規則正しい生活と健康的な運動という完璧な校正プログラムを、今日も滞りなく終わらせて、監獄の一日は終わりを迎える。
しかし、脱獄を目指して夜ごと地道な穴掘りに精を出している一同にとっては、むしろこれからが本番であった。
メイヴ大監獄の護りは確かに厳重なのだが、それは監獄全体を覆う結界の力によるものが大部分を占めていて、それ以外の人員や設備によって賄われる部分はむしろザルと言って良い。
朝の点呼が行われるまでに戻るのが間に合いさえすれば、脱獄作戦の進行は不可能では無かった。
雌伏の時を経て蓄積した鬱憤を晴らさんと、小さなスプーンを手に今夜も地に潜る脱獄囚一同。
彼らが行動に出た頃を見計らって、同じく動き始めた者がいた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「お気をつけて」
囚人一同の中で唯一の留守番役……不測の事態が起こった際に、それを地下にいる者達に報せる務めを担っているゼルダに見送られながら。
リンクは既に手慣れた様子で、部屋の隅に置かれていたそこそこの大きさがある水がめの上下をひっくり返した。
この監獄は全体的に設備や備品のチェックがおざなりで、壊れたり脆くなっていたりするものが少なくない。
この水がめもふちが欠けている程度ならばまだ良かったのだが、底に穴が開いてしまっている状態では、想定されていた役割を果たすことは出来ないだろう。
……とは言うものの、水はきちんと新鮮なものが、模範囚とされているリンクやゼルダだけでなく他の者達へも同様に提供されているので、いつから溜まっているのか分からないような澱んだ水を飲まなければならないような事態にはなっていないのだが。
(ならば何故このようなものが備え付けられているのかという疑問には、『雰囲気作り』という答えで落ち着いた)
何はともあれ肝心なのは、宛がわれた牢獄内に使えそうなものがあったということと、それを実際に使用することに特に問題は無いという事実。
お馴染みの緑の帽子を片手で押さえながら、ひっくり返した水がめの底にヒョイと飛び乗ったリンクの服の裾と帽子が、足元から立ち上る魔力の風によってはためく。
何らかの詠唱と思われる光の文字が、頭の上をぐるりと一周した、その瞬間。
今の今まで確かにそこに立っていたリンクの姿は、水がめの底に開いていた穴に吸い込まれて消えてしまった。
かなり衝撃的な光景の筈なのだが、それを最初から最後まで目の当たりにしていたゼルダに狼狽える様子は無い。
人間の親指ほどの大きさになった彼が、上手い具合に欠けて出入り口のようになっていた水がめのふちから出てくるのが分かっていたのと、それがすぐに実際の光景となったから。
その姿は子供にしか見えず、特別な力と技術によって聖剣を打ち、時に願望器すらも創り出すことが出来た不思議な小人、その名はピッコル族。
そんなピッコル族の名高き賢者を相棒に旅をしたある時代のリンクは、彼の力によってピッコル族と同じ大きさになることで、人間の体では入れない場所で冒険を行なったり、他のピッコル族達の助力を得ることが出来た。
本当なら相棒の存在が不可欠な能力だったのだけれど、サーヴァントとなり、逸話によって補完されることで、かつて共に旅した頃と変わらず扱えるようになった。
尤もそれには、昔も今も変わらず、『エントランス』と称される大きな体と小さな体を中継するための出入り口が必要なのだけれど。
リンクは既に、牢獄内の水がめと合わせて、安定したエントランスを確保することに成功していた。
ゼルダへと向けて今一度、小さくなってしまったこの身でも分かりやすいように努めて大きく手を振りながら、門のような大きさとなった鉄格子の隙間をあっさりと通り抜ける。
そのまま、向こう側が六車線の大通りよりもずっと遠くなった廊下を一気に横切り、普通の人間の大きさなら気づかないかもしれないような壁の亀裂へと潜り込んだ。
迷路のような狭く入り組んだ空間をしばし進み、倉庫と思われる部屋に出て、穴が開いた状態で放置されていた木箱を利用して元の大きさに戻れば。
勇者リンクの牢獄生活、その夜の部が本格的に始まるのであった。
「こんばんは」
「……お前か。
よくもまあ、こうも毎晩飽きもせずに現れるものだ」
「そりゃあね、何たって六チーム分の溶解液を提供してもらってるんだから。
いくら差し入れがあったとしても足りないでしょう、それ以外のところでちゃんと食べておかないと」
そう言って笑いながら、光る石板から巨大な肉の塊を幾つも取り出していく少年の悪意の無い様子に、胸のあたりでつかえていた息を吐き出すゴルゴーンだったが、体の方は依然強張ったまま。
他の囚人達とは違うタイミングで初めて接触した際、最上級クラスの魔獣であるこの身を屠りうる神剣の輝きを容赦なく鼻先へと突き付けられた怖気は未だに、ふとした折に蘇っていた。
「何を一方的な被害者みたいな顔をしてるんだか、出会い頭に襲ってきたのはそっちが先なのに」
「『こいつは早々に片付けなければまずい』と野生の勘が叫んでいたのだ、実際に間違ってはいなかったな」
彼が夜ごと差し入れを持ってくる理由……胃の中身を頻繁に吐き出しているゴルゴーンの身を案じてというのは嘘では無いが、それに加えて、溶解液を安定して出してもらうために体調を整えておいてもらいたいのと、勝手な気まぐれで提供を止めたりしないように、自分が怖がられているという事実を正しく認識した上で牽制するためという、怪物たるこの身でさえどん引くような冷徹な打算があることに、ゴルゴーンはしっかりと気づいていた。
(私がそれに気づいたこと自体が、こいつが意識して匂わせた結果だという可能性もあるな……)
やはり人間は恐ろしい、神や魔物などよりもずっとずっと性質が悪い。
表には絶対に出さないし、普段も努めて忘れてはいるが、ふとしたタイミングで思い出してしまう本心が、我慢出来なくはないけれど無視も出来ない棘となってゴルゴーンを内側から苛んでいる。
(ふんっ、まあいい。
連中が現実を突きつけられるのもそろそろだろう、纏めて鬱憤を晴らしてやr)
「今晩あたりかな、皆が結界にぶち当たって進めなくなるのは」
「…………………………」
「その反応、やっぱり監獄結界は地下まで隙間なく展開されているのか」
「なっ……き、貴様、謀ったな!?
それを予想出来ておきながら、なぜ連中をそのままにしておった!!」
「確信は無かったので。
そのまま出られれば良し、駄目なのが確認出来れば改めて次の手を考える。
ただそれだけの話、特に問題は無いでしょう?」
強がりではなく本心からそう思っているのだということが分かる、本当に何気ない様子であっさりと言い切ったリンクに、ゴルゴーンはしばし呆然として。
その後、胸に込み上げた滾るものを懸命に堪えながら、音を立てて握りしめた手のひらに自身の鋭い爪を食い込ませる羽目となった。
(ああ、これが……これだから、人間という奴は)
失敗してもいい、またやり直せばいいと、心から言い切ることが出来る。
何度だって立ち上がり、諦めずに頑張ることが出来るのが人間の強さだという言い分を、かつてゴルゴーンは鼻で嗤った。
それは、自身の弱さと世界の理不尽さを知らない愚か者だからこそ口に出来る、現実を目の当たりにしたと同時に潰されるような戯言に過ぎないと。
だけど、今の彼女は少しだけ知っている。
現実どころか底なしの絶望を突きつけられながらも、胸にともった僅かな勇気の輝きのみを頼りに、どこまでも諦めずに頑張り続け、ついには運命すら覆してみせるような人間達が、確かに存在するのだと。
この胸に込み上げた熱いものは、理解しがたいものを突きつけられたことへの苛立ちなのか、それとも……。
そんなことを考えてしまう自分がいるという事実そのものが、何よりも腹立たしかった。
リンク達が予想していた通り、監獄結界に阻まれて引き返すこととなった一同が、爆発寸前まで鬱憤が溜まっていたゴルゴーンに絡まれ、彼女のちょっと過激なストレス発散に付き合わされることとなるのは、もう少しだけ後のこと。
(そのまま脱出することは諦めたとしても、他の方法を探すために今後も穴掘りは行われるだろうし。
ゴルゴーンさんへの差し入れ自体は、このまま続けた方がいいだろうな)
頭の中では思考を進めながらも、音と気配を消すことと周囲の警戒は怠らない。
敵地に単独で潜入しながらの探索というものは、時代と世代を超えて同じようなことを幾度となく乗り越えてきた彼にとっては、既に日常の一部とすら言えるほどに自然とそこにあるものだった。
囚人を逃がさないためではなく、女王メイヴの身を護るために行なわれている警戒の隙間を縫いながら調べた内容を元にマッピングを行ない、時には物陰に身を潜めながらケルト兵や他の囚人達の話に耳を傾けたりと、慎重に探索範囲を広げていった結果。
仲間達の脱獄に役立てることが出来そうな情報を……ゴルゴーンと同様に、地下深くの特別房に隔離されている凶悪犯が更に二人、この監獄に収容されているという事実を掴んだ。
(国家転覆を企んだ凶悪な『神代思想犯』に、姿だけでなく霊基までもを変じて見せる『怪人
どういう人達なのか、今後協力を頼むような事態になるのか、そもそもの話として協力してもらえるのか。
まだ何も分からないけれど、とりあえず接触しておくに越したことは無いだろうな)
「誰かそこにいるの!?」
高いヒールが石畳を鳴らす音と共に上がった、他者を詰ることに手慣れていることを伺わせる女性の声に、リンクは反射的に物陰で身を伏せた。
あっという間に暗闇の中で溶け込んでしまった彼を見つけ出すことは、隠れる瞬間まで含めて全てを目の当たりにしていた者でさえ難しいであろう。
アサシンというクラスの賜物か、リンクの気配の片鱗をふとした瞬間に掴んだ女性……カーミラも、彼が身を隠した物陰のすぐ傍まで来ているというのにも関わらず、自分の勘違いだったという方向に思考を傾け始めていた。
「……嫌ね、面倒な連中に振り回されているせいで疲れたのかしら。
今日はもう休みましょう、大して寒くもない筈なのに鳥肌が立っているわ」
何か、とてつもなく凶悪で恐ろしいものが間近に潜んでいる。
そんなことを考えさせるような嫌な予感に追われ、怖気に粟立つ肌をさすりながら、カーミラは早足でその場を去っていった。
彼女の気配が十分に遠ざかった頃を見計らって、物陰で塊となっていた影がゆっくりと身を起こす。
つい先程まで紛れもなく人型であった筈のその姿は、艶やかな毛並みを闇に溶け込ませる狼のものと化していた。
(危なかった、ちょっと考えに集中しすぎてたか)
今後の方針を纏めるためにも、一旦仕切り直して落ち着いた方がいいかもしれない。
順調に探索を続けていた甲斐があって、凶悪犯達の独房があると思われる場所の目星も、そこへと向かうための道筋も大方の見当がついている。
いつもと比べて少し早いけれど、今日はもう戻ることに決めたリンクは、ケツァル・コアトルとのトレーニング等が行われる屋上の広場へと狼の姿のまま歩み出て……ふと思い立ち、まるでスイッチを切り替えるかのように、自身の把握する世界の様子を一変させた。
狼の姿となったリンクには『センスを研ぎ澄ます』という言葉で称される能力があり、人よりもずっと優れた狼の感覚を最大限に活用することで、匂いを追ったり霊的なものを視たりすることが出来る。
そして今、センスを研ぎ澄ませたリンクの五感は、夜空を遮って監獄全体を包み込む結界の全貌と、広場のど真ん中に堂々と鎮座する女王メイヴの巨大な石造の頭部に、監獄結界と全く同じ色と質の魔力が核を思わせる塊となって存在しているという事実を余すことなく認識していた。
(やっぱり監獄結界は、あそこを中心に展開されているみたいだな。
あれを壊すなり、中に入ってスイッチを切るなりすれば結界を解除出来るんだろうし、俺がやってもいいんだけど。
……とりあえず保留にしておこう、またイシュタルさんにレースの山場を潰したって怒られそうだし。
結界を何とか出来そうだってことに関しては、聞かれたら答えればいいか)
夜ごと土まみれになりながら穴を掘り、それ以外にも色々と四苦八苦した末にやっとの思いで監獄結界の真実に辿り着いた囚人一同が、リンクの方はとっくのとうにそれに気付いていたことを知って、なぜすぐに教えてくれなかったのだと反射的に怒りかけて。
しかしそれは、無自覚に企画を潰しまくったリンクが反省し、同じようなことを起こさないようにと彼なりに配慮したからなのだということに思い至り、何とも言えない表情を浮かべることになるのは……まだしばらく先の話。
「やあ、待っていたよ。
『彼』と約束したんだ、君達に協力するってね。
そもそもの話として、君達の脱獄を手助けすることには、僕にとっても十分な利があったんだ。
それに加えて、あれだけ有意義に語り合うことが出来た対価となれば、もはや焦らす間すら惜しい。
何でも言ってくれ、君達は僕にどんな働きを求めているんだい?」
「ようやく来たか、遅かったなぁ!
話は緑の兄さんから聞いてるぜ、俺に出来ることがあれば何でも言ってくれ。
……兄さんには出会い頭で遊んでもらった上に、思いがけず世話になっちまった。
俺じゃない誰かが俺の中で混ざりあっている、どこまでが俺でどこからが違うのかが時々分からなくなる。
そんな不安を受け止めてもらえたのは初めてだ、どんなことにも先達ってのは居るもんなんだなあ。
受けた恩は気が済むまで返すぜ、それが任侠の生きざまってもんだろ」
「話が早いこと自体は本当に助かるんだけどさ」
「凄まじい存在感ですね、脱獄レースをリタイアして完全に別行動を取っている筈なのにその気がしません……」
「あいつをどうしようかって考えるの、もう疲れたわ……」