今後の方針を話し合い、この舞台を演じ切る為の助言をリンクから貰った立香は、後ろ髪を引かれる思いをしながらも帰路を急いだ。
この舞台上にそもそも『役割』を用意されなかった、もしくは何らかの理由や要素によって逃れられたが故に、ひたすら舞台裏で孤独な戦いを続けた彼を、また一人で置いて行ってしまうことに対しては本当に気が引けたのだけれど。
当の本人が『気にするな』と笑って背を押してくれたことに加えて、何よりも時間が惜しかった。
セイレムを攻略する為の『策』の一環としてとあることを思いつき、それを実行に移す為には、今すぐに全員で行動に出る必要があったからだ。
息を切らせながら大急ぎで帰ってきた立香とサンソンを、驚いて軽く目を見開いた仲間達と、柔らかな笑みを浮かべたティテュバが迎えた。
そうして、立香とサンソンを始めとした遅れた朝食を取る者達を交えながら、今後の方針に関しての作戦会議が始まった。
とは言っても、この地を訪れてからまだ一晩しか経っていない現段階では、話し合えることも限られている。
カルデアと連絡が取れないことや、何らかの影響を受けて疑似的な受肉を果たした為にサーヴァント達が弱体化していることなど。
幾つかの現状を確認し、それらに関する各々の見解を交わし合う中で、共にカルデアを発った筈の『彼』がこの場に居ないという異変について誰も追及しない、どころか誰も気が付かないという最大の異常と違和感を前に込み上げかけたものを、立香は溜め息と共に飲み込んだ。
『カルデアのマスターとサーヴァント』としての作戦会議を早々に終わらせた一行は、続いてもうひとつの重大な案件、『旅の芝居一座』として如何にして振る舞うかという点に関しての話し合いを始めた。
質素で清廉な毎日を送っているセイレムの人々に、束の間の夢と非日常をお届けする。
そういう名目でこの地への自然な潜入に成功し、町の名士であるカーター氏の下に身を置いている以上は、実際に公演をやらない訳にはいかないし。
それがあまりにも酷い代物であったならば、町の人達に不審がられて行動や情報収集の妨げとなり、特異点修復を成し遂げる為の行程が滞りかねない。
だからこそ、候補の脚本はアンデルセンとシェイクスピアというカルデアの二大作家が本気のものを用意したし、『前回』の自分達も本気で演じた。
……本気だったのだ、あの時の自分達なりに。
今になってみれば、それが魔神柱の造った舞台の上で雁字搦めに縛られながらの、精一杯の足掻きであったことが分かる。
あの時自分達は、町の人達が敬虔なキリスト教徒であることを考慮し、演目として聖書の一幕を選択した。
今回も、演目を何にするかの話し合いはその方向で動いていて、このまま行けば問題なくそれで決まるだろう。
その選択自体は決して間違いではないし、実際の公演も中々の仕上がりを見せるのだということを、今の自分は知っている。
大成功だと、声と手を上げて喜ぶまではいかなくても、何とか失敗は免れたと、ホッと胸を撫で下ろすにはそれで十分。
しかし立香は、それではいけないと思っていた。
自分達はこの狂気を何とか乗り切るのではなく、乗り越え、解決しなければならないのだから。
その為に出来ること、『前回』では考えられなかった新たな可能性への分岐、その一つ目が今ここにあった。
「シバの女王の旅路からの、ソロモン王との問答……うん、いいと思う」
「センパイがそう仰るのならば、演目に関してはこれで」
「だけどさ。
……俺はやっぱり、こっちの方がいいと思うな」
マシュの発言を少し強めに遮りながら、演目のリストへと向けて伸ばされた立香の指先。
それが示したものに目をやり、その存在をようやく認識出来た一同は、あっと声を上げると同時に笑みと高揚をその顔に浮かべた。
「ああ、成る程……あからさまに辛気臭い連中に下手な言いがかりをつけられないようにと、責められる余地の無いようなお堅い演目ばかりに目が行っちまってたっけど」
「この選択肢は確かにアリね、『これ』に文句を言えるような奴が居るのならばむしろお目にかかりたいわ」
「僕、それがいい!」
「観客達の見る目が厳しくなりそうなのが少し不安ではあるけれど、一度考えだしてしまったら、もうこれしか無いわね」
「私も賛成です、是非ともやってみたいです!」
そもそもの話として、『前回』においては話題にすら上がらなかった演目リストの一端、立香が示した新たな可能性こそが、カルデアを発つ以前に想定されていた当初の予定においては大本命であり、聖書の一幕を含めたその他の全てが、まず無いだろうとは思われながらも念の為に用意された予備の選択肢だった。
かの人の活躍、冒険、物語には、国も時代も、宗教すらも越えてあらゆる人々が魅了されてきた。
それは紛れもない事実であり、見知らぬ土地で、見知らぬ人々を相手の公演を繰り返すことになる旅の一座にとっては、真の意味で妥当かつ最善の演目となるのだ。
ごく個人的な都合でしかない文句を正論で捻じ伏せられ、悶える彼を横目に笑いながら皆で脚本の内容を確認したことを、今の自分ははっきりと思い出せるのに。
すぐ目の前に確かにあった、自分達が何度も目を通していた紙に間違いなく記されていたものに、示されるまで気が付かなかった。
演目に関しては普通に気付いて受け入れたのに、そこから簡単に連想できる筈の存在に関しては、やはり思い至る様子が窺えない。
『舞台』に囚われて、正常な認識力と判断力を失っているのは彼らの方の筈なのに……あまりにもいつも通り過ぎる仲間達の様子を前に、もしかしたらやはりおかしいのは自分の方なのではないかと時折考えてしまい、粟立つ背筋の気持ち悪さを懸命に堪えながら。
『マスター』かつ『座長』として口にした、皆の望みに応える形での最終決定を受けて、仲間達が上げた歓声が華やかに室内を彩った。
……のは、ほんの一瞬のこと。
深く大きく息を吸った、何かしらの覚悟を決めようとしているかのような仕草を挟みながら続けられた立香の提案が、あまりにも無茶なものだったからだ。
「一緒に読み合わせした皆も知っているように、この演目はアンデルセンとシェイクスピアが短く調整したもので、登場人物も少なくなっている。
……だけど俺は、敢えてこれを詳細に、原典に近い形でやってみようと思うんだ」
「なっ……おいおいマスター、いきなり何を言い出してんだ。
作家連中が敢えてシナリオを短くしたのも、登場人物を減らしたのも、演劇経験が乏しい俺達でも何とか劇を形にする為だっつーのに」
「ただ舞台に立って、台詞を読めばいいという話では無いんだぞ?
登場人物を一人、場面をひとつ増やすだけで、どれだけの事前準備が追加で必要だと思っているんだい。
伸びた分のシナリオを無理に時間内に詰め込もうとすれば、舞台全体のクオリティが下がることも目に見えてるし」
「……あ、あの、メディアさん?
何か、口調がおかしいような……」
「おっほほほ、何のことかしら気のせいでしてよ!!
と、とにかく……舞台を少しでも良いものにしたいという気持ちは、分からなくもないけれど。
現実を考慮出来ていない理想論なんかには、到底付き合えないわ」
「理想論なんかじゃない、策と手はちゃんとある」
「……へえ、面白いじゃない。
この大魔女を納得させられる考えがあるというのならば、是非とも話してご覧なさいな」
「期待には応えてみせますよ。
使えるものは何であろうととことん使う……それが魔術師というものだって、あなたが教えてくれましたからね」
呆れたり悩んだりしながらも導き続けてくれた師匠の姉弟子へと、立香が胸を張りながら言い切ってみせたのと、ティテュバが不意に発した盛大なクシャミに驚いて跳び上がったアビゲイルが、彼女が持っていた水桶を引っかけてささやかな惨状を作り上げてしまったのは、殆ど同じ頃合いのことであった。
セイレムの町における主要な施設のひとつである公会堂を、かつて無いような賑わいが満ちている。
それもその筈……人々が今夜この場に集ったのは、7日に一度の安息日に静かな祈りを捧げる為ではなく、昨晩にこの地を訪れたばかりだという旅の一座の公演を見る為なのだから。
「お芝居なんて久々ねえ……」
「まったくの時間の無駄だ、こんな夜にランプの油すら勿体ない!!」
「……そう思うんなら、その無駄なもんを見に、何でわざわざ足を運んだりするんだかねえ」
「ロビン、思ってても言わない」
「へいへい、でも大丈夫だと思いますよ。
連中ざわついてるし、こっちでもこんだけガチャガチャやってりゃあ、この程度の囁き声なんて万に一つも届きませんって」
「かもしれないけど、念の為に気を付けて」
「はいよー」
「でも良かったです、楽しみにして下さっている方もいるみたいで」
「……うん、そうだね」
公演を純粋に楽しみに来てくれたらしい女性も、不可解な八つ当たりをする男性も、その正体はそれぞれの『役割』を演じているグールに過ぎない。
その事実を知っている立香からすれば、純粋に頑張ってくれているサーヴァント達や、喜んでいるマシュに対する申し訳なさは半端なものではなかったし。
魔術によって普通の人々に見えているだけで、公会堂いっぱいに集まっているあの人達は実は……と、ちょっと気を抜けば考えてはいけないことを考えてしまいそうな自分を懸命に律し、目の前の作業に集中することで観客席側に目線をやらないようにと努め続けた。
この場に集まった人々の騒めきには、非日常を間近にした高揚だけではなく、かなりの割合で困惑が込められているだろう。
彼らが想定していた『演劇』、彼らの中にある『常識』には、舞台上にある空間の大部分を使用しながら張られた白幕や、自分達が運び込んでいる謎の板切れの山が登場する余地なんて、欠片も存在していない筈だから。
「……天井の両端から、縄で吊るして張ってあるのか。
よくもまあ手間をかけたものだ」
「連中は一体何を考えているんだろう、あれじゃあ演技が出来る場所なんてどこにも無いじゃないの」
驚きや呆れ、期待や落胆。
方向性の違う様々な言葉や感情が入り乱れる公会堂、今は即席の観客席となっている場所に、待ち望んでいた顔がようやく表れたことを、マシュの上擦った声が教えてくれた。
「あっ……センパイ、アビーさんとティテュバさんがいらっしゃいました!」
その言葉を受けて思わず、なるべく見ないようにしていた客席側へと顔を向けた立香の目に、ティテュバに優しく手を引かれながら現れた、『来られた』という歓びと『来てしまった』という僅かな背徳感に頬を高揚させるアビゲイルの姿が映った。
慣れ親しんだ公会堂が空気も様相も一変していること、楽しみにしていた公演がもう間もなく始まるのだということに、本当に楽しそうにしていたアビゲイルだったけれど、その笑顔は不意に曇ってしまう。
周囲の人達が垣間見せた、『黒人の召使風情が』というあからさまな空気と表情、僅かに呟かれただけの筈なのに異様に大きく聞こえた言葉を受けて怯んだティテュバは、お嬢様をご案内しただけでございます、身の程は心得ておりますと四方に頭を下げ、悲しげに俯くアビゲイルの手を最後にギュッと握ると、早足でその場を後にした。
いくらアビゲイルが、主従としてではなく個人としてティテュバを信頼していようとも、両親亡き後に仕えてくれた彼女を家族のように思っていようとも、他の人々にとって彼女はただの召使。
それが紛れもない現実であることを、アビゲイルはよく分かっていたのだけれど。
何とも言えない遣る瀬無さがこみ上げて、握った拳を震わせながら瞳を潤ませてしまっているアビゲイルの姿を前に、立香は決意を新たにしていた。
この地に溶け込む為、情報収集やその他の活動を行っても出来る限り自然に思われるようになる為に、真剣に公演を成功させようとしているマシュ達には申し訳ないのだけれど。
今の立香には、『その他大勢』からの評価や好感などは、それほど重要なものではなくなっていた。
表面上は生き生きと振る舞っている彼らが、実際にはただひたすらに『役割』に准じるグールでしかなく、『セイレム』という舞台上で違和感なく振る舞えるようにする為に気を配りはしても、個人としての好感や信頼を得る為に腐心する意味はあまり無いという事実に加えて。
魔神柱に異変を覚られないよう、この特異点の意図や真実を敢えて秘めることにしたリンクが、ほんの少しだけ口にしてくれた助言があったから。
『アビゲイルとラヴィニアを守れ、特に危ないのはラヴィニアだ。
余程上手くやらないと……周りが守るだけでなく、本人の気持ちが大きく揺らぐような何かが無い限り、まず間違いなく彼女は死ぬ。
そしてそれは、そのままアビゲイルの破滅にまで繋がってしまうんだ』
変化を、前進を、望むと共に恐れてしまい、暗闇の中で立ち止まったままの少女達。
妥当かつ最善の選択だからではなく、自分の本当の想いを見失ってしまっている少女達に、恐怖を乗り越え、信じたものを貫く『勇気』というものを見せてあげたいから。
それこそが、わざわざ仲間達を戸惑わせ、『前回』には無かった余計な手間を負ってまで、立香があの演目を強く推した本当の理由だった。
……そして、そんな少女達の片割れは。
(……凄い。
本当に誰も私を見ない、私に気がつかない。
ウェイトリーの娘がこんな大勢の人前に現れようものなら、本当ならとっくに騒がれていてもおかしくないのに。
あの『悪魔』は本物だった……この変なお面は、本当に不思議な力を持っていたんだわ)
ラヴィニアは今、何の心変わりか、あれだけ忌避していた人混みに……旅の一座の公演が間近に迫った、公会堂の中にいた。
剥き出しの岩盤に、目と口にあたる穴を適当に開けただけとしか思えない不気味な面で、その顔と存在を隠しながら。
その『悪魔』がラヴィニアの前に姿を現したのは、まだ日も高かった頃。
店では結局売ってもらえなかった油を、『間違えて買ってしまったから引き取って貰えると嬉しい』というあからさまな体裁と、『公演を行なうから是非見に来て』という誘いを経て、旅の一座の者だという男女から半ば押しつけられた帰り道でのことだった。
それを『悪魔』だと思ったのは、違ったとしても普通の存在ではないと確信したのは、あからさまに異様な風体をしているその者を『おかしい』と思い、咄嗟に警戒したのが自分だけだったから。
町の鼻つまみ者である自分を、遠巻きにしながら嫌悪を露わにしていた者達の誰もが、突然変な声を上げて竦み上がった自分に対して一層顔を顰めながらも、自分なんかよりもずっと異様である筈の存在に対しては、全く気付いた様子を見せなかったのだから。
ラヴィニアが咄嗟に逃げたのは、人の多い町の中心地ではなく、自宅がある森へと向かう道だった。
自分を嫌っている上に、悪魔を認識出来ずにいる連中に対して当てにならない助けを求めるよりは、何とか家まで逃げ切って効果のある術や道具を探した方が、まだ可能性があると思ったからだ。
しかし『悪魔』は、ラヴィニアが思っていたより、望んでいたよりもずっと速くて。
必死になって逃げたその身は、家が見えてくるよりも前に、周囲に人気が全く無い森の中で追いつかれ、ついには捕らえられてしまった。
爛々と光る黄色い目と、存在そのものが違うとしか思えないような圧倒的な威圧感を前に、死を覚悟したラヴィニア。
そんな時に彼女が思い出したのは、あまりの眩さに憧れると共に劣等感を抱き、彼女の為を思って遠ざけながらも会いたいと望むことをやめられなかった、掛け替えのない親友のことだった。
(ごめんなさい、アビゲイル。
こんなところで、こんな形で死ぬのなら、最後にちゃんと話しておけば良かった……)
ギュッと固く瞑った目尻に涙を滲ませ、強張った全身を震わせ……しかしラヴィニアを捕まえた『悪魔』は、一向にその命を刈り取ろうとする素振りを見せない。
代わりに聞こえてきたのは、想像していたよりもずっと穏やかで優しい、年若い少年のような声だった。
「そう怯えるな、殺す気は無い。
むしろ俺は、お前を……お前達を、この閉ざされたセイレムから解放してやろうと思っている」
「ここではない遠いところへ、アビゲイルと共に行きたくはないか?」
死を間際にした絶望と達観の中で、自身の本心を思い知った今のラヴィニアにとって、それは正しく『悪魔の誘惑』であった。
『悪魔と表すのは一言だけど、実際には色々とあるんだよ。
それぞれの都合だとか、優先順位だとか、仲がいいとか悪いとか。
そして今の俺には、人間を苦しめたり堕落させたりするよりも、とある悪魔の……このセイレムに身を隠し、この地を狂気に堕とそうとしている奴の計画を台無しにしてやることの方が、遥かに重要なんだ。
そいつの計画が上手くいってしまうと、俺と俺の仲間達にとってはとんでもなくまずいことになるんでね』
『奴は本格的に動き出そうとしている、ほんの数日の間にセイレムは狂気の町と化すだろう。
町の連中ではそれを止められないし、そもそも止めようとすることが出来ない……彼らはあくまで、この町、この世界を構成する要素でしかないから。
舞台の上で台本に抗い、既に定まった筈の運命を変えることが出来るのは、外から紛れ込んだ異邦人だけだ』
『お前も既に接触している、例の旅の一座……その動向や方針を、お前には出来る限り探ってもらいたい。
……ああ、勿論、頼むだけで何の力も貸さないなんてことはしないよ。
このお面は、見た目こそ不気味だけれど、その辺の道端に転がる石ころが誰の気にも止まらないように、身につけた者を周囲から認識されないようにするという効果がある。
これを今回の騒動が解決するまで貸してやる、好きな時に好きなように使って構わない。
まずは今夜、町の公会堂で一座が公演を行なうから、それを使って潜り込んできてくれ。
そのついでに芝居を楽しんでくればいい、特別席を用意しておこう。
……頼んだぞ、ラヴィニア。
全てが上手くいった暁には、必ず約束を守る』
家に伝わっているものよりも、遥かに強力な神秘を体感することに少なからず高揚し、忌まわしいウェイトリーの存在に気付けずにいる人々の滑稽さに、少しだけいい気味と思いながら。
変わらない毎日にうんざりし、非日常を求め続けていた彼女のことだから、間違いなくこの場に来ている筈だと信じて、最近はどう頑張っても遠目に窺うことしか出来なかった親友の姿を探した。
思った通り、さほど時間をかけることなく、背に長く伸びた綺麗な金髪を見つけることが出来たのだけれど。
(『特別席』……あいつ、確かにそう言っていたわ。
それって、まさか………)
見つけたアビゲイルは、舞台の動きを余さず見守ることが出来そうな、特等席と言っていい場所に座っていた。
その丁度隣の席が、それ以外の周りが全て埋まっていて、遅れてやってきた者が知り合いに声をかけながら席を探しているような状況で、不自然に一人分だけ空いている。
……実のところ、その席に認識阻害の魔術を施したのは悪魔ではなく、召使らしく頭を下げながらも、内心ではべーっと舌を出していたティテュバだったのだけれど。
それがラヴィニアの為に用意されたものだという事実には、これっぽっちも変わりは無かった。
恐る恐る、ゆっくりと、アビゲイルの隣へと腰を下ろすラヴィニア。
本当に久々に親友の横顔を間近にして、胸に込み上げてくる熱い何かを、ラヴィニアは確かに感じていた。
「……アビゲイル」
「ラヴィニア?」
思わず零れてしまった呟きは、周囲の喧騒にあっさりと紛れてしまうような、本当に些細なものだったのに。
それ以前に、悪魔から借りたお面をつけている以上は、声どころか存在そのものが隠されている筈なのに。
俯いていた顔をハッと上げ、しきりに辺りを見回し始めたアビゲイルから、顔を背け、身を縮ませ、両手で押さえたお面の奥に荒い息を閉じ込めるラヴィニア。
……しかし彼女は、決して、その場から逃げ出すことだけはしなかった。
「……そんな訳ないわよね。
もしあの子が来ていたら、私が気付く前に他の誰かが見つけて、変な騒ぎになっている筈だもの。
……いけないわアビゲイル、ラヴィニアと一緒に劇を見たかったなんて考えてはだめ。
ラヴィニアに嫌な思いをさせて、団長さん達の公演に迷惑をかけてまで我が儘を通したいと思うのは、悪い子の考えよ」
(アビゲイル…っ!!
私いるわ、ちゃんとここにいる……あなたに会いに来たのよ!!)
心の底からの叫びは、ぎゅうっと噤まれた口に阻まれ、敢え無く飲み込まれてしまった。
ラヴィニアはもう諦めるしかなかった、認めてしまうしかなかった。
悪魔と出会い、本当は何を企んでいるかも分からないかの者の先兵とされてしまった……悪魔の配下、真の魔女と化してしまったことは、自分にとっては不幸などではなく、幸運以外の何ものでもなかったと。
会いたいという本心を堪えられなくなったきっかけも、実際に行動に出る為の手段も、あれが無ければ決して得ることは出来なかったのだから。
……しかし、まだ駄目だった。
声を出して彼女を呼び、手を伸ばして彼女に触れる、その為の一歩を踏み出せるだけの『勇気』がまだ足りない。
二人の少女の瞳から、大きな雫が滴り落ちる……と思われた、その時だった。
「ご招待にお応え下さった紳士淑女の皆様方、大変長らくお待たせ致しました。
今宵は、我ら立香一座の特別公演にお付き合いいただき、感謝の言葉もございません」
舞台袖に現れ、公会堂の巨大な空間の全てに朗と響く声で開演の挨拶を行なったのは、肌を大胆に露出した派手な装いで道行く人に声をかける様子が多くの市民に見受けられていた、男性達がすれ違いざまに思わず振り返ってしまう程に美しい女性だった。
太陽のように眩く輝くその瞳に、男も女も、大人も子供も、悲しみと悔しさに心を乱していた二人の少女も、例外なく惹き付けられる。
居合わせた全ての者の注目が集まり、ざわめきが収まった瞬間を逃さずに、ニッコリと微笑んだマタ・ハリは口上の続きを語り出した。
「我々が演じますのは、遥か太古の偉大なる黄金王をも魅せられた、緑の服を纏った少年の物語。
何人もの王が素晴らしき国を興し、神の子がお戻りになるよりも昔から伝えられてきた、最も古き物語。
これは、『勇気ある者』の物語」
「『ゼルダの伝説』……時の勇者の末裔の第一章『ムジュラの仮面』、繰り返される三日間の一幕でございます」