一つの結び目、括られたのは黒人の奴隷女。
公演の成否によっては、彼女の身柄を解放する……そんな約束をあっさりと裏切られ、公演中に犠牲者を出してしまったという現実は、この町を蝕むものの恐ろしさを一座にまざまざと突き付けた
これを境に、セイレムの町は夜な夜な食屍鬼達の襲撃を受けるようになり、誰が正しいのかも誰を信じればいいのかも分からない狂気の日々が始まった。
『処刑された者は夜になると食屍鬼として蘇る』という法則を我が身で以って実証して、二度目の死を迎えたことで最後の役割を終えた『彼女』が表舞台から降り、本格的なサポートを行なうための準備を始めたことを知っていたのは、ほんの僅かな者達のみであった。
二つの結び目、括られたのは魔術師の当主。
親友の手も跳ね除けてしまう程に、ラヴィニアの心が頑なになってしまった大きな理由が、家族が連行されて処刑されるまでを目の当たりにしてしまったことだと判断した立香は、彼女とアビゲイルを公演で足止めした。
彼女達が劇を途中で抜け出し、ウェイトリー家の者達が連行される場に居合わせることとなるきっかけは、サンソンの不在に気付いた二人がその行動を怪しんだことだから。
一座の全員で力を合わせた公演で、アビゲイルとラヴィニアを始めとした子供達を喜ばせ、その成果に満足していた一同が、楽しく華やかな歓声の裏で痛ましい事態が起こっていたことを知ったのは、全てが終わってからのこと。
食屍鬼の脅威から逃れようとする人々の悲鳴が、霧中を木霊する混沌の中で、かつて祖父であった食屍鬼と対峙し、途切れ途切れに自身の名を呼ぶ声に必死になって応えたラヴィニア。
怒りと悔しさに唇を噛みしめ、震える拳を握る彼女の射殺すような眼差しは、違うと分かっていながら家族を告発し、実の孫娘の前で今度は手ずから二度目の死を与えた、ランドルフ・カーターへと向けられている。
『姪の友人に危険が迫っていたから助けただけ』だと、涼しい顔であっさりと言ってのけた彼に、居合わせていた立香一座の者達が、世話になっていることは百も承知の上で疑念を募らせたのは無理もないことだった。
三つの結び目、括られたのは陽の目の女。
連夜の襲撃に疲弊し、心の余裕が無くなった人々が少しずつ恐慌に陥り出したことで、セイレムは本格的に狂気の町と化し始めていた。
この後どうなるか、何が起こるのかを予め知っていたおかげで比較的に冷静さを保ち、逸る仲間達を宥めることだって出来た立香だったけれど。
先日のこともあってカーターに不審を抱いていたマシュが、町の外に向かう彼へと動向を監視する思惑で付き添い、外との境目近くで行方知れずになった時には流石に血の気が失せた。
ロビンフッドと共に捜索した森の中で、謎の儀式の痕跡に紛れながら残されていたシバの女王のメッセージに気づけなければ、その後待ち受けていた山場に落ち着いて臨むことは難しかったかもしれない。
『余所者の集団』として丸ごと不審がられていた立香一座、中でも男女問わず目を奪われずにはいられないような美女であるマタ・ハリが、『魔女』を恐れる今のセイレムでこのような疑いを向けられるのは、ある意味で納得のいく話だった。
『淫らな体で誘惑された』と、『疑いようもない悪魔の所業だ』と、証言台の男は訴えてくるけれど、実際にはマタ・ハリの美しさに惹かれて言い寄ったのは男の方であり、当のマタ・ハリはそれを素気無く断ったのだということを、仲間達は知っている。
ふられて恥をかかされた腹いせだと、そちらの方が悪魔の如く非道な行ないだと訴えたとしても、同じ神の使途と信じている町の住人と、旅の一座の素性の知れない女とその仲間では、言葉の真実というものはたやすく霞んでしまう。
『一日に少なくとも一人、誰かがその首に縄をかけなければならない』。
その法則は立香も既に知っていた、キルケーの助けがあれば何とか乗り越えられることだって分かっていた、だけど。
張り上げた声も、伸ばした手も届かず、仲間がその身を捧げるのを見過ごすことしか出来ないのは、大丈夫だと分かっていても歯痒いし、何度経験しても慣れたくもないと立香は思った。
一座から、裁判によって罪人と判断され、刑を執行された者が出た。
理由や経過を考慮していない、ただそのひとつの事実で以って、それなりに受け入れられていたと思っていたセイレムの地で『信用できない余所者の異端者』となった立香達は、拠点としていたカーター家に火が放たれ、一部の住民が暴徒と化したその後の混乱に紛れ、キルケーの薬で仮死状態となっていたマタ・ハリを助け出した後に町外れの森に身を隠す。
そこで彼らは、前もって隠れ家を構築していたシバの女王と、彼女によって匿われていたマシュ。
そして、立香達と同じく罪人の身内ということで一層立場が悪くなり、同じように森に隠れていたラヴィニアと合流した。
四つの結び目、括られたのは無辜の民達。
食屍鬼が人々を襲う混乱に乗じて盗みを行なったり、前々から恨みを抱いていた者を襲ったという言い分の真偽は、一人でも多くの住人を救うべく混乱の真っ只中で戦っていたカルデア一同ですら判別しきれない。
ひたすらに隠れ、もしくは逃げ回りながら、やっとの思いで幾度目かの惨劇の夜を乗り越えた住人達は尚更、次は我が身かもしれないという理不尽な恐怖を突き付けられた。
セイレムはもはや、怪しまれるのは余所者だからだとか、慎ましく清廉でありさえすれば大丈夫だとか、理性的な判断や価値観が尊ばれる場所ではなくなっていた。
このタイミングにおける『いつも』との大きな変化は、アビゲイルと共にラヴィニアが一同の保護下に入っていたことだった。
それによってアビゲイルは、ラヴィニアを探しに町へと赴こうとはせず、ラヴィニアやシバの女王、町では死んだことになっているマタ・ハリと共に、森の奥の隠れ家で大人しく皆を待つことを選んだし。
ウェイトリー家の悲願ではなく友人を優先すると決めていたラヴィニアもまた、事を動かすために魔導書を携えて出頭し、共犯としてアビゲイルを告発することも無かった。
一見良いものに思えたその変化は、思いもよらない者の、思いもよらない行動を促した。
可愛く不憫な姪を想うあまりに口を噤んでしまっていたが、このような事態になってしまっては、もう隠してはいられない。
沈痛な面持ちで瞼を伏せながら、魔術を行使したのは自身の姪アビゲイルであると断腸の思いで告発するカーターを驚愕の眼差しで見つめていた人々が、徐々に不穏な気配を纏い始める。
魔女を探せ、魔女を殺せと口々に叫ぶ人々を、法を無視する野蛮な振る舞いは許さないとホプキンスの一喝が黙らせた。
しかし、彼はあくまで無秩序を許さなかっただけであり、少女を庇ったわけでは断じて無い。
アビゲイルの出頭を求めることを公言し、新たな裁判を執り行うことを告げられた人々が、秩序の中の狂気に沸く。
アビゲイルが、自身の姪が町の人々によって逃げ場を奪われていく光景を前に、カーターは薄ら寒い笑みを浮かべていた。
五つの結び目、括られたのは魔女狩り将軍。
両親亡き後に新たな家族として慕い、信じていた筈の叔父が自身を魔女として告発し、町はすっかり魔女狩りの様相を見せていることを知ったアビゲイルは、その場で意識を失って倒れてしまうほどのショックを受けた。
特異点を作り出した魔神柱の正体、その最重要候補にランドルフ・カーターを据えたカルデア一同は、彼との接触を試みることを決める。
その為の作戦会議に集中し、一人で寝かせていたアビゲイルから目と意識を離したほんの僅かな間に、彼女の姿は森の中の隠れ家から消え失せてしまっていた。
意識が一旦途切れても、なお苛まれていた恐怖と不安のあまりに衝動的に動き出してしまったアビゲイルが向かったのは、ラヴィニアと二人で細やかな儀式に興じた秘密の場所。
手間をかけて整えられた場所で、生け贄の血を捧げ、謎の呪文を唱えるという一連の流れは、本物の魔女から言わせればそれっぽいだけで特に何の効果もないお遊びに過ぎず。
込められていたものも更なる狂気などではなく、この状況で自分に出来ることを必死になって考えた少女の、元の平和な日々が戻ることを一心に願う純粋な祈りだったのだけれど。
捜索中に発見したここを儀式の場と見定め、魔女が現れるのを待ち構えていた者達からすれば、目の前でそれらしいものが行われたという見せかけの事実だけで十分だった。
恐怖のあまりに涙目になって震える少女が、弱者を装って逃れようとしている魔女にしか思えなくなっている人々は、連行する際に抵抗されないようにと、恐ろしい魔女を少しでも弱らせようという思惑で武器を持った手を振りかぶり……ループの認識と記憶があったおかげでいち早くこの場所を思いつき、全力で駆けつけたサンソンによって防がれた。
ラヴィニアに案内された仲間達が追いつくまで時間を稼ぎ、更にはアビゲイル達を逃がすための殿を務め、『ちゃんと追いつきますから』と笑いながら言ったサンソン。
そんな彼との約束が、果たされることは無かった。
情報を得るべく町に潜んでいたロビンフッドが耳にしたのは、ホプキンス判事が処刑用の荒縄で首を絞められて死んだことと、魔女を逃がした罪で連行され、直々に尋問を行なおうとした彼と二人きりになっていたサンソンがその下手人とされたこと。
被告人にはほんの一言の弁解も、仲間どころか公平な立場の第三者を呼んで弁護も頼むことも許されない、怒号と罵声が飛び交うばかりの形にすらなっていない裁判を経て、彼の絞首刑が決まったこと。
あまりにも不可解で強引すぎる一連の流れに、アビゲイルが襲われ、サンソンが捕らえられたあの場に居合わせていたランドルフ・カーターが……姪を助けるどころか、もはやその身を案じる素振りすら見せようとしていなかった男が関わっていると、考えない方が難しかった。
六つの結び目、括られたのはパリの処刑人。
頑固爺を一人殺すのに縄なんて面倒なものをあいつが使うか、一発で首を叩っ切って終わりだ!!
……と、苛立ち混じりに声を荒げるロビンフッドに頷きながら、一同はサンソンの救出作戦を決行に移した。
魔神柱が動き出しているとしたら、森の隠れ家は安全な場所とは決して言い切れないと、いっそのこと共に連れて行った方が皆で守ることが出来て安全だからと、アビゲイルとラヴィニアの二人を伴いながら、隠れ家を守るために残ったシバの女王以外の全員で向かった丘の処刑台。
人の死を待ちわびる昏い歓喜に、強引に割って入ろうとした彼らの試みは、突如現れて一同の前に立ちはだかった者の存在によって妨げられた。
正に『悪魔』を思わせるような、不気味な仮面で顔を隠した謎の少年の登場という想定外の事態に、呆気に取られる一同……その中に二人ほど、別の理由で驚いていた者がいたことに、他の者達は気付かない。
感情を読み取れない無機質な声で、ここを通すわけにはいかないと、あれは彼が為すべき務めであり必要なことなんだと語る少年を、一同は仲間の救出を邪魔しようとする敵と見なした。
弱体化しているとはいえ、ただの人間とは比べ物にならない程度には強いサーヴァントを、それも複数を相手にたった一人で均衡を保つ少年に、こんな奴が魔神柱の下にいたのかと慄くカルデア一同。
焦る彼らの前で、ついにその時が訪れてしまった。
首を括った荒縄で吊られ、集まった住民達の歓声の中で、力の抜けた体を虚空に揺らすサンソン。
そんな彼の姿を前に真っ先に動いたのは、仲間を助けられなかった衝撃と絶望のあまりに立ち尽くしてしまっていた一同ではなく、今の今まで剣を交えていた相手に一瞬も躊躇うことなく背を向けて走り出した少年の方だった。
人混みを掻き分けるを通り越して弾き飛ばすような勢いで駆け、瞬く間に処刑台にまで迫った少年は、高々と跳び上がりながら振るった一刀でサンソンを吊るす荒縄を断ち切り、脱力している分それなりに重かった筈の彼の体を軽々と受け止めかつ担ぎ上げ、何処とも知れず走り去っていった。
仲間の救出を邪魔したどころか、遺体までをも奪っていった彼の後を、すぐにでも追いたかったのだけれど。
魂を苛まれるような狂気の日々の中で、事あるごとに気遣ってくれた優しい人が、目の前で殺された……軽率な振る舞いに走った自分を庇い、身代わりとして捕まってしまったせいで。
その事実に、ギリギリまで擦り減ってしまっていたアビゲイルの精神は、もはや耐えられなかった。
「…………イグナ……イグナ、トゥフルトゥクンガ」
「あびー?」
「大変ですセンパイ、アビーさんの様子が……っ!!」
「我が手に、白銀の鍵あり……」
「ダメよアビー、どうしてあなたがそれを!?
あなたに教えた『降臨の儀』は、偽の魔導書に記した真似事の筈なのに!!」
「虚無より顕れ、その指先で触れ賜う」
「わが父なる神よ。
薔薇の眠りを超え、いざ窮極の門へと至らん」
セイレムの住人達の、魔女に連なる者の最期を見届けたことへの歓声が、新たな……真の魔女の誕生と降臨によって、恐怖と悲鳴に塗り潰される。
そして再び、最後の結び目の時が訪れた。