その隙を、天才軍師は見逃さなかった。
「『
「…っ!!」
「ご心配いただき感謝する、おかげで失態を取り戻せた」
きちんと拭ったのに、また溢れてきた血で再び彩られた口元が不敵な笑みを形作る。
赤毛の王がもし見ていたならば、あの豪快な笑い声と共に心から讃えていたであろう、本当に見事な強がりだった。
(馬鹿か私は、肝心なところで狼狽えおって!!
簡易版とはいえこれだけの頻度で宝具を連発しているんだ、多少跳ね返ってくることくらい最初から想定していただろう!!
何も問題はない、このまま変わらず……なにっ!?)
すぐさま陣を脱出するであろう少年をまた捉えるべく、込み上げる苦しさと胸の痛みを堪えながら魔力を練り出した男の目が見開く。
結界の中に閉じ込められた気配が、今までとは比べようもない程の強さと勢いで膨れ上がり、次の瞬間には弾け飛んでいた。
「か……『
あまりの脱出の速さに、術式の構築が簡易的なものでさえも間に合わず、僅かな猶予を許してしまった……あの勇者を相手に。
ほんの一瞬、たった一足で数メートルを詰められてしまった事実と、真っ直ぐな碧い瞳に射抜かれた衝撃が、真上から伸しかかる。
しかし、それで男が崩れ落ちることは無かった。
「『
「『
「『
「ぐっ、ゲホッ……『
痛みや苦しさなど、もはや通り越して麻痺していた。
宝具の展開を継続させるために、普通に使える分の魔力などとっくに尽きている……この地で霊基を保つための分を削ってそちらに回すことに、ほんの一瞬も躊躇わなかった。
もしこの身が元の人間のものだったならば、貧弱な魔術回路の酷使による末端からの体の壊死が、既に相当の進行を見せていたことだろう。
天才軍師のスペックよりも、ギリギリまで出力を保ち続けられるサーヴァントの体の頑丈さの方がありがたかったかもしれないと、妙に冴えた思考の中で思った。
(怯むな、躊躇うな、今の私は違う!!
何も出来なかった……生かされることを受け入れるしかなかった、あの頃のボクとは違う!!
諦めたくないのなら諦めなくていい、今のボクは戦える!!)
「かえらずのじ…………」
今の今まで、己の命を削ることも厭わずに宝具を使い続けていた男が見せた突然の硬直を、疑問には思ったのだけれど。
それは彼の進行を止めるような雑念とはならず、好機とばかりに地を蹴った足が、宝具による拘束の合間に少しずつながらも確実に詰めていた距離の残りを一気にゼロにした。
体ごと飛びかかられたにも関わらず、地に押し倒された衝撃と、男の動きを妨げるために胸へと乗り上げてきた小柄な体の重みは、消耗しきったその身を労わっているかのように優しいもので。
「あの宝具を使う意味はもう無いぞ、あんた自身も巻き込まれる」
「……まさか、あなたという人は。
何をあんなにも必死になっていたのかと思えば、私の無茶を止めようと?」
「……………」
「人が好いのだな、さすがは伝説の勇者殿。
……どうせなら、大人しく結界に囚われ続けていてもらった方がよほど助かったのですが」
「それは無理だ、あんたを止めたいと思ったのは俺個人の勝手な欲求。
カルデアの一員、ネロ陛下率いるローマ帝国に組する者としての最低限のラインは、きちんと守らないといけないからな」
「…………人が好いという認識は撤回する。
お優しい人だということは確かだが、それと同時に酷くシビアな人でもあるようだ」
「……まあとにかく。
大人しくしていてくれるんなら、俺としてはこれ以上やりあうつもりは」
「お気遣い感謝する、だが不要だ。
私は既に、私の役目を果たし切った」
「えっ?」
男の目は既にだいぶ霞んでいて、殆ど何も見えなくなっていたけれど。
思いがけない発言に対して困惑する勇者の、金色と緑色を越えた先……大きさは全く違うけれど、ほんの少しも変わっていない赤色だけは、決して見間違うことは無かった。
「……どうだ、これが、ボクの力だ。
ボクだって…………やれば、できるだろう?」
「素晴らしいよ、何もかも僕が望んだとおりだ。
……ありがとう、我が軍師」
霊基を限界にまで削った体はとっくのとうに限界で、大変な苦しみに苛まれていた筈なのに。
深く刻まれていた眉間の皺を緩め、本当に嬉しそうで誇らしそうな、穏やかな表情で黄金の粒子と化していった男……諸葛孔明の疑似サーヴァントとしてこの地に降り立ち、時計塔ではロード・エルメロイ二世とも称される、ウェイバー・ベルベットという一人の男の名残を、リンクは言葉なく最後まで見送った。
そんな彼の背後から、隠す気のない足音を伴いながら、一人分の気配がゆっくりと歩み寄ってくる。
さっき聞こえた声と共に、その気配には覚えと心当たりがあった。
帝国軍に奇襲をしかけ、ブーディカを攫い、立香達によって追走されていった筈の、あの赤毛の少年。
状況を考えれば間違いなく敵対関係にある筈の者の接近に対して、リンクは身構えなかった。
気配の持ち主から、こちらへの害意を感じられなかったし……その気配そのものが、今すぐ消えてしまってもおかしくない程に、酷く弱々しいものだったから。
「初めまして勇者リンク、僕の名前はアレキサンダー。
ずっと君に会いたかった……君と話したいこと、君に伝えたいことがたくさんあったんだ」
心なしか呆然としながら、ゆっくりと振り返ったリンクの目に、自分よりも少し年下くらいの少年の姿が映る。
途端に目を見開き、本気で言葉を失った様子のリンクへと、アレキサンダーは人たらしの魅力を自覚した渾身の表情で笑い返した。
「……以上が、ネロ・クラウディウスの軍の概要だ。
詳細はレポート形式で纏めておいた、後で目を通しておけ」
「さすがの手際だね、後でどころか今この場で読ませてもらうよ。
ふむふむ……やっぱり狙いどころは、呂布とスパルタクスのバーサーカー組か」
「彼奴らは恐ろしい災害ではあるが、それは対処可能なものだ。
生前は個としての戦闘力だけでなく、将としての優れた思考力と判断力をも持ち得ていたのだろうが……狂戦士というクラスの枠に括られた今は、目の前の敵をただひたすらに排除するのみの自動機械でしかない。
策が上手く働けば、誘導することは容易だろう」
「僕は幸運だった、ってことかな。
ならこのまま活かすだけだ、僕はあの子の顔を見たい。
ネロ・クラウディウス、ローマ帝国第五代皇帝。
どういった王なのか……いや、どういう皇帝なのかと言ってあげるべきか」
「その望み、私が叶えよう。
もうひとつの願いと共に、必ず」
「………………」
「手を伸ばすことに何を躊躇っているのだ、お前らしくもない」
「………………いいのかな。
だってこれは僕どころか、英霊として正しい形での現界を果たした『余』にとっても過ぎた想い……人理焼却なんて非常事態でもなければ、叶える機会すら訪れなかった筈の妄念なのに」
「構うことはあるまい。
発端はともかく、それを叶えたいと思ったこと自体は紛れもなく、お前自身の個人的なものなのだろう?」
「まあね、変に引き摺られたり影響されたりしたものなんかじゃないってのは自信を持って断言出来るよ。
……ああそっか、下手に遠慮する方が間違ってるんだ。
尊重はすれども縛られはしないって、どんな風に生きていくのかは今の僕が決めるって。
一番最初に、そう誓ったんだった」
「ふっ、調子が戻ってきたようだな。
……だが、まあ、何というか」
「どうしたの?」
「…………逸話としても有名なあの発言は、本気だったし、本当だったんだな」
「当たり前じゃないか、君が知る『余』だって胸を張って豪語していたんじゃないかい?」
「事あるごとにな、耳にタコが出来るかと思ったわ!!
当時の私は確かに未熟極まりなかったが、あれを素直に信じろというのは流石に無理があるだろう!!」
「別に構わないさ、生前の家臣達だって途中からほとんど聞き流していたし。
実際に自分がそうでなけりゃ、そんな、当人が勝手に主張しているだけで今更確かめようがないようなこと、まともに聞いていた自信は僕にだって無いよ」
「…………お前という奴は」
いずれ覇王へと至る少年の朗らかな笑い声が、皺の寄った眉間を押さえながら俯いた忠臣の頭痛を助長させながら、澄んだ青空に響き渡っていた。