「見るがよい、しかして感動に打ち震えるのだ!!
これが余の都、童女でさえ讃える華の帝政である!!」
誇らしげに胸を張るネロの言葉は、一片の偽りもなく真実であった。
多くの人が行き交う大通りの両脇には隙間なく店が並び、生活必需品から嗜好品まで、あらゆる商品が山となって積まれている。
そこかしこで交わされる笑顔や、行き交う楽しげなお喋りなどの、目や耳に飛び込んでくる全てが、2000年後の未来まで伝えられている古代ローマ帝国の繁栄そのものであった。
立香やマシュが、内心ではしたない行為だとは思いながら、それでも目を輝かせながら周囲を見回すことをやめられないのは、古代の歴史ロマンに直に触れているから……だけではない。
燃え盛る炎の中に辛うじて残った都市の残骸でも、竜の群れに襲われた後の廃墟でもなく。
活気に満ち溢れた都市を訪れることが出来たのは、立香にとっては久し振りで、マシュにとっては初めてだったからだ。
人々が生きて、元気に暮らしている光景を前に、目頭が熱くなるほどに感動していた二人ほどあからさまではないとしても。
未だ目深に被ったままのフードの下で、リンクも仲間達と同じく町の賑わいに目を奪われていることを察したネロは、只でさえ自信満々だった笑顔を一層、周囲に花が舞っていないのがおかしく思えるような勢いで開かせた。
「この繁栄を前にして心動かぬ者はいない、やはり当然のことであるな」
「……そうですね、ハイラル城下の賑わいを思わせる光景です」
「なっ、何と!?
ローマの町並みを前に、即座に思い起こすのがかの伝説の王国とは……分かっておるではないか!!
さてはそなた、『リンク』と名乗るだけのことはあって、あの『伝説』に相当入れ込んでいる者であろう!!
良かろう、存分に堪能するがいい!!
これが、これこそが、遥か伝説の世に栄えたハイラル王国の再来と謳われし、世界最高の都市ローマである!!」
その言葉を受けてリンクが浮かべた笑顔は、どう反応すればいいのか困った先の苦笑いだったのだけれど。
嫌悪感や本当の意味での困惑はそこには無く、嬉しさや気恥ずかしさといった前向きで温かな気持ちの存在だけを、詳細は分からずとも喜んでいるのは確かだということを察したネロはますます上機嫌になり、込み上げる気持ちに促されるままに、手近な露天の品物へと手を伸ばした。
「店主、この林檎をいただくぞ?」
「ああっ、皇帝陛下!!
どうぞお持ち下さい、陛下とローマに栄光あれ!!」
「そう畏まらずともよいぞ、店主。
うむ、うむ……これは美味い林檎だな」
「ちょっ、お金も払わずにいいんですか!?」
「何を言うか、余はローマ皇帝ネロ・クラウディウスであるぞ。
ローマのものは全て余のもの、故にこれも当然に余のものである。
遠慮することはない、そら、お前達にもひとつやろう」
「いえ、私はお気持ちだけありがたく……」
「いただきます」
「リンクさん!?」
「マシュ、ここはお言葉に甘えよう」
「センパイまで!!」
『無銭飲食』というパワーワードがどうしても引っかかってしまうマシュに敢えて構わず、投げられた林檎を遠慮なく、自分達の分だけでなくマシュの分まで受け取った立香とリンク。
彼らの手を介してしまえば流石に断り切れず、艶々と輝く林檎を手に途方に暮れるマシュの様子に、困らせてしまったことへの罪悪感と可愛い後輩への愛おしさが入り混じる不思議な感覚を覚えながら、立香は自身の林檎へと豪快に齧りついた。
「……これはっ、本当に美味しい!!」
「うむうむ、やはり戦場帰りには甘いものに限るな。
負った傷はさすがに癒えぬが、それでもやる気だけは回復する」
「えっ?」
「ん、どうした?」
「いやいやいや、何でもアリマセン……」
急に口調と様子がおかしくなったリンクに、『ああ、ハイラルの林檎は傷まで治せるんだな』と、立香達はもはや説明されるまでもなく察した。
それに加えてマシュは、ネロは先の戦いで奮闘した自分達を気遣ってくれたのだということと、立香とリンクはその気持ちに気付いて、厚意をありがたく受け取ったのだということに思い至る。
最初に遠慮した上に、今もどことなく林檎を持て余しているらしいマシュの様子に気付いたネロが、町へと帰還して以来、初めてその笑顔を曇らせた。
「マシュ、そなた……」
「す、すみませんネロ皇帝陛下、私は」
「皆まで言うな、こればかりは気が付けなかった余が悪かった。
そなたは、実に慎み深いのだな」
「…………はい?」
「よくよく考えれば当たり前のことであった……年頃のうら若き娘が、道を歩きながら林檎を丸ごと齧るだなどと。
いや、余もな……余も、いつもならきちんとしているのだぞ?
しかし今は、ローマの良いところをそなた達に出来るだけたくさん知ってもらいたくて、つい自慢したくて……」
興奮のあまりに暴走気味だった自身の振る舞いが、今更恥ずかしくなってきたのか。
マシュが遠慮した理由が的外れだなどとは考えもしないまま、頬を紅潮させながら懸命に弁解するネロの姿を前に、立香達は自身の胸の奥から、何とも言えない気持ちが込み上げてくるのを感じていた。
それは、目の前で真っ赤になりながら恥ずかしがる、自分にとって何よりも大切なものを自慢したいという想いを堪えきれなかった少女に対する、抱きしめて頭を撫でてやりたい思いを堪えなければならないような愛おしさだったり。
ローマという国と町、そしてそこで生きる人々を心から愛し、それら全てを背負う身であることを心から誇りに思っている皇帝陛下に対する、純粋な尊敬の念だったり。
多勢に無勢の状況で、それでも決して諦めずに戦い続けていた兵士達や、大切な商品を笑顔で快く渡してくれた店主の気持ちを、皇帝ネロが人々からいかに愛されているのかを。
ただの情報として、そういうものとして知るだけでなく、自分自身の心で以って、本当の意味で理解出来たような気がした。
自身が温かい目で見られてしまっていることに気付いたネロは、只でさえ赤くなっていた顔をまるで茹で上がってしまったかのようにカァーッと染め上げ、慌てた様子で話題を切り替えた。
「そっ、そういえば、館へと戻る前に今一度、そなた達の話を聞いておかねばと思っておったのだった。
確か、余を助けに来たと……今現在、我がローマを苛んでいるものは、何者かの陰謀であるとのことであったな。
何とも聞き捨てならない話よ、詳しく申すがよい」
話しているうちに気持ちを『少女』から『皇帝』へと切り替えたらしく、真剣な眼差しと鋭い口調でこちらを問い質してくるネロに、立香達もまた真剣な様子で答えた。
自分達は『カルデア』という組織の先遣かつ実働部隊の筆頭であり、ここから遠く離れたところにある本拠地には、まだ他にも幾分かの仲間達がいること。
組織を裏切り、人命も含めた多くの被害を出した男の目的を調べ、その企みを阻止するために旅をしていて、その末にローマへと辿り着いたこと。
全てを正直に話すことは流石に出来ないけれど、それでもなるべく事実に基づいたことを、カルデアからの通信越しにロマニにも加わってもらいながら説明した。
「成る程……つまりそなた達の仇敵こそが、我がローマに仇なす首魁であると」
《まだ確定ではありませんが、その可能性は大いにあります。
世界の中心にして世界そのもの、有史における最大の帝国にして都の名でもあるローマ。
その首都がこんな時期に脅かされているだなんて尋常なことではない、聖杯の影響が絡んでいると思って間違いないだろう。
大帝国ローマが早々にその歴史を終えてしまえば、人理へと及ぶであろう影響は計り知れない。
後世の人類史に多大な影響を与えた帝国、その崩壊を防ぐことが、特異点の修正となる筈》
「…………ん、んん?
すまぬ、よく分からぬ……もちっと、余に分かる範囲で話すがよい」
「すみません、理屈っぽい人なので……」
「要するに、『聖杯』っていうとんでもない力を持った魔術の品があって、奴らはその力を使って、陛下のローマに攻め込んできているかもしれないんです」
「……成る程。
聖なる杯が、余のローマをか」
「突拍子もない話で、いきなり聞かされても戸惑うかもしれませんが、これは紛れもない事実です。
あなたの伯父上に不本意なローマ侵攻を強要しているのも、聖杯の力によるものと思われます」
「なっ……聞き捨てならぬ!!
カリギュラ帝が、伯父上が、不逞の輩に操られていると言うのか!?」
掴みかからんばかりの勢いで問い質してきたネロに対してリンクは、『カリギュラ』という狂戦士との戦いの中で抱いた印象や気付いたことを、偽ることなく正直に話した。
「最大の標的である筈のローマ皇帝を前にしながら、狂気に苛まれていながら、あの人が本格的に暴れ出すまでには結構な猶予がありました。
殆ど消え失せているような理性と自我の欠片で、一生懸命に我慢してたんですよ。
本来のあの人にとってあなたは、本当に大切な、可愛い姪御だったんでしょう。
その証拠にあの人は、あなたの姿が見えなくなった、相手が俺だけになった途端に、豹変したかのように暴れ出しましたから」
「…………伯父上」
迷い出たと、愚かな裏切り者だと嘯いてはいたものの、近しかった血縁者と相対しなければならなかったことは、やはり本心では辛かったのだろう。
自身と現実を誤魔化しながら偽りの覚悟で立つよりも、全てを受け入れた上で立ち向かう方が彼女には相応しいと、それが出来るだけの強さがある筈だと。
そう信じて、敢えて辛い現実と向き合わせたリンクの想いに、ネロは決意の篭もった眼差しを返すことで応えた。
「すまぬ、余の方から振っておいて何なのだが、今はここまでだ。
歩きながら片手間で続けて良いような話ではない、落ち着いてから改めて時間と場所を作るとしよう」
「ありがとうございます」
「構わぬ、礼を言うべきなのは恐らく余の方だ。
そなた達がローマを訪れてくれたこと、そなた達に出会えたこと……これぞ正しく僥倖、神祖の導きに他はあるまい」
そう言いながらネロが浮かべた華の微笑みに釣られて笑ったマシュは、自身の手の中に今も収まっている林檎をしばし見つめ、覚悟と気合いを入れながら、一生懸命に開けた小さな口で精一杯に齧りついた。
途端に口いっぱいに広がった果汁の甘さと、こんな町角で、歩きながら丸の果物をそのまま齧るという行儀の悪さに対する何とも言えない背徳感が、どうにも癖になってしまいそうだった。
そんなマシュの様子に思わず笑みを零しながら、自分達も残りを平らげにかかった立香とネロにリンクも続いて、未だ綺麗なままだった林檎に向けて口を開けたのだけれど。
「……ちょっと試してみようかな」
「リンク?」
噛りつく寸前で林檎を引っ込め、片手で掴んだそれを僅かに掲げながら何やら集中し始めたリンクに、嫌な予感を感じた立香が咄嗟に声をかけたのだけれど。
残念ながら、躊躇い気味に発せられたその声に込められた力は弱く、『発動』を食い止めるには至らなかった。
リンクの拳の内側に突如発生した炎、完璧な制御下で渦巻いたそれがあっさりと消えてしまうまでの時間は、突然のことに目を剥いた立香達が無意識に呼吸を止めてしまっていたのは、実際にはほんの数秒のこと。
その僅かな時間で、芯まで見事にホッカホカに焼き上がって甘く美味しそうな香りと湯気を立てる林檎に、リンクは至極満足そうな様子で齧りついた。
「やった上手くいった、やっぱり林檎は焼いた方が美味いな。
威力が出せないのは仕方ないとして、逆に細かい操作で応用を利かせればそれはそれで色々と役に…………立香、マシュ、ネロ陛下までどうしたの?」
「…………姿の見えない魔術師よ、確か名はロマニとかいったな。
そなたは先程、自分のことは立香達三人の、魔術の師のようなものと思ってくれと言っていたが」
《彼は免許皆伝ですっ!!!》
あの威力を、あの精密な制御で、何の前準備も複雑な工程も要らずに即発動させた手腕と比べられるなど、冗談ではないと言わんばかりの絶叫が響く。
そんな中で、出来る限り声を押し殺しながらも張り上げるという、器用な真似を繰り広げる者達もいた。
「リンクさん、一般の人がこんな大勢いるところで、そんなあっさりと魔術を使っては駄目です!!
講座で習ったじゃないですか、『神秘の秘匿』は今の世では必要なことだって!!」
「えっ……ちょっと火をつけただけなんだけど、これも神秘になるの?」
「そこからか、根本的なところから盛大にずれてたか!!」
少し長引きそうだったやり取りは、暴漢の集団が突如現れ、店や市民を襲い始めたという騒動によって遮られた。
皇帝ネロと共にそれを瞬く間に鎮圧した、歴戦の戦士にも引けを取らない活躍ぶりを見せた若者達の存在は、ローマの危機に馳せ参じた新たな希望の一灯として、ローマ市民の間に瞬く間に広まっていくこととなる。