『逃げたければ逃げろ』と口では言っておきながら、既に人海戦術で周りを囲み、逃げ道を塞ぎ、たったひとつの選択肢しか選べなくさせた騙し討ちに対しても、多少の罪悪感を抱いていたのかもしれない。
遠目で見ただけでも怯まされた程の美貌と、間近にしたことでより一層実感してしまった体の細さを前に、思い知らせるとしてもなるべく優しくとか、思い上がりを反省して泣いて詫びさえすればそれ以上の追い打ちはかけまいとか。
彼らなりに抱いていたそんな気遣いは、何やら嫌らしい笑みを浮かべながらかの少年へと歩み寄り、その耳元で何事かを囁いた者が、空気の唸る音と共に繰り出された拳をその土手っ腹に深々と減り込ませ、ほんの僅かな呻き声を上げる間もなく沈められた衝撃的な光景によって根元からへし折られた。
(音声が届いていたらしい管制室から、ダ・ヴィンチや某魚料理の美味しそうな名前のスタッフを始めとする数人が張り上げた歓声と罵声に、何を言われたのかと当人に尋ねようとした立香とマシュの開きかけた口は、こめかみと握った拳に青筋を浮かべていたリンクの輝かしすぎる笑顔を前にそっと閉じられた。)
「逃げるよマシュ!!」
「待って下さい、リンクさんがまだ」
「いいの、リンクなら大丈夫!!
と言うより、さっさと離れないとむしろ邪魔になる!!」
若いどころか、幼くして『戦術顧問』という重役を担うこととなった『末代の勇者』が、こういう状況に覚えと経験があることは容易に想像がついた。
荒くれや脳筋の集まりに対処することなんて、日々の業務の一環で、慣れっこかつお手のものだっただろうし。
ローマの闘技場と言うよりは、西部劇の酒場と表した方が正しそうな大乱闘の真っ只中から脱出を図る立香とマシュの背後では、数人の兵士が既に地に伏せていた。
相手が一人だからこちらも一人で、素手だからこちらも素手で。
そんな
掴んで力を籠めるだけで折れてしまいそうな体躯に侮り、鍛え上げられた腕力に任せて捻り潰そうとした者達は、それ以上の、物理法則に抗っているとしか思えないような怪力によって真正面から叩きのめされた。
ならばと数に任せ、四方八方から囲むように一斉に襲いかかった者達は、躊躇いも戸惑いも一切無い、一対多数の戦いに慣れているとしか思えない動きに翻弄され、半分以上が同士討ちの自滅によって潰された。
思考を完全に沸騰させた者達が容赦なく振り上げた剣や槍は、質より量を重視した大量生産品よりも余程の業物だった生の拳に競り負け、大小様々な木屑や鉄屑となってばら撒かれた。
子犬と思い込んで手を伸ばした首根っこが、犬どころか歴戦を経た狼のものだったことに、食い千切られてから気付いたところでもはや遅かった。
すぐには動けない、しかし最低限の意識までは奪わない、そんな絶妙かつ容赦のない力加減によって叩きのめされた兵士達が死屍累々と倒れ伏す真ん中で、怪我どころか息の乱れすら無いままに堂々と立ちながら。
皇帝陛下の意向と判断を曲解しただけならばまだしも、自分達の勝手な価値観と判断が正しいと妄信して、私情を優先して軍の規律を乱すような輩が、陛下が信を置いてガリア奪還という重要任務を任せるような者達だとは思わなかったと、少年は呆れたため息をつきながら言ってのけた。
噂に対して半信半疑だった者達にですら、揃いも揃って『無理もない』と思わせたのが自身の美貌なのだと、考えることも気付くことも全く無かった少年の無自覚な言い草は、それによって背を押された自覚があった者達にとってはあまりにも残酷なもので(気付いた立香は『あちゃ~…』と手のひらで額を押さえていた)。
彼の言い分は正しくて、生まれ持った顔に罪は無くて……明確な要因に突き動かされたのだとしても、一番悪いのはそこで堪えられずに実際に行動に出てしまった方なのだと、頭の中の冷静な部分ではきちんと分かっているのだけれど。
挑発する意図は確かにあったものの、予想を遥かに超えて反骨心を漲らせ始めたローマ兵達に内心で首を傾げながら、それでも想定通りだと口の端を吊り上げる笑みを浮かべたリンクは、握った拳を今一度構えながら宣言した。
俺達に従うのが嫌だと、不満だと言うのならばかかって来いと。
最後の一人が観念するまで、何人でも相手してやると。
燻ぶるを通り越して今にも燃え上がりそうだった種火は、その言葉を受けて一気に爆発した。
あの少年が、噂を聞いた自分達が最初に想像していたような、美貌だけで皇帝に取り入ったお飾りの将などではないということは、既に痛いほど思い知っている。
だとしても、何の躊躇いもなく『最後の一人まで』と断言してみせたことまでは、黙って見過ごすことが出来なかった。
理性と損得を完全に度外視した兵士達の、認めたくない、受け入れたくない、受け入れざるを得ないとしてもせめて納得したいという我が儘に、リンクは真っ向から誠実に、辛抱強く向き合い続けた。
最初こそただひたすらに、勢いと激情に任せていた兵士達も、時間が経ち、挑んだのと同じ数だけ返り討ちにされて徐々に頭が冷える毎に、意地や反骨心とは別のものが、この胸に叩き込まれていくのを感じていた。
あの噂が、箔付けの為の誇張や創作などではなかったとしたら、彼が本当に得意としているのは、剣や弓などの武具を使用した戦い方の筈。
それを敢えて拳に拘っている理由は、今こうして相対している自分達こそがよく分かる。
未だ彼に対して不満を燻ぶらせ、当の本人がいいと言っているのだからと、このどさくさに紛れてとまで思っているような数十人の、下手をすれば数百人もの兵士達を。
たった一人で、己が肉体と拳という原初の武装で、小賢しい策の存在を疑ったり、一時の幸運にたまたま助けられただけと嘯くことなど出来やしない、それが彼自身の確かな実力なのだと認めるしかない状況で、完膚なきまでに打ち負かしでもしたら。
そんなことが本当に出来ると、出来たのだとしたら。
それこそ正しく、『勇者リンク』の英雄譚のようではないか。
この胸の内に徐々に湧き上がる熱が、あくまで遠い伝説の中の存在だった筈の人を目の当たりにしてしまった感動だということを、彼の下で彼と共に戦うことを想像して滾りそうになる自分がいることを、認めるしかなくなってしまうではないか。
冗談じゃないと……幼い頃に夢中になった物語の主人公そのものな人が目の前に現れて、伝説そのままのような大活躍を見せたからと、共に戦えるかもしれないのだと、瞳を輝かせて喜ぶような純粋な心なんてものは、遥か昔の子供時代と共に過ぎ去ったと。
意地を張り、尚もリンクに挑み続ける兵士達は、自分達の挙動と、それを見守る者達の表情に変化が表れ始めていることに、今はまだ気付けずにいた。
武器の柄ではなく、自身の拳を固く握って。
弱者を一方的に叩きのめして強者の優越感に浸る為ではなく、弱者として圧倒的な強者に挑む為の、手段の一環として数に頼りながら。
無残に叩きのめされたとしても、敵わないということが骨身に沁みていたとしても……その心がまだ行けると、まだ行きたいと叫んでいる限り、震える手足に鞭打ちながら、もう一度今一度と立ち上がり続ける。
少し強い風に吹かれただけでも消えてしまいそうな程に儚く、弱々しく、小さなものではあったけれど。
誰の心にも灯り得る、辛く恐ろしい困難に立ち向かう為の、『勇気』の輝きがそこにあった。
半々だった歓声と罵声は、いつの間にか歓声一色となっていた。
声援はリンクだけでなく、きちんと治療をすれば後を引くことは無い程度に適度にボコボコにされながら、尚も諦めずに挑み続ける兵士達にも、等しく向けられるようになっていた。
意地と誇りをぶつけ合う戦士達の闘志と、観客達の声援と歓声が入り混じることで生み出された独特の熱狂。
それは正しく、古代ローマ帝国とそこから連なる歴史に、その名と存在を燦然と刻んだ闘技場『コロセウム』を、同じように満たしていたであろうもの。
それに気づかない筈がない、気づいて放っておける訳がない……良い意味でも悪い意味でも、あまりにも縁深すぎる者が居るのだという可能性に思い至らなかったのは、無理もないことだった。
《えっ、何コレ……嘘だろ、サーヴァント反応だ!!
もの凄い勢いで近づいてくる、と言うより飛んできている!!
リンク君、避けて!!》
悲鳴のようなロマニの声を、戦闘の真っ只中の集中状態で聞いたリンクが咄嗟に取った行動は、今の今まで拳を交わし合っていた、突然の状況の変化に自分と違って頭の中を真っ白にしてしまった者達を、苦痛の尾を引かせない程度の力加減の中で思いっきり蹴り飛ばすことだった。
今の今まで拳のみの縛りを入れていた筈の者に、問答無用でいきなり足を繰り出されたことへの文句と不満は、彼がそうしてくれなければ今頃この身は爆散していたであろう現実を前に瞬く間に消え失せた。
他者を救う為に自身の避難を遅らせ、周囲の者達の心胆を寒からしめたリンクは、若干せき込みながらも何とか、立ち込める土煙を割って皆の前に無事な姿を現した。
あの場にいたのが彼でなければ、戦い合っていた両者の片方は確実に、下手をすれば両方とも、あの衝撃に巻き込まれて命を落としていたに違いない。
「……一体誰だ、こんな無茶な真似をしたのは」
直前のロマニの言葉と、以前カリギュラが同じような登場の仕方をしたこともあって、リンクはこの爆撃の弾頭がサーヴァントその人であることを確信していた。
敵ならば倒す、味方だとしても少々きつめに灸を据える。
そんなことを考えながら、今は見えない着弾点を睨み続けるリンク。
徐々に晴れていく土煙の向こうに現れた人影、それは。
「おお偉大なる反逆者よ、圧政に抗いし希望の勇士よ!!
交わす刃にて語り合おうぞ、我が愛で汝を抱擁せん!!」
…………その男は、