ゴールへと向かう直線前に広がる最後のエリアは、自然に出来たものとは到底思い難いような……女性の非常に豊かなものを彷彿とさせる、丸く大きなふたつの山によって形作られた深い谷のエリアだった。
『柔らかそう』だという、地形を表すのには程遠そうな印象を何となく抱いただけの者もいれば、明確にそれを連想して微妙な気持ちになった者もいて。
気持ちを切り替えてレースに集中しようとした一同の頭上から、突然の矢の雨が降り注ぐ。
威嚇が目的だったらしく、十分に対応の余地があったそれを避けるなり防ぐなりしてみせた一同が振り仰いだ頭上には、先程抱いたばかりの既視感を彷彿とさせる人『達』の姿があった。
「……女神アルテミス」
「が、何かいっぱいおるんじゃが!?」
「すとっぷすとーっぷ!
ここはアルテミス谷です、簡単に通れるとは思わないことね!」
アルテミス達曰く、大量に現れた偽物に紛れて逃げたオリオンを探して捕まえるために、自分も対抗して増えたのだとか(女神としてはさほど難しいことではないらしい)。
それでも逃げ足が速いオリオンを捕まえて、自分のところまで連れてきてくれれば、ここを通してあげると。
オリオンが捕まらなければ絶対に通してあげない、どころか八つ当たりに思いっきり矢を降らせてやると。
女神らしい無邪気な笑顔と傲慢さで宣言したアルテミスに、無視して強引に押し通ろうとするか、オリオン探しに協力するかで、参加者達の行動は二分された。
前者の者達は、分身込みのアルテミス達による一斉掃射によって足止めされ、後者の者達は、ただでさえ小さくすばしっこい上に無数に増えたオリオン(ぬいぐるみ)に翻弄され、レースは完全な停滞状態を迎えてしまっている。
アルテミスから逃れようと躍起になりつつ、水着姿の美しい女性達へとどさくさに紛れて纏わりつけるという状況を楽しんでいるらしいオリオンに、画面越しに状況を見守っていたマシュが大きなため息をついた。
「オリオンさんってば、またあんな……アルテミスさんに執着されてしまっていること自体は、とても大変で可哀想だと思うのですが。
いざ自由になればあの調子だということを考えると、助けようって気にはあまりなれないんですよね……」
だとしても、アルテミスという高位の女神の機嫌を取るためにオリオンを犠牲にしているという事実を意識すると、マシュの表情は自然と暗くなってしまう。
そんな彼女の様子に気付いた立香は、若干首を傾げながら口を開いた。
「マシュってもしかして、オリオンはアルテミスのことを嫌いだって思ってる?」
「きっ、嫌いだとまでは思っていませんが!!
でも……本当に好きな人からは、逃げたりなんてしないと思うんです」
マシュの考えは、一般的な感性や価値観からすれば至極当然のものであった。
それが分かっていた立香は、何て言って説明したものかとしばし考えた先で、自分があの二人に対して最初に抱いた印象と解釈、更にはそれを考えるための参考にした元ネタをそのまま話せばいいのだと思い至った。
「連載自体は俺の両親くらいの世代にされていた、作品として少し古いものなんだけど、今見ても凄く面白い名作のマンガがあってね」
「…………はい?」
「それに登場する主人公とヒロインが、オリオンとアルテミスにそっくりなんだ。
主人公は女の子が大好きで、可愛い子を見かけると声をかけずにはいられなくって。
ヒロインの方はそんな主人公のことが大好きで、でも凄いヤキモチ焼きで、自分のことだけを見てもらいたいって思っていて……主人公がちょっと目移りしようものなら、容赦なく主人公のことをしばき倒す。
『ダーリン、浮気は許さないっちゃ!!』って感じで」
「オリオンさんとアルテミスさんです!!」
「だよね、俺もそう思ったよ。
この主人公もオリオンのように、自分が女の子と仲良くしようとすると怒るヒロインから、毎度毎度逃げ回ってる」
「…………」
「でも彼は、ヒロインのことが大好きなんだ。
大勢の可愛い女の子と、たった一人のヒロインという選択を本気で迫られたら、迷うことなくヒロインのことを選ぶくらいに」
「えっ…?」
立香が語ったことの意味が、マシュには理解できなかった。
誰か一人を特別に想うことと、その相手を拒絶する行為が、どんなに理解しようと努めても決してイコールで結ばれない。
脳から煙が噴きそうな思いで悩むマシュへと、立香は続きを語り始める。
「マシュは本が好きだよね、特に『シャーロック・ホームズ』とか」
「は……はい、そうですけど」
「それを、『俺は本が嫌いだからもうやめて』って言ったら、マシュは今手元にある本を全部捨ててくれる?」
「…っ!?」
戸惑いながらも何とか起動していたマシュの思考は、その一言によって一気に凍り付いた。
大切な
頭どころか、体や表情まで止まってしまったマシュを、立香は慌てて揺り動かした。
「マシュ、マシュ?
しっかりして、例え話だから。
俺も、あまり難しくなければ本は結構好きだし、マシュから好きなものを奪おうだなんて思わないから」
「…………ご、ごめんなさいセンパイ、私」
「いいのいいの気にしないで、急に変な話をしてごめん。
……でも、それだけショックを受けた今のマシュなら、もうイメージ出来るんじゃないかな。
『女の子が好き』なオリオンも、アルテミスから『自分以外の女の子を見るのをやめて』と言われた時に、同じように嫌だと思ったんだって」
「…っ!!」
「本人に確認を取ったわけじゃない、俺なりの勝手な解釈なんだけど……例のマンガの主人公やオリオンが言う『女の子が好き』ってのは、『甘いものが好き』とか『音楽が好き』とかと同じような趣味嗜好の分類に入るんだと思う。
だから、傍から見ればどんなに不誠実な浮気者でも、当人からすれば『私のことが好きなら一番の趣味を諦めて』って言われたような理不尽さなんじゃないかな。
……でも彼らはそうしなかった、どんなに怒られて酷いお仕置きをされても好きなことをやめなかった。
やりたいことを我慢したり、意思に反して束縛され続けるっていうストレスは、どんなに大切な想いでも絶対にすり減らしていくから。
『あいつのせいで』とか、『あいつがいなければ』とか、思いたくないから。
我がままで嫉妬深くてすぐ束縛して、世間一般で言う誠実な向き合い方をすればあっという間に心身が擦り減らされそうだけど……でも本当に好きな人を、ずっとずっと、変わらず好きなままでいたいから」
あの二人の、傍から見れば今現在破綻していないことが既におかしいような関係が成り立っているのは、アルテミスがオリオンを逃がさないから仕方なくなんかじゃなくて。
我慢や自重という概念を持ち合わせていない女神様の無茶ぶりに振り回されながらも、それが彼女だからって結局は許容して、どうしても我慢できなくなったら逃げたり気分転換することでガス抜きしながら……変わらず一緒にいられるために気を配っているのは、むしろオリオンの方なんじゃないかなって俺は思ってる。
俺の勝手な考えだけどね……という、少し前にも言っていたようなことで締められた立香の発言は、どれだけ頑張っても理解できなかったのが嘘のように、マシュの無垢な心に自然と染み入っていった。
呆れながら溜め息をついていた先程までとは、一風変わった心地で見直したモニターに大写しにされていたのは、敢え無く捕獲された後に献上されたらしいオリオンが、物理的に潰されかねないほどの容赦ない全力でアルテミスの豊満な谷間に抱き込まれながら、絶望の涙を流している光景で。
「…………センパイ、その考察自体はとても素敵なものだと思うのですが。
『個人の勝手な解釈』だと仰られていたそれが、実際にそうでしかないという可能性はどれくらいでしょうか」
「結構当たってると思うんだけどなあ……」
苦笑いを零しながらも、自身の考えと発言を撤回するつもりは欠片も無いらしい立香に、文句は言わずとも大きなため息をついたマシュ。
そんな彼女が、立香の考察が正しかったことを……ただ一人の女神に捧げられる真の想いが確かに存在していたことを思い知るのは、まだ随分と先の未来。
遥か天上へと向けて放たれた愛の一射が、女神の心と孤独を見事撃ち抜いてみせた、涙に滲む美しい光景を目の当たりにした時のこと。
「好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたい」
原作ではなく劇場版でのことではありますが、これは実際に、くだんの主人公が口にしていたセリフです。
攻殻機動隊で有名な押井守さんが若い頃に監督したもので、人気マンガの劇場版という括りを除いた、アニメ映画全般の中でも非常に評価が高い作品です。
実際私も、初見の時は『一体何が起こっているんだ』と引き込まれてしまいました。
誰にとっても面白くて感動できるような『名作』ではなく、一部の人に強烈にぶっ刺さる『怪作』の部類に入るものだと思うので、大々的に『絶対面白いよ!』とはあまり言えませんが。
個人的にもの凄かったのは確かなので、興味と機会があったら是非一度見てみて下さい。
タイトルは『ビューティフル・ドリーマー』、原作マンガは高橋留美子先生の名作『うる星やつら』。
オリオンとアルテミスはあの作品を知ってると絶対重ねますよね、作った方も意識してるんじゃないかと思います。