魔神の復活までの幕間を夢想したSS
想い出をなぞり続ける間に、ルルーシュも素直になれたんじゃないかなって。
名前を呼ばれた。
ここはもう、名前なんてものは意味を持たないのに。
肉体という器から解放され、世界とも神ともいえる無形の集合体に漂う意識。
それが今の俺だ。
確固たる輪郭を失い、徐々に自分という存在がこの空間に溶けていくのが解かる。
無数の意識が流れていくCの世界は、今はその行きつく先が塞き止められてその多くが滞留している。生前よく見たファンタジーのように、死後もその人の形を保って天国で死に別れた家族と暮らしているなんて光景はココにはない。自分の存在さえ不確かで、そこら中に人の意識が溢れていることがわかっても、それを実際に数えることも、個を判別することもできない。ぼんやりとした人の群れが無作為に漂流し、自分もまたその一部なのだという認識があるだけだ。もうどれだけの間漂ったのかさえ定かではない。ただ、いくつか仮説を立てられるだけの発見はあった。俺のように個を維持していられるのには限りがあるということ。そしてその為には現世への強い未練、心残りが必要だという仮説だ。
死に別れた家族や恋人、やり残した使命、果たせなかった約束。
そういったものが「自分」という意識を形作るカギとなっているのだろう。
五感を失った意識は、思い出に縋ることで自分を思い起こしている。
だが、次第にそれは薄れる。
そして純粋な感情の熱量にまで輪郭がぼやけた時、それは個であることを忘れて、より大きな集合無意識の流れの中に溶け堕ちていく。
そこまで思い至った時に、俺は気づいた。
世界に対する責任を果たしたゼロレクイエム。その顛末を見るまでもなく、世界は平和に向かったと確信している。しかし、それでも心残りはあるのだと。
最愛の妹、最優の友、そして――彼女との約束。
俺は世界を壊し、世界を創造した。
だが、その結末と引き換えに一つの約束を反故にしたままその生を終えてしまった。
笑顔をくれてやるといったはずの彼女は、また一人だけの永劫の旅路を歩む羽目になった。俺が添い遂げる覚悟を決めるまでに、あらゆる段取りが整ってしまった。ゼロの仮面を用いて成したことへの責任を果たすばかりで、一個人としての、ただのルルーシュ・ランペルージとしての足跡を蔑ろにしてしまった。だが、俺が俺個人の都合を優先できるほど、ゼロの爪痕は優しいものではなかった。多くの生命を、尊厳を、理を歪めたゼロの行いは、俺の命と引き換えに鎮魂歌を捧げることで世界をより良い明日へ導くことでしか償えない。いや、それでさえ不足していると言われれば、それを認めなくてはならない。大切な誰かを失う哀しみを、俺は知っているから。
それでも、あのゼロレクイエムが、俺が世界に提示した回答だった。俺の持ちうるすべてを掛けた贖いだった。許しを請うわけではなくて、ただ行動と結果の責任をとり、戦略目標を達成しただけ。俺はその結末を見届けられなくても、全ては計算通りに運ぶと確信している。
ただ、それと同じくらい、悲しげな顔をして終わらぬ生を揺蕩う彼女の姿も頭から離れない。
俺が隣にいて、笑顔をくれてやると誓った彼女が、再び孤独を生きる様がありありと浮かぶ。いつか、俺と同じように考えてくれる誰かと出会い、彼女を笑顔にしてくれるだろうか。愛されたいという心の奥底にある願いを、叶えてくれるだろうか。俺以外の誰かが。
俺ではない誰かと並び立つC.C.を夢想する。
俺ではない誰かと微笑みを交わすC.C.を思い描く。
自分のやり残したことを見ず知らずの他人に求めるなど、生前であれば俺のプライドが許さなかっただろう。何たる体たらくかと己を叱咤し、条件をクリアするために何としてでも知略を練っただろう。だが俺は最早死人。いずれ世界の集合無意識に溶けて消える運命で、現世に何かしらの影響を与えることさえも不可能だ。恥も外聞もかなぐり捨てて、祈ることしかできない。君だけは笑っていてほしいと。だというのに、俺はその情景を、C.C.が俺以外の誰かと幸せに過ごす風景をうまく想像できないでいる。それは、俺のプライドだけが原因ではないということの裏返しだった。この感情を抱いたことはなかったが、俺はその名前を知っている。
嫉妬だ。
本当は、俺が与えたかった、笑顔を、愛を。
それはもう、C.C.が望んだからではなかった。
俺がそうしたいと望んだ、俺自身の願いだから。
ナナリーのために世界を変えたように、C.C.の旅路を隣で歩む者になりたい。
それが俺の願いであり、心残りなのだ。
思念が渦巻くだけの際限ない空間に漂流するだけの時間。
いつまでも眠れずにただ来ない夜明けを待つばかりの退屈で変化のない空白そのもの。
そんな終わらない夜に、声が聞こえた。
俺の名前を呼ぶ、彼女の声が。
「ルルーシュ!」
Cの世界に、C.C.が来ている。
声の方へ意識を向ければ、そこには確かにC.C.がいて、手を伸ばす先には―――俺の肉体が現れていた。
死んだはずの自分の肉体が、まるで生きているようにそこにあった。
想定外の状況に戸惑うが、あれは間違いなく俺の肉体だ。ならば理由が、そして目的があるはずだ。肉体の方をよく観察すれば、本能的な反射を繰り返しているだけのように見える。弱々しい悲鳴など上げて――これ以上は見ていたくないが、そういうわけにもいかない。これはC.C.の記憶喪失の時と似ているが、それとも少し違うようだ。別の人格というわけではなく、人としての精神を宿していない空っぽの器のようだ。そんな状態の肉体をC.C.がわざわざ連れてきたのだとすれば、その目的として考えられるものは―
思考を重ねる間にも、俺の肉体の周囲にはこの世界で溶け落ちるのを待つばかりだった意識たちが群がっていた。俺の推測はやはり正しいようだ。あの器に収まることが出来れば、受肉を果たし現世へと帰れるのだろう。俺の肉体に他人の意識が適合するのかは知らないが、母マリアンヌのギアスは人の心を渡るギアスだった。他人の体に意識を入れ込むこと自体は不可能ではないという前例がある。
全ての輪郭が溶けて個の識別さえ曖昧なこの世界で、確かなカタチと鮮やかな色彩を持つ異物はよく目立つ。まだ完全に集合無意識に溶けていない心残りたちが次々と俺の肉体へと押し寄せていく。俺も早くあの体へ帰らなければならない。
だが――遠い。
ここからではどうあっても、俺がたどり着くより先に肉体は飲みこまれてしまう。
C.C.は俺の名前を叫び手を伸ばしたが、それも届かず。次の瞬間には立ち消えていた。おそらく現世へと帰ったのだろう。意識でしかない今の俺は、C.C.の名を呼ぶことさえできない。
俺も他の意識たちをかき分けるようにもがき進むが、見えるのは様々な心残りに押しつぶされて、その隙間から何かを求めるように伸ばされた肉体の右手だけだった。
終わった。間に合わなかった。
ここに至るまで、C.C.が、もしかすると他のみんなも、どれほどの苦労を重ねたのか想像すらできない。それでも、状況を考慮すればこれは苦悩の果てにたどり着いた一縷の望みだったはずだ。それが今、無残な結果に終わろうとしている。
必死で前へと進もうとするが、飲み込まれていく右手はもう活力さえ失っている。
突然訪れた奇蹟と、それが崩壊した絶望にうちひしがれる。
その時、ギアスが発動した。
俺のではない。今の俺はギアスを使おうともしていないし、この状態で使えるのか試したことすらない。そして俺の肉体には意識がない。能力を発動させることは不可能だろう。
そしてなによりこのギアスは、その能力で俺の体を中心として周囲の他者の動きを止めている。これは偽りの時を生きていた頃の、しかし俺を真の兄と慕ってくれた弟のギアスだ。ギアス能力が肉体に宿るのか精神に宿るのか、そんなことは考えたこともなかった。だがギアスを願いだと、その人間の心残りなのだと考えれば、そんなに不可思議なことでもないのかもしれない。そして集合無意識にギアスが有効なことは、俺が生前に実証済みだ。つまり、今俺の肉体の傍にはロロが、偽りの中で得た本当の弟がいる。もしかしたらずっと傍にいたのかもしれないが、この世界ではそれさえわからない。
だがこれでは俺も体に近づけない。ロロのギアスは範囲内の相手に無条件で効力を発揮し、対象を選択することはできない。ギアスが発動されている間俺の体は無事だろうが、この状況も解決できない。すると、まるで人込みの中から引っ張り出されたように俺の肉体が出てきた。勢いに流されるまま漂流し、意識たちが停滞するギアス範囲内でふわふわと浮遊している。しかし、とても俺の手が届く距離ではなかった。何かないか。あの器に触れる方法は。
何としても、俺は帰らなければならない。
一度は諦めかけた、C.C.との旅路を歩むために。
彼女との約束を、俺の願いを果たすために。
懸命に手を伸ばす。満足に進むこともできないまま、運命に抗うように。
俺は、彼女の隣で、一緒に―――
虚しく空を切るばかりだった俺の掌が、何かを捉えた。いや、捉えられた。
それはこの空間に同じように漂っていた「誰か」の手で、俺はその温もりに懐かしさを覚えた。それがいつか触れた、優しさという人の心の熱だと確信した。
俺が息をのんでいる間に、その手は力を込めて俺を引っ張ると、立ち位置を入れ替えるように俺を俺の体の方へと押し出した。
言いたいことが、謝りたいことが山ほどあった。だが今の俺は、どうしてもたどり着きたい場所がある。守りたいもの全てをこの手に抱くことはできない。何かを得ようとするならば、それ以外の何かを犠牲にすることなど世の常だ。しかし、ただ無情に切り捨てるわけでも、無かったことにするわけでもない。罪も、行動の結果も、全て背負ってそれでも明日を求めていく。俺はそう決めたから。
ただ浮遊するばかりの俺の肉体が徐々に近づいてくる。
宇宙遊泳のようなこの短くも永い道程の途中、「彼女」の他にもいくつもの願いが俺の背中を押してくれた。これまで巡り合った想いが繋がっていくように。その温もりは、諦観に沈みかけていた俺の心に揺ぎない火を灯した。声を発することもできないこの世界で、だが確かに伝わると信じて俺は心で呟く。
―――ありがとう
想い出をなぞるばかりだった終わらない夜を超えて、日の出を迎えるために、俺はもう一度、明日へと手を伸ばした。